森の中で
ユルユルとヨスガは森の中を進んでゆきます。
石畳を歩くたびにばきばきと音を立てていたユルユルの両足は、今は、土の地面を踏んでおとなしくなりました。あとすこしなにかの衝撃を与えられたら砕けてしまいそうなのですが、砕けてしまったらどうなってしまうのかユルユルには分かりませんでした。その時は、ばらばらになったユルユルを、ヨスガがひとつずつ運んでくれるのでしょうか。
森の中は大きな木が密集していて暗くなっていました。陽は差しこむのですが、葉っぱが多すぎて切れ切れにしか届きません。かすかな日差しの差しこむ森の中は何か不思議に青く、そしてどこか冷たくも感じられるのでした。
「まとあたまというのは、どういう人なの?」
ユルユルはヨスガに話しかけました。
ユルユルとヨスガは、的頭という人のところに、会いに行く途中なのでした。ユルユルはよくわからないのですが、その人のところに行けば、ユルユルはヨスガを助けることができるらしいのでした。
ユルユルを祀っていた村の人々を、ユルユルは誰も救えませんでしたので、せめてからすのヨスガだけは、救ってやらねばなりませんでした。
「的頭は、解呪師だよ」ユルユルの頭の上に勝手に乗って、ヨスガは偉そうでした。
「かいじゅし」
「呪いを解く仕事をしてるやつのことを、解呪師っていうんだよ」
「のろい?」
「お前、めんどくせえなあ!」
ヨスガはユルユルの銅の頭の上で、ぴょんぴょんと跳ねました。
「人が不幸になるように呪うやつがいて、呪いのせいで、死んじまったり、姿を変えられちまったりする奴が、この世の中にはいるんだよ!」
「そうなの?」
「そうだよ! その呪われたやつの呪いを解いてやるのが、解呪師の仕事なんだ!」
「じゃあ、ヨスガは、呪われてしまったということ?」
「その通り! 俺は、もとは、からすなんかじゃなかったんだ、立派な人間様だったんだよ!」
憤慨したからすが、があがあ鳴きます。
「でも人間だった時の記憶はなあんにもない、わかるのはただ、俺がもともと人間だったということ、誰かに呪われてこんな姿になったこと、それだけだ!」
「的頭さんのところに行けば、ヨスガは元に戻れるの?」
「そりゃあ、そうだろう! だって、解呪師は、呪いを解くのが仕事なんだからな」
「でも、じゃあ、なぜわたしが必要なの?」
からすはユルユルの問いに、一瞬間を開けてから、
「聞きたいか?」
といいました。
もちろんでしたので、ユルユルは、そう伝えようとして、ふと、何か音を聞きました。
ヨスガも気付いたようでした。
「なに?」
何かの声でした。
昏い森の、大きな木々の隙間から、それは響いてきました。聞き慣れているようで、聞き慣れない音でした。
「悲鳴だよ」
ヨスガが平淡に言いました。
「ひめい」
「誰かがこの森の中で、何かに襲われてる」ヨスガの抑揚は変わりませんでした。「助けを求めて声を上げてんだ、どっかの誰かに届くように。ばかだなあ、誰に助けなんか求めてるんだか。こんな暗い森の奥深くで、厄介ごとに首を突っ込む奴なんているはずが」
ないのに、という声を聞き終えるか終えないかのうちに、ユルユルは声のするほうに向かって歩き出しました。
「……おい、」頭上のヨスガが一段と低く鳴きました。「おい、まさかだよな」
ユルユルはずんずん進んでいきます。
「おいおいおいおい」ヨスガのかぎ爪がユルユルの頭を軽く蹴飛ばしました。「おいおいおいおいおいおいおいおい石女」
「ユルユルだよ」
「お前どこ向かってる?」
「ひめいの聞こえた場所」
かつん! ヨスガがユルユルの頭を思い切り蹴飛ばしました。
ユルユルには効きませんでした。
「止まれッ!」ヨスガはまた声を上げました。「まだ間に合うから元の道に戻れ!」
「いやだ」
「嫌だァ!?」
ユルユルはずんずんずんずん進みます。
「おい石女ッ! お前はまだこの世界に生まれたばっかりのあかちゃんでなんっにもわからんらしいから教えてやるが」からすがそれでもユルユルの石頭を蹴り続けます。
「こんな深い森の奥で襲われて悲鳴まで上げてる奴はたいてい準備不足の大馬鹿野郎なんだよ! 森ん中には野盗もいれば狼も猪も熊もいる。それに備えておかなかった奴の自業自得なんだ!」
