口は災いのもと4
見るに耐えない。
それ以外の言葉が出てこない。
頬や瞼にはムカデが這っているかのような傷跡がある。完治していない傷や新しい傷も少なくない。そして口から耳元までのびている大きな傷跡は縫ったような痕があるのが判る。
更に悪いことには、彼女の顔は傷跡を抜きにしても美人とは言えない。この世に存在するどんな贔屓目で見たところで彼女は醜いのだろう。綺麗かどうかなど訊くまでもない。
「そうだね、お世辞にも綺麗とは言えないかな。百歩譲っても不細工って感じだよ」
出来る限り緊張を気取られないようにしながら六朗は淡々と答える。
「……」
彼女は何も答えない。
少し直接的すぎたのだろうか。
彼女自身も自覚しているだろうと思って言ってみたのだが、ジャブにしては強烈すぎたかも知れない。
ここは堅実に、当たり障りのない所から始めよう。
「僕は冴木六朗。君の名前は? 流石に口裂け女が名前ってワケじゃないだろう?」
「……三井三菜子」
返答があった。
声は掠れているが、口調ははっきりしている。コミュニケーションは問題なくとれるようだ。
「私の質問に答えてくれたのはあなたが始めて。正直驚いた」
それはそうだろう。何の前情報もなしにこの顔を見せられて逃げ出さない人間がいるとは思えない。
「なんで逃げなかったの? なんでそんなに落ち着いているの? 嬉しいけど、ちょっと悔しい」
六朗は笑う。笑いながら答える。
「複雑な性格してるね。僕は君のことを探してたんだよ。最初から会うつもりだったんだから狼狽えることもない」
虚勢を張る。内心、本当に口裂け女が実在していたことについて、六朗は衝撃を受けていた。
「私に会いに? 変わってるね。何故私がここに居るのが判ったの?」
「君が襲った人の中に僕の後輩がいたんだ。その後輩から聞いたんだよ」
「そっか。じゃあ私のこと、学校で噂になってたりする?」
三菜子は歪な顔を更に歪ませる。
笑っているのだろうか。
笑っているのいるのだろう。表情だけでは判然としないが、声の調子が嬉々としている。
「まだ広がり始めたばっかりだけど、なってるんじゃないかなあ。でも信じてる人はあんまりいないと思うよ。まとこしやかに囁かれてるって僕の友達が言ってたから」
三菜子は、そうと短く答える。
表情は戻っている。
「そんなことより聞きたいことがあるんだけど、三井さんは何でこんなことやってるの? 失礼だけどあんまりいい趣味とは言えないよね」
傷だらけの瞼の奥から深淵がこちらを覗いている。
「何でそんなこと訊くの?」
「気になるから」
即答した。
ここは嘘を言って繕うよりは正直に言ったほうが得策だ。
気になる。興味がある。三菜子が何を想って生きているのか、それが気になって仕方ない。
「ちょっと正直すぎない? もうちょっと取り繕ってもいいと思う」
まあどうでもいいけど、と三菜子は言った。
「そうだね。冴木くんの言った『いい趣味じゃない』って言うのは皮肉なんだろうけど、更に皮肉なことにこれは私の趣味なの。皆を怖がらせるのって結構気持ちいいのよ」
「へえ。確かにその顔ならみんな怖がってくれるよね」
怪異としてはこれ以上ないくらいに合格だ。
「冴木くんは本当に言葉を選ばないね」
「不愉快だった?」
「別に」
表情が読みにくいなと六朗は思う。
顔に傷がついているだけでこんなにも読めなくなるものなのだろうか。
慎重に切り込んだほうがいいかもしれない。
「本当の所は?」
「別に不愉快じゃないよ。冴木くんは結構しつこいタイプなんだね」
「自分の容姿を貶されて不愉快を感じない人は稀だよ」
三菜子は何も言わない。
「それとも三井さんはその稀な人?」
「どうかな。昔はもちろん気にしてたけど、今はもう慣れちゃった」
それは嘘だ。
顔についた新しい傷は三菜子の劣等感の象徴に他ならない。
「この顔の傷はね、私にとって本当の化粧なの」
三菜子は語りだす。
少しづつではあるが口が緩んできたようだ。
「本当の、本物の化粧。そこらを歩いてる人間達がしているみたいな紛い物の化粧なんて私はしない」
「化粧って自分をよく見せる為のものだと思うんだけど」
三菜子の言う化粧は一般的な化粧とはあまりにかけ離れている。
「顔立ちのいい人が子供の頃から可愛いと言われてそれに磨きをかけるように、私も子供の頃から醜いだとか、ブスだとか、化け物だとか言われてるからそれに磨きをかけてるだけ。自然なことなんだよ」
正気の沙汰ではない。
普通ならば少しでも醜さを改善する為に、それこそ化粧をしたり、髪の手入れをしたりするだろう。そうでなければ諦めて世間に踏み潰されて死ぬしかない。
三菜子はどちらも選ばなかった。一般的な化粧で誤摩化せる顔でないという事実をどうしようもなく理解していたのだろう。
