鏡を疎む2-2
海樹子は自分がどうやって駅から家まで戻ったのかを全く覚えていなかった。大人達に色々聞かれたような気がするのは覚えている。しかし何を聞かれたか、その質問に自分がどう答えたのか、竜二はどうなったのか、具体的な内容は記憶に残ってはいなかった。
それはそうだ。海樹子は肉塊になった人間を見てしまったのだ。それも犠牲になったその人は海樹子の代わりとなって死んだ。十歳の少女がその現実を真正面から受け止めることなど出来るはずもない。
なんだかぼうっとする。意識が何処にあるのか判然としない。
そんな曖昧な頭の中でも海樹子は思考する。
考えることは二つ。一つは、自分は何故駅に着いた途端、あんなに無感動になってしまったのかということ。もう一つは、自分を追いつめたあの肌の白い少女はなんだったのかということ。
前者は何となく判る。駅のガラス扉に映る自分を見たからだ。
何故かはよく判らないが海樹子は自分の姿を見るのが嫌いだった。小学校に入学した時分からそうだったように思う。だから鏡を見る時は出来るだけ無感動に、投げ遣りに振る舞って嫌悪感を薄めていたのだ。
仙台駅は自分を映すものが多い。自動販売機のアクリル、ブティックのショーケース、至る所に嵌められている窓ガラス、土産屋やケーキ屋のカウンターケース。見ようと思わなくても無意識に何処かに映った自分が目に入って来てしまう。そんな風に自分の姿を見せつけられる場所に身を置いたなら、全ての自己を遮断してしまうしかない。海樹子はそうすることでしか嫌悪感と闘えない。
まあその問題は良い。海樹子はなんとか自分自身でその結論に至ることが出来た。一応は解決だ。
しかし後者の疑問。これは全く訳の判らない事象だ。
白い少女。
海樹子と同じくらいの歳の、同じくらいの背丈の、同じくらいの肌の色彩を持つあの不気味な少女。顔は思い出せないのに顔以外の容姿は随分鮮明に記憶に残っている。
服装は露出の多いものだったように記憶している。ただそれはスポーティという訳ではなく、やや扇情的な、少女というには大人びた身なりであった。
そんな乱れた知り合いは海樹子にはいない。そもそもクラスという狭い社会の中ですら孤立している海樹子に外での知り合いなどいようはずもない。
否、知り合い以前にそもそもアレは、あの少女は人間ではないのではないか。
戯けた考えが過る。
しかし、少女はホームに落ちた自分を慌てることもなく見つめていたのだ。これが異常でなくて何だろう。
海樹子は再びドッペルゲンガーという言葉を思い出す。
数日前から興味を持ったドッペルゲンガー。調べれば調べる程よく判らなくなる類いの怪異。ただ判っているのはドッペルゲンガーを見た者は死期が近付くということだけ。
ということは自分は死んでしまうのだろうか。
嫌だと思った。死にたくないと思った。
それは確かに恐怖という感情で、怖いという感想ではなかった。
思わず部屋の隅に置かれた姿見を見る。
自分の顔が映った。
恐怖が薄れた――気がした。しかしまだ何か胸の奥に燻るものがあるような気もする。騙されないぞとばかりに。
それはそうだ。感情を誤魔化すのは''目的"だ。恐怖を消す為の手段ではない。海樹子は自分を騙し切れない。
「海樹子……」
ドアの外から声がした。母の声だ。
声の調子が低い。自分はこれから怒られるのだなと海樹子は確信した。
当然だ。判っていたことだ。いつも怒ってばかりの母が、何かに付けて怒る理由を模索している母が、こんな判りやすい理由に飛びつかないはずがない。
辟易しながらも返事をすると、ドアが開き、母が入ってくる。
間髪を入れずに頬を打たれた。
「あんた何やってるのよ! 人様に迷惑をかけて! いいえ、迷惑をかけるどころじゃないわよ……! アンタは人を殺したのよ。人の人生を奪ったのよ。どうしてあんたは……」
母は涙を流すが、海樹子は冷めた目でそれを見ていた。
