第百三十四話 黒煤の正体篇
「もっともっと強く、美しくなったのよ」
もうやだ、見るに堪えない。ミカは、ウゲーッと白目を剥く。
アルバートが誇らしげに言ったその言葉は、ミカが人質にとった女性――祭司を信奉していたはずの若い女性に、絶望という止めを刺したようだった。
若い女性は虚ろな目でローブの懐に手を差し込み、小さく縮こまっている。ミカは、彼女の目にアルバートの化け物じみた姿が映らないように、体の向きを変えて、尻尾で彼女の視界を遮ってやった。
「なあに? 反応薄いわねえ……」
ポーズを解いたアルバートは、ミカのことをしばらく眺めたかと思うと、顔を顰めて不機嫌に言った。
「カリスの息子を足蹴にしないで」
ジャクソンが暴れないように抑えている、この脚のことを言っているのだろう。ミカだって、気が引けないわけじゃない。ただ、狼の体で彼を抑えるには、脚で踏むしかないだけだ。
アルバートは低い声で、ミカの目を見て言う。
「ねえ、早くこっちに返しなさいよ。あたし、坊ちゃんのこと、あんたなんかより、ずっと大事にするわ」
だが、ミカは、当たり前に思うことを当たり前の口調で答えた。
「ジャクソンはお前のものじゃないぞ」
感情任せに怒り狂うでもなく、無闇に怯えてもいない狼の表情は、人間よりも変化に乏しく、アルバートから見れば、さぞ淡々としているように見えたことだろう。さぞ、神経を逆なでしたことだろう。
アルバートが舌打ちと共にぐっと唇を歪めて前歯をむき出しにした。すごい形相だ。額に生えた角で瞼の皮膚が引っ張られていて、目がやたらギンギンに開いているし、血の女王や黒煤のような奴よりもよっぽど悪魔らしくて、まるでガーゴイルだ。
ガーゴイルことアルバートは、悪魔信仰とはいえ祭司ともあろうに、
「――フフフフ、アハハハハハハッ!」
腹の奥に溜まった闇からせり上がってくるような、極悪な高笑いを上げた。そして、
「……カリスは、イイ男だったのよ!!」
アルバートはそんなことを口走りながら大股に足を踏み出し、ミカに勢いよく手刀を繰り出してきたのだ。
ミカの背後で、人質の女性が悲鳴を上げる。
「キャアアアアアアアアア!!」
ミカは、ジャクソンが暴れないよう背中を抑えていた脚をやむなく降ろし、
「ジャクソンとお父さんは違うだろ!」
なんて叫びながら、アルバートに応戦するべく彼に飛び掛かった。
ミカからアルバートに触れることはできるが、アルバートから霊体であるミカに触れることはできず、その暴力はミカをすり抜けてジャクソンに届いてしまうはずだ。だから、それを防ぐには、ミカから先にアルバートに触れて彼を止めなければならない。
そう判断するや否や、ミカはアルバートが振りかぶった腕に噛み付こうとした。
しかし、
「フハハハ、だから甘ちゃんだっていうのよ!」
ミカの牙がその腕に届く寸前に、アルバートは手刀を引っ込めて腰を屈めた。そうやって体勢を低くしたアルバートの背後から飛び出てきたソレは、ミカに触れられないアルバートの代わりに、ミカの頬から横腹にかけての大きな範囲を平手打ちした。
「グワォン!」
身の丈は大柄な成人男性ほどもある狼の体をして、その平手打ちには耐えきれず、ミカは苦しげな声を上げながら左方向に張り飛ばされた。狼は猫科ほど空中で自由が利かない。ミカは背中から床に落ち、ごろん、ごろんと二回ほど転がってから、壁に激突する前になんとか床に爪を立ててその場に踏みとどまった。壁にはまだ黒い煙がまとわりついているので、霊体のミカが触れたら取り込まれてしまう。
その霊体のミカを殴ることができたのだから、やったのは誰かなんて見なくてもわかる。つまり、相手も霊体かそれに近い存在。アルバートの背後から飛び出てミカを殴ったのは、さっきまで血の女王を攻撃していた、黒い煤のような霊だった。
吹っ飛ばされたミカを見て、礼拝堂の全体が興奮に湧く。地下学会の信者たちが、コロシアムのオーディエンスがごとく盛り上がっているのだ。いつのまにか、「どどどど」と聞こえる詠唱も再開されていた。黒煤は、その詠唱をきっかけにアルバートに協力したのだろう。
「おお、慈悲に感謝します。我らが正義の騎士様」
アルバートは芝居がかった口調でそう言い、ゴツゴツした手を敬虔そうに合わせて握った。
感謝と興奮の歓声を全身に浴びて気をよくした黒煤の霊はアルバートの方に向き直り、ここでようやく彼の変わり果てた姿に気づいたようで、訝しむように腕を組んだ。その腕は爪が床を擦るほど長いのに、器用に人間じみた仕草をするものだ。
だが、彼の見た目が化け物になろうとも、黒煤にとって信者は信者らしい。ミカが体勢を立て直し、黒煤に向かって駆け出した途端、その足音で黒煤はすぐに振り向いて、好戦的な笑みを浮かべた。そして、アルバートを背に守るような位置に陣取って、ミカを通せんぼするように長い爪を広げてみせた。