否、理解させられたのだろう。
故に三菜子は誤摩化すという選択肢を選べなかった。だからと言って理不尽を受け入れることもしなかった。
残された選択肢は人間を辞めるということ。人間の世界で生きていけないのならば人間を辞めればいい。そうすれば外側から人間を否定できる。三菜子はそう考えたのだろう。
「それを自然なことだと思えるなら君は狂人だよ」
「狂人? 私ってそんなに狂ってるかな? 冴木くんにはそう映るんだ」
うん、と六朗は頷いてみせる。
「まあ、自分でも普通ではないって自覚はあるし、冴木くんがそう言うならそうなのかもね」
三菜子はどこか投げやりだ。
「でも狂人としてはまだマシな方だよね。誰も殺してないし誰も傷つけてない。良心的だと思うよ」
言ってから気付いた。三菜子は人間としての自分を殺しているし、自分の顔を傷つけている。
刃はいつでも自分に向けられている。そこにあるのは良心ではない。不信だ。三菜子は誰も信じていない。
「気付いた? 良心なんか微塵もないよ。私はこの世界を受け入れてる。だから手心なしで否定できるの。良心なんてあるわけがないよ」
——私はね
「この世界が大嫌い。だって私より綺麗なものしかないんだもの。下がないって意味じゃないよ。自分の醜さを実感させられるの。例えばあそこに止まってる車のフォルム、すごく綺麗よね。そこの電燈も虫が引き寄せられるくらい眩しくて綺麗。本当に不愉快だよね。この世界は不愉快なものばかり。一番不愉快なのは私の両親。両親は碌でなしだけど顔は綺麗なのよ。二人ともそれを自覚していたから、自分たちの子供が化け物じみた顔になるとは思ってもみなかったんでしょうね。私が両親に最初に教わった事が何かわかる? 化粧よ、化粧。信じられないよね。私も信じられないよ。あの頃は何の疑問も持たなかったけど、あんまりじゃない。そんなのってないわよ。今は化粧品の臭いも嗅げない。
物心がついたときには罵倒の嵐は始まってた。物心つく前の私には素敵な時間はあったのかな? なかったんでしょうね。成長記録すらなかったんだから。
幼稚園や小学校、中学校での待遇なんて言うまでもないよ。どこへ行っても化け物扱い。教師からは腫れ物扱いだよ。言い返す気力なんてなかった。小学生になった時には私はすっかり卑屈になっていたから。言い返せばもっと酷い暴力が待っていると思ってたから。口は災いのもとだよ。皆にとっては私が災いそのものだったみたいだけどね。
ねえ、こんな酷い人生があるなんて信じられる?
どんなに育った環境が悪かった所で顔が並以上なら大切にしてくれる人はいるし、他の人との繋がりさえあればどうにかなるものだけれど、顔が悪ければそんな事は一ミリだって期待できない。私はそれに気付いたの。だから私は」
——人間を辞めたの。
これは救いようがない。
世界なんてどうでもいいと言って無関心を装い、傍若無人に振る舞う一方で世界を呪っている。世界に無関心なのは口裂け女としての三菜子で呪っているのは人間の三菜子だろう。
言っていることに一貫性がないように聞こえるのはまだ人間の三菜子が生きているからだ。
生きているだけに救いようがない。
三菜子の歪みきった価値観を矯正するのは不可能だろう。顔以上に人間関係に恵まれていない。
人を脅かすだけでは済まなくなるかもしれない。何かの拍子に人間の三菜子が首をもたげれば、危害を加えるだけの犯罪者になりかねない。
「三井さんの言い分はよくわかったよ。三井さんがどうしようもない人だってこともわかった」
どうしようもない。どうにもならない。手に負えない。
もうこれが限界か。今回は実のある情報はあまり聞き出せなかった。
自分もまだまだだなと、六朗は反省する。
「最後に一つ訊くけど、その口の傷って他の傷とちょっと違うよね。頬の傷とかは爪で無造作に引っ掻いたような感じだけど、口の傷は刃物で切ったみたいだ。道具を用いたってことは口を狙って切る理由があったってことだよね。なんで口だけ丁寧に切ったの?」
三菜子は放心しているようだ。捲し立てるように喋った事で疲れたのだろうか。傷の下の肌は街灯に照らされて青白く光って見える。
「小学生の頃は何も言い返せない性格だったって言ったでしょう。でも本当は理不尽が嫌なの。嫌なことは嫌と言いたいの。間違っていることは間違っていると言いたいの。口が裂けてでも言いたいのよ」
こんなものだろう。
そろそろ切り上げようと六朗は踵を返す。
「そっか。ありがとう。そこそこ楽しかったよ。多分君は一生幸せになれないだろうけど頑張ってね。さようなら」
「私も久しぶりに人と会話出来たからそれなりに楽しかったよ。君はいちいち一言多いから気をつけてね。さようなら」
別れを済ませると、六朗は駐車場を後にした。
