忌憚奇譚
——時の流れと共にその影を変へ、忌み慎まれてこしあやしき物語。伝承あるいは怪談話、ときとして怪奇小説ですらそれに含まる。
かくのごとき物語はいと物ゆかし。而してこれ、彼岸へと彼を誘ふものなり。さればこその忌憚。本来ならば避けられて然るべき物語は、避けられて然るべき人間をもって語り継がる。死ぬるべき人間が死に近付く料に厄介な物語を、後世に残すべきにあらざる物語を伝ふ。さる泥沼のごとき怪奇譚を、忌憚奇譚とするを我はここに明言す。
*
冴木六朗にとって三井三菜子は他人以外の何者でもない。しかしそれにしたって思う所がない訳ではないのだ。否、思う所は確かにない。思う所はないが、思わしくない所はある。彼女の生い立ち、彼女の容姿、彼女の年齢、彼女の人間性。三菜子の所有するあらゆる記号は六朗の記憶の一部とリンクして、非常に不愉快な臭いを彼に感じさせた。
六朗が中学二年生の時分、彼には多大角薫という友人が居た。これが学園きっての変人で、授業中とあっても平気で教室を抜け出し、そのままふらふらと校内を彷徨うような人間だった。勿論教師たちは彼に忠告や警告、ある時は勧告までして手を尽くした。六朗の知る限り、家庭の方にまでその手は及んでいた。
しかし、何をどうしても薫の態度は改善しなかった。そして六朗たちが二年生に上がる頃には誰も彼もがほとんど薫のことを諦めていた。正に奇跡のような変人である。
奇人変人と言えば六朗が好みそうな人種ではあるが、このときの六朗は学園きっての常識人。つまりは優等生だった。誰にでも分け隔てなく接することの出来る博愛主義者と言って差し支えないほどには優等生だった。
だから話しかけてしまった。委員会の作業が終わった直後、荷物を取りに教室に戻った折のことだった。夕暮れの中、黒板消しを両手に嵌めて中国拳法の真似事をしている薫に、随分楽しそうに何をしてるのなどと話しかけてしまったのだった。そして悪いことには、薫の方も六朗のことを気に留めてしまった。
「お、真面目くんじゃないか。まさかお前がこの俺に話しかけてくるとはな」
「僕は冴木六朗だよ。真面目くんなんて名前じゃない」
「そうかそうか。そうだった。ろっくんだ。六朗のろくはロクデナシのろくってね」
礼節も何もあったものではないが、ともあれ会話が成立してしまった。それが六朗にとっての災厄だったことは否定出来ない。肯定しか出来ない。
「酷いなあ。て言うか、ロクデナシなのか真面目なのか、どっちなんだよ」
「真面目なヤツはロクデナシ」
「それは無理があるよ」
六朗は笑い飛ばす。
「ロクデナシは真面目に振る舞うしかない。ろっくんはきっとスーパードライなんだよ。アサヒっ!」
これが六朗と薫のファーストコンタクトだった。もしもこの時、六朗が教師やクラスメイトのように薫を訳の判らない変人だと決めつけ、距離を置いたならまだ救いはあったのかも知れない。しかし、六朗は薫のことをちょっと面白いヤツだなと思ってしまった。うかつにも彼の言っていることを理解したいと思ってしまった。
後の祭りである。
「ろっくんはトイレの花子さんを信じる?」
「信じる訳ないじゃない。薫くんは信じてるの?」
「さっきぶん殴ってきた!」
「その辺歩いてる小学生を殴ったんじゃないだろうな……」
一断片。
「ろっくんはロックンロールが好きなんでしょ?」
「実は結構好きだよ」
「絶対嘘だ! ろっくんが何かを好きになるなんてあるものか!」
一断片。
「ろっくんはお母さんのことが好きかい?」
「そりゃまあ、家族だしね」
「お袋ぉーッ!」
「何で泣くんだよ……」
これもまた一断片。こうして二人は友人となる。他愛のない会話で距離を縮めて行く。それは地獄に接近するのと大差ないことかも知れなかった。
そして、あるうららかな日の昼休み、六朗は決定的な大打撃を受けてしまう。決定打を受けてしまう。
二人は昇降口を抜けた所にあるピロティーで何時も通りの他愛ない世間話をしていた。
「ろっくんはロクデナシロックンロール」
「ブルーハーツみたいだね」
「知った風な口をきくな! ろっくんさあ、そんな感じで生きてて楽しい?」
「ん? 別に詰まらなくはないけど」
詰まらなくはない。適当な解答である。
