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閑話・人間犬奇譚

 私の主人は家族との仲が悪い。

 私がこの世咲家に来てからというもの、主人である雪乃は私にばかりかまけていて、両親とのふれ合いを疎かにしている。個人的には、愛されている実感が確かにあるのだから文句の付けようはないのだけれど、どうも逃避の材料にされているように感じて居た堪れなくなることがある。

 しかし、雪乃は私の大切な友人だ。犬である私が人間のことを友人というのは可笑しいかもしれないが、確かに私と雪乃の間には友情という形のない何かがあるのだ。

 その友人である雪乃が一心に注いでくれる愛情を無碍にするのも、それはそれで居た堪れないのである。困ったものだ。

 どうも人間という動物は、家族間で随分と思い悩むものらしい。先日まで世話になっていた諏訪家も家族の中に悩みを抱えていた。

 全く人間とはままならないものである。そして、人間と同じ思考回路を持つ私もまた、ままならない生き物なのだろう。私は今、世咲家の不和について頭を抱えているのだから。

 思考する犬も楽ではない。私は体の構造上、人間の言葉を話すことが出来ないのだ。何度か練習してみたこともあるが、奇妙な唸り声が出て咳き込んでしまうだけだった。言葉で伝えられないのだから、私は誰かに相談をするということが出来ない。そう考えれば、私は人間よりもままならない生き物なのかも知れない。

 大体にして、人間のように思考出来る犬が何処にいよう。そんな犬など見たこともなければ聞いたこともない。散歩の折に出会った斑模様の犬など、私を見るなり牙をむき出しにして威嚇してきた。どうにか宥めようと下手に出てみれば、今度は押し潰そうとするかのように私を睨み付けてくるのである。

 彼らに人間的思考はない。こんなものを持っているのは、やはり私だけなのかも知れない。

 つい先日までは判らないことも多かったが、雪乃は諏訪家の人間よりも積極的に話しかけて来るので色々な知識が着いた。

 そう。私は思考だけでなく知識も手に入れた。これは恐るべきことだと思う。

 何時の日か、自分の矮小な脳みそが破裂してしまうのではないかという恐怖すらある。

 怖い。ひたすらに怖い。数年前までただの畜生であった私が、人間精神を会得し、知性までも持ってしまっているのだ。これは超常的なことである。まるであり得ないことが起こっている。

