鏡を疎む2
「へえ。それは不幸ね」
浪江は気怠そうに言う。気怠そうなのは何時ものことだが凛々しい目が垂れ下がり、一層怠惰に見える。
「それで、アンタは今でも責任感じてる訳ね。自分がホームに行こうなんて言わなければって」
「まあそんな感じ。当時は責任なんか感じてなかったけどな。事件が起こってから何日か経ってからだったと思う。ヤバいことになったと思ったのは」
人身事故の後、子供だけで駅のホームをうろついていたことの不自然を大人たちは追求した。それに対して竜二は嘘が吐けなかった。とてもではないが自分の嘘が通用するとは思わなかったからだ。
拙い嘘を吐いてそれを見破られ、更なる損をするくらいならば正直に言ってその場でお仕置きを受けた方がマシだと、当時の竜二はそう判断したのだ。責任感などそのときは微塵も感じなかった。しかしそんな竜二を非難出来る者はいないだろう。閻魔様のような剣幕で大人達から捲し立てられるのだ。自ら舌を取られにいくような言動は誰だって出来ない。
「あのときのことは思い出すだけで苦痛だぜ」
「忘れれば良いのに――って言ってもアンタにゃ無理か」
「ああ。一ヶ月間、小遣い貰えなかったしな」
巫山戯てみる。暗いばかりの雰囲気を竜二は好まない。
逃げ出したくなってしまう。
しかし浪江は怠そうな仏頂面で、笑い話にするのはやめなさいと竜二を窘めた。
「そんなことをして思い出の価値を下げないの。どんなに血腥い思い出も笑い話にしたらお仕舞いよ。解決もしていないのに仕舞ってどうするの」
「すんません……」
説教を受けてしまった。
しかし、竜二は救われたよう気がした。ここまで真摯に話を聴いてくれるとは思っていなかったから。
「まあアンタにしてみたら、巫山戯なけりゃやってられないんでしょうけどね」
お見通しのようだった。
どんなに戯けても、この気怠そうな女性を誤魔化すことは出来ないのだと竜二は感服する。
「あ、そうだ。芥川龍之介の『二つの手紙』だけど、あれって本人の経験談ってワケじゃないわよね? ドッペルゲンガーを見たってのは座談会で言ったらしいからそれが幻覚であれ、事実なんでしょうけど、『二つの手紙』自体は経験を元にしたフィクションよね?」
浪江が話題を変える。竜二に対しての気遣いだったのかも知れない。
「ん? そうだな。読んでみりゃ如何にも創り物染みた話だしな。確かにドッペルゲンガーには執着してたみたいだけど、神経が悪くなってるって自分でも言ってたみたいだから、やっぱり幻覚だったんだろうぜ」
浪江はふうんと納得したように言うと、テーブルに肘をつき、ポテトを頬張る。
「てことは子供故の大雑把な理解だったってことか」
「ああ。それに経験談ってことにした方が面白いからな。どっかで入れた知識を大げさに言ったんだろうよ、海樹子のやつは」
何となく溜息が漏れた。溜息は雑踏に埋もれ、浪江には届かない。
「青木ヶ原さんね——話を聞いた限りじゃあ、ちょっと変わった子って印象かしら。アンタってそんな昔から変人に縁のある体質だったのね」
「あん? 俺は、自分が変人吸引機だと思ったことなんかないぜ? クラスのヤツも普通の人間だし……まあ六朗のヤツは変わってるトコあると思うけどよ」
何せ冴木六朗という男は常時能面で、携帯電話を嫌い、友人同士であっても干渉を善しとしない人間なのだ。
その癖、狂人壊人の類いには干渉したがるのだから一層心中が測れない。自分の交友関係の中で変人と言えば六朗くらいなものだと竜二は考える。
「何言ってんのよ。あんたの後輩の背名だって大概だし、サキちゃんだってなかなかのもんよ」
背名春秋。思い出したくない名前だった。もし猫型ロボットと友人になれたなら、背名の記憶から自分の情報を残らず削除してやりたいと思う竜二であった。
まあそれはそれだと思考を打ち切り、サキちゃんというのは誰だろうという疑問に考えをスライドさせた。
そんな名前は記憶にない。人の名前をよく忘れる竜二も、実際に音声情報としてそれが入ってくれば脳内での照合は可能だ。しかしサキちゃんなる人物の容姿が竜二の記憶から引き出される気配はない。
「ああ、サキちゃんは、世咲雪乃のことね」
倦ねていた竜二に浪江が説明する。
「アンタ、よくうちのクラス来るクセになんで判らないのよ」
「いやあ、基本的に沙村さんを訪ねに行っているだけなので……」
