幕間
「なるほど。それで青木ヶ原さんはずっと竜二のことを探していた訳ね」
茹だるような熱さの大通り、さっぱりとした口調で目の前の女性は言う。しっかりと話を聴いてくれているという感じだ。
彼女は名を沙村浪江というらしい。話を聴いてみれば、どうやら竜二の恋人ではないようだった。
浪江は海樹子のことを知っていた。彼女は海樹子の名前を聞くと、目を見開いて驚いていた。何故知っていたかと問い質せば、竜二が自分の過去を話して聞かせたからなのだという。
浪江の驚きは一瞬だった。彼女はすぐに平常に戻ると、偶然って素敵ねと言ってのけたのだ。もっと驚いてもいいのではないかと海樹子は怪訝に思う。竜二の過去が本人ではなく、その友人の前に現れるなど想像もしていないはずなのだから。
肝が据わっている。そんな言葉を体現したような女性だ。
二人は柳町通りから少し離れた通りに場所を移していた。人ごみではどうも話がし難い。
「そうねえ。いいんじゃないかしら? 青木ヶ原さんの、他者に自分を求めるって言う姿勢は間違ってないと私は思うわ」
「そう? 私は自分の異常性はしっかり自覚しているつもりだったんだけど、沙村さんにはそうは映らないんだね」
異常だ。自分のしていることはまるでストーカーだ。それでも捜索をやめなかったのは竜二以外との人間関係をまるで構築出来なかったからだ。構築するつもりもなかったからだ。
「異常だとは思うわ。あなたの考えは凄く偏っていて、尋常ではないって思う。けれど、自分の所在なんて、自分の力だけで見つけられるものではないじゃない。
ちょっと前に自分探しの旅、なんてのが流行ったらしいわね。流石に今の時代に自分探しの旅に出る、なんて言ったら揶揄されてしまいそうだけれど、私は自分を探す為に旅に出ることが間違いだとは思わない。自分の内側との対話だけで自分を探そうと思ったら、時間がかかりすぎるし、日常と両立しながらそれが出来る人はなかなか居ないと思うの。だから人と接することで自分を確認するというのは、凄く一般的で、効率のいいことなんじゃないかしら?」
浪江は整然と言ってのける。
「そっか。沙村さんはそう思うんだね。自己は他者の中に、社会の中にこそあるって。でも私は社会なんて必要としてない。社会の方だって私を必要としない。だから私には竜二くんしか居ないんだよ。必要なのは竜二くんだけ。それ以外はいらない」
「青木ヶ原さんにとって竜二は社会に入り込む上での入り口でしかないんじゃない? エディプスコンプレックスって知ってる? 彼の有名なフロイトさんが提唱した概念らしいんだけど」
浪江はなんだか小難しい話を始める。
海樹子は、へえと相槌を打った。
「私も精神分析学についてはよく知らないんだけどね。何でも男児が母親に対して抱く性的な欲求の無意識の傾向を表す言葉なんだとか。まあ私が言いたいのは物語作品には結構これが用いられているらしいってことだから精神分析学のほうは話半分に聞いてね」
何でもそれは、ギリシア神話のオイディプス王の話が下敷きになっており、作中で起こる父親殺しと近親相姦の構造をフロイトが精神分析学の用語としたものらしい。
そしてその構造は文学にも取り入れられている。文学作品の構造分析の際、エディプスコンプレックスは欠かせない要素なのだと浪江は言う。
「オイディプス王は男だから、精神医学に取り入れられる際に女の子バージョンも提唱されたそうよ」
浪江が言うことには、女児の場合は母親を憎み、父親に愛情をスライドさせることで成立するとのだとか。男児は去勢の恐怖から近親相姦を諦めるが、女児はそうではないらしい。去勢されるべき陰茎を持たないことから、女児は父親を愛したままになるのであるというのが浪江の説明である。
