10. 届かない距離
人間を月へ送り、無事に連れ帰る。
その計画で一番難しかったのは、人間を月まで運ぶことではなかった。
「帰ってくることです」
アリスがそう言うと、会議室の向こう側に座っていた財務委員は、少し困った顔をした。
「それは、もちろん理解していますが」
「いいえ。月面まで行くだけなら、今の機体でもかなりの確率で実現できます。問題は、着陸した後です」
アリスは壁に投影された宇宙船の断面図を指差した。
「月へ降りるには減速が必要です。降りた後、もう一度離陸しなければなりません。そして、月の周回軌道で待っている帰還船へ合流する必要があります。地上へ戻るための燃料と装備は、そこからさらに必要になります」
「つまり、もっと大きな宇宙船が必要だと?」
「単純に大きくすると、今度は打ち上げられません」
「では、どうすれば?」
「月へ降りるものと、地上へ帰るものを分けます」
アリスは図面を切り替えた。
長い円筒形の宇宙船が、二つの部分に分かれている。片方は月面着陸機、もう片方は帰還船だった。
「帰還船は月の周回軌道に残します。着陸機は月面へ降りた後、不要になった部分を切り離し、軽くなった機体で再び離陸します」
「なるほど」
「ただし、これでも余裕はありません。機体を重くすれば、それだけ燃料が必要になります。燃料を増やせば、さらに重くなる。今の設計では、持ち帰れる試料はごく少量です」
委員は資料を見た。
「……これだけですか?」
「はい」
「莫大な予算を投じて、石を少し持って帰るだけ?」
アリスは頷いた。
「そうです」
会議室が静かになった。
財務委員は、何度か資料をめくった。
「……もう少し、何か持って帰れないのでしょうか」
「何をですか?」
「例えば、星晶とか」
「あれば持ち帰ります」
「そのための計画なのでは?」
「星晶が月に存在する保証はありません。ですから、まず調べに行くんです」
委員は溜息をついた。
「研究者の皆さんは、いつもそうおっしゃいますね」
アリスは少し笑った。
「そうですね」
彼女は図面を元へ戻した。
「ただ、地上へ帰れる見込みのない宇宙船は作れません。試料を持ち帰る量を増やすために帰還燃料を減らす、という判断はできないんです」
委員は、今度は何も言わなかった。
*
王立宇宙開発局が最初の人工衛星を打ち上げてから、十六年が経っていた。
その間に、宇宙開発は大きく進んだ。
無人衛星は何十機も打ち上げられ、通信や気象観測に利用されている。惑星の周回軌道には、長期間活動する観測施設も設けられた。有人飛行も実現し、宇宙船同士の接近や結合、軌道上での船外作業まで行われるようになっていた。
月へ向けた無人探査も始まっていた。
最初は近くを通過して写真を撮るだけだったが、やがて月の周囲を回る探査機が作られ、表面の地形や重力を調べるようになった。数年前には、小さな無人着陸機が月面へ降りることにも成功している。
ただし、地球側から見えない月の裏側については、まだ十分な調査ができていなかった。周回探査機が撮影した地形図はあるものの、解像度は限られていたし、地上との通信が途切れる領域では観測にも制約があった。
月の地下に何があるかとなれば、なおさらだった。
アリスは三十代後半になっていた。
大学で機械工学を学び、推進機関の研究所を経て、現在は有人月面探査計画の機体設計に携わっている。
専門は宇宙機の構造と機械系統だった。
推進機関そのものを設計する研究者でもなければ、星晶の性質を調べる材料研究者でもない。さまざまな分野の技術者が作った装置を、一つの宇宙船として成立させるのが仕事だった。
その仕事は、思っていた以上に面倒だった。
推進機関の研究者は、もっと大きな燃料タンクが欲しいと言う。
航法装置の担当者は、測定器を増やしたいと言う。
地質調査の担当者は、もっと重い採掘工具を積みたいと言う。
生命維持装置の担当者は、予備の空気と水を増やす必要があると言う。
そして、それらを全部積もうとすると、宇宙船は打ち上げられなくなる。
