鏡を疎む3
「やってしまった」
竜二はコンビニエンスストアのトイレで闘っていた。かき氷のせいかラムネのせいかは判然としないが腹を下したのである。
先刻、何度もトイレに立つのはいただけないと考え、二度目はないと誓ったばかりだというのにやってしまったのだ。肝心なところで締まらない。
しかし幾ら誓いがあったとは言え、それはそれだけで生理現象に抗えるような代物ではない。幾ら神や仏に約束をした所で守れないものは守れない。ならば最初から約束などしなければいいのだが、神と約束するということは自分と約束することと何の違いもないので、反故にしようが誰に誹りを受けることもない。自分自身を詰ることくらいは出来るだろうが。
まあだから今ここで気張っていることで損をするのは自分だけ。自己嫌悪とまではいかずとも、自嘲くらいはしてやろうと竜二は思う。
「それにしても、今日はトイレに縁があるな」
烏枢沙摩明王に祟られたか。トイレは清潔に使用しているはずなのだが。
否、ファーストフード店のトイレで誓った神こそ烏枢沙摩明王だったのかもしれない。
「待て待て。それはおかしい。反故したのが今なら祟られるのはこれから先だ。祟られた訳じゃないのか……」
竜二は暫く下痢の祟りに着いて思考したが訳が判らなくなってやめた。
訳が判らなくなればお巫山戯であってもやめてしまう。
海樹子を図書室に呼び出したときも、竜二は彼女の言葉の意味を考えなかった。海樹子は真剣だったにも関わらず、少しも真面目に考えなかった。
浪江は、子供の喧嘩なんてそんなものでしょと端然と言ってのけたがやはり竜二としては心残りがある。
————竜二くんはお気楽だね。
全く以てその通り。自分はあまりにお気楽過ぎた。相手の事情も試みず、勝手なことを言ったのだ。
反省するより他にない。
海樹子にどういう事情があったかは判らないが、自分はあまりに無神経な発言をしたと竜二は思う。
否、海樹子にあった事情など人身事故の一件だけで充分に配慮に値する。
竜二はあのとき、大人であろうとした。沈まず、昂らず、ニュートラルであることで海樹子を諭そうと思った。しかし道理だけで納得するほど人間は簡単ではない。誰にだって道理に沿わない矜持や感情があるのだ。それを汲まなければ慰めることも、励ますことも出来はしない。
感情を無視したのだから、真面目に考えるも何もない。何も考えていなかったのと同じだ。
「はあ……」
溜め息を吐く。便意は何処かへ消え去り、竜二は烏枢沙摩明王の祟りから解放された。
*
竜二はコンビニエンスストアから退店し、腹をさする。もう暴れだしませんようにと祈願しながら。
午後八時ジャスト。この時間帯になると人も疎らだ。次は何の出店に行こうかと考えを巡らす。
射的でもやってみようか、金魚すくいも良いかもしれない。
————荅川竜二くん?
唐突に声をかけられた。涼し気な、通り過ぎて行くような声だ。
「あん?」
顔を上げると、股下くらいまでの短めのアンサンブルワンピースに、裾をくるぶし上まで上げたテーパードジーンズを纏った見知らぬ美人がゆらゆら揺れるように立っていた。その女性は何だか存在感が薄弱で陽炎のように揺れて見える。
少し目を離せば、もうそこには跡も残さないような実在感のなさ。頼りなく揺れるミディアムヘアがそう見せているのかも知れない。
存在感はないが、印象に残る容姿だ。
にも拘らず、誰だか判らない。竜二の記憶メモリにこのレベルの美人は雪乃くらいしか入っていない。
「やっぱり竜二くんだ。久しぶりだね」
「どちらさん? 悪いけど記憶にないなあ」
「あはっ。忘れちゃったんだ。酷いなあ竜二くんは」
陽炎のような女性は少女のように笑う。
どうやら彼女の方は竜二のことを知っているらしかった。ということは会ったことのある相手ということになるが、竜二にしてみれば全く覚えがない。
「どっかで会ったことある? 俺記憶力悪いし、特に人の顔と名前覚えんのが苦手だからさ、数回会ったくらいの仲じゃあまず覚えてない」
「竜二くんは人との繋がりを大切にするから自分にとって重要じゃない人のことは覚えるだけ無駄だと思っているんだね。だから些細な出会いは覚えてない。きっと私のこともどうでもよかったんだね」