自分の娘が危険な目にあったというのに、それについての心配など皆無で、ただただ失望するだけ。なんて薄情なのだろうと、身勝手ながらも海樹子はそんなことを思った。
死人が出ているのだから母の怒りは尤もだ。だが海樹子の子供らしい勝手もまた易々と否定出来たものではないだろう。
「今日と明日は晩ご飯抜きよ」
散々喚いた母は幾らか落ち着きを取り戻すとそう吐き捨てて踵を返した。
海樹子は右手で拳を作り、小指と人差し指を立て、牛の頭を模した拳を母の背中へ向けた。
少し前に図書館で見つけたお呪いの本に載っていた、相手を不幸(交通事故や財布の紛失など)にするお呪い。
このお呪いを知ってから海樹子は母に対して、気付かれないようにこれ繰り返していた。
恨めしいのだ。自分を良いように操ろうとする母が。母は優秀な人間だ。
海樹子は自分の母が何を職業にしているかなど知らないし、知ろうとも思わないが、家計が母の収入で保っているのだということは、肩身を狭そうにしている父を見ることで理解出来ていた。母もそれを自覚しているようで、海樹子を立派な自分に近付けようと計らった。
テレビも漫画もゲームも買い与えられることはなく、与えられる娯楽と言えば日本の近現代文学書くらいなものだった。
海樹子はそれがどうしようもなく嫌だった。しかし出来る反抗と言えば母の前で無愛想に振る舞うことくらいだ。実際そう振る舞い、抵抗の姿勢を見せたが、それでも母は改めようとしない。
ある日、海樹子は図書館で江戸川乱歩を読んだ。素直に面白いと思った。昔の本なのだから母も許容するだろうと判断し借り受けたのだが、母は、そんな血腥い小説は不健全だと言って海樹子から本を取り上げた。
その時、海樹子は母を見下げたと同時に反抗手段を得たと思った。それ以来、海樹子はオカルトに傾倒し始める。彼女が怪奇的な本を借りて、母がそれを叱る。海樹子は母の叱咤を持ち前の無愛想でさらりと躱す。
海樹子はそうやって反抗期を迎えることになった。
「馬鹿みたい」
一人呟く。こんなことをした所で母との関係はよくはならない。しかし、母は自分が正しいのだと信じて疑わない。自分の考えを曲げようとはしないし、海樹子の意見を聞こうともしない。彼女の想いは暖簾を押したようにするりと母の胸元を通り過ぎる。だから小さな知恵の思いつきでも実行するしかない。
とは思うものの、虚しい。
海樹子は鏡を見る。
そこには何時も通りの自分が映し出されていた。
*
「いやあ、大目玉だったぜ」
竜二がうんざりしたように言った。
静かな図書室で竜二と海樹子は顔を合わせていた。
誘ったのは竜二の方だった。何せ二日ぶりの対面なのだ。悲惨な目にあって二日間学校を欠席していた海樹子の様子が気になったのだろう。海樹子も竜二の近況が気になっていたところだったので誘いには二つ返事で承諾を返した。
竜二はいつも通りといった風だ。特に精神的に乱れたところも見られない。
「私もだよ。昨日と一昨日はご飯食べられなかったし」
「ゲッ! マジか。それは流石にヒデえよ。食わなきゃ死んじまうだろうが。別にお前の所為ってワケでもねえのに、やり過ぎじゃねえ? お前の親」
「私の所為じゃないって……何それ? 竜二くん、本気で行ってるの?」
自分の所為でなければだれの所為だと言うのだろう。
戦く原因が外部にあったとは言え、ホームに落ちたのは海樹子の不注意だ。その不注意を引き金に人が死んだ。
責任を感じない訳がなかった。
「あん? 何だよ。お前が突き落とした訳じゃねえんだし、お前を助けた、えーっと何つったっけ? センコウさん?」
「千石さん」
「そうそう、そのセンゴクさんにしたって、危ないの判ってて飛び出して行ったんだからそりゃあジコセキニンってヤツだろ? お前は何にも悪いことしてねえじゃん」
まるで大人のような励まし方だと海樹子は思った。普段ヘラヘラしている竜二の姿からは想像もつかない一面だ。覚えたての言葉を遣って海樹子を励まそうとしてくれている。