「でもきっと困ってるよ」
「ああ困ってるだろうさ! だが俺たちが行ってやる義理は何にもねえんだよ!」
ユルユルの歩く速さはちっとも変わりません。
大きな木の根を乗り越えて、張り出した枝枝を押しのけながら進みます。
「石頭!」
「ユルユルだよ」
「くそ頑固者がッ止まれ! おい!」からすの声はほとんど懇願になりました。
「大体俺たちが行ったって何ができる! 石と鳥だぞ! 対して相手は? お前を六人は丸のみに出来る熊? 俺を一秒でばらばらにできる狼? 死体を増やすだけだッ聞けよ!」
ユルユルの目が、
うねる木の根に力なく落ちている、
人間の白い手を見つけました。
「あーあ!」
ヨスガも同じものを見たようでした。
ユルユルはその手に近づいていきました。
頼りないかすかな日差しが反射した白い手には、続きがありました。大きな木の根に隠されたその続きには、肩があり、背中がありました。服を着ていましたが、ぼろぼろでした。そして、首があり、頭がありました。
おんなのひとでした。
木の根の間にうずくまる彼女は、おなかを押さえていました。
「だいじょうぶ?」
ユルユルは聞きました。
声に反応して、彼女はかすかに頭を持ち上げました。怯えた目が、ユルユルを見つけます。ユルユルは小さなおんなのこでした。彼女がすがるにはあまりにも小さい、小さすぎる存在でしたが、彼女は、引きしぼるように、
「かみさま、」
と呟きました。
片方の拳を、もう片方の手で包む、独特の仕草をしました。
「どうか、おたすけください……」
ユルユルの身体を、その言葉が、
わんわんと響いていきます。
「わかった」
ユルユルは頷きました。
「わかってない」
ヨスガは否定しました。
「助けるよ」
「無理だよ、助けられない」
「わたしは神様だからできる」
「出来ないね。やったことがないだろう」
「出来るって言われた」
「じゃあどうやって助けるんだ」
「それは……」
茂みががさごそと音を立てました。
ユルユルが顔を上げますと、誰もいなかったはずの木々の間から、五人、いいえ、六人の男たちが、姿を現したのでした。男たちはみな体格もよく、簡単な鎧を着て、そして一様に武器を手に持っているのでした。
手斧を持った大柄の男が、ユルユルを眺めています。
手斧には血が滴っていました。
「子供か?」
男が言いましたが、それはユルユルに向けられたものではありませんでした。
「売れそうか?」
他の男のうちの一人が声をかけます。
「いいや。みすぼらしくて貧相で……金になりそうにない」
「何か持ってないか?」
「そうは見えないが」
男たちは口々に言いながら、ユルユルたちを眺める輪をだんだん狭めていきます。その輪の中心には相変わらずおんなのひとがいて、いまだ苦しげに呻いているのでした。
「おい、逃げろよ」ヨスガが小さな声で言いました。
「にげない」
ユルユルはなおも意固地に言いました。
「ヨスガは、にげてもいいよ」
ユルユルはおんなのひとを助けなければいけませんでした。
なぜなら、助けてと乞われたからでした。
それだけで充分なのでした。
男たちがユルユルを囲う輪は、ある大きさで止まりました。彼らは感情のない目でユルユルを眺めています。それはユルユルを牢に入れたあの男の人と、似ているようにも、全然ちがうようにも感じられるのでした。
そうして誰も声を出さない時間が少しだけ流れて、
「じゃあ、殺すか」
手斧を持った男が言いました。
言うが早いか、男は手に持った斧を大きく振り上げました。男が伸びあがって振りかぶるので、その身体はとてもとても大きく見えました。勢いそのまま、ユルユルに斧を振り下ろすつもりなのでした。
ユルユルの身体は大きな男の影にすっぽりと収まっていました。
「おいやめろ!」
からすが大きな声でひとつ鳴きました。
ユルユルは目を閉じませんでした。
そして、
振り上げた腕が大きくぶれました。
「?」
大男は不思議な顔をしました。振り上げたはずの自分の腕が、途中からぶっつりとちぎれてなくなっているのでした。