アリスは毎日のように重量表を書き換えていた。
「……何で、みんな自分の装置だけは削れないって言うんだろう」
設計室へ戻ってきた彼女が呟くと、隣の机に座っていたレナが笑った。
「自分の装置が一番大事だからでしょう」
「全部大事なんだよ」
「そうね」
「全部大事だから困るの」
レナは、月面着陸機の操縦士候補だった。以前は航空機の試験操縦を担当していたが、宇宙開発局へ移ってからは有人飛行の訓練を受けている。
機体の設計にも詳しく、ときには技術者以上に細かな改良案を出してくる。
「ところで、私の操縦席の話はどうなった?」
「また?」
「着陸するとき、窓の下側が見えないのよ」
「カメラがあるでしょう」
「カメラが壊れたら?」
「予備がある」
「予備も壊れたら?」
アリスは椅子に座った。
「……窓を大きくすると、重くなるんだよ」
「知ってる」
「窓枠も補強しなきゃいけない」
「それも知ってる」
「だったら……」
「でも、私はその船で月へ降りるの」
レナは図面を指差した。
「最後は私が操縦するんだから、少なくとも地面が見えるようにはしてほしい」
アリスは図面を見た。
確かに、月面着陸機の前方視界は十分とは言い難かった。
機体の重量を減らすため、窓は必要最小限に抑えられている。姿勢制御と高度測定のための装置は揃っていたが、最後の着陸段階で操縦士が直接地形を確認できることには、明らかな価値があった。
「……わかった。窓の位置を少し下げよう」
「ありがとう」
「ただし、ほかのところで重量を減らすからね」
「何を?」
「考え中」
レナは笑った。
「じゃあ、私も考える」
その日の夕方、アリスは星晶研究棟を訪れた。
母のセラが働いている研究室だった。
建物は以前よりずいぶん大きくなり、今では何百人もの研究者が働いている。
星晶の研究は、新しい測定器や魔導制御装置の開発へつながっていた。しかし、空間への作用を実用的な大きさにまで拡大する研究は、まだ十分な成果を出していなかった。
理由は簡単だった。
星晶が足りないのである。
「お母さん、いる?」
研究室へ顔を出すと、セラは顕微鏡を覗き込んでいた。
「いるよ。どうしたの?」
「例の測定器、試作機ができたって聞いたから」
「ああ、あれね」
セラは椅子から立ち上がった。
机の上には、手のひらに収まるほどの小さな装置が置かれていた。オリハルコン製の細い導線と、いくつかの精密な部品が組み合わされている。
中央には、小さな黒い結晶が固定されていた。
「これが新しい空間干渉測定器?」
「そう。前のものより安定してるよ」
「宇宙船に積めるかな」
「積めるとは思うけど、何を測りたいの?」
「月の周囲で、星晶らしい反応がないか調べたいんだよ」
セラは少し考えた。
「難しいと思う」
「どうして?」
「星晶そのものの量が多ければ反応も大きくなるけど、遠くから測定できるほど強い作用があるかどうかはわからないから」
「なるほど」
「それに、月には月の重力があるでしょう。測定結果から星晶の作用だけを取り出すのは簡単じゃないよ」
アリスは装置を持ち上げた。
「でも、積む意味はある?」
「あると思う。ただ、これで星晶の鉱床を探せるとまでは期待しない方がいい」
「わかった」
アリスは頷いた。
それから、机の上に置かれた小さな硝子瓶を見た。
瓶の底には、黒い結晶が数粒入っている。
「……まだ、これだけ?」
「うん。実験用に使えるのはね」
「全然増えないね」
「そうなんだよ」
セラは苦笑した。
「昔よりはずいぶん集まったんだけど、研究したいことの方が増えちゃって」
「もっと大きいのがあれば、何かできるのかな」
「それも調べたいんだけどね」
セラは硝子瓶を持ち上げた。
「こんなに小さな結晶でも、周囲の距離に影響を与えるんだよ。もっと大きなものを使ったら、どんなことが起きるんだろうね」
アリスは笑った。
「だから、取りに行くんでしょう」
「そうだったね」
セラも笑った。
「よろしくお願いします」
「まだ成功すると決まったわけじゃないけど」
