13. お久しぶりです
着陸場所は、当初の予定地から少し離れた平坦な場所に決まった。
巨大な扉の外側、クレーターの縁に沿って広がる灰色の台地だった。周囲にはいくつかの建造物が見えたが、月面の岩石と色が似ていて、遠くからでは判別しにくかった。
管制官は、着陸機の構造や推進方式を確認しながら、安全な進入経路を教えてくれた。
もっとも、話が通じるまでには少し時間がかかった。
「着陸脚が四本?」
「はい」
「脚の接地圧は?」
「計算書があります」
「自動着陸装置は?」
「あります。ただし、最終段階では操縦士が確認します」
「……なるほど。ずいぶん小さな船ですね」
レナは少し不機嫌そうな顔をした。
人類が何十年もかけて開発した月面着陸機である。それを、小さいと言われてしまった。
しかし、先ほど見た巨大な貨物船と比べれば、確かに小さい。
「こちらの標準着陸設備には接続できそうにありませんね」
管制官が続けた。
「外部の平坦地を案内します。周辺に障害物はありませんが、着陸噴射による砂塵には注意してください」
「了解しました」
レナは操縦装置を確認した。アリスも計器へ目を戻した。
驚いている場合ではない。
どれほど奇妙な状況でも、自分たちはまだ月面へ降りていないのだ。
着陸機が地面へ接触したのは、それから二十分ほど後のことだった。
着陸脚が衝撃を吸収し、機体がわずかに揺れる。レナが推進機関を停止した。
「……接地確認」
アリスは計器を確認した。
「機体、安定しています。推進系統、停止を確認」
マラが窓の外を見た。
「……降りた?」
レナはゆっくり頷いた。
「降りたわ」
しばらく、誰も何も言わなかった。
宇宙船の外には、灰色の地面が広がっている。人類が初めて月面へ到達した。その事実は何も変わらない。
ただし、予定していた状況とは、ずいぶん違っていた。
窓の向こうには、見知らぬ建物がいくつも並んでいる。遠くには、巨大なクレーターの内壁に開いた扉が見える。その奥では無数の光が動いていた。
「……どうする?」
マラが尋ねた。
アリスは少し考えた。
「まずは、地上へ報告しよう」
通信機を操作し、月の周回軌道で待機するケイルへ連絡する。ケイルは、すでに地上の管制室と何度も話していた。
「こちらでも状況を確認している」
彼の声は、いつもより少し硬かった。
「地上では映像の解析を進めている。現時点では、未知の文明による建造物と判断している」
アリスは窓の外を見た。巨大な扉の奥から、別の船がゆっくりと出てきている。
「……そうでしょうね」
「それと、相手はドワーフを名乗っているそうだな」
「はい」
「……本当に?」
「本人がそう言っています」
「そうか」
通信機の向こうで、ケイルが息を吐いた。
「とにかく、慎重に行動してくれ。相手の施設へ無断で立ち入らないこと。技術的な情報も、許可なく渡さないこと」
「了解」
「ただし、敵意を示す必要もない。今のところ、相手はこちらを丁寧に扱っているようだからな」
「そうですね」
新しい信号が入った。
レナが通信を切り替える。
「こちら、月面着陸機です」
「こちら第六月面港湾管制。着陸を確認しました。お疲れさまでした」
先ほどと同じ声だった。
「現在、そちらへ案内員を向かわせています。受け入れ施設の準備が整うまで、機体内でお待ちいただけますか?」
「了解しました」
「それと、先ほどの件ですが」
レナが少し身構えた。
「何でしょうか?」
「地上からの初飛行だったそうですね」
「はい」
「それは、おめでとうございます」
通信機の向こうの声は、穏やかだった。
「遠いところを、よくいらっしゃいました」
*
迎えに来たのは、小さな車だった。
月面を走るための六輪車で、車体は低く、幅が広い。上部には透明な操縦室らしいものがあり、そこに一人の乗員が座っていた。