カン! と音を立てて近くの木に刺さった手斧には、屈強な男のちぎれた残りの腕が、そのままぶらぶらとくっついているのでした。
一拍置いて、誰かが悲鳴のように叫びます。
「熊だ!」
大男よりふたまわりは大きいだろう黒い毛並みの獣が、焦点の分からない目で男たちを見回しているのでありました。ユルユルたちを取り囲んでいた男たちはその巨体を見るとあからさまに怯んで、腰を抜かし、膝を震わせながら、なんとか逃げようと後ずさりを始めます。
熊はかれらの緊張感などまるでわからないようすで、のんびりと、四つ足に歩き出すのでした。
腕を失った男の元へ。
「あ、ぁ……? やめ、」
めきょり、と、熊の柔らかくて愛らしい、大きな爪のあるてのひらが、男の顔をのんびりと押しつぶしました。
男の残されたもう片腕を、同じふわふわの腕が押さえつけています。大地とふわふわに押された男の腕が、肉を弾きながらたやすく折れ曲がっていきます。
それをユルユルは見ていました。
熊は大きな顎で男の首に噛みついたり、愛らしいふわふわの手で男のおなかを引っ掻いたりしました。男の大きなお腹からは、ぴかぴかしたピンク色の中身が、でろでろと出てくるのでした。
そこに熊は鼻先を突っ込みました。
ふがふがと、そのまま、顎を動かしています。
「なにしてるの?」
ユルユルは聞きました。
「喰ってるんだよ」
ヨスガが答えました。
「今のうちに逃げるぞ」
ヨスガは熊に知られるのを恐れるように、こっそりとユルユルに囁きました。
周囲にはもう、男たちはいなくなっていました。食い殺される仲間を見捨てて逃げたのでした。そしてそれはきっと、賢明な判断なのでした。
ユルユルは男のお腹の中をまさぐる熊を見ていました。男の人は、食べられている様子だというのです。ユルユルは不思議な気持ちでそれを見ていました。
それから、
それからユルユルは、
足元にうずくまるおんなのひとを見下ろしました。
「ねえ、」
おんなのひとの背中に手を置いて、そのまま、目を合わせるようにしゃがみました。
「にげないと、食べられちゃうんだって」
おんなのひとはかすかにだけ目を開きましたが、すぐに閉じてしまいました。
「にげよう」
ユルユルは彼女をゆすりましたが、動きませんでした。
「にげようよ」
もう一度ゆすりましたが、同じでした。
「ヨスガ、どうしよう」ユルユルは頭上の鳥に聞きました。「このひと、動けないみたい……」
けれどからすからの返事はありませんでした。
代わりに、羽ばたきの音が聞こえました。
ユルユルが頭上に視線を戻しますと、
すぐそこに熊がおりました。
からすの姿はありませんでした。
「……ヨスガ?」
誰何しても、返事はありません。
その代わり、熊が、ユルユルに一歩踏み出しました。
からすのいうとおり、ユルユルなんか六人くらいいても丸呑みできそうな熊が、ユルユルに鼻先を近付けました。
血とか、肉とか、ピンク色の何かがまだまとわりついた鼻で、ひくひくと、ユルユルの匂いを嗅いでいます。
何かを確かめようとしているみたいでした。
ユルユルは熊のしたいままにさせました。
熊は、真っ黒の目で、ユルユルを時折伺いました。
それはあの、穴を穿ったような、ユルユルのいた村のひとびとのまなざしと、似ているようにも、全然ちがうようにも、感じられるのでした。
そして、
熊は、ひとつ鼻を鳴らすと、もうユルユルから興味を失ったように、顔をそらしたのでした。
ユルユルを食べないことに決めたらしいのです。ユルユルはそれがなぜなのかわかりませんでした。お腹がいっぱいになったからでしょうか。
熊はユルユルからそらした鼻先を、
今度はうずくまるおんなのひとに向けたのでした。
「あ、」
ユルユルが声を上げるのと、
熊の爪がずっぷりとおんなのひとの背中に刺さるのが、同時でした。
おんなのひとはひとつも身動きをしませんでした。熊の爪はそのままおんなのひとを引き裂きました。違う人間の肉をまとわりつかせた鼻先が、今度はおんなのひとの首筋に近付きました。
あが、と大きな顎が開いて、その細い首を咥えて、そのまま、ばぎり、と音を立てて折ってしまいました。
