11. 行ってきます
打ち上げの朝、空はよく晴れていた。
発射場の周囲には、大勢の人々が集まっていた。遠く離れた丘の上にも見物人が並び、報道機関の撮影装置が発射台へ向けられている。
巨大なロケットは、朝日を受けて白く輝いていた。
その先端に、人類初の有人月面探査船が載っている。
搭乗員は四人だった。
船長のケイル。
操縦士のレナ。
地質学者のマラ。
そして、機関担当のアリス。
月の周回軌道へ到達した後、ケイルは帰還船に残り、残る三人が着陸機で月面へ降りる予定だった。
マラは、月の岩石を調べるために参加していた。普段は鉱山研究所で地質調査を担当している。
彼女にとっては、宇宙船そのものよりも、月面に降りた後の採取作業の方が重要だった。
「試料容器、全部載ってる?」
出発前、マラは何度も尋ねた。
「載ってるよ」
アリスが答える。
「予備も?」
「載ってる」
「採取用の工具は?」
「載ってる」
「小型の掘削機は?」
「載ってるってば」
マラは頷いた。
「よかった」
レナが笑った。
「そんなに石が欲しいの?」
「欲しいわよ」
マラは当然のように答えた。
「だって、月の石よ?」
アリスは、思わず笑った。
母も同じことを言いそうだった。
*
打ち上げ直前、アリスは管制室からの通信を受けた。
「アリス、聞こえる?」
母のセラだった。
「聞こえるよ」
「準備はどう?」
「順調」
「そう。よかった」
少しの沈黙。
それから、セラが言った。
「無理しないでね」
「わかってる」
「星晶が見つからなくても、ちゃんと帰ってくるんだよ」
「もちろん」
「石なんか、また今度取りに行けばいいんだから」
アリスは笑った。
「お母さんがそれを言う?」
「言うよ」
セラも笑った。
「だって、研究は帰ってきてからでもできるでしょう?」
「そうだね」
アリスは頷いた。
「じゃあ、行ってきます」
「うん。行ってらっしゃい」
通信が切れた。
アリスは操縦席の計器を確認した。
すべて正常だった。
隣のレナが尋ねる。
「お母さん?」
「うん」
「心配してる?」
「もちろん」
「そりゃそうよね」
レナは肩をすくめた。
「うちも同じ」
ケイルの声が入った。
「全員、最終確認。打ち上げまで五分」
アリスは姿勢を正した。
機体の周囲で、低い振動が始まっている。
燃料系統の圧力。
推進機関の温度。
通信装置の状態。
生命維持設備。
すべて、何百回も確認した項目だった。
それでも、最後にもう一度確かめる。
「機関系統、正常」
レナが続ける。
「操縦系統、正常」
マラも確認を終えた。
「観測装置、正常」
ケイルが頷いた。
「了解。全員、発射準備完了」
秒読みが始まった。
十。
九。
八。
アリスは、ゆっくり息を吐いた。
三。
二。
一。
次の瞬間、凄まじい振動が機体を包んだ。
巨大な推進機関が燃焼を始め、宇宙船がゆっくりと地上から離れる。
窓の外で、発射台が小さくなっていった。
アリスの体が、座席へ強く押しつけられる。
計器の数字が次々と変化する。
加速度。
速度。
高度。
燃料の残量。
彼女は、それらを一つずつ確認した。
ロケットは、雲の上へ出た。
窓の外が急に明るくなった。
空の青色が、少しずつ深くなっていく。
やがて、濃い紺色へ。
そして、黒へ。
地上では見たことのない空だった。
アリスは、一瞬だけ窓の外を眺めた。
足元には、青い大地が広がっている。
いや、大地というより、一つの巨大な球体だった。
その表面を、白い雲が覆っている。
「……綺麗」
思わず呟いた。
レナが答えた。
「本当にね」
しかし、二人ともすぐに計器へ視線を戻した。
飛行は、まだ始まったばかりだった。
*
宇宙船が地上の周回軌道へ到達したのは、打ち上げからしばらく後のことだった。
そこから月へ向かうためには、さらに加速する必要がある。
予定された軌道へ投入するための噴射が行われ、宇宙船は地上を離れた。
窓の外で、青い惑星が少しずつ小さくなっていく。
アリスは、それを何度も眺めた。
何日もかけて、月へ向かう。
地上にいたころは、月など夜空に浮かぶ小さな円盤だった。
しかし、今は違う。