「だろうなー。詰まらなくはないけど、面白くもないんだろー? それって詰まんなくね?」
「何さ、今日は真面目な話?」
「そうそう。今日は真面目なろっくんに合わせて真面目な話。碌でもない話でもある」
薫の中では真面目イコール碌でなしの式が確固たるものとして定着しているらしい。
「それなんなの? 始めて話したときも言ってたけどさ」
「何かと問われれば、ろっくんは何かが足りない人間であるという話だ。その貼付けたような笑顔! 白々しい所作! くりくりのお目目! まるで無個性主人公のようだ。やれやれって言ってみ?」
「それは違うカテゴリだと思うよ」
「んなことはどうでもいい! ろっくんにはロック魂とか言うものが欠けている! ほら、ろっくんて皆と仲いいだろ? 全然問題とか起こさないだろ? 先生の評判もいいだろ? クラスの女子から結構モテるだろ? 勿論告白されたこともあるだろ?」
確かに六朗はクラスの女子から告白を受けたことが何度かある。しかしその告白を、彼は悉く蹴っていた。
「死ね。全く羨ましい限りですな。俺に告白して来る人間なんて、足がなかったりとか首がなかったりとかそんな感じのパワフルな女性ばかりなのに。まあいいや……そう、ろっくんは特別仲のいい友達とかを作らないんだよな」
言及したい点は幾つもあるが、いちいち指摘していたのでは会話が進まない。本筋の方に焦点を絞ろう。
「多分僕は人間が好きなんだよ。だから誰か一人とか、決められないんじゃないかな」
「ファックオフ! そんな人間が居てたまるか! 博愛主義者を気取るのもいい加減にしなさいよ。そもそも博愛なんて言葉がまずおかしいんだ。存在しない概念を言語化して存在しているかのように見せかけるなんてズルい! だったら俺も言葉になりたい! まあ、とりあえずだよろっくん。俺が言いたいのはね、君って男には感情的に欠けているところがあるんじゃないかってことなのよ」
地獄がそこまで迫っていた。六朗は反論を試みる。
「まさか、やめてよ。僕にだって笑ったり泣いたり、時には怒ったり出来るくらいの感情の起伏はあるよ。それは同じ釜の飯を食ってる君ならよく知っていることだろう?」
「だーかーらー、それは全部演技でしょ? 笑ってるふりして、泣いてるふりして、怒ってるふりをしているだけでしょ? ドラマとか、映画とか、漫画とか、小説とかで登場人物がやっていることを真似しているだけでしょ? それは果たして本物のろっくんなのかな? はっ! もしかして偽物か!?」
「それの何が間違いなのさ? 皆そうだろ? 皆だって物語作品や周りの人間の影響を受けて人格が決まっていく」
「そうだな。けどろっくんは違うだろう。ろっくんは影響を受けている訳じゃあないはずなんだ。物語の感動やリアルな人間感情を自分の中に吸収出来ていない。端的に言えば、ろっくんは共感というものをしたことがないんだ」
随分と断定的な物言いである。全てが筒抜けていて、自分には何もかも判っているんだと言わんばかりの自信を薫からは感じる。
「何で薫くんにそんなことが判るんだよ?」
「ははっ。よくぞ訊いてくれました。俺には世界の全てが見えているのだ! ほらっ、あそこで何か良く判らんキラキラがキラキラと煌めいている! あのビルの屋上では自殺幽霊が紐なしバンジーに興じている! やふー! 世界は凄く綺麗だ! しかし、その中でろっくんだけが綺麗じゃない。ろっくんだけが色褪せている。そんでもって心を覗いてみれば、君は随分とロクデナシじゃないか。と言うことで、さあろっくん、無個性主人公脱却だ! 今日からはキャラ付けに励みなさい!」
無茶苦茶だった。テンションゲージが振り切れんばかりの勢いで上がっている。しかし、無茶苦茶とは言え六朗はこのとき自覚した。自分は随分と感情が希薄であると。
正直なところを話せば、物語に感動したことはあったし、誰かの逆鱗に触れて戦いたこともある。しかし、何故かそこから発生した感情は極限まで薄めたカルピスのようにさらさらと喉元を通り過ぎていくのだった。原因は判らない。何時、何故自分が人間感情のお勉強を始めたのか。思い当たる節が何もない。六朗にはそれがどうしようもなく不気味だった。
「あー! ろっくん見ろ! 頭の中が灰色だ!」
