09. 一枚の写真
それから十数年の間に、空を飛ぶ機械はずいぶん変わった。
最初の飛行機械は、せいぜい数人を乗せて短い距離を飛ぶだけだった。翼は大きく、機体は重く、強い風が吹けば簡単に飛行できなくなった。
しかし、ミスリル系の軽量合金や新しい推進機関が開発されるにつれ、航空機の性能は急速に向上していった。
長距離を飛ぶ大型機も登場し、各地に飛行場が建設された。
地上では電力網が拡大し、通信技術も発展していた。遠くの町へ声を届けることも、無線で情報を送ることも、以前よりずっと簡単になった。
エダの発見から半世紀近くが経ち、魔法金属はすっかり普通の工業材料になっていた。
一方、星晶の研究は、思ったほど速く進んでいなかった。
空間への作用は、以前より詳しく解明されていた。
魔力を与えると、周囲の空間に微細な変化が生じる。その効果は結晶の量や形状、魔力の与え方によって変化する。
複数の結晶を組み合わせた実験では、単独の結晶とは異なる作用も確認された。
しかし、作用は相変わらず小さかった。
何より、材料が足りない。
セラたちは、世界中の隕石を調べ続けていた。新しい採取例も少しずつ増えていたが、大きな結晶はなかなか見つからなかった。
それでも、研究は続いた。
星晶の空間干渉を利用した精密測定装置が作られ、微細な距離の変化を調べる技術が発展した。
材料の変形を測る装置や、魔導機器の制御装置にも応用され始めていた。
ただし、星晶を使って人や物を遠くへ運ぶことなど、まだできそうになかった。
*
「お母さん、これ見て」
ある日の夕方、セラが自宅へ戻ると、娘のアリスが机いっぱいに図面を広げていた。
アリスは十四歳になっていた。
細かな機械の仕組みを考えるのが好きで、暇さえあれば模型を作っている。部屋には、翼のついた模型や小さな動力機関の部品が、あちこちに置かれていた。
机の上には、細長い筒の絵が描かれている。
「何これ?」
セラが尋ねた。
「宇宙船」
「宇宙船?」
「うん」
アリスは図面を指差した。
「ここから燃料を噴き出して、上へ飛ぶの」
「飛行機じゃないんだ」
「飛行機は空気がないと飛べないでしょう?」
「そうだね」
「宇宙には空気がないから、別の方法で飛ばないといけないの」
セラは図面を覗き込んだ。
筒の下に、大きな噴射口が描かれている。側面には燃料を入れるための容器や、小さな操縦室らしいものがある。
「これ、燃料はどのくらい必要なの?」
「まだ計算中」
「そうなんだ」
「でも、すごくたくさん必要みたい」
「大変だね」
「うん」
アリスは少し困った顔をした。
「重くすると、その分だけ燃料が必要になるんだって。でも燃料を積むと、また重くなるでしょう?」
「そうだねえ」
「だから、軽い材料を使うんだよ」
アリスは図面の一部を指差した。
「ここはミスリル系の合金にして、熱くなるところはアダマンタイトを使うの。おばあちゃんのところで見せてもらった」
「ああ、そうなんだ」
セラは笑った。
母のエダは、今でも工房へ顔を出していた。さすがに若いころほど長時間働くことはなくなったが、新しい機械の図面を見るのは相変わらず好きだった。
アリスは、祖母の工房へ遊びに行くたび、何か新しい仕組みを覚えて帰ってくる。
「でも、アダマンタイトも重くなるんじゃない?」
セラが尋ねる。
「だから、必要なところだけ」
アリスは即答した。
「全部を丈夫にすればいいわけじゃないんだって」
「誰が言ってたの?」
「おばあちゃん」
「そう」
セラは頷いた。
「それで、この宇宙船はどこへ行くの?」
「月」
「月?」
「うん。お母さん、月の石が欲しいんでしょう?」
セラは少し驚いた。
「……そうだね」
「だから、取ってきてあげる」
アリスは当然のことのように言った。
セラは笑った。
「ありがとう」
「ただ、まだ帰ってくる方法を考えてないんだよね」
「それは困るね」
「うん。だから今、考えてる」
アリスは図面へ向き直った。
セラは、その隣へ椅子を引き寄せた。
月へ行く。
今では、そんなことを考える人々が少しずつ増えていた。
航空技術が発展し、さらに高く飛ぶための研究も進んでいる。大気の外まで機械を運ぶために、ロケットの研究を始めた技術者たちもいた。