それから、ゆっくりと、
食べはじめました。
ユルユルはそれを、どうにか助けないといけませんでした。
けれど、何をどうしていいのかがわかりませんでした。
首を元に戻したらおんなのひとは助かるのでしょうか。背中の抉れた肉を戻せばおんなのひとは助かるのでしょうか。熊の口の中から肉を戻せばいいのでしょうか。肉はどうやればおんなのひとに戻るのでしょうか。
色々なことを考えて、答えが出ないままぐるぐると、めいろの中をさまよいました。
ユルユルはそうして、石像のように動けなくなりました。
森の中には、熊と、熊に食われたふたつの肉が、ただ、そうしてあるのでした。
そこにいるのは熊とユルユルだけと言って差し支えなくなりました。
熊はおんなのひとだったものから顔を上げると、その大きな鼻先を、これまた大きな舌で、べろり、と舐めました。それから、ユルユルを見ました。
一瞬見て、すぐにそらしました。
熊はもう何を気にすることも無く、またのんびりと、森の奥へと歩き出しました。大きくてまるいおしりが、薄暗い木々の間に消えていきます。
そうしてとうとう、ユルユルはひとりぼっちになりました。
ユルユルは、しばらく熊の消えた方を眺めていました。ガサガサと葉っぱの音が聞こえていましたが、間もなく聞こえなくなりました。
ユルユルは、足を踏み出して、
おんなのひとだったものの近くに、しゃがみました。
赤とピンクと白が、地面に散らばっています。
もう、元には、
戻らないのだろうなと、思いました。
ユルユルは赤い染みに手をつきました。
「どうしてあげられたの?」
誰も答えません。
「わたしになにができたの?」
どうして、
助けてくれなかったの?
ユルユルは膝を折りました。
ユルユルは何もかもを救えるのではなかったのでしょうか? ユルユルはおんなのひとを助けたかったのです。けれど助けることは出来ませんでした。何故なのでしょうか?
ユルユルは助け方を知りませんでした。
ユルユルは、何もかもを救える力の出し方を知りませんでした。
だから救えなかったのでしょう。
それを、
それを知りたいと思いました。
どうしたら知ることが出来るのか、
ユルユルには皆目見当もつきませんでした。
ユルユルは何も知りませんでした。
何も知りませんでした。
そして、羽ばたきの音がしました。
黒い羽根が散って、赤とピンクと白の上に、舞い降りました。
ユルユルのあかがねの頭の上に、鉤爪が降り立ちます。
「だァから、言っただろうが!」
乱暴な声が、降ってきます。
「散々言ったし、散々止めただろうが! 結局なぁんにも出来なかっただろうが! 俺たちが、いたのと、いなかったのと、結果がなんか違ったか!? えぇ!? おれ様の言うことをいい子にちゃんと聞いてれば、今ごろこんな道草食わないですんだんだッ! それをお前は……!」
ユルユルは頭上に手を伸ばしました。
からすの胴部をしっかとつかみますと、ほのかに温かいような気がしました。身体をつかまれてびっくりしたからすが、ばたばたと羽ばたきます。
「おい! 何する! この期に及んでおれ様に……」
ユルユルは暴れるからすを、そのまま、腕にすっぽり抱き込んでしまいました。
「なんの真似だ!」からすはびちびちと暴れます。「離せ!」ユルユルは離しません。「離せったら!」
「ヨスガは……」
ユルユルは呟きました。
「ヨスガは生きていたんだね」
からすは、それを聞くと、暴れるのをやめました。
おそるおそるというふうに、ユルユルを見ましたが、ヨスガからでは、ユルユルの顔は見えないようになっていました。
ユルユルはヨスガを、壊さないようにぎゅっと抱きしめました。
そうするともう、からすは何もかも諦めたように、ぐったりと項垂れました。
「ガラじゃねぇ……」
ユルユルの腕の中にいるまま、虚空を眺めて呟きます。
ユルユルはなぜ自分がそんなことをしているのかわからないまま、からすを抱きしめ続けました。そうすると、なんだか心が安らぐ気がしました。
「ガラじゃねぇんだよな……」
ぶつぶつ言いながら、からすは、大人しくユルユルの腕の中に収まってくれるのでした。