女は知った風なことをいう。
「本当に久しぶりだね、竜二くん。青木ヶ原海樹子だよ。覚えてない? 覚えてないとは言わせない」
絶句する竜二。
思考が纏まらない。訳が判らない。しかし流石に今はこの思考を停止させる訳にはいかなかった。
何故嫌な思い出を語った直後に、その嫌な思い出が現れるのだろうか。
普通に考えれば偶然だろう。長い間、音信不通だった友人との再会の何処に必然性があるというのだ。
しかしこれが偶然だとするならば――――
「俺は何かに憑かれてる……」
「竜二くん大っきくなったなね。でもちょっと痩せすぎかも。ちゃんとご飯食べてる?」
「……」
どう応えたものだろう。トイレで彼女への言動を反省したばかりの竜二は上手く言葉が出せない。
「竜二くん動揺してる。まあ、そうだよね。喧嘩別れしたんだものね、私たち」
「そうだな」
まずは相槌から始めてみよう。
「でもあんなの子供の喧嘩だよ。言葉足らずで、会話なんてあってないようなものだったじゃない。って言っても竜二くんは覚えてないか」
海樹子は全く変わっていないように思えた。直ぐに人への期待を捨てる言い回しは、今も健在だった。
「覚えてるさ。流石の俺もそこまでお気楽じゃあないぜ?」
「ふふっ。根に持ってるんだ。嬉しい」
竜二は少し思い直す。彼女は変わったかもしれない。十歳の海樹子は無愛想で、滅多に笑わない子供だったのだから。
「『二つの手紙』」
「ん?」
「『二つの手紙』、読んだ?」
「ああ読んだよ。勉強してな」
「そう。じゃあ、竜二くんは主人公が最後にドッペルゲンガーの研究に従事すると決意したことに着いてどう思う?」
「どうって……」
海樹子が何を言いたいのか判らない。
「馬鹿馬鹿しいと思う? ドッペルゲンガーを本気で信じて研究に従事するってことが」
「……思うよ。ドッペルゲンガーを信じず研究に従事する、なら判るけどな」
自分の正気を疑いもせずに、怪異を見つめるあの主人公を、竜二は狂人だと思っている。まあ自分の正気を疑う狂人など居はしないが。
「どうして? それってこの世にある超常現象を全部否定するってことだよね。世界中には数え切れない程、人の数だけ幽霊話だとか怪奇伝承なんかが存在するんだよ? 超常現象を否定するってことはそれらを全部否定するってことにはならないかな? それこそ非現実的で乱暴だとは思わない?」
「別に全部を否定しようとは思わない。説明の着く現象は説明して、説明出来ない現象は説明出来るようにするだけだろ。否定はしないが肯定もしないってヤツだな」
「円了気質だね、竜二くんは。相変わらずだ。でも、ちゃんと勉強したんだね」
海樹子は目線を外す竜二の顔を覗き込むようにしてうっすらと笑ってみせる。
「お前は随分笑顔が増えたな」
勉強しようと思った原因が海樹子との衝突にあったとは素直に言えずに、相手の方に話題を振る。
「毎日鏡の前で練習してるからね。笑うこと位は出来るようになったよ」
————笑うこと位は出来る。
では出来ないことは何だろう。
怒ることは出来るはずだ。海樹子の激昂する姿を竜二は忘れたことがない。
「アーケードに行こう。立ちっぱなしじゃ疲れちゃう」
海樹子もまた、自分の話題を打ち切るようにしてアーケードのベンチへの移動を提案する。
「悪い。俺、人待たせてるから」
竜二は提案を撥ね付けるように言った。
「ふうん……彼女?」
「ぶっ!」
思わず吹き出す。
「そんな訳ないじゃないですか!」
「よく判らない反応だなあ。嘘かホントか判らない」
「ホントだよ……って言うかよくツレが女だって判ったな」
「何となくだよ。お祭りだし、竜二くんも色気付いたのかなって、ちょっと気になったから言ってみただけ」
なるほど、そんなものだろう。
「そっか。じゃあそんな訳だから俺は行くよ」
竜二は腕を上げ、ひらひらと手を振るが、踵を返そうとしたとき、海樹子に上げた方の腕を掴まれる。
「待ってよ」
海樹子は無表情だ。にも拘らず、竜二の腕を掴む手には力が込められている。
「何だよ?」
「竜二くん、一緒にドッペルゲンガーを探そう」