薫は壊れたような勢いで耳を六朗の眼前に近づける。残念ながら灰色の脳細胞を拝むことは出来なかった。
そしてそれから三日後、薫は自殺した。あまりに唐突だった。何処ぞのビルの屋上から飛び降りたらしい。遺書が残っていたので自殺と判断されたそうだ。遺書には、紐なしバンジーをしますとだけ記されていたらしい。果たしてそんなものが遺書として成立するのかは甚だ疑問だが、警察が自殺と判断し、遺族もそれで納得したのだから文句はつけられない。
後日、担任教師が六朗を呼び出す。どうやら薫の母親が彼の部屋の整理をしていたときに六朗への手紙を見つけたらしく、それを渡す為に呼び出したのだそうだ。
手紙にはこうあった。
『冴木六朗くんへ
俺は小さな頃から幽霊が見えました。あと、人の心とかも見えました。ろっくんは信じるでしょうか? 信じませんよね。だってろっくんはトイレの花子さんも信じなかったんですから。ともあれ、俺はその所為で全く両親に愛されたことがありませんでした。しかし両親が俺に気を遣ってなかったという訳ではありません。彼らは何時も、こいつ早く死なねーかなーとか考えながら俺に接していましたが、表面は笑顔なのです。よく見れば引き攣っていることの判る笑顔でした。俺には筒抜けでした。その気遣いが俺にとっては割と辛かったです。
まあ下らない自分語りはこの辺にしておきましょう。それより、ろっくんのことです。俺は結構ろっくんのことが好きでした。感情の起伏が無いに等しいろっくんは、あまり喜んだりもしないけれど、口汚いこととかも思わないので、一緒に居て楽しかったです。けど、やっぱりろっくんはもっと自分のことを考えた方がいいと思います。この世界の全ての人間に対して無関心を通すのは不可能だし、その逆も然りなんです。だから、キャラ付けを頑張って下さい。本当は手伝ってあげたかったけど、俺はどうしても紐なしバンジーがしたいのです。先立つ不孝をお許しください。六朗のろくがロックンロールのろくでありますように。
多大角薫より』
先立つ不孝とは友人に対して使う言葉ではないが、あの変人にしては随分しっかりとした文章だと六朗は思う。こちらの方がよっぽど遺書らしい。
しかし、下らないと思った。自分の薄情さに気付いた今、六朗はこの手紙に対して何の感情も抱かなかった。ただの狂人が一人死んだだけのことだと、そんな感想しか浮かんでこなかった。そしてそんな自分がどうしようもなく嫌になった。言いようもなく不気味だった。形容しようもなく邪悪だと思った。
どうやら自分自身のことに関しては感情が頭をもたげることがあるらしい。身勝手が過ぎる。結局自分の中の特別は自分自身でしかないのかと己を嫌悪した。
三菜子との対峙で感じた不愉快というのはこの自己嫌悪を深く実感させられることからくるものだった。三菜子の両親に愛されなかったという生い立ち。これが薫とだぶるのだ。
そう言えば、オカルト研究部部長、荅川竜二が語った青木ヶ原海樹子という女性もまた親からの愛を知らぬが故に狂った人間だったか。人の不幸とはそんなものかも知れない。結局愛されないことからくる葛藤、それが原因で破綻する。
では自分は何だ。両親には嫌というほど愛されたし、人間関係でだって失敗したことはない。それなのに何故自分は壊れているのだ。何のドラマもバックグラウンドも持たぬ自分が何故壊れている。
そう。六朗の奇人変人狂人怪人に干渉したがる理由はそこにある。
自分の同類を探すこと。何不自由なく暮らしてきたにも関わらず壊れている人間の話を聴いてみたい。もちろん、単純に怪異になった人間の話が面白いという野次馬根性も一つの理由だ。しかし根っこの部分では自分の同類を求めているのである。
今はまだ会えていない。一度も出会えていない。六朗の奇譚はまだ続く。
*
「てなわけです」
「なるほどな」
私立森ノ宮学園高等学校旧武道場。新校舎の武道場は剣道部、柔道部、空手部が使用する施設だが、旧校舎の武道場のタイムテーブルには剣術サークルの使用日も割り当てられている。
六朗は今、その旧武道場に呼び出されていた。六朗を呼び出したのは剣崎鶴子。剣術サークルの部長である。鶴子は六朗を剣術サークルに引き入れたいらしく、何かと声をかけては勧誘してくる。
