12. 窓のない山
月面着陸機は、帰還船からゆっくりと離れた。
窓の外で、帰還船が少しずつ小さくなっていく。
ケイルの声が通信機から聞こえた。
「分離を確認。着陸機、状態は?」
「正常です」
レナが答えた。
「予定軌道への移行を開始します」
「了解。こちらは周回軌道で待機する」
アリスは機体の状態を確認した。
燃料系統。
姿勢制御装置。
通信。
生命維持設備。
すべて正常だった。
彼女は窓の外を見た。
月の表面が、ゆっくりと近づいてくる。
灰色の山並みと、巨大なクレーター。光の当たる場所は明るいが、影になった場所は底が見えないほど暗い。
着陸地点は、大きな衝突盆地の縁に近い平坦地だった。
周回探査機の写真では、比較的滑らかな地形に見えていた。近くには低い山脈があり、その奥には深いクレーターが広がっている。
レナは操縦装置を確認した。
「降下開始まで、あと三分」
マラは地質観測装置を操作していた。
「……見えてきた」
彼女は小さく呟いた。
「何が?」
アリスが尋ねる。
「例の明るい地層。ほら、あそこ」
窓の外、遠くの山の斜面に、白っぽい帯が見えていた。
月面の灰色の岩石とは少し色が違う。
「本当にあるんだね」
「あるわよ。写真で確認してたんだから」
「そうだけど、実物を見ると違うね」
マラは嬉しそうに笑った。
「帰る前に、少しでも試料を取れたらいいな」
レナが言った。
「まずは着陸よ」
「わかってる」
着陸機は、ゆっくりと高度を下げていった。
*
異変が起きたのは、着陸予定地まであと数十里というところだった。
最初に気づいたのは、マラだった。
「……あれ?」
彼女は観測装置を覗き込んだ。
「どうしたの?」
「何か、反応がある」
「星晶?」
「わからない。地質観測用の装置なんだけど、今まで見たことのない値が出てる」
アリスは自分の計器を確認した。
航法装置は正常だった。
通信装置も、予定どおり地上からの信号を受信している。
「場所は?」
マラは画面を指差した。
「向こうのクレーターの下。たぶん、かなり深いところ」
アリスは窓の外を見た。
着陸予定地の奥には、巨大なクレーターがある。
その内側は、長い影に覆われていた。
「地下空洞かな」
「そうかもしれない。でも……」
マラは首を傾げた。
「ずいぶん大きい」
レナが言った。
「観測は記録しておいて。今は着陸を優先するわ」
「了解」
マラは記録装置を操作した。
しかし、その直後、通信機から短い雑音が聞こえた。
アリスは顔を上げた。
「……今の、何?」
「通信?」
レナが尋ねる。
「たぶん。でも、地上からの信号じゃない」
アリスは受信機の周波数を確認した。
通常の通信帯域とは別の場所に、何か強い信号が入っている。
規則的だった。
雑音ではない。
「ケイル、聞こえますか?」
アリスが呼びかけた。
「聞こえる。どうした?」
「未知の無線信号を受信しています。発信源は月面付近と思われます」
「中継衛星では?」
「周波数が違います」
「地上の別の探査機は?」
「この地域に活動中の機体はありません」
短い沈黙があった。
「……了解。信号を記録してくれ。着陸は予定どおり続行。ただし、航法系統に影響が出たら中止する」
「了解」
アリスは受信機を操作した。
信号は次第に強くなっていた。
何かが繰り返し送られている。
間隔も、長さも、一定だった。
アリスは、しばらく波形を見つめた。
「……これ、通信じゃない?」
レナが振り向いた。
「誰の?」
「わからない」
アリスは受信記録を再生した。
短い音の並び。
規則的な休止。
そして、また同じ音。
自然現象にしては、あまりにも整っていた。
マラが言った。
「……何かの観測装置じゃないの?」
「月に?」
「昔の無人探査機とか」
「この辺りに、そんなものはないはずだけど」
アリスは信号の解析を始めた。
そのときだった。
レナが、突然声を上げた。
「……ちょっと待って」
「何?」
「あれ、何?」
彼女は窓の外を指差していた。
アリスも顔を上げた。
遠くの山肌が、動いていた。
最初は、影が変わったのかと思った。
しかし、違った。
巨大なクレーターの内壁に、一本の長い線が現れている。
その線が、ゆっくりと広がっていく。
アリスは、しばらく言葉を失った。
「……山が」
マラが呟いた。
月の山肌が、二つに分かれていく。
数百里どころではない。あまりにも大きく、距離感がわからない。
壁面だと思っていたものの一部が、巨大な扉になっていた。
その奥から、光が漏れ出している。
暗いクレーターの底に、細かな光の点が無数に現れた。
そして、その光の中から、巨大な物体が姿を現した。
宇宙船だった。
少なくとも、アリスにはそうとしか見えなかった。
長大な船体。
整然と並んだ構造物。
いくつもの推進器らしい装置。
それは人類の探査船より、はるかに大きかった。
巨大な船は、まるで何の苦労もないかのように、月面からゆっくりと浮かび上がった。
