鏡を疎む3-2
凄絶な雨の中に飛び出した海樹子だったが、校門から出て直ぐに学校へと引き返すことになった。
正に叩き付けるような雨。雨が肌に衝突する度に体中がびりびりと痛む。傘がなくてはまともに歩くことも叶わない。
竜二と鉢合わせてしまわないかとも考えたのだが、別にそれでも構わないと思った。もう断交は済ませたのだ。何を言われようとも無視すればいい。何時も母にしているように。
校門から構内に入り、こっそりと昇降口を覗くが誰もいない。ぱらぱらと居残っている生徒も見られるが、知っている顔は一人もいなかった。
自分の傘を見つけ出して取り出すと、早速差して再び外へと歩みを進める。傘に打ち付けられる雨の音で周りの音が遮断される。
自動車が近付いてくる音も聞こえ難い。車道から離れて歩かなければ水をかけられて濡れ鼠になってしまうだろう。とは言うものの、先ほど傘を差さずに猛雨の中に飛び出したこともあって、既に海樹子は濡れ鼠だった。
衣服が体に張り付いて気持ちが悪い。まるで服が自分と一体化しようとするかのように、肌に吸い付いてくる。しかし服は肌に弾かれてしまう。服と肌は何時も一定の距離感を保っているからこそ心地よいものなのであって、服の方が一方的に距離を詰めては気持ち悪いのも当然だ。
「帰ったら着替えなくちゃ」
独り言ちる。最近は雨が続いたから人と話す機会も多かったけれど、梅雨の時期が終わったらまた暫く一人だなと考えた。しかし、竜二は納得するまで話しかけてくるに違いない。彼はきっと自分のことを一人にはしてくれないのだろうなと海樹子は思う。また厄介払いに苦心しなくてはならないのかと思うと憂鬱だった。
それにしても、怪談話をする度に突っかかってくるだけの、空気の読めない同級生に随分と振り回されたものだ。
学級内での海樹子と竜二の関係は無関係と形容出来るくらいに薄いものだったが、この数日で随分と発展したように思う。
あれだけの体験をしたのだから当然と言えば当然だ。形はどうあれ、発展はするだろう。発展しすぎて崩壊してしまったが、竜二との冒険は確かに色を持って海樹子の記憶に残っている。久々に生きた心地がした。死と隣り合わせで得た実感だったが、はっきりと生を感じることは出来た。
それに、あんなに滅茶苦茶に、支離滅裂に何かを叫んだのは始めてだったかもしれない。
「だから——」
だから、どうした。それが何だ。
そんな実感だって壊れてしまえばお仕舞いだ。これからまた死んだような心地の生活に戻るのだ。非日常は終わったのだ。全ては無関係に戻る。
「あんなのは夢だよ」
そう。夢と同じ。きっと色のある思い出も、時間が経つうちに色褪せて、最後には何にも思い出せなくなるに違いない。海樹子はそう思った。
雨は降り続く。伏せていた目を前に向けると自宅が見えた。海樹子の家は二階建ての一軒家だ。
玄関に目をやると、何かが海樹子の家の中へと駆けていくのが見えた。雨で姿がよく見えなかった。否、雨の所為ではない気がする。幾ら雨が強く降っていようと、人ならば服を着ているのだから判らないということはないだろう。服には色彩があるから人の体の輪郭は間違いなく掴めるはずだ。
では人ではないのだろうか。しかし、この辺に出没する野生動物といったら猫くらいなものだ。あの影は大きくはないが、小さいという訳でもなかった。少なくとも人間の子供くらいの大きさはあった。
「何だろう……」
警戒しながら玄関先に近付く。ドアの前には誰もいない。
ランドセルから鍵を外す。鍵を鍵穴に差し込み、開錠しようとするが鍵は回らない。
「開いてる」
いよいよ不気味になって来た。普通ならば両親が鍵をかけ忘れたのだと考えるところだろう。しかし海樹子は変なものを見てしまったのだ。二日前に駅で、そして今この家の前で。とりわけ駅で見た白い肌の少女は海樹子を不安にさせていた。先刻の竜二に浴びせてしまった罵詈雑言だって、少なからずこの不安で平静さを欠いたことから飛び出たものであるのだ。
率直に言えば家に入りたくない。入りたくはないが、流石に体が冷えてきている。
早く着替えたいという欲求が海樹子を自宅へと招き入れた。