剣術サークルの部員数は三人(内二人はほとんど幽霊部員)。三年生の鶴子が卒業してしまえば、廃部になる。恐らく自分の立ち上げたサークルがなくなってしまうのが忍びないのだろう。彼女が勧誘活動を続ける理由はそれだ。
しかし、それは六朗だけを熱心に勧誘する理由にはならない。何故と本人に訊けば、どうやら鶴子は六朗に才能のようなものを見出しているらしかった。だが、当の六朗にしてみれば剣術になど興味はないし、運動も不得意ではないにせよ得意としている訳ではない。そんな訳で六朗は鶴子の勧誘を何時も断っていた。
それにも関わらずこうしてご丁寧に旧武道場に足を運ぶのは、鶴子との世間話がそれなりに面白いと感じるからである。鶴子も壊滅的ではないにせよ、間違いなく変人なのだから。
目をつけているのはお互い様ということだ。
今日は先日の口裂け女に付いて話していた。そこから、お前は不感症だなという鶴子の言から六朗の友人の話にまで発展したのだ。
「まるで千里眼だな」
「千里眼ですか。でもあれって透視能力とか未来予知じゃありませんでした?」
「そうだな。けど、千里眼といえば何でも見通すんだろう? なら人の心も見通していておかしいことはない。福来博士が存命ならきっと彼をスカウトしただろうさ」
「研究所が台原にあったらしいですね」
福来友吉。明治時代、超能力研究にその身を捧げた研究者である。千里眼の御船千鶴子、念写の三田光一らを始めとする超能力者を全国津々浦々から発掘し研究対象としていた。その悉くはペテンであると非難され、自死を選んだ超能力者もいる。因に催眠術の学術的な研究を推し進めた人物でもある。
「っていうか鶴子先輩、福来博士のこと知ってたんですね。僕が剣術サークルに入るより、先輩がオカルト研究部に入った方がいいのでは?」
「荅川からの受け売りだよ。あいつは口を開けばオカルトだからな。必然、私にもそういった知識が溜まっていく」
「なるほど。厄介ですね」
「そうでもない。少なくとも受験勉強よりは面白いよ」
冗談でもなさそうに鶴子は言う。
「そうだな。じゃあ折角だから荅川風に考えてみようか。千里眼とは言ったが、多大角薫という少年にあった能力というのは詰まる所、読心術ではないかと考えられる。読心術というのは、人の表情や所作を読み取ってその心理を推測するものだ。だとするならば、多大角くんは表情を読むことに長けていた人物だったということになる。冴木は能面だからな。笑顔にしたって貼付けたように見えたのだろう。だから彼はお前から何も読み取れなかった。綺麗な所も、汚い所も見ることが出来なかった。それを心が見えなかったと勘違いしたのだよ。否、それどころか、彼は冴木には心がないのだと思ってしまった。
でもね、私はお前に心がないなんて思わないよ。感情がないという訳でも、感情が希薄という訳でもない。感情を表に出すのが苦手なのさ。ざっくばらんに言えば、不器用。それが時に不感症のように映ってしまう」
確かに一理ある。事実、感情のない人間など存在しない。そんな人間がいたとしたらそいつは人間ではない。最早怪異ですらなく、付喪神を待つだけの物だ。
しかしそれにしたって、薫の語ったことは核心に触れていたのだ。それこそ内面にまで切り込んだような物の言い方だった。
「どうですかね。確かに感情がない訳ではないですが、それにしたって喉元を過ぎるのに何の苦労もないようなものを果たして感情と言っていいのか……まあそういう意味では不感症というのは的を射ているかもしれません」
「そうか……難儀なヤツめ。私にはお前がそんなに冷徹なヤツには見えないけどね」
鶴子は、はあと溜め息を吐く。諦められたのか、出来の悪い子供の扱いに困っているのか。
思案したように間を置くと、セクハラ一歩手前の発言が飛び出す。
「お前、私の貸したDVDを使ったことはあるか?」
本来ならば臆面もなく訊くことではない。しかし、鶴子のこういう性質に慣れ切った六朗は迷いなく答える。
「拝見はしました」
「観るだけでは駄目だ。確かに観るだけでも価値のあるものであると自信を持って言えるが、使用してくれなければ貸した甲斐がない」
鶴子は神妙だ。そんなに大事なことなのだろうか。六朗はあまり性欲処理を必要としない。溜まれば勝手に出て行くし、それで特に不満もない。
「性的欲求さえ感じないか。それでは碌に恋もできまい」