竜二はオーバーリアクションで苦笑する。
雪乃と浪江に付き合いがあったことは知っていたが、お互いの呼び名まで気にしたことはなかった。
「熱心ですこと。そうそう、そんなことよりサキちゃんよ。ずっと言おうと思ってたんだけど、あの子はちょっと問題児よ。六朗はまだ生きて行けるレベルの変態だけれど、サキちゃんはそうはいかないわね。死ぬレベルよ」
「なんだそりゃ?」
竜二の頭にクエスチョンマークが浮かぶ。雪乃は確かに病的な正直者だが、それにしたって常識人である。変態性で六朗を凌駕するなど思いもよらない。
「あの子はね、幽霊を見るタイプの人間ではなくて、幽霊に見られるタイプの人間なのよ。見えないものに見られるってのはストレスよ。自意識過剰でも足りないほど、見られているという意識が強い。
サキちゃんは必要以上に自分のことを語りたがらないから深い事情までは判らないけれど、多分ずっと何かに追われて生きて来たんじゃないかしら。アンタは何か聞いてない?」
「いや、全然知らねえ。っていうか沙村さんにも話さないようなことを俺に話すってことはないだろ」
オカルト研究部の部員はクラスもバラバラなら興味も一致していない。よく考えてみれば竜二は部員たちのことを何も知らない。何故竜二の誘いに乗ってオカルト研究部へ入部したのかさえ聞いたことがなかった。訊こうとも思わなかった。
そう自覚したとたんに何だか寂しくなったような気がした。
「アンタ部長でしょ? ちゃんと部員の面倒くらい見なさいよ」
「返す言葉もありません。ま、そうだな。たまには友人を知るのもいいよな。考えておこう」
笑いながら応える。巫山戯たように見えただろうか。
「頼むわ」
浪江は薄く笑顔を返してそう言った。
*
トイレの中というのは異界だ。
”室内の中"とでも言えば適当だろうか。ある一つの空間の更に内側。
人の為に作られているにも関わらず、人の出入りがあまりない。しかしそれでも清潔に保たれているというのが、何だか不自然なのだ。何処のトイレでもそれは変わらない。厠神が守っていようと、トイレが人に与える不信感は拭えない。
竜二はそんなことを考えながら自分の後ろにある何かの気配と闘っていた。
このファーストフード店のトイレは小便器が一つあり、その後ろに個室がある。個室と小便器の間には洗面器が設置されている。その洗面器の辺りから何やら気配を感じるのだ。息遣いすら聞こえないが、背中に感じるものがある。
後ろに誰かがいる。
しかし竜二にとってはそれが誰であるかは問題ではなかった。仮に幽霊だったとしてもそれは別に困るようなことではない。
ただ問題なのは『後ろに立たれている』という状況だった。
竜二は誰かに後ろに立たれると、用を足せない人種なのである。
何故かは判らないが、出すべきものが引っ込んでしまう。
「いっそ振り向いてみるか」
多少の恐怖感はあるものの何時までもこんな所で立ち尽くしているわけにはいかない。
浪江と話している間、我慢に我慢を重ねていたのだ。ここで何もせずに戻れば、間を置かずに尿意が再び彼を襲うだろう。何度も席を立つのはいただけない。
竜二は一旦スラックスを上げると、意を決して後ろを振り向いた。
誰もいない。しかしまだ油断は出来ない。安心して向き直った時が一番危険なのだ。映像作品ではよく使われる表現方法だ。
緊張感を緩めずに便器に向き直る。
誰もいない。安全なようだ。竜二は今度こそ安堵し、用を足した。
「お粗末様でした」
便器から離れ、手を洗う。顔を上げると鏡に自分の顔が映り込んだ。
不健康な顔だ。紫の鏡がなくても二十歳を迎える前に死んでしまいそうだなと竜二は自嘲する。
「ザ・男前」
嫌気を振り払うように道化てみる。
それと同時に後悔した。ほんの十数分程前に茶化すなと言われたばかりだというのに。折角説教を貰ったというのに。これでは元の木阿弥だ。
巫山戯て、戯けて、茶化して、冷やかす。結局そうやって本当に怖いものからは目を背けずにはいられない。
自分は一体何が怖いというのだろうと竜二は考える。鏡に映る何かか、紫鏡か、それとも自分か。それを確かめる為にも彼は語らなくてはならない。
真面目に、愚直に、忠実に。
「————そうだね」
声が聞こえたような気がした。
熱に浮かされた時に頭の中で響く怒鳴り声のように、それは確かに竜二の鼓膜を揺らしたのだった。