しかし、宇宙まで到達するには、まだ多くの問題が残されていた。
大量の燃料。
機体の強度。
飛行方向の制御。
大気圏を抜けた後の航法。
そして、地上へ戻るための方法。
セラには、そのすべてを解決する方法などわからなかった。
ただ、娘は楽しそうに図面を描いている。
セラは少し笑った。
「……帰ってこられるようにしてね」
「もちろん」
アリスは頷いた。
「帰ってこないと、石を渡せないもん」
*
数年後、王立宇宙開発局が設立された。
最初の目的は、大気圏の外へ観測機器を送り込むことだった。
それまでも、高高度の気球や飛行機を使った観測は行われていた。しかし、大気の外へ出るには、まったく別の技術が必要だった。
巨大なロケットを使い、観測装置を地上から打ち上げる。
高度を上げるだけなら、比較的短い飛行でも実現できるかもしれない。
だが、惑星の周囲を回り続けるためには、単に上へ飛ぶだけでは足りなかった。十分な水平方向の速度を与え、地上へ落ちずに周回できる軌道へ投入しなければならない。
さらに、観測結果を地上へ送信するための通信装置も必要だった。
研究は、多くの分野にまたがっていた。
材料工学。
推進機関。
燃料化学。
精密機械。
通信。
天文学。
制御工学。
星晶の研究者たちも協力したが、最初の宇宙機は星晶を大量に使う設計ではなかった。
材料が足りないからである。
魔法金属の高性能な合金は、構造材や機械部品として利用できた。しかし、推進に必要なエネルギーまで、魔法金属が勝手に生み出してくれるわけではない。
ロケットを飛ばすためには、大量の燃料を燃焼させ、機体を加速する必要があった。
そのため、最初の打ち上げ試験は失敗の連続だった。
燃料がうまく燃えない。
配管が破裂する。
機体が振動で壊れる。
飛行方向がずれる。
地上から離れることさえできず、発射台で止まってしまうこともあった。
それでも、研究者たちは少しずつ問題を解決していった。
新しい燃料が開発され、軽量な機体が作られ、制御装置も改良された。
やがて、ロケットは大気圏の上層まで到達するようになった。
さらに高い高度へ飛び、観測装置を積んで帰還する試験も成功した。
そして、人類はついに、惑星の周回軌道へ人工物を送り込む計画を立てた。
*
打ち上げの日、王立材料研究所の会議室には、大勢の人々が集まっていた。
壁には大きな地図が貼られ、机の上には受信機が置かれている。
打ち上げ場は王都から遠く離れていたため、研究者たちは通信によって飛行の様子を聞くことになっていた。
セラも、その中にいた。
隣にはニルが座っている。
長い間、一緒に星晶の研究を続けてきた助手だった。今では彼自身も研究室の責任者の一人になっている。
「いよいよですね」
ニルが言った。
「そうだね」
「まさか、本当に宇宙まで行くとは」
「うん」
セラは机の上の資料を見た。
今日打ち上げられるのは、小さな無人観測機だった。
人を乗せることはできない。
積まれているのは、温度や放射線を調べる測定器、通信装置、そして地上を撮影するための小さな光学機器だった。
それでも、周回軌道へ投入できれば、人類が初めて大気の外へ継続的に人工物を置くことになる。
受信機から声が流れた。
「……打ち上げ準備、最終確認に入ります」
会議室が静かになった。
セラは、椅子の背もたれから体を起こした。
通信の向こうでは、何人もの技術者が忙しく働いているらしい。機器の確認、燃料系統の点検、通信装置の試験。
やがて、発射の許可が出された。
秒読みが始まる。
十。
九。
八。
会議室の誰もが、受信機を見つめていた。
三。
二。
一。
しばらく、何も聞こえなかった。
それから、遠くで大きな音がした。
「……発射を確認」
続いて、管制官の声が響いた。
「機体、上昇中。姿勢正常」
会議室の何人かが、小さく息を吐いた。
セラは手帳を開いた。
ロケットは高度を上げ続けている。
速度。
姿勢。
燃料の残量。
機体の状態。
すべての情報が、通信によって送られてくる。
途中で、一度だけ受信機の音が途切れた。
会議室が静かになった。
しかし、すぐに通信が戻った。