車は着陸機から少し離れた場所で停止した。
「こちら、港湾案内員のヴァルドです。船外へ出られる準備はできていますか?」
アリスは気密服を着用しながら答えた。
「はい。もう少しで準備が終わります」
「了解しました。こちらでお待ちしています」
船外活動の手順は、地上で何度も練習していた。
気密服の点検。酸素供給装置の確認。通信装置。安全索。気密扉の操作。
すべて正常だった。
レナが最初に外へ出た。
梯子をゆっくりと降り、月面に足を下ろす。その様子は機体に取り付けられた撮影装置を通じて、地上にも送られていた。
レナはしばらく地面を見つめていた。
それから、小さく跳ねてみた。
「……軽い」
通信機から声が聞こえた。
アリスは笑った。月の重力は地上よりずっと弱い。気密服を着ていても、体が軽く感じられる。
続いて、マラが降りた。
彼女は地面へ足をつけるなり、しゃがみ込んだ。
「……本当に月の石だ」
「まだ採取しないでね」
「わかってる」
最後にアリスが降りた。
梯子の下には、灰色の細かな砂が積もっていた。足を下ろすと、砂が少し舞い上がった。しかし風はなく、砂粒は静かに地面へ落ちていった。
アリスは周囲を見回した。
見渡す限りの荒涼とした大地。遠くに連なる山々。真っ黒な空。そして、その向こうにある巨大な人工物。
月面の景色は、地上のどんな場所とも違っていた。
そのとき、小さな車の操縦室が開いた。
中から、一人の人物が出てきた。
背が低い。肩幅が広く、全体にがっしりとした体格をしている。厚い作業服のようなものを着ており、頭には大きな透明の保護具がついていた。
その人物は、こちらへ歩いてきた。
そして、片手を上げた。
「ようこそ。第六月面港湾へ。案内員のヴァルドです」
アリスは、しばらく相手を見つめていた。
背の低い、頑健な体格。太い腕。大きな手。
古い書物に描かれていた、ドワーフの姿とよく似ている。
しかし、目の前にいるのは伝説の鍛冶職人ではなかった。
月面港湾の作業服を着た、普通の職員だった。
「……はじめまして」
アリスは答えた。
ヴァルドは少し首を傾げた。
「そうですね。初めてお会いしますね」
それから、嬉しそうに笑った。
「お久しぶり、と言った方がよいのかもしれませんが」
*
ヴァルドの案内で、三人は月面車へ乗り込んだ。
車内には空気が満たされ、気密服の頭部保護具を外せるようになっていた。
アリスは少し緊張しながら周囲を見回した。操縦席には、見慣れない装置が並んでいる。
壁面には文字が表示されていたが、ほとんど読めなかった。ただし、ところどころに古代ドワーフ文字と似た形が見える。
「……この文字」
アリスが呟くと、ヴァルドが振り向いた。
「読めますか?」
「いえ。少し似たものを見たことがあるだけです」
「そうですか」
ヴァルドは頷いた。
「地上の博物館に、古い文字が残っているんでしょうね」
アリスは驚いた。
「博物館をご存じなんですか?」
「存在は知っていますよ。地上の放送も、こちらで時々受信していますから」
「放送?」
「ええ。言葉の勉強にも役立っています」
ヴァルドは、車内の装置を指差した。
「今お話ししている言葉も、通訳装置を使っています。多少おかしいところがあるかもしれませんが、ご容赦ください」
アリスは目を丸くした。
「……私たちの言葉を、知っているんですか?」
「ある程度は。地上から送られてくる放送を記録している部署がありますから」
「でも、私たちは……」
「こちらのことを知らなかった?」
ヴァルドは笑った。
「そうみたいですね」
車が動き始めた。
窓の外で、月面の景色がゆっくりと流れていく。
アリスは、まだ頭の整理ができていなかった。