家に入るなり海樹子は両親を呼ぶ。しかし、この時間帯は父母共にまだ仕事で家には誰もいない。海樹子だってそれは判っているが、今の彼女にはどうしようもない不安感がある。確認をしない訳にはいかなかった。
沈黙が両親の不在を伝える。
では先ほど家に入った影は何だというのだろう。まだ終わっていないのだろうか。まだ非日常は続いているのだろうか。勝手に自分で終わらせた気になっていただけで、本当は何も変わってはいないのではないか。
そうだ。考えてみればそれは当然のことだ。一つの大きな事件に関わってしまったと言うだけで、海樹子の日常はあちら側に流れてしまっている。その流れとは逆方向に棹をさした訳でもないのに、どうして元の場所へ戻れるというのだろうか。
静寂が煩い。恐怖と不安を押し殺して二階にある自分の部屋へと足を運ぶ。抜き足差し足だ。
思い切った気持ちで自室の扉を開いたがやはり誰もいない。
ホッと一息。着替えようとタンスの引き出しを開ける。その時、雨で毛先の濡れた髪に何かが触れた。振り返るより先に体が硬直する。
やはり誰かがいるのか。いるとしたら、それは今自分の後ろに立っているのか。
手に汗が滲んだような気がした。振り向くか振り向くまいか。しかし、このまま膠着している訳にもいかない。恐らく両親が帰宅するまであと三時間はある。そんなに長時間、ずぶ濡れで立ち尽くしているなんて出来る訳がない。自分の意地などタカが知れている。
子供とは時に冷静な自己分析を行う。夢を見る反面、自分の将来がどんなものであるのか、あるいは高校や大学への進学についてなど、非常に具体的な未来のことまで思考出来るくらいの冷徹さを持つことが出来る。今の海樹子にはそんなあまりに現実塗れな冷静さがあった。恐怖の中にありながらも、頭はしっかりと回っている。
振り向くしかない。海樹子はそう決意して体を捻った。
「————っ」
心臓が止まるかと思ったが、そこにいたのは姿見に映る自分だった。大嫌いな自分の姿だった。安心と同時に、感情を誤魔化す。何時ものように、自分は自分に対して何も思わない。全くの無関心なのだと。
「嘘吐き」
海樹子は戦慄する。全てが正反対の世界から声がした。海樹子は何も喋っていない。口を真一文字に閉じていたにも拘らず、鏡に映る自分が口を動かしたのだ。
「この嘘吐き」
しばし唖然とする。あまりに超常的過ぎる。海樹子の脳は現実に着いて行くことが出来ない。
「ちょっと、なんか言いなよ。嘘吐き女」
「あなたは……何?」
喉がからからだ。掠れた声しか出ない。肌の表面はこんなにも湿っているのに、内側は砂漠のように乾いている。
「何って、ドッペルゲンガーでしょ? 前にも会ったじゃない。もう忘れたの? まああなたって見るからに馬鹿面だし、それも仕方ないっちゃ仕方ないか」
前にも会った。その言葉でピンと来る。
白い肌の少女。駅で見た、あの不気味な少女。
理解した途端、鏡の中の少女の姿がぼやける。
「はあ? 今更現実逃避? ヤメてよ。あなたはもう気付いたんだから。見ちゃったんだから。そんなことしたってもう現実は変わらないんだよ」
ドッペルゲンガーは知った風なことを言う。否、事実、知っているのだろう。海樹子の考えていることなど、お見通しなのだろう。
「うるさい……」
「逆切れ? 子供っぽいなあ。って子供か。ま、私も人のこと言えた立場じゃないけどさ」
飄々と言ってのけると、彼女は襟を正して海樹子を見る。そうしてこう続けた。
「ねえ、その体、私に頂戴よ。いいでしょ? あなたは自分のことが嫌いなんだから私にその体を渡しても問題ないよね?」
言い返せない。事実だからだ。確かに海樹子は自分のことが嫌いだった。しかし、だからと言ってそう簡単に体を渡すなど出来る訳がない。そんな突拍子もないことが出来るはずもない。
「嫌なの? どうして? 真面目ちゃんな海樹子ちゃんはそんな自分が嫌なんでしょう? 真面目でも出来が悪ければママに叩かれるし、竜二くんは見向きもしてくれないもんね」
どうして。何故その二人が出てくるのだろうか。何故大嫌いな二人が。
「大嫌いなんて嘘でしょう。いい加減にしなよ。私に嘘なんて通用しないんだから。あなたはママのことも、竜二くんのこともだーい好きなんだもんね。あなたがママに反抗するのは自分を愛してくれないことへの八つ当たりだし、竜二くんに酷いことを言ったのも、自分のことを肯定してくれないことへの八つ当たりだよね。そして彼らに認められない自分が大嫌いなんだよね?」