黒煤は、人間の形に近いシルエットをしていて、短い胴は宙に浮き、細い煙のような尾を床に引いている。ミカは後ろ足を踏み切ってジャンプし、黒煤の喉を目掛けて牙を剥き出した。しかし、黒煤はミカが届かない天井付近まで上昇して逃げる。黒煤の急所に攻撃は届かずとも、ミカはただでは床に降りまいとその黒く細長い尾に爪を立てた。しかし、これがダメージとして効いているのかどうかは微妙なところだ。黒煤はミカを見下ろし嘲笑うと、小物のごとき狼の上から、長い腕を叩きつけた。
ミカは必死に逃げる。何より、ミカはすばしっこい。不意打ちでなければ、動きの鷹揚な攻撃など当たらない。しかし、相手の爪は長くてバラバラに動くため、手数が多かった。このままではいけない。ミカが逃げることに集中していれば、アルバートを阻むものは何もなくなり、気絶したジャクソンを担いで攫っていくことも、無理矢理に黒い液体を飲ませることも容易にできてしまう。
ミカが黒煤と対峙し必死に応戦する側で、アルバートが笑みを含んだ声で言った。
「騎士様、その狼の怪物は我らの子を奪おうとする悪い怪物なんですの。あなた様に駆除していただかないと、あたくし、夜も眠れませんわ」
黒煤の霊は、信者に助けを請われれば請われるほど、敵と認識した者に対する攻撃性が高くなるらしい。黒煤は赤く光る穴のような目をさらに興奮したように大きく見開いて、がむしゃらに腕を叩きつけてきた。だが、攻撃が激しくなるほどに、動きの正確性は失われ始め、どこか感情的になってくる。
ミカはようやく黒煤の腕の一本に噛みつくことに成功した。煤を固めたような存在だから、牙で噛み砕くことくらいたやすい。黒煤が、ここで初めて愉悦の表情を引っ込め、痛みを耐えるような呻き声を上げながら後退した。粉砕された腕からは血の代わりに黒い液体が流れ出てきたが、ミカはそれを飲み込まないように瞬時に吐き出した。それでも、黒煤の負の感情は、黒い液体がわずかに触れた口内の粘膜を通してミカに届く。――恨み、怨み。
ミカは、礼拝堂の中央をチラリと見た。そこには、血の女王と呼ばれていた死霊人形の残骸がある。アルバートがそこから離れたために、血の女王の付近で黒い液体を集める人はいなくなり、現在は皆、一様にミカと黒煤の戦いを見物している。ぽつねんと放っておかれた血の女王は、至る所の皮膚が引き裂かれ、全身から黒い液体を噴き出し、床に黒い水たまりを作っていた。それでも、彼女は辛うじて立っている。なぜなら、血の女王の失われた血を補給するべく、天井や壁を覆っていた黒い煙からその一部が線のように伸びて、新たに血の女王を構成する黒い血に加わっているからだ。しかし、皮膚がズタズタでぼろ切れも同然では、いくら補給したところでまた体外に流れていくだけだ。いや、それでも、血の女王は立っている。馬鹿げた儀式のために無惨な姿へ変えられた女性たちの無念は、死霊に変質した今でも一縷の助けを求めて立ち続けようとしている。
ミカは、血の女王を顎で示しながら、頭上に浮かぶ黒い煤のような霊に言った。
「お前、騎士様なんだろ? お前の敵はまだ立ってるけど、俺の相手なんかしてていいのかよ」
黒煤は崩壊していない方の腕を上げ、長い五本の爪をミカに向けた。それが答えだ。
「そっか。お前、俺のこと嫌いだもんな。お前やっぱり、ウィジャボードの幽霊だろ!!」
黒煤は応える代わりに、
『ふ、ふははははははははは』
と、独特の笑い声を上げた。興奮しているようなのに、心底不愉快なのが滲み出ている笑い声は、ミカの頭に直接響いてきている。その笑い声はミカの指摘に「イエス」と答えていた。
そうだ。彼の者の正体は、実際、見ればすぐにわかることであった。黒い体に、地を擦るほど長い腕と爪。赤い目、空洞のような口。そんな不気味な存在が、二つといてはたまらない。黒煤のような体を持つ騎士様は、「極夜の館」のもう一人の住人としてお馴染み「ウィジャボードの幽霊」そのものであった。「極夜の館」にいるはずのソイツが、なぜ儀式でここに召喚されて、当然のように「騎士様」をこなしているのか、そこの経緯はわからないけれど。
ただ、目の前にいるのがウィジャボードの幽霊であるというのなら、思い出されるのは、館の壁を貫く茨の枝に象徴されるような、あの強烈な殺意だ。この幽霊はなぜか、極夜の館の住民に殺意を向けていて、ミカなんか、玄関ホールで直々にバトルしている。あのバトルの時も、ちょうど今のように粘着質に執着されて、何度も傷つけられそうになったのだ。ウィジャボードの幽霊は、騎士様としての仕事という大義名分のもと、またミカと再戦できる機会を得られたことを喜んでいる。きっと、何があっても、ミカのことを見逃してはくれないだろう。