そして、ほとんど音もなく加速し、視界の彼方へ消えていった。
誰も口を開かなかった。
アリスは、目の前の光景を理解できずにいた。
月面には、何もないはずだった。
荒涼とした岩石の大地が広がっているだけだと考えていた。
少なくとも、こんな巨大な施設があるとは、誰も知らなかった。
レナが、ようやく声を出した。
「……着陸を中止する?」
アリスは我に返った。
「……ケイル、聞こえますか!」
「聞こえる。こちらでも映像を受信している。何が起きている?」
「わかりません! クレーターの内壁が開いて、中から巨大な飛行物体が……」
「落ち着いてくれ。機体の状態は?」
アリスは計器を確認した。
「正常です」
「燃料は?」
「予定内です」
「了解。まずは着陸を中止し、待機できる軌道へ移行する準備をしてくれ」
レナが操縦装置を操作した。
「了解。降下を中止します」
着陸機が姿勢を変え始めた。
そのとき、通信機から再び信号が入った。
先ほどとは違う。
明らかに、こちらへ向けられていた。
短い電子音が続き、通信装置の画面に未知の形式の信号が表示された。
アリスは目を見開いた。
「……応答を求められてる?」
自動解析装置が、信号の一部を読み取った。
音声らしい。
しかし、すぐには意味がわからない。
いくつかの音が繰り返され、やがて、ひどく不自然な言葉として再生された。
「……未、登録、船舶……確認……所属、目的……通知……」
アリスは息を呑んだ。
レナが言った。
「……今、何て?」
通信機から、もう一度声が聞こえた。
今度は、ずっと明瞭だった。
「こちら第六月面港湾管制。未登録船舶を確認しました。所属と入港目的をお知らせください」
アリスは、しばらく何も言えなかった。
声だった。
落ち着いた、少し低い声。
言葉遣いはどこか不自然だったが、意味ははっきりとわかった。
レナが、ゆっくりと通信機へ手を伸ばした。
「……こちら、王立宇宙開発局の有人探査船です」
声が震えていた。
「私たちは、地上から来ました」
短い沈黙。
通信機の向こうで、何かが動く音がした。
「……地上?」
声が返ってきた。
「はい。私たちは人類の月面探査船です」
「人類?」
相手は、不思議そうに聞き返した。
「はい」
「それは、そちらの種族名ですか?」
レナは、アリスを見た。
アリスも、何と答えればよいのかわからなかった。
「……私たちは、人類です」
しばらく沈黙が続いた。
それから、通信機の向こうで、小さく笑う声がした。
「なるほど。地上では、そう呼んでいるんですね」
「……何か、おかしいでしょうか?」
「いえ。ただ、私たちも人類ですよ。あなた方だけが人類というわけではないでしょう?」
レナは、口を開いたまま固まった。
アリスも、ようやく言葉の意味を理解した。
相手は、自分たちを人類だと言っている。
つまり、相手も人間なのだろうか。
それとも。
「……あの」
アリスは通信機へ身を寄せた。
「失礼ですが、あなた方は、いったい何者なのですか?」
通信機の向こうで、また少し間があった。
「ドワーフですが」
アリスは、何も言えなかった。
レナも動かなかった。
マラは、窓の外に広がる巨大な扉を見つめている。
千年以上前に、地上から姿を消したドワーフ。
古い遺跡に鍋や金槌を残した、伝説の種族。
その名前を、今、月の上で聞いている。
通信機から、落ち着いた声が続いた。
「それで、地上から来られたということですが……ご用件は?」
アリスは、しばらく考えた。
何と説明すればよいのだろう。
自分たちは、人類で初めて月へ到達した。
星晶を探すために、ここまで来た。
しかし目の前には、誰も知らなかった巨大な宇宙港がある。
そして、その管制官はドワーフを名乗っている。
アリスは、ようやく口を開いた。
「……月を、調べに来ました」
通信機の向こうで、少し静かになった。
「月を?」
「はい」
「……なるほど」
相手は、何かを納得したようだった。
「それなら、まず安全な場所へ着陸していただいた方がよいですね。現在の進路ですと、貨物船の出港経路と交差する可能性があります」
レナが、慌てて操縦装置を確認した。
「……貨物船?」
「ええ。先ほど一隻出港しましたが、次の便も予定されていますので」
アリスは、窓の外を見た。
巨大な扉は、まだ開いたままだった。
その奥には、無数の光が広がっている。
月の地下に、都市がある。
それも、人類が想像していたどんな都市よりも、はるかに大きな都市が。
通信機の声は、相変わらず穏やかだった。
「こちらから誘導信号を送ります。お持ちの船で安全に着陸できる場所を確認しますので、しばらく現在の高度を維持してください」
アリスは頷いた。
それから、自分が通信機の前で頷いても意味がないことに気づいた。
「……了解しました」
レナが代わりに答えた。
着陸機は、ゆっくりと進路を変えた。
その向こうで、月の山肌に開いた巨大な扉が、静かに光っていた。