「恋と性欲は関係ないでしょう」
「そうなのかな? 私は女だから男の性欲はよく判らないけど、恋愛を成立させる上で性欲は不可欠だと思うよ。勿論純粋な恋心というのも欠かせないけどね。確かにこの二つは別物ではあるが、関係がないわけではない」
そういうものなのかと六朗は頭を悩ませる。何せ初恋すら経験していないのだからその辺りの話をされても得心が行かない。
六朗は、恋をしたことがないのでよく判りませんと言った。
「え? 今まで一度もないのか? 小学生の頃とか、もっと遡って幼稚園児の頃とか」
「ありません。て言うか、そういう時代に抱く恋心なんて、あってないようなものじゃないですか。よく言うでしょう。高校までの恋愛はお遊びとか何とか」
実にロマンもへったくれもない言葉だ。六朗はそんな冷めた言葉にすら冷めた目線を送っているのだが。
「何を言うんだ。そんなのは戯言もいい所だよ。つまり、戯言以下ということだ。冗談にもならない。大人になる前の恋、まあ幼稚園児から中学生くらいまでの恋というのは、大人になってからする恋よりも大事だ。性欲と恋心が別のものであると自覚する以前の恋こそ、真心からの恋だと私は思うよ。しかしなるほど。そういう恋を経験していることを前提にして話を進めていたからなかなか噛み合なかったのだな」
そうなのだろうか。
「お前は美しい夢を観たことがないんだ。挫折を知らないんだな。だから性欲と恋心は別のものだというただそれだけの事実しか知らない。性欲の重要性、恋心の重要性が判っていない」
ないことだらけである。しかしなるほど、真心の恋とやらを体験した上でそれに挫折し、冷静にならなければ二つの要素の重要性には気付けないということか。
それならば、この歳になるまで恋心を抱いたことがない自分はすでに人間として致命的な欠落があるのかも知れないと六朗はそんなことを思う。
思うだけだった。
しかし、鶴子にしては随分と可愛らしい考え方だ。
「鶴子先輩って乙女なことも言うんですね」
「何を戯けたことを。私は正真正銘、花も恥じらう乙女だぞ」
「花も戦くって感じですけどね、先輩は」
六朗が言うと、鶴子は枯れたように肩を落とした。
「冗談ですよ」
「まあ私も冗談半分だった……」
半分なのか。
鶴子は照れ隠しのように、ともあれだと言って襟を正す。
「お前は自分が思っている以上に感受性の強い方だと思うよ。怪奇染みた友人に影響を受けてしまうくらいにはな。だから恋のことだって理解出来る日が来ると信じているよ。不器用なりにな」
「不器用だとか感受性だとか——そんな美化したような言い方は幾ら僕でもくすぐったくなりますよ。僕はただ、理由もなく、トラウマもないのに何処かおかしい生まれつきの変人ですよ」
「私はお前に腹を割ってほしいのだ。切ってほしい訳ではない」
「そうですね」
淡々と、反省もなく戸惑いもなく、痛烈でもなければ苦渋でもないような声色で返事をする。
ちらりと武道館にかけてある時計を観ると、時刻は午前十時半を回った所だった。
「そろそろお暇します。今日は部活があるので」
「そうか。夏休みだというのに結構熱心なんだな」
「竜二くんが、どうせ暇なんだから集まろうって」
特にやりたいことがある訳でもなし。六朗も暇を持て余していたので何となく部長の命に従ったのだ。
正座を解いて立ち上がる。足の痺れはない。慣れてしまったのだろうか。
鶴子に背を向けて歩き出すが、直後に引き止められる。
「荅川のヤツにDVDを早々に返却するよう伝えておいてくれ」
「判りました」
今度こそ六朗は出口へ向かって歩みを進めた。
*
部室は閑散としていた。
何時ものソファーで静かに読書をしている世咲雪乃。まだ来ていない荅川竜二。オカルト研究部平常運転である。
「おはよう、雪乃さん」
何時も通りの挨拶。
「おはよう御座います」
文庫本から目を上げずに挨拶をする雪乃。これもまた何時も通り。
「何読んでたの?」
「夢野久作の『少女地獄』です」
「短編集だよね。その位のページ数だと、『何でもない』?」
まだ三分の一も読み終えていないようだ。
「そうです。なんというか、ハートフルコメディみたいな話ですよね」
相も変わらず読書の才能がない雪乃である。何をどうしたらコメディとして読むことが出来るのか。