*
二人に連絡を入れる為に携帯電話の電源を入れる。
メモリから竜二の電話番号を呼び出す。
携帯電話を耳にあて、仙台駅東口の電光掲示板付近で雪乃と鉢合わせた。
「歩行中の通話は感心しませんね。もう終わってしまったんですか? これから向かおうと思ってましたのに」
「ああ、雪乃さん。残念だったね。終わっちゃったよ。それで、さっきの彼女は?」
確か夕子とか言っていた。多分彼女が雪乃の幼なじみで口裂け女の情報をオカルト研究部にもちこんだ人物だろう。
「彼女はもう大丈夫です」
雪乃は見るからに立腹している。一方的に押し付けたのが不味かったのだろうか。
謝罪を入れようと思った瞬間に電話が繋がる。何とも間が悪い。
無駄に元気な声が聞こえてくる。
「おーおーどうした? なんかあったか?」
「口裂け女に会ったよ」
短く伝える。
「マジか! やっぱ駐車場かー! で、今電話してきてるってことはもう終わらせちゃったんだよな?」
「うん。いろいろ報告したいから、東口のマックの前のベンチに来て」
「合点!」
かけ声とともに通話が途切れる。
「ごめんね、雪乃さん。彼女を押し付けちゃって」
雪乃はむくれている。
女の子を怒らせちゃった時は一言謝って余計なことは言わないようにしなさいとは六朗が母から賜った言葉である。
六朗はそれに従い、黙って雪乃の言葉を待つ。
「別にあなたに文句はありません。ただ夕子に嫌な話を持ち出されただけです。気を遣わせてしまったようですね。ごめんなさい」
逆に謝られてしまった。眉を下げている雪乃の姿なんて始めて見たかもしれない。
東口のベンチに腰掛ける。
会話が続かない。どうしたものか。
話題を捻り出そうと頭を回す。すると雪乃の方から話しかけてきた。
「どうでしたか、口裂け女は」
「正直グダグダな感じだったよ。詳しい説明は竜二くんが来てからする」
「そうですか」
しまった。会話が終わってしまった。勢いだけで言いたいことを言ってしまうのは六朗の悪い癖だ。三菜子に忠告されたばかりだと言うのに。救いようがないのはお互い様のようだ。
気まずい。沈黙が長い。
その長い沈黙は電撃のようによく通る声がかき消した。
「おーい! お二人さん、待たせたなあ」
ベンチの横に竜二が立っていた。いつの間にここまで近づいたのだろうか。全く気付かなかった。
「なんか葬式みてーな雰囲気じゃねえの。どうしたどうした! 口裂け女に変なことでも吹き込まれたか?」
本当に元気な人だ。
「そんなんじゃないよ。みんなそろったことだし、さっそく報告するね」
「よっしゃ!」
六朗は口裂け女の正体と実態について報告する。
「なるほどなー。雪乃は行けなかったのか。残念だったな」
「そうですね。私ならもっとうまく立ち回れたと思いますし」
雪乃はいつもの雪乃に戻っていた。
「でもまあこんなものでしょう。結局ただ恵まれなかった不幸な女性の自傷行為。オチはついたように思います」
そう言われると元も子もないように思える。
三菜子のごちゃまぜになった精神は尋常ではなかった。あれは異常だった。奇跡的に恵まれず、奇跡的に不幸だったとしか言いようがない。
三菜子は間違いなく怪異と化していた。
「うーん。オチはついてねーような気がするな。なんか消化不良だぜ。雪乃がこの辺の奥様方から集めた情報っていったいなんだったんだろうな」
「根も葉もないってヤツじゃない?」
「納得いかねえ」
竜二は不満そうだ。
「まあいいや。今回怪異と出会ったのは六朗なんだし、お前が納得したなら文句は言わねえよ。じゃあ今回の感想をどうぞ」
いきなり振られてしまった。
六朗は考える。
「あー、そうだね……可もなく不可もなくってとこかなあ。確かに彼女は間違いなく怪異だったけれど、特に思う所はなかった」
「ドライだねえ。まあお前に情熱なんざ期待してねえけどさ」
同じような事を、先日も言われた気がする。
「まあいいさ。自分に正直なのはいいことだぜ。夏は長いんだ。まだまだ胡散臭い噂話はあるだろ。次回に期待だな。じゃ、そういうことで解散! また明日!」
あっさり締められてしまった。
竜二はそそくさと駅を後にする。本当に自由だなと六朗は思う。
雪乃に目をやると、何やら考え込んでいるようだった。そう言えば途中から会話に参加していなかった。
「雪乃さん、どうしたの? 解散だよ」
「え? ああ、すみません。考え込んでいたものですから」
「何を?」
「いえ、何でもないんです。さあ私たちも帰りましょう」
雪乃は空元気のような切り替えで誤摩化し、先を行く。
深く追求することでもないか。
少なくともオカルト研究部の中で、口裂け女の噂は終わったのだ。
六朗は三菜子から譲り受けた深淵を飲み込み、家路につくのだった。




