第百三十六話 独りよがりではない篇
――キャアアアアアアアアア!!――ジャクソンの耳を、女性のなりふり構わない悲鳴がつんざいた。
――ジャクソンとお父さんは違うだろ!――誰かが叫んで、ジャクソンから離れていった。
――ほどなくして漂ってきた新鮮な血の匂いに、ジャクソンはついに目を覚ました。
頭が酷く疲れてガンガン鳴っていて、喉はカラカラに乾いている。床を押す指先まで水分を失っているように感じる。たった数時間前と比べても、酷く痩せたように思う。実際はどうか知らない。極度の空腹感がそう思わせるだけなのかもしれない。
血の匂いは、ジャクソンのすぐ近くから漂ってきているようだった。うつ伏せに床に倒れている彼の、頭側の方向から匂ってくる。弱々しく首を反らして顔を上げると、赤い血が上から下へ滴るのが見えた。ああ、あの忌まわしい黒い液体ではない。悪魔の血だか何だか知らないが、ヴァンパイアを惑わせるあの強烈な刺激物の香りではなく、嗅ぎなれた、鉄を含んだ香りだ。
赤い血の出所を辿るのに全く難しいことはなかった。もう少し目線を上げればすぐに見える――ジャクソンの傍には、地下学会の黒いローブを着た若い女性が座り込んでいて、その女性がローブをたくし上げて自分の腹に自らナイフを刺しているのだ。みぞおちのやや下のあたりだ。ナイフの柄には何かの悪魔の像が装飾されているようだが、そんなことより、その柄を握る手が震えていることの方が気になった。その震えは恐怖からだろうか、痛みからだろうか、とにかく震えて、ナイフを腹から引き抜けずにいる。
ジャクソンは、頭が幾分かはっきりしてきたのを確かめながら、自分の中では比較的穏やかな声音で尋ねた。
「何してるの?」
「ヘエッ!? アッ、ヴァン……パ……様……」
女性は荒い呼吸の合間合間で応じたが、その間もとめどなく涙を流していた。状況や格好からして血の女王の儀式に参加していたに違いないだろうが、どうして彼女一人、泣きながらうずくまるはめになったのだろう?
女性はしゃくりあげながら、やっと答えた。
「死にたいのに――わたし――」
「上手くできない? かして」
ジャクソンは女性に這い寄ると、右手を伸ばして、女性の代わりにナイフの柄を握った。
「いい? ナイフをもっと上にぐいっとやって、抜いたら、君は死ぬ」
手指はすっかりスムーズに動いていた。アルバートに使われた薬による体の痺れは、もうほとんど取れているのだ。当然と言えば当然か、黒い液体であれだけ脳を興奮させたのだから。
どれだけヴァンパイアとしての生き方を拒んでも仕方がなかった。血を飲む怪物を興奮させる黒い血液は、ジャクソンがどんな種族であるか否が応でも思い知らせてくれた。ロンドンの廃屋を占拠して、たまに他のヴァンパイアに部屋を貸す。ジャクソンはただ部屋を貸しているだけ、というのが、ただの言い訳であることは薄々わかっていた。同胞が人間を殺すのを垣間見ていたので、人間の殺し方はよく知っている。その時点で、ジャクソンはヴァンパイアの本能から逃れられていない。
そこで、先ほど、朦朧とした意識の中で聞いた声が頭をよぎった。
ジャクソンとお父さんは違うだろ!
「……あれ、」
そうだ、あの声の主は?
そもそも今は、どんな状況だ?
そうだ、自殺の手伝いなんてしている場合ではない。ミカはどこだ? ジャクソンが我を失っている間、ジャクソンを守ってくれていたのは他でもないミカだった。でも、彼は今ここにいない。背中が冷えると共にジャクソンの頭はとうとう醒めきって、同時に視界と聴覚がわっと広がった。
ジャクソンがいるのは礼拝堂の玄関に近い壁際の角で、そう遠くない位置にミカ、半裸の痩せこけた男性、そして血の女王を熱心に攻撃していた黒煤のような悪魔を見つけた。あの痩せた男は誰だ? 後ろ姿で顔は見えないが、全身の肌に変な紋様が浮かんでいるところを見るに只者ではない。血の女王は、礼拝堂の中央に放置されているようだが、儀式は終わったのだろうか?