「知ってるよ」
アリスは装置を机へ戻した。
星晶は、宇宙へ行くための便利な燃料ではなかった。少なくとも、今の人類にはそういう使い方ができない。
しかし、宇宙へ行く理由にはなっていた。
それで十分だった。
*
月面探査計画では、着陸地点の選定にも議論が続いていた。
最も安全なのは、地形が平坦で、地上から直接通信できる月の表側だった。
しかし、地質学者たちは、月の裏側にある大きな衝突盆地を調べたがっていた。
周回探査機による観測では、そこに周辺とは少し異なる岩石が露出している可能性があった。地下構造を推定した結果にも説明しきれない部分があり、詳細な調査が必要だと考えられていた。
もちろん、星晶があるという証拠はなかった。
それでも、月の深い部分に由来する岩石を採取できれば、隕石との比較に役立つかもしれない。
ただし、月の裏側は地上から直接通信できない。
宇宙開発局は、月の周囲に中継衛星を配置する計画を進めていた。
アリスたちが設計している宇宙船も、その中継衛星を利用できるようになっている。
打ち上げの数年前には、まず無人機による現地調査が行われた。
衝突盆地の周辺を撮影し、着陸に適した平坦な場所を探す。小型の観測機を低い軌道へ投入し、地形を調べる試験も行われた。
しかし、すべてが順調だったわけではない。
低高度へ降ろした探査機の一機は通信を失い、別の一機は予定より早く燃料を使い切ってしまった。
高解像度で撮影できた地域は限られている。
盆地全体の詳細な地図を作るには、まだ長い時間が必要だった。
そのため、有人探査の最初の着陸地点は、周回観測で安全性を確認できた盆地の縁に近い平坦地へ変更された。
そこから周辺の地質を調べ、可能なら探査車で盆地の内部へ近づく。
当初の計画よりは控えめな内容だったが、安全性を優先した結果だった。
*
宇宙船の最終試験は、打ち上げの二年前に始まった。
実物大の機体を使った振動試験。
燃料系統の圧力試験。
真空中での温度試験。
着陸脚の衝撃試験。
宇宙飛行士が着用する気密服の試験。
そして、何度も繰り返される飛行訓練。
アリスは、設計室と試験場を行ったり来たりする毎日を送っていた。
ある日の試験では、月面着陸機の脚が予定より大きく変形した。
衝撃を吸収する部分が、想定したとおりに潰れなかったのである。
機体が倒れるほどではなかったが、片側の脚に大きな荷重が集中していた。
「……これは困ったね」
アリスが試験結果を見て言った。
レナが隣から覗き込む。
「着陸速度が高すぎた?」
「違う。脚の設計だと思う」
「材料は?」
「ミスリル系の合金。ただ、強度が高いだけじゃ駄目なんだよ」
アリスは図面を指差した。
「着陸の衝撃を吸収するところは、ちゃんと変形してくれないと困る。ここが硬すぎると、衝撃がそのまま機体へ伝わるから」
「丈夫な方がいいとは限らないのね」
「そういうこと」
アリスは、しばらく図面を眺めた。
それから、少し笑った。
「おばあちゃんが聞いたら、喜びそう」
「どうして?」
「魔法金属を使わない方がいい場所が見つかったから」
レナは不思議そうな顔をした。
アリスは説明した。
「おばあちゃん、昔から言ってるんだよ。材料は、強ければいいってものじゃないって」
彼女は図面へ新しい線を引いた。
「ここは普通の金属にしよう。潰れてほしいところは、ちゃんと潰れるように作る」
レナは頷いた。
「それなら、着陸のときに安心できそう」
「そうだね」
アリスは、修正した図面を眺めた。
魔法金属が使えるようになったことで、機械はずいぶん高性能になった。
しかし、設計の仕事そのものが簡単になったわけではなかった。
むしろ、選べる材料が増えた分だけ、考えなければならないことも増えていた。
彼女は椅子から立ち上がった。
「じゃあ、もう一回試験しよう」
「また?」
「うん」
レナは溜息をついた。
「いつになったら月へ行けるのかしら」
アリスは笑った。
「ちゃんと降りられるようになったら」




