第百三十五話 目覚め篇
アルバートの鼻を、新鮮な血の匂いがくすぐった。
彼はハッとして後ろを振り返る。
狼坊やのゴーストを「騎士様」に押し付けたアルバートは、やっと面倒が手を離れ、首をコキコキと鳴らしたところだった。満を持してジャクソンを手に入れることができる、そう思った矢先のことだった。
その時、アルバートは背後に血の匂いと、異様な気配を感じたのだ。アルバートの背後にいるのは、泣き疲れて放心した新人の信者と、気絶したジャクソンだけのはずだった。
しかし、振り返ってみると、なんとジャクソンが起きている。気絶していたはずの吸血鬼の子どもは、今や平気に上体を起こし、若い女性信者の前に膝をついているのだ。さらに言うと、単に跪いているわけではない。女性信者の腹のあたりに、顔を埋めているのだ。
アルバートは状況を理解できずに目を瞠った。しかし、悪魔の血の万能感からか、この事態に危機感や警戒といった感情を持つことができず、ジャクソンの目が覚めたということだけが単純に嬉しくなってくる。アルバートは、赤ん坊を世話するシッターのような気持ちで、ジャクソンを見下ろしながら声をかけた。
「まあ、坊ちゃん。起きたの? それで……何してるの?」
しかし、ジャクソンからの返答はない。わずかに、チュプチュプという水音は聞こえるが……。
ちょうどそこへ、アルバートの脇をすり抜けて、二、三人のおばちゃん信者が若い女性信者に駆け寄った。
「――ちゃん!」
「ああ、――ちゃん、無事なの!?」
おばちゃん信者たちは冷や汗を額に垂らしながら、若い彼女の名前を呼び呼び、その肩に手を伸ばそうとした。しかし、床に座り込んだままの当の彼女は、近づくおばちゃんたちの手に気づいた瞬間、
「触らないで!」
と、腕を振って、おばちゃん信者たちを強く振り払った。
「いいの……いいんだから!」
純粋に彼女を心配していたらしいおばちゃんたちは、アルバートの目の前で狼狽え、そして、咄嗟に床から何かを拾い上げて、肩を寄り添いあってアルバートにその拾ったものを見せてきた。
「ア、アルバート様……この子は、これを……これを使って……腹部を……」
差し出されたものとその言葉で、アルバートはフーンと合点する。おばちゃんたちが拾ったのは、血に濡れた短いナイフだった。地下学会の悪魔信者が、護身用と儀式用を兼ねてしばしば懐に忍ばせているものである。まだ真新しく見えるので、おそらく、そこの若い女性のものだろう。彼女が何を泣き騒ぎしていたか知らないが、大方、血の女王と騎士様の召喚を目の当たりにして怖くなりでもして、発狂したままナイフで腹を突いたのだろう。
では、彼女の腹には今、自傷した傷がついているのか。そうなると、ジャクソンが彼女の腹に顔を埋めているのは、つまり……。
アルバートはハッとして、ジャクソンのジーンズジャケットの後ろ襟をむんずと掴んで持ち上げた。
「坊ちゃん! あんた!」
アルバートに持ち上げられたジャクソンはクルリと顔を回してアルバートを見てきた。その顔を見た瞬間、アルバートはグギギと奥歯を噛んで顔を引きつらせる。
案の定、ジャクソンの口の周りは赤い血にまみれていた! さらに、その生意気な表情ときたら、もう黒い悪魔の血に惑わされて正気を失っていた目ではない。純粋な乙女の血を身に蓄えた、健康溌剌生意気盛り吸血男児のルビー色だ!