「正直に言っていい?」
「ええ、私、正直なのはよいことだと思います」
「『何でもない』はコメディではないと思うよ。ある意味ハートフルであるとは思うけど」
雪乃はようやく本から目を上げる。
「え? 多くの男性が女性一人に振り回されるなんて、笑い話もいい所じゃないですか。まあこの嘘吐きの女性は確かに不愉快な要素ですけれど、そこに文句をつけたところで仕様がないでしょう」
嘘吐きの女性。『何でもない』は虚言癖の女性の話だ。なるほど、謹厳実直を自任する雪乃からすれば、それは不愉快な要素になるのだろう。それ以上に愉快を感じているようだが。
「そういう言い方をされれば、確かにドタバタっぽく思えてくるけど」
しかし、どう捉えた所でコメディにはならない。
「作者はもう他界してるのですから、読み手が物語を判断するしかありません。だから私が笑いどころを見つければ、それは笑える要素として認められるべきなのです」
六朗は雪乃に代わり、夢野久作に謝罪する。雪乃は自分の意見を曲げそうにないからだ。
それに雪乃の曲解は今に始まったことではない。よって六朗の選ぶのは沈黙。人の解釈にケチをつけるのも野暮だと、何時も通り意見を投げ捨てる。
「まあそれもそうだね。ところで竜二くんはまだ来てないの?」
「来てますよ」
これは予想外。余程暇なのか。
しかし、竜二の荷物らしいものは見当たらない。手ぶらで来たのだろうか。
「トイレにでも行ってるの?」
「ええ、多分。もの凄い形相で飛び出して行きましたから」
なるほど。最近トイレキャラが板についてきた竜二である。姿が見えないときはトイレに居るとみてもいいだろう。
夏祭りの日だってそれで随分と面倒なことになっていたようだし、そういう認識をもっていれば突然竜二の腹の調子が悪くなった時に適切な対処が出来るというものだ。
「竜二くんって胃腸が弱いのかな?」
疑問を口にしてみる。
「どうしてですか? 突然お腹の調子が悪くなることくらい誰にだってありますよ」
「最近よくトイレに篭もってる気がする」
「最近は会っていなかったでしょう。夏休み中なんですから」
そうか雪乃は、夏祭りの日は母親の地元に行っていたのだった。知らなくて当然か。
と言うことで六朗は夏祭りでの竜二の恥を話して聴かせる。恥とは言っても流石に竜二の過去に着いては伏せた。
「なるほど。じゃあ、お腹を冷やしているのかもしれません。夏ですからね。自然と暑さを凌ぐ為のものに手が出てしまうでしょう? それにしても――沙村さんと竜二がデートだなんて。沙村さんはどんな気紛れを起こしたんしょうね」
「さあ。でもいいんじゃない? 沙村さんも楽しんでたみたいだし。竜二くんにも甲斐性があることが判った訳だしさ」
恋愛を成就させようと奮闘する竜二は確かにそれなりの甲斐性があるのだろうと思う。
自分とはまるで違う。違い過ぎて羨ましいとさえ思う。
「喜ばしいね、ホント」
「喜んでいるようには見えませんけど」
「喜んでるさ。友人が一歩踏み込める人間だって判ったんだから」
「あなたに友人がいたなんて驚きです」
雪乃は詰まらなそうに言う。
「酷いなあ。流石に友情を感じないほど僕も薄情な人間じゃないよ」
嘘である。
「嘘は嫌いです」
毎度の如くすぐバレる。
「もうお約束だよね。このやり取りは」
「あなたがしょうもない嘘を吐くからですよ」
しょうもないとは心外である。これでも必死に吐いている嘘なのだ。必死に友情を感じている風に振る舞っているのだ。
「まあ今に始まったことではありませんし、明け透けな分、他の人よりはマシでしょう」
「他の人よりって、どういう意味?」
「別に……深い意味はありません。素直な感想です」
誤魔化された。嘘は吐かないくせに全てを打ち明ける気はないのか。
まあそれはそうか。正直と赤裸は別物だ。
六朗はそう、と一言納得したように言う。これだから無感動だとか言われるのだろう。関係を崩すことが怖い訳でも、本当に納得した訳でもないのに、簡単に引き下がってしまう。引き際を心得ていると言えば聞こえはいいが、決してそんな高尚なものではなく、ただ単純に興味を失っただけだ。
人それぞれ、と言って思考を捨ててしまっているだけなのだ。