 これからどうしよう。不安で一杯だ。自分の持つ無限の可能性を考えると、どうしようもなく不安になる。

 その可能性の中には、雪乃のことを嫌いになってしまう可能性というものだってあるはずだ。その可能性が現実になれば、いよいよ家族はバラバラである。

 恐ろしい。どうしたものか。

「悩んでるねえ、お兄ちゃん」

 ふと声をかけられた。人間の言葉で喋ってはいるのだが、奇妙な非現実感がある。私の犬としての五感がその非現実を捉えた。

 声は私の目の前からかけられている。つまり、侵入者であるということだ。小屋から一歩踏み出し、声の主を睨みつける。

 睨みつけてしばし唖然とした。それは当然である。そこには不気味としか言いようのない生物がちょこなんと座していたのだから。

「よおよお、驚いてくれちゃって。こりゃ怪異冥利に尽きるってもんだなオイ」

 侵入者は下品な声でゲラゲラと笑っている。これは相当に気持ちが悪い。

 その気持ち悪さに拍車をかけているのが、正に珍妙としか言いようのない風貌である。

 犬の体に人間の顔を貼付けた謎の生物。こんな生き物がいるなど聞いていない。生理的に受け付けない気持ち悪さを持っている。世界とは広いものだ。

「気持ち悪いとか思ってんじゃねえよ。傷ついちゃうだろうが」

 む、こいつ、私の考えていることが判るのか。

「判る判る。手に取るように判るぜー。ま、何かを取れるような手はねえけどな」

 まあそうだろう。何せ体が犬なのだから。

「お前、珍しいヤツだなー。理路整然と考える犬なんて初めて見たぜ。他の犬っコロは皆意味不明なことばっか言いやがるからさ、ちょっとビックリしたぜ」

 珍しいのはお互い様だろう。と言うか、見た目で言えばこいつの方がよほど珍しい。

「はは、確かになー。俺サマくらい珍しいヤツもそうそういねー」

 こいつは何という犬種なのだろうか。前に雪乃が犬にも人間にも種類がある、というようなことを言っていた。私はシベリアンハスキーという犬種であるらしい。

 ならばこいつは何なのだろうか。

「一人でダラダラ考えんなよ。俺サマと会話するように考えろ。因に俺サマはどんな図鑑にも載ってやしねえ、超レアな犬種だ」

 会話するように思考するなど出来る訳がない。思ったことは勝手に脳内で言語化され、垂れ流されるのだ。思考の制御など私には無理だ。

「いやいや、お兄ちゃんは結構いい線行ってるぜ。起こっている現象に対して割と冷静だ。人間でもなかなかそうはいかないんだから、大した犬だと思うなー」

 こいつは人間の思考能力を熟知しているのだろうか。それは幾らなんでも常識外れな気がするが。

 否、しかし図鑑にも載っていない超レアな犬種ということだから、私の常識では推し量れぬことが出来たとしても不思議ではないのか。

「そうそう。そういうことだよ。お兄ちゃんのちっぽけな常識じゃあ、俺サマのことを推し量ることなんて出来やしねえよ」

 そこを肯定されると、私としてはあまりいい気分ではない。

「まあまあ。それには理由があるんだ。ちゃーんと理由があるんだぜ、お兄ちゃん」

 人の顔をした犬は後ろ足で耳の裏を掻き、不適に笑った。

「俺サマってのはな、生き物じゃあねえんだ。そうだな、端的に言えば妖怪だよ妖怪。聞いたことあんだろ? 博学なお兄ちゃんならよ」

 妖怪か。テレビで特集をやっていたのを観たことがあるから知っている。確か人間が作り出した空想の怪物のことを言うんだったか。

「ま、そんな感じだな。いや、正にそうだ。人間が作り出した空想の怪物。いいこと言うじゃねえか」

 どういうことだろう。空想が現実になることなどない。空想という言葉は現実という意味を弾く構造になっているはずである。

「犬神って知ってるかい?」

 イヌガミ。聞き慣れない言葉だ。言葉から察するに、犬の神様と言ったところだろうか。

「まあ神とはいうものの、結局は妖怪だよな。これも人間が作り出した空想の怪物だよ。犬神の作り方はこうだ——

 まず飼い犬を生き埋めにする。頭部だけを地面から出してな。そんでその生き埋めにされた犬の前に餌を用意する。見えはするが、届かない位置に。で、餓死寸前になったときにその首をチョン切ると、犬の首は餌まで飛んでいくんだ。そして最後に、これを焼いて骨にして器に入れて祀る。

 こんな感じ。こうして出来た犬神は家を守ってくれたり、願望を成就させてくれたりするわけだな。そんでもって、俺サマってのはその犬神の作り方に沿って作られた怪物な訳だよ」

 なるほど。ならばこいつは正真正銘の妖怪ということか。しかし、妖怪がこの世に存在するなど、全く思ってもみなかったことである。テレビの出演者は全く妖怪を畏れていなかったし、それを視聴している雪乃も同じだった。

 おどろおどろしく語られる割に誰もそれを畏れないのは、皆それが現実のものではないと判っているからだ。

 だから妖怪というものが存在するということに、私は少なからず驚きがある。

「そういうところも人間的だな、お兄ちゃんは。まあそうは言っても俺サマはモノホンの犬神って訳じゃあねえんだよ。最後の最後に、餌じゃなく飼い主の喉元に喰らいついてやったんだ。ぎゃはっ。あん時のあいつの驚いた顔は思い出すだけでも抱腹モンだぜ。でもよ、そうしたらどういう訳かあいつの顔が、体にくっついていやがった。因果なもんだよな。結局復讐した俺サマも身勝手な飼い主も呪われちまったんだからよ」

 だから犬の体に人の顔なのか。しかし普通は逆じゃないのだろうか。今のこいつの話の中に普通という概念のものは何一つなかったが、道理として考えるなら『逆』である。

 こいつは飼い主の喉元に噛み付いたと言っていた。それはこいつに出来る唯一の抵抗手段だったのだろう。何故ならば、こいつの体は地面に埋まっていたからだ。だとするならば、何故人間の顔がこいつの体にくっつくのだ。後のことを考えれば、こいつの顔が人間の方に接着するほうが断然楽である。

 埋まった体を自分で掘り起こすというのは不可能に近い。だからこそこいつは餓死寸前になるまで餌にあり付けなかったのだろうから。

「確かにな。でもよ、俺サマは今後のことなんて考えちゃいなかったぜ? とにかくあのムカつく飼い主に一矢報いてやろうってことしか考えてなかった。こいつも俺サマと同じ苦しみを味わえばいいと思って喰いついたのさ。だから飼い主の首が俺サマの体にくっついたんじゃないかなあ。しかしまあ、何故か俺サマの意識が戻ったときには、体は土の中から出ていて、飼い主の体と俺サマの首はグズグズに焼けてたんだけどな。いやあ、懐かしいなあ」