ドワーフたちは地上の様子を多少は知っている。しかし、地上の人々は、ドワーフが月にいることを知らなかった。
それどころか、彼らは千年前に滅んだと考えられていた。
アリスは思い切って尋ねた。
「……どうして、地上へ戻らなかったんですか?」
ヴァルドは少し考えた。
「戻る?」
「はい。千年以上も前に、地上から姿を消したと伝えられているんです」
「ああ」
ヴァルドは頷いた。
「そういうことですか」
彼は窓の外を見た。
「まあ、こちらで暮らすようになったからでしょうね」
「……月で?」
「ええ」
ヴァルドは、何でもないことのように答えた。
「便利ですから」
*
月面車は、巨大なクレーターの内壁へ近づいていった。
遠くから見えていた扉は、近づくほど大きくなった。山の一部を、そのまま切り抜いたような構造だった。
扉の周囲には、細かな建造物がいくつも並んでいる。小さな車両や作業機械が忙しく動き、その間を巨大な貨物が運ばれていた。
アリスは窓の外を眺めた。
どの機械も、見たことのない形をしている。
車輪のついたものもあれば、地面から少し浮いているように見えるものもあった。
そのとき、マラが窓へ顔を近づけた。
「……あれ、鉱石?」
月面車の隣を、大きな輸送車両が通り過ぎていった。
荷台には、黒っぽい岩石がいくつも積まれている。大きなものは人の背丈ほどもあり、表面には青黒い光沢を持つ部分が筋状に現れていた。
ヴァルドが振り向いた。
「ああ。エーテリウムの原鉱石ですね」
「……エーテリウム?」
アリスが聞き返した。
「ええ。採掘場から精製施設へ運んでいるところでしょう」
マラは、輸送車を目で追った。
「それは、どんな鉱物なんですか?」
「空間干渉に使う材料です。こちらでは、主要な工業資源の一つですね」
アリスは顔を上げた。
「……空間干渉?」
「ええ」
「黒い結晶で、魔力を与えると周囲の距離が変わる物質ですか?」
ヴァルドは少し驚いた顔をした。
「そうです。ご存じでしたか?」
アリスは思わず窓へ身を寄せた。
「それ、私たちは星晶って呼んでいるんです!」
「星晶?」
「はい。隕石から見つかった物質で、地上ではほとんど手に入らなくて……」
ヴァルドは少し考えた。
「ああ、そちらではそう呼ぶんですね」
彼は、手元の表示装置を操作した。
画面に、黒い結晶の画像が現れる。
透明感のない黒色。角度によって青く光る表面。そして、内部に走る細かな縞模様。
アリスは息を呑んだ。
「……これです」
マラも画面を覗き込んだ。
「間違いないと思う。星晶と同じ特徴だわ」
「なるほど」
ヴァルドは頷いた。
「隕石から発見したのであれば、その名前になるのもわかります」
アリスは、表示された結晶の画像を見つめた。
「エーテリウム……」
初めて聞く名前だった。
しかし、アダマンタイトやミスリル、オリハルコンと並べてみると、不思議と違和感がない。
「そちらでは、ずっとそう呼んでいるんですか?」
「ええ。昔からの呼び名です。もともとの語源については、私は詳しくありませんが」
「……そうなんですね」
マラが、もう一度窓の外を見た。
「それで、あの荷台の岩石には、全部エーテリウムが入っているんですか?」
「ええ。ただし、選鉱前ですから不純物も多いですよ」
「……あれ、全部?」
「そうです」
ヴァルドは何でもないことのように答えた。
「今日は採掘量が多かったみたいですね」
マラは、しばらく黙っていた。
地上では、研究者たちが何年もかけて集めた星晶が、ほんの小さな硝子瓶に入っていた。
ようやく見つけた大きな結晶でさえ、握り拳には遠く及ばない。
それがここでは、普通の鉱石として運ばれている。
アリスは、窓の外を見つめた。
母が何十年も研究してきた物質。その原鉱石が、目の前を通り過ぎていく。
月面車は、巨大な扉の奥へ進んでいった。