雪乃が聞こえよがしに溜息を吐いた。
何処までも他人に敏感で、何処までも他人を見透かす人だ。
見透かしているから敏感になるのか、敏感故に見透かしてしまうのか、その辺りは判然としないが。
それにしても、竜二は何時になったら顔を出すのだろうか。雪乃は文庫本に目を戻してしまっている。
暇だ。暇だからといって特に不自由もないが、他人と一緒の空間で自分だけ持て余しているというのは何だか不自然を感じる。
不自然か。自分はそういう不自然が嫌なのかも知れない。
そんなことを考えていると、廊下からこつこつと足音が聞こえてくる。足音は部室に近付き、そして扉を開けた。
「あーあ。今日も快便だわ」
竜二が戻ってきた。ようやくといった感じだ。かなり長いことトイレに篭もっていたようである。快便にしても、快便過ぎる。
「おはよう、竜二くん」
「うむ。おはよう友よ。やっと来たな」
竜二は満足気に右手を上げて六朗に応えた。
「僕からすればやっと来たのは竜二くんの方なんだけど」
「そうか? まあそれもそうだな。最近お通じがよくてね。一度篭もるとなかなか出て来れない」
「ふうん。夏祭りの日からだよね? 何かに祟られたんじゃないの?」
「大日如来がそんな祟り方をするかよ」
それもそうか。そもそも大日如来が祟るというような話も聞いたことがない。六朗は、まあそうだねと納得したように言った。
そして伝言を預かっていたことを思い出す。
「あ、そうだ。鶴子先輩がDVD返してほしいって言ってたよ」
「え、あの人今日来てんの?」
「来てるよ。さっき武道場で話した」
「マジか。持ってくりゃよかったな」
とは言え後の祭りだ。後日に回すしかない。
取り留めのないやり取りをしていると、雪乃が文庫本を閉じて顔を上げた。少し表情に陰りが見えるのは、男二人の品のない会話を聞いていたからだろう。
「で? 何で私たちは今日ここに呼び出されたんですか? 下世話な話をするためですか?」
雪乃の言うことは尤もだ。竜二が何故二人を呼び出したのかはまだ明かされていない。
「おー、そうだった。そうだよ。今日は下世話な話をするためにお前らを呼び出したんだ。この場合の下世話ってのは庶民の間で語られる話のことを言う」
「そうなんですか? 私は品のない話という意味かと思っていました」
「よくその意味で誤用される言葉だな」
何だか竜二は得意気である。雪乃は少し口惜しそうに口を尖らせている。
「てことは、しっかり部活動をするってことなんだね?」
「そういうこと。暇だし、いいだろ?」
「勿論構わないよ」
六朗も基本的には暇なのである。
「まあ私も構いませんが、何かネタはあるんですか?」
「あるともさ」
竜二は話し始める。
「最近五橋の辺りの小学生の間で七不思議が流行ってるんだと。懐かしいよな、七不思議って言葉の響き。方々の小学生の間で語られているようだけど、噂の発信源になってるのは多分、八条小学校だと思う」
「何故そんなことが判るんです?」
「あの辺の子供たちに話を聞いたんだけど、八条小学校の生徒が語る噂だけやたらと変質してるんだ。他の小学校の生徒が語る五橋の七不思議は大体同じような話だったけど、八条小学校だけ噂の成長が著しい」
なるほど。それにしても、竜二はよく子供たちの輪の中に飛び込んで行けたものだ。小学生くらいの子供は、大人を徹底的に自分たちのコミュニティから排除しようとする。体が大きく、異様な言語を操り、訳の判らない価値観をもつ大人は、子供たちにとって異人も同然なのである。そんな人間が輪に入ってくれば、場が乱され、改革が起こることは必然であるからそれを嫌がる子供たちは当然拒絶反応を示す。
竜二はその中に入り込み、こうして噂を持って来るのだから大したものである。
「そうですか。じゃあその五橋の七不思議っていうのはどういう話なんですか?」
「七不思議を語る前に一つ、この噂の特徴について説明させてくれ」
竜二はホワイトボードの前に立つと説明を始めた。
「五橋の七不思議ってのはな、その名の通り五橋付近で語られる七不思議であって、所謂学校の七不思議じゃあないんだよ。あくまで学校の外で語られている噂なんだな。だから八条小学校の生徒でなくても似たような話を知ってるヤツがいる。