「違う……」
「嘘だね」
二人の意見は平行線だ。
ドッペルゲンガーの彼女は海樹子に構わずに続ける。
「私なら二人と上手くやっていけるよ。ママも竜二くんも私のことが好きになる」
――――それから
「あなたに出来ない悪いことも一杯してあげる。二人を失望させることなく、遂行してあげる。だから体を私に渡して。大体あなたは私のことを知っちゃったんだから、既に半分は私のものなんだよ。諦めなって。それとも紫鏡で大人にならずに死ぬ?」
巫山戯るな。
「巫山戯るな! この体は私のものだ! あんたになんか渡してたまるか!」
海樹子は服を脱ぐ。上も下も。下着も全て外す。
そして、この顔も、この腕も、この足も、この胴も全て自分のものだと主張する。それでもその言葉は何処か白々しく、鏡を通り抜けて不思議の国へと吸い込まれてしまうようだった。
「なんでそんなに執着するんだろう? 判んないなあ。ま、別に今でなくてもいいけどね。きっとその内気が向くだろうから。でも竜二くんへの好意は早いうちに認めなよ。ママのことは別にどっちでもいいからさ」
「黙れ」
牛を模した拳を鏡に向ける。
今の海樹子では話にならないと諦めたのか、ドッペルゲンガーは自分勝手に動くのをやめた。
静寂が戻る。鏡の中の海樹子は本物の海樹子に向けて牛を模した拳を向けていた。
*
翌日、海樹子は学校を休んだ。仮病を使った訳ではない。学校になど行きたくないと駄々をこねたのだ。
最初は具合が悪いから行きたくないと理由をこじつけた。しかし、母があまりにしつこく起こしにくるものだから、布団を引き剥がされると同時に激昂し、部屋にある物を片端から投げつけて怒鳴り散らした。母はそんな海樹子の形相に戦いてリビングに引っ込んでしまった。普段無愛想にしているとは言え、海樹子が怒鳴り散らしたことなど一度としてなかったのだから、母からしてみればこれは異常事態だ。一時退散ということだったのだろう。
それから母は海樹子に一言も声をかけないまま出勤してしまった。これがまた海樹子を怒らせる。
――娘のヒステリーすら受け流すなんて、薄情もここに極まれりだ。私は愛されていないんだ。
海樹子だって母が声をかけなかった理由が、自分の乱心にあることは判っていた。その時の海樹子に何を言った所で撥ね付けられてしまうであろうことは明らかだったのだから。母は気を遣ったからこそ声をかけなかったに違いない。しかし海樹子の感情はそんな理屈を捻じ曲げてしまう。母は自分を愛していないから無視をしたのだと。
憤慨した海樹子は朝食も食べずに家を出る。まだ午前の十時だ。学校にも行かずに外を徘徊するのは明らかに非行だが、だからといって家でじっとしていることも出来ない。眠気もないし、家に居たところで何をしていればいいのか判らないのだ。
そんな訳で、持て余した海樹子は今、縛り地蔵の下手にある広場のベンチに座っている。昨日までの猛雨で川が増水したのか、広場にはドブの臭いが広がっている。ベンチは濡れていて、座った海樹子の服に染み込んでくる。とてもではないが落ち着ける環境ではない。しかし、家に居るよりはマシだった。
足下の水たまりに目をやると、顔をしかめている自分の顔が映る。
否、水たまりには泥が混ざっていて、人を映す程の純度はない。ならば何故映る。
「くっさーい。こんな場所じゃ碌に暇も潰せない。ねえ、別の所に行こうよ」
耳元で声がした。顔を上げると、海樹子の隣には肌の白い少女が座っていた。これには流石の海樹子も驚きを隠せない。ドッペルゲンガーは鏡の前でなくても姿を現すのか。
しかし、考えてみれば彼女は駅のホームにも現れたのだ。何処に姿を現そうと不思議はない。
「行くなら一人で行ったら? 私はここがいいの」
出来るだけ動揺を気取られないように取り繕う。
「つれないなー海樹子ちゃんは。そんなんだから友達が出来ないんだよ?」
「友達なんかいらない」
友達など一緒に居た所で煩わしいだけだ。
「友達なんかいらない、ね。でも竜二くんは欲しいでしょ?」