 犬神は遠い目をしている。なるほど怨念とは道理を無視するものか。そこは納得出来た。

 しかし、こいつは一矢報いてやろうと、普通の犬であった時点で思っている。もしかしたら生き埋めにされている間に自我を獲得したのかも知れない。そう考えれば、私はこいつと同類ということになる。

「ぎゃはっ。いいねえ。よく人の話を聞いてるねえ。まあ人じゃねえけど。そうさ。俺サマは飢餓状態にある中で自我を獲得した。もう恐ろしいなんてモンじゃなかったね、マジで。お兄ちゃんもそうだろ? 俺サマほど狂った中で得た自我じゃねえにしても、怖いんじゃないのか? 人間精神が自分に与える影響ってやつがよ」

 居心地が悪くなり、窓ガラスの方に視線を移す。窓ガラスには自分の姿が写っている。

 あれが私。

「そう。あれがお兄ちゃん自身さ。普通の犬っコロは何かに映る自分を自分とは認識出来ない。けど、お兄ちゃんも俺サマも、あそこに映ってるのが自分だと認識できる。恐ろしいねえ。俺サマは妖怪だから救いもあるが、お兄ちゃんはまだ生物だものなあ。その恐怖は底なしだろうぜ」

 確かに恐い。恐いとは言え、私は自分がここに存在する限り、思考しながら生きていかなければならない。その事実からは逃れられない。

 不幸を呪うだけでは参ってしまうだろう。だからとりあえず今のところは前向きに思考を切り替えるしかない。それに私は現状が不幸だとは思っていない。飼い主からの愛情が少し歪んではいるものの、まだ正常の範囲内だ。これが不幸であるとは考えない。


「へっ、羨ましい限りだぜ。ホント、溜息が出るほどな」

 まあこいつは飼い主に殺されたのだから、睦まじい友人関係に羨望の目を向けるその心理は理解出来る。

 そういえば、話はガラリと変わるのだが、こいつは一体何をしにここに来たのだろうか。

「あん? あー、俺サマも一応本物ではないにしても犬神みたいなモンだしよ。どっかの家に取り憑いてやろうかと思ってこの辺、彷徨(うろつ)いてるんだ。あ、世咲家に取り憑くつもりはないから安心しろ。もうこの家には人間犬サマがいるんだしな」

 人間犬。正直これと一緒にされるのは心外である。自分で言うのもなんだが、こいつに比べれば私の方が愛らしさは上だ。

「ああん? 俺サマが不細工だってか? まあ確かに奇妙なナリしてんのは認めるけどよー、この辺りのガキ共の間じゃあアイドル的な存在なんだぜ、俺サマ」

 まあ子供はこういった変なものに興味を示しやすい。だから騒がれはするだろうが、アイドル的な扱いというのはどうなのだろう。

「アイドルさ。人面犬って呼ばれてる。懐かしいと思わねえ? あ、お兄ちゃんは知らねえか。一九八九年から九〇年代後半にかけて人間たちの間で流行した噂だ。そんな昔の噂が今更広まったのは、多分俺サマが現れたからだろうな。偶然俺サマを見た人間が噂を流したんだろう」

 人面犬か。言い得て妙だ。よくそんな単語を考えつく人間がいるものである。

「ははっ。それにしても、犬神を作ろうとして結局出来たのが人面犬とは。こりゃ笑えるね。ケッサクだ」

 人面犬はゲラゲラと笑っている。

 何だか楽しそうだが、これはきっと楽しくて笑っているのではあるまい。まあどちらにしても笑って感情を伝えられるというのは、私にしてみれば羨ましい限りである。

「そうだな。お兄ちゃんは笑えないものな。ご愁傷様。ま、そんな訳で俺サマはそろそろお暇させてもらうとするぜ。じゃあな、お兄ちゃん。なかなか楽しかったぜ」

 人面犬はそう言うと踵を返して、ちょこちょこと去っていく。

 ああいう所作は確かに愛嬌があると言えなくもない。

 さて、私の方と言えば、今日もこの犬小屋で一日を過ごしている真っ最中ではあるのだが、何だか疲れてしまった。

 雪乃が帰ってくるまでまだ暫くかかりそうだし、一眠りするとしよう。

 おやすみなさい。

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