ただその励ましは海樹子の責任感を否定するようなものだ。
海樹子は自分の人格が否定されたような気分になる。
お前にあるものなど何もないのだと。
そんな物言いをされては抗いたくなってしまう。どうしても言い返したくなってしまう。
「竜二くんはお気楽だね。私に責任がないって? そんなの竜二くんが決めることじゃない。私と私に近しい人が決めることだよ」
「意味判んねえ。お前、変なことばっか言うのな」
竜二は顔をしかめている。
「人が地獄に堕ちるのは悪いことをしたからじゃない。悪い行いを反省したからなんだよ」
「だから、そういうのが意味判んねえって言ってんだよ」
「じゃあちゃんと勉強して判るようになって」
八つ当たりだ。子供の八つ当たり。言い返そうにも遠回しな言葉遊びで煙に巻くことしか出来ない。相手を下から見下ろしたような負け惜しみしか出てこない。
「はんっ! お前ってそればっかな。逃げコウジョウっつーんだろ? そういうの」
「竜二くんが馬鹿だから判らないだけだよ」
八つ当たりは止まらない。しかしどんな辛辣な言葉にも竜二は顔をしかめるだけで一向に腹を立てる気配を見せない。
それが悔しい。相手の感情一つ動かすことの出来ない自分が不甲斐ない。その不甲斐なさ故に自分自身にすら自分を否定されているような気になってしまう。
「まあ俺は馬鹿かも知れないけどさ、それでもお前の言ってることが判るヤツなんかそうそういねえよ。大人にだって判らねえだろうな。だって意味不明なんだもん」
「だったら私だけが判っていればいいんだよ。私のことは私しか知らないんだから」
もう滅茶苦茶だ。筋道を通せない。
普段巫山戯てばかりの、成績だっていいとは言えない男子生徒が何故ここまで整然と、堂々と、大人のようにものを言えるのだろうかと海樹子は口惜しい気持ちで一杯だった。
「いいや。お前だけが判ってればいいなんてことはないだろ。人は一人で生きている訳じゃないって、道徳の授業で教わったろ? 道徳の教科書って変なことも書いてあるけど、アレだけは納得出来たね。お前、友達はいないかもしんないけど、親はいるじゃん。昨日と一昨日はメシ抜かれたらしいけどさ、普段はメシも食わして貰ってるし、話だってするだろ? だったらちゃんと伝えなきゃ生きていけねえじゃんか」
限界だった。耳が痛いなんてものじゃない。海樹子は鼓膜が破れた時のような目眩に襲われた。鼓膜が破れたことなど一度もないが、耳鳴りで耳の奥がずきずきと痛み、鼻が殴られたときのようにツンとして、周りの音が消えたのだ。子供が鼓膜が破れたと錯覚するには充分な感覚だった。
「うるさいな! 竜二くんに私の何が判るのよ! 何にも知らないくせに、知った風なこと言わないでよ……! 何であんなヤツの肩を持つのよ!」
目に映るのは涙で滲んで不確かな竜二の顔。その後ろには雨水が吹き付けている窓ガラス。そのまた後ろには雨を受ける校門。
とりわけ窓ガラスに映りこんだ自分が目についた。
「竜二くんなんか死んじゃえ! 紫鏡! 紫鏡! この言葉を聞いたら大人になる前に死ぬんだよ! 竜二くんは大人になれずに死ぬんだ! バーカバーカ! 馬鹿の竜二くんなんて死んじゃえッ!」
激情に身を任せて図書室を飛び出る。
紫鏡。二十歳までにこの言葉を覚えていると死んでしまう。そんな噂を海樹子は何処かで耳にしたことがあった。
自分の嫌いな鏡に関する噂だっただけによく覚えていた。
竜二には上手く説明できなかったが、そんなことは問題ではない。ただ決別がしたかった。平気で自分の弱点に触れてくる相手から一刻も早く離れたかった。
後ろで竜二が何かを言っているが、それは自分の嗚咽と、廊下に反響する足音に掻き消されてしまっている。
土砂降りの中に傘も差さずに飛び出すと、そこには喪失感がぽつんと残されていた。