何処かで見たような光景だ。
「頷いてくれるまで、私はこの手を離さない」
小学生の時分、階段の踊り場で見た光景だった。
懐かしい。同時に胃が重くなるのを感じる。
竜二は意地でドッペルゲンガーなどいないということを証明する為に勝負を吹っかけた過去を思い出す。
あの時の海樹子は早く教室に戻りたいという焦りから竜二の勝負を承けただけなのだろう。彼女だってドッペルゲンガーなど信じていなかったに違いない。
最初から勝負など成立していなかった。
ただ竜二が海樹子を振り回して不幸に会わせただけ。
ならば断れるはずがない。不幸に誘われているのだとしても、竜二の罪悪感は誘いを断ることを許さない。
しかし、竜二の口から出た言葉は海樹子の導火線に火を放つような言葉だった。
「ドッペルゲンガーはいないよ。探すまでもない」
沈まず、昂らず、整然と言ってのける。
「ただの怪談話だ」
「いるよ。ドッペルゲンガーはいる。だって私は私のドッペルゲンガーを見たもの」
昔のように暴走こそしなかったが、俯いて声を潜める海樹子は呪詛をしているようで何だか不気味だ。
しかしそれはさて置き、今の海樹子がドッペルゲンガーを信じているだろうことは言動から察しがついたが、自分のドッペルゲンガーを見たというのは一体どういうことなのだろうか。
「私と竜二くんが駅のホームで逸れたときに見たんだ。そして私はアレにホームから落とされた」
初耳だった。海樹子がホームに落ちたのは人ごみに押されたのが原因ではないかと考えていただけに、この告白は竜二にとって衝撃的なものだった。
しかし、仮に海樹子が本当にドッペルゲンガーを見たのだとして、どうしてそれを探すようなことをするのだろう。何せドッペルゲンガーは死の遣いだ。わざわざそんなものに近付こうという神経が判らない。
何で探しているんだと訊ねると、私はアレを殺さなくちゃいけないのと海樹子は応えた。
「穏やかじゃねえな」
「そう。穏やかじゃない。仙台駅でドッペルゲンガーを見たときから、穏やかな時間なんて私にはなかった。アレはずっと鏡の中から私を見てるの。アレは私なの。きっと私に成り代わろうとしてるんだ。
だから私は私にならなくちゃ。自分が誰か知らなくちゃ。青木ヶ原海樹子にならなくちゃ。その為にはまずアレを殺さなくちゃ——だから竜二くん、あなたの目に私がどう映るのかを教えてよ」
竜二の目には狂人が一人映っているだけだ。
落ち着けよと出来るだけ刺のないように言う。それでも海樹子は具合の悪そうな瞳を崩そうとしない。さっきまで楽しそうに笑っていたのが嘘のようだ。
「私を批評してくれるのは竜二くんだけなの。誰も本当のことを言わない。言ったところで、自意識過剰だとか馬鹿みたいなことばかり。ねえ竜二くん——私を助けてよ」
*
アーケード街のベンチに二人は腰掛けている。意外にも移動を促したのは竜二の方だった。
一度は逃走を試みた竜二だったが、海樹子の口から語られた不可思議は彼を逃がしてはくれなかった。またも竜二は流された。
何時もならば面白そうだと飛びつくところなのだが、今の竜二は暗澹とした心持ちで、しかし逃げることも叶わず海樹子の隣に座っていた。
「探そうとは言ったけれど、私のドッペルゲンガーはもう私のすぐ近くにいるんだよ」
海樹子は呟く。
「ほら、あそこにいる」
そう言って海樹子は向かいにある中華料理店の商品サンプルケースを指差した。
「腹減ってんの?」
「違うよ。ケースに私が映ってる。あれがドッペルゲンガー。時々あの中から出て来て悪さをするんだよ、きっと」
無理がある、とばかりに竜二は唸る。あんなものがドッペルゲンガーの正体だとするならば、とっくに人類など滅びている。
「よく判らん」
「じゃあちゃんと私の話を聴いて判るようになって」
「手短にな。何度も言うが、人を待たせてるんだよ」
「ううん。長くなるよ。それでも、竜二くんには私の話を聴いてもらうから」
勝手だ。とは言え竜二に拒否の意を表明する度胸はない。自分の優柔不断さに顔をしかめる。
「私、竜二くんと喧嘩した後、不登校児になっちゃったじゃない? そこから私の暗黒期が始まるんだけど——」