宇宙船の進む方向には、少しずつ大きくなる灰色の球体がある。
あそこに、実際に地面がある。
石がある。
山がある。
もしかしたら、星晶もあるかもしれない。
それを確かめるために、自分たちはここまで来た。
*
月へ向かう途中、宇宙船では一つの問題が起きた。
機関室の温度調整装置が、予定どおりに動かなくなったのである。
最初は、小さな警告だった。
冷却液の温度が、わずかに高い。
アリスは計器を確認した。
「……あれ?」
レナが振り向いた。
「どうしたの?」
「冷却系統の温度が上がってる」
「危険?」
「すぐには。でも、原因を調べないと」
アリスは点検手順を開いた。
冷却液の流量。
ポンプの回転数。
放熱板の温度。
どれも大きな異常はない。
しかし、一部の配管だけが想定より高い温度を示していた。
アリスは、しばらく考えた。
「……弁かな」
「何の?」
「流量調整弁。途中で開ききってないのかもしれない」
ケイルが通信を入れた。
「機関担当、状況は?」
「冷却系統の一部で流量が不足している可能性があります。予備系統への切り替えを提案します」
「了解。切り替えを許可する」
アリスは手順どおりに装置を操作した。
予備の配管へ冷却液を流す。
しばらくして、温度が下がり始めた。
「……下がった」
レナが言った。
「うん」
アリスは頷いた。
「ただ、元の弁は確認しておきたい」
その日の午後、アリスは機関室へ移動した。
問題の弁は、狭い配管の奥にあった。
小さな点検口を開け、工具を差し込む。
弁の動きを確かめると、確かに途中で少し引っかかっていた。
アリスは眉をひそめた。
「……こんなところで」
原因は、内部の摺動部に生じた小さな傷だった。
地上で何度も試験した部品だったが、打ち上げ時の振動や温度変化によって、予想外の負荷がかかったらしい。
予備系統があるため、今すぐ交換する必要はない。
それでも、アリスはできる範囲で状態を改善することにした。
工具を使って弁を慎重に動かし、引っかかる位置を確かめる。無理に力をかけると、かえって傷を広げてしまう。
何度か操作するうちに、動きが少し滑らかになった。
アリスは弁を元へ戻し、試験を行った。
今度は正常に動いた。
「……よし」
彼女は小さく息を吐いた。
これで、少なくとも予備として使える状態には戻った。
ただし、完全に修理できたわけではない。原因は地上へ帰ってから詳しく調べる必要がある。
アリスは点検口を閉じ、作業記録を書き込んだ。
宇宙船の中には、無数の機械部品がある。
その一つ一つが、正しく動いていなければならない。
ほんの小さな弁の不具合でも、場合によっては飛行全体に影響する。
アリスは、少し笑った。
祖母が最初に作ろうとしていたのも、こんな小さな機械部品だった。
ただの軸受。
ただの歯車。
ただの弁。
それでも、どれか一つが壊れれば、機械は止まってしまう。
彼女は工具を片づけ、操縦室へ戻った。
*
月が大きく見え始めたころ、宇宙船は周回軌道へ入るための減速を始めた。
灰色の球体が、窓いっぱいに広がっている。
巨大なクレーター。
山脈。
長い影。
地上から見ていた月とは、まったく違う姿だった。
宇宙船は月の表側を通過し、やがて裏側へ回り込んだ。
中継衛星を通じて、地上との通信は維持されている。
しかし、直接見える地上の姿は、もうどこにもなかった。
アリスは、窓の外を眺めた。
月の裏側には、無数のクレーターが広がっている。
その一つ一つが、地上の山や谷よりもずっと大きい。
「……すごいね」
レナが呟いた。
「うん」
アリスは頷いた。
マラは、すでに観測装置へ張りついていた。
「見て、あの地層」
彼女は窓の向こうを指差した。
「クレーターの縁に、明るい帯が見えるでしょう。あそこ、周囲と岩石の種類が違うかもしれない」
「着陸予定地の近くだね」
「そう。できれば採取したいな」
ケイルが言った。
「まずは予定どおり着陸することだ。調査はその後に考えよう」
「わかってます」
マラは少し残念そうな顔をした。
アリスは笑った。
宇宙船は、静かに月の周囲を回っていた。
いよいよ、着陸の準備が始まる。




