中身のない男
ユルユルは壁に見える大きな岩肌に、おそるおそる手を伸ばしました。
壁に行き当たってかちりと音を立てるはずの手指は、壁があるはずのところを越えて、その先の虚空をやわく押したのでした。
ユルユルは片手にヨスガを抱えて、ゆっくりと、壁の向こうへ足を踏み出しました。
壁の向こうは、
存外、明るくなっているのでした。
細い石の通路が、まっすぐに続いています。
通路が明るいのは、この先の空間が明るいからでした。通路を抜けた先にどうやら、広い空間があるのがわかります。外からではわかりませんでしたが、天井は大きな穴がぽっかりと空いていて、そこから太陽の光が注いでいるのでした。閉ざされた空間に草木が生えて、静かに佇んでいるのでした。
振り返れば、元いた雨上がりの森が見えています。起き始めた鳥の鳴き声が方々から聞こえてきました。
ユルユルは通路の先に目をやります。
陽に透ける葉に、雫が伝っていきます。
「人為的な空間だな」
ヨスガがユルユルの腕の中から声を上げます。
「入り口に仕掛けがしてあったし、通路の両側の壁に燭台がある」
洞窟の壁は等間隔に、同じ形に窪みが作られていました。ヨスガはこれを燭台と呼びました。
「手入れされている様子はないし、人が来た痕跡もないから、ずっと放置されていたんだろうが……あの笛で俺たちがここを開けちまったってことだな」
落ち着きなくあたりを見回しています。
「知らねえ女の持ってた喋る石に、言われるまま開けちまった謎の洞窟……いやな予感しかしねえ」
「いやなよかんって?」
「なにか良くないことが起こりそうだってことだよ。勝手に洞窟を開けた罰が当たるか、封印されてたとんでもねえバケモンが暴れ出すか……」
ユルユルは通路の先を見たまま、首をかしげました。
「行かないほうが良い?」
何か取り返しのつかないことが起こりそうだというヨスガの予感は、ユルユルにはいまいちわかりませんでしたが、嫌だというなら無理に行くことはないと思いました。
「いや……」しかし、行くなと言いそうなヨスガが、珍しく言葉を濁しました。「もう扉は開けちまったわけだし……予感がするってだけで嫌なことが起こると決まったわけでもねえし……」
「いくの?」
「……」ヨスガはくちばしをぱかりと開けました。「こういう場所にはお宝も眠ってるって相場が決まってるんだよな……」
「おたから?」
「なめらかな肌の彫像、繊細な宝飾品、豪華な絵付けの皿……」
「ほしいの?」「ほしい」即答でした。
それならと、ユルユルが足を踏み出すと、ヨスガはもう何も言いませんでした。
天から光が降り注いでいます。洞窟の美しく白い石壁のその上に、藻を従えた木々が緑の葉を揺らしていました。洞窟を通り抜ける風が木の葉を揺らし、白ばんだ陽射しは木漏れ日と化して降り注いでいるのでした。
広間の真ん中に、錆びた鎖で囲まれた空間がありました。
その真ん中に、誰かがいるのでした。
かつこん、かつこん。
ユルユルは音を鳴らし、近付きました。
広間の中心は盛り土がされて、日差しを浴びた草花が柔らかく揺れています。広間を囲う鎖は赤さびていて、幾分も昔からここにあることが窺えました。
そして、
そしてその真ん中に、青年がいました。
膝をつき、腹を大剣で貫かれ、
両腕を肩口から取り去られた、
人間、でした。
人間、だと思われます。
腹の中に、何も入っていませんでした。
それが外から見て、一目でわかるのでした。
ユルユルは、熊に引き裂かれた人間たちを思い出しました。
中から赤や黒やピンクの何かがでろでろと出てきたのを思い出しました。
それがこのひとには、最初から入っていないみたいなのでした。
「死んでるだろ」
ヨスガが言います。
青年を貫いて地面に縫い付けている大剣は、古錆びて色も濁り、青年の足元には蔦が這っています。
この人がここから全く動いていないだろうことの、それは証明なのでした、
けれど、肉があるのでした。
「……」
本当に死んでいるとして、
いつから?