ジャクソンは首根っこを掴まれた子猫のような恰好のまま言った。
「お前、少しくらい信者のことも気にしてやったらどうなの?」
ベッ、とジャクソンがアルバートに向かって舌を出す。そして、逆上がりの要領で右足を持ち上げ、つま先でアルバートの顎を勢いよく蹴り上げてきた。狙いは命中したが、頑丈なアルバートはジャクソンの後ろ襟を掴む手を離さない。そこへ、今度はみぞおちを狙ってかかとで蹴りを入れられ、アルバートはついに手を離し、二、三歩ゆらゆらと後退した。
地下学会信者たちは、アルバートに全てを任せきり、ただ一連の出来事を見守っていたが、状況を理解した者から徐々に焦りを見せ、不安と動揺の声を上げていく。
「なッ……!」
「アアアッーーーー!!」
今が想定外にまずい状況にあることが、聡い者から疎い者へ、波紋のように広がっていき、礼拝堂が今更ながら恐怖に動揺している。
「吸血鬼様がアルバート様を!」
「だめだ、人の血を飲んだんだ! 本当の怪物になっちまった!」
「え? どういうこと?」
「人間には手に負えない――お助けを!!」
「何が起こってるの!? アルバート様がどうにかしてくれるんでしょ!?」
「アルバート様ぁーー!」
アルバートを蹴りつけたジャクソンが軽やかに着地するとともに、アルバートの喉の奥から怒りに満ちた声が這いずり出て来た。
「ンァーーーー、ンンンンンンァアーーーーー!!!」
言葉にならない声は、子どもの癇癪そのものであった。アルバートの頭には完全に血が上り、角の生え際から黒い血が滲み出てきた。
「あんた――そう、我慢できなかったのね! 血を知らない坊やにはちょっと難しかったかしらね! 勝手に人の血を口にして、あんたはただ堕ちればよかったのに! 無様に! 欲して! 黒い血だけを!」
「我慢するための苦肉の策だよ。あの子にはちゃんと断ったし」
あの子というのは、もちろん、今も礼拝堂の隅で身を縮めている若い女性信者のことだ。ただ、今や絶望しきった表情ではない。ジャクソンの勝利に期待を込めて、手を祈るように固く握りこちらを見つめている。
ジャクソンは汚れた口元を手の甲でぬぐいながら、冷めた表情で答えた。
「血を飲んだのは初めてだけど、今ならわかる。これが僕らの在り方なんだ。だって――飲む前と今じゃ、できることが全然違う」
そう言いながら、ジャクソンの体は足元から徐々に霧に変わっていった。
「ジャクソン!」
ここで、黒煤の悪魔らしきものと戦っていたミカが、やっと攻防の隙を突き、叫ぶようにジャクソンの名を呼んできた。その声は何か言いたげな気配を含んでいたが、ジャクソンは一旦無視して、ミカに叫び返す。
「ミカ! しばらく頑張って!!」
そしてすぐに全身を霧に変化させた。その霧は灰色がかって見えるほどの濃霧で、軽く質量を持っているように見える。ジャクソンの動向に眉を顰めるアルバートだったが、悠長に観察している場合ではなかった。次の瞬間、霧への変身を解いたジャクソンが、アルバートの胴を両足で挟みこみ、かっちり固定した状態で現れたのだ。ジャクソンは至近距離からアルバートの顔を、殴る。殴る。殴る。
「しばらく見ない間に随分気持ち悪くなったね。この血は何? 死霊を取り込みすぎるとこうなるの?」
ジャクソンの拳は、アルバートから流れ出た黒い血で汚れていった。ジャクソンの問いかけにアルバートが答える暇などない。アルバートはジャクソンを引きはがそうと、両手を使ってジャクソンの腕や脇腹を掴もうとしたが、アルバートの指が触れた場所は途端に霧に変化するせいで掴むに掴めない。
やがて、アルバートがフラリと後ろに体勢を崩したタイミングで、ジャクソンはアルバートを放してピョンと飛び退いた。顔面をボコボコにされたアルバートは、床に膝をついて黒い血を吐く。
息を切らしながら、アルバートが言った。
「強くなって、良い子ね……背も少し伸びたかしら。これなら心配なく仕事を任せられるわ。大丈夫よ、人の血を飲んだからって、黒い血を嫌いになるわけじゃない。カリスは大人になってからも黒い血に依存していた」
「あんたの部下は諦めたみたいだけどね」
ジャクソンがそう言って顎で差し示したのは、アルバートの背後、祭壇の左右に位置する扉の方向だった。その扉から出れば、聖具室を通って教会の中に逃げ込めると考えたのだろう、扉の周囲に、地下学会の信者たちが殺到している。しかし、見ていると、誰一人として脱走に成功している者はいないようだった。扉のノブは、女性の死霊が集まってできた黒い煙に包まれているため、容易に掴めないのだ。だが、それだけが理由ではない。他でもない黒い煙が、壁から離れて、地下学会の信者たちを襲っているようなのだ。
あー、と、ジャクソンはため息をついて首を振る。
「ま、報復されて当然だよ。馬鹿だよね、自分たちに恨みを持つ死霊に、自ら触りに行くなんて」
アルバートは、自分の部下たちが死霊に襲われて、次々に床に倒れていくのを静かに見ていた。そして、十人目が倒れた辺りで、彼の口から「アハハ」と乾いた笑いがこぼれた。
「ハアアア、ハアアアアアアアッハハハハハハッ!」
荒い息づかいが、そのまま狂気的な笑い声に変わる。そしてアルバートは、何かに取り憑かれたように笑い声を上げながら、礼拝堂の中央で未だ囚われている「血の女王」に向かって走り出した。