「……第二段、燃焼開始」
しばらくして、再び管制官の声が響いた。
「予定高度に到達。軌道投入を開始します」
セラは、手帳を持つ手に少し力を込めた。
ここから先が重要だった。
高く飛ぶだけなら、今までにも成功している。
しかし、惑星の周囲を回り続けるには、十分な速度が必要だった。
受信機から、細かな数値が読み上げられる。
予定速度に近づいていく。
やがて、管制官の声が聞こえた。
「……推進停止」
短い沈黙。
続いて、別の声。
「軌道計算を確認中」
会議室には、受信機の微かな雑音だけが流れていた。
セラは、地図を見た。
そこには、惑星の周囲を回る予定軌道が描かれている。
今、どこか遠くの空で、小さな観測機が飛んでいる。
それが、本当に落ちずに回り続けるのか。
誰もが結果を待っていた。
やがて、管制官の声が響いた。
「……軌道投入、成功」
一瞬、静かになった。
それから、会議室に大きな歓声が上がった。
人々が立ち上がり、拍手を始めた。
隣にいたニルも、椅子から立ち上がっている。
「やりましたね!」
セラは頷いた。
「……うん」
それから、ゆっくりと笑った。
「やったね」
*
最初の人工衛星から送られてきた写真は、あまり鮮明ではなかった。
通信装置の能力が足りず、地上へ届けられた画像は粗かった。雲の形も、大陸の輪郭も、ぼんやりとしか見えない。
それでも、研究者たちはその写真を何度も眺めた。
青い海。
白い雲。
広大な大陸。
地上ではどこまでも続いているように思えた世界が、一つの球体として写っていた。
セラは、その写真を自宅へ持ち帰った。
アリスは、机の上へ広げられた写真を見て、しばらく黙っていた。
「……これ、本当に地上なの?」
「そうだよ」
「すごいね」
「うん」
アリスは写真を持ち上げた。
何度も角度を変えて眺める。
「……こんなふうに見えるんだ」
セラは頷いた。
「そうみたい」
「月から見たら、もっと小さいのかな」
「どうだろうね。距離はずっと遠くなるから」
アリスは窓の外を見た。
夜空には月が浮かんでいる。
子どものころ、机いっぱいに宇宙船の図面を広げていた娘も、今では工学を学ぶ学生になっていた。
最近は推進機関と航法装置の研究に興味を持っているらしい。
「ねえ、お母さん」
「何?」
「星晶って、まだ足りないの?」
「うん。前よりは増えたけど、十分とは言えないね」
「宇宙へ行けば、たくさん見つかるかな」
「わからない。隕石に入っているから、どこかにはあるはずなんだけど」
「そっか」
アリスは写真を机へ戻した。
「じゃあ、探しに行かないとね」
「そうだね」
「小惑星とか、月とか」
「うん」
セラは窓の外を見た。
月は、いつもと同じように浮かんでいた。
しかし、今では人類が作った小さな機械が、地上の周囲を回っている。
少し前までは、空に浮かぶ石から試料を採取するなど、遠い夢のような話だった。
それでも、今日の成功によって、少なくとも最初の一歩は踏み出したことになる。
セラは、写真をもう一度手に取った。
そこには、雲に覆われた自分たちの世界が写っている。
この世界のどこかに、最初の星晶が落ちてきた。
それを拾い、調べているうちに、距離そのものが変わるという奇妙な現象が見つかった。
今でも、その仕組みは完全にはわかっていない。
新しい物質が見つかれば、何が起きるのか。
もっと大きな結晶を使えば、どんなことができるのか。
知りたいことは、まだいくらでもある。
「……お母さん」
アリスが声をかけた。
「何?」
「もし月へ行けたら、どんな石を取ってきてほしい?」
セラは少し考えた。
「そうだねえ」
それから、笑った。
「見たことのない石がいいな」
アリスも笑った。
「わかった」
窓の外では、夜空に月が浮かんでいた。
地上から見れば、まだ遠い場所だった。
しかし、今夜、その月を見上げる人々の中には、いつか本当にそこへ行けるのではないかと考え始めた者が、きっと大勢いるだろう。
アリスは机へ戻り、新しい図面を広げた。
セラは写真を片づけ、翌日の研究に使う資料を取り出した。
部屋の中は静かだった。
窓の外では、月がゆっくりと西へ傾いていた。
第二部 了