しかし、それがどう自分に当てはまるというのだろうか。自分は母親を憎んだことはあっても、父親に愛情を感じたことなど一度としてない。それにこれは家庭内でのコミュニティで発生する構造であって、家という空間を離れたところに存在している竜二とは何の関係もなさそうである。
「精神分析学なら『超自我』だとか『無意識』だとか、何やら難しい話になるのだけれど、文学や物語ではそれを省略、簡略化して、他者に愛情を求めるという点に話が移行することがあるの。つまり異性愛よね。青木ヶ原さんはお父さんの代替として竜二を求めているんじゃないかしら? そうして竜二と関わって初めて外の世界が見えるようになる」
父親の代替品。海樹子にとって父親とは、存在していないと言っていいほど影の薄い人物である。悪意こそぶつけてこないものの、だからと言って善意も救済も与えてくれたことはないのだ。他人のようなものだ。愛情など望めたものではない。
「竜二くんはパパの代わり……」
海樹子にはそれが的を射た考えのように思える。竜二はちゃんと自分に伝えてくれるから。ちゃんと評価してくれるから。そこに見出すのは父性なのだろうか。
「まあ私の想像よ。現実の人間関係を物語構造に上手く当て嵌めることなんて出来ないんだしね」
「どうかな。ど真ん中とはいかなくても、的の端くらいには当たってるんじゃないかな」
海樹子は祭囃子を聞きながらぽつりと言う。
「ねえ、沙村さんは竜二くんのことが好きなの?」
何となく聞いてみる。
「いいえ。別に好きじゃないわ」
平然と言ってのける。意外な答えが返ってきたと海樹子は少し面食らった。てっきり浪江は竜二のことが好きなのだと思っていた。何故と言えば、浪江は竜二の事情について随分と知っているようだったからだ。ただの友人というだけでは踏み込もうと思わない場所にまで、彼女は足を踏み入れている。
「これから好きになるってことはあるかもしれないけれどね。でも少なくとも今は好きじゃないわ」
「じゃあ竜二くんの方が沙村さんのことを好いてるんだ」
言葉にすると心拍数が上がるのが判った。
「らしいわね」
浪江は皮肉気に笑っている。それを見て海樹子は気付く。
彼女には似合わない表情がない。額が露出するほど短い前髪の所為で目つきの悪さが目立って見えるが、それにしたって見ように依っては垢抜けた格好よさを感じさせる。如何にも生者らしい、生気に満ちた顔立ちだ。竜二が惚れ込むのも納得出来る。
「ズルいよ、沙村さんは……」
ぽつりと呟く。ともすれば竜二は自分になど傾かないかもしれない。そんな後ろ向きな考えが頭の片隅で燻っている。
「ん? 何か言った?」
海樹子の呟きは聞こえていなかったようだ。海樹子が、何でもないよと言うと浪江は納得したように引き下がった。諦めがいいのだか気分屋なのだか判らない。しかし、どちらにしてもあまり細かいことは気にしない性質の女性であるらしいことは判った。
「それにしても、竜二はこんな可愛い子に思われているのね。ちょっと羨ましいわ」
浪江は海樹子の顔を覗き込む。
「私は竜二くんに思われている沙村さんが羨ましいよ」
「綺麗な三角関係ね」
三角。否、点は三つあるが線を結べば一角にしかならない。浪江と海樹子を結ぶ線が存在しない。
海樹子が三角関係の相関図について考え倦ねていると、浪江が口を開いた。
「そうねえ——でも竜二には期待してもいいと思うわ。あいつはそこまで薄情な人間じゃない。結構まともなヤツなのよ。罪の意識で停滞出来るくらいにはね」
やはり彼女には敵わないのではないかと海樹子は思う。何故なら竜二のことが羨ましくなってしまったから。自分もこんな人と出会いたかったと思ってしまったから。しかし、後の祭りだ。竜二以外の人間を捨てることを選んだのは自分なのだ。今更取り返しはつかない。
海樹子は溜息を吐き、浪江の横顔を助けを求めるように見つめた。浪江は微笑んでいた。心配事など何もないかのようにただ微笑んでいた。