まただ。またもこの少女は不愉快な質問をぶつけてくる。きっと彼女は海樹子が竜二と衝突したことを知っている。知っているからこそこんな嫌味を言うのだ。
海樹子は、いらないよと突っぱねた。
「うっそだー。何時も目で追ってるくせに。休み時間は窓際から校庭で遊んでる竜二くんを見ながらカッコいいなーとか思ってるくせに。あなたは実は雨の日が大好き。竜二くんが自分の話を聴きに来てくれるから」
そんなはずはないと海樹子は心の中で否定する。
「否定したければしたらいいよ。それがあなたなんだものね。でも、それじゃあ損ばっかりだよ。あなたの人生が傾きかねない。だから私はあなたから体を貰って、ちゃんと竜二くんに好きだと伝えてあげるの」
「だから、私は竜二くんのことなんか好きじゃないって言ってるでしょう!」
一層強く否定する。
「くどい」
「こっちの台詞だよ」
未だ二人は相容れない。昨日と同じ問答を繰り返している。
「もうどっか行ってよ」
「ここ、懐かしいね」
ドッペルゲンガーの彼女は海樹子を無視して話を始めてしまう。
「どっか行ってってば!」
「まだ幼稚園の頃だっけ? まだそんな捻くれた性格してなかった頃。あなたは友達と遊んでた。楽しそうにね。
そして、その友達が親のことを親し気に『ママ』って呼んでるのを見て、羨ましく思ったあなたは友達の真似をした。『ママ』って呼んでみた」
やっぱりドッペルゲンガーは何でも知っている。自分の一切を知っているのだと海樹子は絶望的な気分になる。
「そうしたらママは『お母さんって呼びなさい』って優しく言った。でもあなたにはママが怒ってるのが判った。友達の前でお説教されて、凄く恥ずかしい思いをしたんだよね。それからだね、自分が愛されてないって感じ始めたのは」
「うるさい!」
幾ら怒鳴っても彼女は薄ら笑いを浮かべるだけで、消えようとはしてくれない。大体昨日は、体を渡すのは気が向いたらでいいとか言っていたではないか。言った傍から現れて追いつめるなんて卑怯だ。
「それも私が解決してあげる。ママの言いなりは嫌だってちゃんと伝えてあげる」
「うるさいな! 何処かへ行って!」
耳を塞ぐが、彼女によって呼び起こされた思い出は海樹子の頭の中をぐるぐると回っている。記憶の波は留まることを知らない。
「仕方ないなあ」
ドッペルゲンガーは肩をすくめて溜息を吐く。
海樹子は耳を塞いで、消えろ消えろと呟き続ける。
こんなことは全部嘘なのだ。自分が誰かに好意を抱くなど、そんなことはあり得ない。
否、そうだろうか。
海樹子は残された理性で考える。
このドッペルゲンガーが自分の一切合切を知っているというのなら、思い出だけでなく、心理もまた言い当てているのではないか。事実、母に拒絶されたとき、海樹子は消えてしまいたくなるほどの羞恥心を覚えた。同時に寂しさも。何故親子だというのに距離を縮めることを許されないのだろうかと思った。
竜二のことだって少なからず心に留めていたはずだ。クラスのいじめられっ子を救う竜二に、ヒーローへの憧れのようなものを感じていたのは否定出来ない。絵に描いたような勧善懲悪を目の当たりにして、それに感じるのが恋心であったところでなんの不思議もない。
「違う!」
白い少女に向かって叫んだ。しかし海樹子の叫んだ先には、既に喪失が残されているだけだった。彼女は何処かへ行ってしまった。
彼女は誰なのだろうか。海樹子の全てを知る白い少女。まるで自分自身のような存在。
海樹子の過去から現在、そしてその心理や内心を知る者だというのなら、それは海樹子本人であると言ったところで何の差し支えもない。自分を知る者は自分以外にはあり得ないのだから。
しかし、海樹子は今ここに存在していて、あの少女と真っ向から対立していた。彼女の言うことが事実であれ、海樹子はその事実を否定したいのだから二人が同一であると言うのは無理がある。
どちらが本物の自分なのだろうと海樹子は頭を抱える。自らの意見に肯定的な白い少女と否定的な海樹子。
判らない。どちらが自分なのだ。体が浮遊感に包まれる、海樹子は思わず自分の体を強く抱いた。
「助けて……」
誰か。
「助けてよぉ、竜二くん……」
言ってしまってから気付いた。気付いた時にはもう遅かった。