「……どうして、こんなところに?」
ユルユルの言葉が広間を反響して、
空から逃げていきました。
「おおかた、罪人か生贄だろうよ」
ヨスガが答えます。
「ざいにん? いけにえ?」
「罪を犯して裁かれているか、神への捧げ物かどっちかだ」
「……罪」
ユルユルはまじまじと、男の人の顔を見ました。
赤茶の髪の、そばかす顔の青年でした。いっそ穏やかですらある顔で、眼差しを閉ざしていました。
償いをしている人の、する顔、なのでしょうか。
対して、腕の中のからすは急に落ち着きなくあたりを見回し始めました。
「外れだ石女、ここは祭場だ。あるいは刑場だ。ひとりのためにこんなに広い空間が用意されてる、こいつは、かなり、『やばい』奴だぜ」首を伸ばしたかと思うと、だるそうにユルユルに寄りかかりました。「とっととトンズラするがいいや。面倒ごとの予感にはそもそも関わらないのが……」
ユルユルはヨスガの言葉を聞きながら、鎖をくぐって盛り土に足を踏み出しました。ユルユルの歩く足から、ぱらぱらと石のかけらが剥がれ落ちました。
腹の中身を何も持っていない青年が、神聖に光の中にいるのでした。
ユルユルは、もっと近くで青年の顔を見ました。
目を閉じていました。
眠っているように、ユルユルには思われるのでした。
「おい、なにしてる。かまうな、もう出ようぜ」
ヨスガはユルユルの腕の中で、首を回して出口を見ました。
ユルユルは、青年の顔に触れました。
ユルユルの石の指先が、柔らかに白い青年の肌に沈みます。
そして、
「……やあ、」
その唇が動いたのでした。
「ぼくに……何か、用かな、……お嬢さん」
乾いた声でした。
ささやかな声は、洞窟に反響もしませんでした。
「……喋った!?」
ヨスガが声を上げました。
ユルユルは青年の顔に触れながら、その顔を眺めました。
彼はゆっくりと目を開きました。緑色の瞳をしていました。ユルユルを見ようとして、すぐに、目を眇めました。
陽射しが眩しいのかもしれませんでした。
「あなたはどうしてここにいるの?」
ユルユルは青年を凝視して問います。
「罰を……受けている」
掠れた声で、青年は応じました。
「なにかわるいことをしたの?」
「さあ……どうだったかな……もう……ずいぶん前のことだから」
「ここにどのくらいいるの?」
「……忘れてしまったよ」
「……どうしたら、」
みどりの瞳を覗き込みました。
「どうしたらあなたを助けられる?」
「おい!」
ヨスガが叫びました。
「何言いだす! 石女! お前、おまえ!」
「ユルユルだよ、」
「ふ、はは!」
青年は笑いました。
「あははは!」
楽しそうに笑いました。
「たすける……そう、君……助けたいのか、この僕を……ふふ、」
「ふざけんな! 勝手なこと言ってるんじゃあねえぞ!」ヨスガはくちばしをめいっぱい開きました。「こんなボロクズ、助けてなんの得があるってんだ! 罪人って自分から言っただろうが! それを助ける!? 助けるだって!!」ヨスガは翼でユルユルの腕を打って、「お前っいい加減にしろよ! 自分が何言ってるかわかってんのか!?」腕の中でバサバサとわめきたてましたが、
ユルユルは青年が笑うのを見て、お腹の中身が無くても人間は笑えるのだなあと驚いていました。
「そうだなあ、」
青年は笑い声混じりに、言いました。
「それじゃあ、」
「聞く耳持つな!」
「その辺に転がってるはずの」
「いいかユルユル、」
「僕の両腕を」
「考え直せ!」
「探してきてくれないかな」
「助けたってろくなことにならねえからな!」
ユルユルはうなずきました。
「わかった、両腕だね」
「おい、こら!」
「うん、そう」
「ここで待っててね、ヨスガ」
「行くなッて!」
ヨスガはユルユルの腕をかぎ爪でがっしりとつかみました。
「いたいよ、ヨスガ」
「このっ石女っからっぽの脳みそめ! 腹ん中空っぽで、剣に貫かれて、それでも生きてるイカれた人間だぞ! 両腕を探す!? なにが起こるか分かったもんじゃねえぞ、言うこと聞いてやる義理なんざねえだろうが!」
からすはユルユルの腕の中でこれ以上ないほどわめいていましたが、ユルユルは翼で打たれながら、ヨスガの鉤爪を引き剥がして、その身体をそのまま地面に置きました。鎖をもう一度潜って、洞窟の中を見渡します。
洞窟にはほかにも進めそうな通路がありました。薄暗くありましたが、ところどころ陽の射しているようにも見えました。
ユルユルは歩き出しました。
「聞いてんのか! おい! 石女!」
「ユルユルだよ」
「落ち着き払ってんじゃねえ!」
「ヨスガ、来ないなら、そこで大人しくしていてね」
ユルユルは、光の射す方へ歩き出します。
ヨスガは背後でまだバタバタと騒いでおりましたが、ユルユルがまったく構わないので、やがて、「勝手にしろ!」と言って、大人しくなりました。
ユルユルは美しい広間に背を向けて、薄暗い通路に足を踏み出すのでした。