その時、ミカが黒煤に飛びかかった。どうやら、ミカと黒煤が戦っているらしい。痩せた男の高笑いが響く。この声はアルバートだ。通りで背が高いわけだ。アルバートが楽しげに笑っていると言うことは、ミカが劣勢なのか。
自分は――黒い液体に惑わされて暴れただけでなく、ミカが必死に守ってくれている後ろで、呑気に気絶していたのか。
ミカを助けなければ。
だが、そう決意すると同時に、ジャクソンは自分の無力さに愕然とした。ミカを助けるためには、黒煤とアルバートという二つの敵を倒す必要がある。しかし、今のジャクソンではアルバート一人にさえ力負けしてしまうだろう。アルバートの力の強さは身をもって知っているし、怪物じみた姿に変貌した今、尚更に力が増している可能性がある。対する自分は、人間のティーンエイジャーと大差ない、血を飲んだことのないヴァンパイアなのだ。
やるべきことは明白だった。
ジャクソンは、女性に向かいこう言った。
「なんで死のうと思ったの?」
「えッ……エッ……」
女性は、肩で息をしながら戸惑ったように声を上げた。苦しい、早く一思いにやってくれ、そう表情が告げている。何をこのタイミングで尋ねてきたのかと。
「他の奴は喜んで黒い血を飲んでた。でも君からは、黒い血の匂いがしない。君は敵? 味方? あの祭司の姿をどう思う?」
「わたし、わたしは……」
ジャクソンはナイフをまっすぐ女性の腹から抜いた。女性が、ウッとうめき声を上げて、両手で傷口を抑えた。
背後から、アルバートが黒煤を焚き付ける声が聞こえてくる。狼の苦しそうな呼吸音も。床を激しく叩きつけるような物騒な音も。
アルバートの狙いは一目瞭然だ。アルバートはミカの相手を黒煤に任せて、自分はジャクソンを手に入れるつもりなのだ。ぐずぐずしていればアルバートが来る。ジャクソンがアルバートに負ければ、ミカもまた負けてしまう。
ジャクソンは膝立ちの姿勢になって、女性の肩を軽く抱き、耳元に口を寄せる。これは、都合のいいタイミングで血を流していた彼女を巻き込むための内緒話だ。
「僕が君の傷を舐めれば、穴は塞がるし血も止まる。僕は大人のヴァンパイアになれる。怪物みたいな祭司には絶対負けない」
女性が涙を止め、信じられないといった表情でジャクソンを見上げてきた。
ジャクソンは続ける。
「この礼拝堂にいて、君の血はまだ、黒い血に汚れていない。だからって君は生きるべきだとか言うつもりはないし、責任なんか取らないけど、僕は今から君を生かす。君はこれからも生きていく」
そうしないと、ジャクソンは強くなれないからだ。ジャクソンが強くならないと、ミカだって死んでしまうかもしれないのだ。今はこれしか方法がない。だから、
「いいね?」
その言葉に、首を横に振る余地はない。同意を得るというよりも、決定事項を言い含めるような物言いだったし、ジャクソンは取り繕うつもりもなかった。もしまた女性が泣きだしたら、一度気絶でもさせて後から処遇を考えるしかないと、そんな冷徹なことまで考えていた。
しかし、どんな言葉も至極のタイミングと受け取り手の感性によっては、縋るべき救いの一言になるものであった。つまりは、自殺に追い込まれたウブなオカルトマニアの少女にとって、眉目秀麗な金髪のヴァンパイアにハグとともに囁かれた言葉は、どんな罪悪感も自己嫌悪も希死念慮も超えて信じるに値する神託に近かったということだ。
なんとも絵面と都合のいいことに、女性は涙で瞳をキラキラとさせながら、ジャクソンの言葉にこくんと頷いた。