そんで、外で語られる噂な訳だから当然、色んな場所に話が散り散りになっている。例えば、五橋公園の公衆トイレにはトイレの花子さんとトイレの太郎くんが住んでいるという噂がある。けど、人面犬の噂は五橋公園にはない。人面犬が出るのは土樋の住宅街の辺りだ。そんな感じで一つの限定された場所につき一つ噂があるのが特徴な訳だな」
用意したホワイトボードが白紙のままで説明が終わる。
確かに学校の外で七不思議が語られるというのは奇妙な話だ。しかし、この『五橋の七不思議』も一般的に学校で広まる七不思議のルールには則っている。一つの限定された場所に一つの噂と言うのがそれだ。
理科室なら動く骨格標本。音楽室ならひとりでに鳴りだすピアノ。といった具合に、学校の七不思議も出会う怪異と場所を無関係にしないというルールのもとに作り上げられている。それはどうやら『五橋の七不思議』も同じようである。
「と言うことで、雪乃の質問に答えよう」
竜二はようやくホワイトボードに文字を書き込んでいく。内容は勿論七不思議だ。
・五橋公園の公衆トイレに住んでいる花子さんと太郎くん。
・土樋近辺に出る人面犬。
・東条大学の口裂け女。
・命衵中学校前の楽器屋に売られている呪いのギター。
・八条小学校付近のコンビニ前に設置されている、地獄へ繋がる公衆電話。
・五橋駅のカシマさん。
・愛宕橋の幽霊。
「こんな感じだな」
書き終えた竜二はふうと息を吐く。
ホワイトボードを見るに、確かに五橋方面に噂が集中している。言われてみれば、それは子供の遊び場や通学路であるのだ。
「トイレの花子さんと太郎くんが一緒くたに語られているのはどういう訳でしょう? 普通は別々に語られますよね?」
「五橋公園のトイレって男女共用だよね。だからじゃない?」
「そういうことだな。因に花子さんと太郎くんは兄妹って設定があるらしい。仲睦まじいんだと」
なるほど、それはなかなかハートフルな設定である。
「判りました。色々訊きたいことはありますけど、これを調べてどうするんです? 噂の変遷に関する論文でも書くんですか?」
雪乃は怪訝な面持ちで竜二の顔を伺う。雪乃の意見は尤もだ。いつもは一つの噂に焦点を当てて調べているオカルト研究部である。七不思議を調べるのはそれなりに骨が折れるのだから調べる理由が判らなければ、動く気力も湧いてこない。
「判ってるじゃねえか。そうだよ。俺らは噂の変遷に関する論文を書くんだよ」
ひらひらと手を振りながら竜二は肯定した。
雪乃としては何の気なしに口から飛び出た言葉であっただろうが、竜二は一切の躊躇もなしに肯定した。
論文とはどういうことだろう。論文など書いたところで誰に提出する訳でもあるまいに。
「十月になったら学祭があるな。そこで俺らは七不思議を取り扱った論文を生徒会に提出してここに展示する。これには我が部の存続がかかっているのだ」
「展示なんて昨年と同じでいいじゃないですか」
昨年は倉庫に仕舞ってある、先代の残した備品を展示した。あまりに胡散臭いもの(件の頭蓋骨だとかモスマンの解剖図だとか)が多いので、誰にも興味を示されず、ただ時間を無駄にしただけだった。
「お前ら……俺があの後生徒会からお叱りを受けたことを知らんのか……」
「え、そうなの? 竜二くん、そんな素振り見せなかったじゃない」
「見せたよ! これでもかってくらい落ち込んでみせてたよ! お前ら二人してスルーしやがって!」
六朗はそんなことは覚えていない。恐らく竜二の傷心に気付きもしなかったのだと思う。勿論それは雪乃も同じだろう。
否、雪乃の方は気付いていてなお、無視していたのかも知れない。気付いていなかったのは自分だけ。自分と雪乃、どちらが薄情かは判らないが、どちらにしろやはり薄情であることに変わりはない。
「そんな訳で、今回ばかりはズルをする訳にはいかないんだよ。まあウチは小さいサークルだから出来の方はそれなりでいいんだけどな。でもとっとと調べねえととんでもない形に噂が変形しちまうだろうから、早めに動いておこうと思ってな」
「うん。そうだね。僕たちかなり気ままに活動してきたから、ここらで真面目にやっておくのもいいかも」
「異論はありません。では、参りましょう」
いつも通り、死にかけのエアコンを切ると、三人は部室を後にした。




