14. 普通の鍋
扉の向こうには、さらに大きな空間が広がっていた。
最初、アリスはその大きさを理解できなかった。
天井があまりにも高く、奥行きも見えない。無数の照明が並び、巨大な建造物が何層にも重なっている。遠くでは、大きな貨物船がゆっくりと移動していた。
その下を、小さな輸送車両が何十台も走っている。
さらに奥には、居住区らしい建物が見えた。窓に明かりが灯り、人々が歩いている。
地下の都市だった。
それも、王都など比べものにならないほど巨大な都市である。
「……こんなところに」
レナが呟いた。
アリスは、壁面に設置された巨大な機械を見た。何かの圧力容器だろうか。その隣には、細かな配管が無数に伸びている。
さらに奥には、見たことのない形をした巨大な塔が立っていた。どの設備も、途方もなく大きい。
しかし、そこには混乱した様子がなかった。
人々は普通に働いていた。荷物を運び、機械を操作し、車両を誘導している。
それが、アリスには少し不思議だった。
自分たちにとっては、何もかもが驚くべき光景だった。しかし、ここに暮らす人々にとっては、ただの仕事なのだ。
月面車は、やがて一つの建物の前で停止した。
「こちらで、まず検疫と入域手続きをお願いします」
ヴァルドが言った。
「検疫?」
レナが聞き返す。
「ええ。地上から持ち込まれた生物や微生物が、こちらの環境へ影響する可能性がありますから」
アリスは頷いた。
それは、確かに必要なことだった。
人類も、月面へ持ち込むものについては厳重に管理している。地上の微生物によって月の環境を汚染しないよう、探査機や採取器具は十分に洗浄されていた。
しかし、ドワーフたちが暮らしているとなれば、問題はずっと複雑になる。
「少し時間がかかりますが、ご理解ください」
「わかりました」
アリスは答えた。
そして、ふと気づいた。
「……あの、私たちの宇宙船はどうなるんでしょう?」
「そのまま保管しておきます。必要なら整備施設へ移すこともできますが、まずは所有者の許可が必要でしょう」
「整備もできるんですか?」
「規格が違いますから、そのままでは難しいかもしれません。ただ、点検くらいならできると思いますよ」
ヴァルドは笑った。
「機械は機械ですから」
アリスも、思わず笑った。
*
検疫と入域手続きが終わるまで、数時間かかった。
その間に、地上との通信も行われた。
ケイルは月の周回軌道で待機しながら、地上の管制室と何度も連絡を取り合っていた。王国政府も、技術院も、宇宙開発局も、前例のない事態への対応に追われているらしい。
それはそうだろう。
人類が初めて月へ到達したら、そこに千年前に姿を消したドワーフが暮らしていたのである。
しかも、その文明は人類の想像をはるかに超えていた。
アリスたちは、ひとまず公式な使節として扱われることになった。もっとも、ドワーフ側には、それほど大げさな様子はなかった。
港湾の管理者が挨拶に来て、簡単な手続きについて説明しただけだった。
「長旅、お疲れさまでした」
管理者は言った。
「地上からの有人飛行は、ずいぶん久しぶりですね」
アリスは思わず聞き返した。
「……以前にも、あったんですか?」
「もちろんです」
管理者は頷いた。
「ただ、最後の定期航路が廃止されてから、もうかなり経っています。詳しいことは、歴史資料を調べた方が早いでしょうね」
アリスは、しばらく黙っていた。
地上の人類にとっては、初めての月面到達だった。しかしドワーフにとっては、ずっと昔に廃止された航路を、ようやく別の方法で飛んできた人々が現れた、という出来事らしい。
その違いは、あまりにも大きかった。
*
翌日、アリスたちは月面都市の歴史資料館へ案内された。
そこには、千年以上にわたるドワーフ文明の記録が保存されていた。
古い都市の模型。
工場の設計図。
製造設備の記録。
そして、宇宙開発の歴史。
資料を見ていくうちに、アリスは少しずつ事情を理解し始めた。
ドワーフたちは、地上で高度な工業文明を発展させていた。
火と大地の精霊を利用し、三種類の魔法金属を自在に精製・加工していた。それらの金属を用いて機械や建造物を作り、産業を発展させていった。
やがて飛行技術が発達し、宇宙へ進出するようになった。
最初は地上から資材を運び、月面に小さな採掘施設を建設した。地上では希少だったエーテリウムが、月には豊富に存在していたからだ。
それは、従来の三種類の魔法金属とは異なる性質を持っていた。火と大地の精霊を使った加工法がほとんど通用せず、精製も加工も難しい。
しかし、エーテリウムには、ほかの材料にはない性質があった。
空間そのものへ作用する能力である。
ドワーフたちは、その性質を利用するために新しい装置を作り、研究を進めた。月面での採掘が拡大するにつれ、工場や研究施設も増えていった。
最初は、資源を地上へ運ぶための拠点だった。
しかし、宇宙での産業が発展するにつれ、月面で暮らす人々が増えていった。
工場の近くには居住区が作られ、学校や病院、商店ができた。やがて、月面都市は一つの大きな社会になった。
地上から運ぶ必要があるものは、次第に減っていった。むしろ、宇宙で採れた資源を利用する方が便利になったのである。
それに伴い、ドワーフたちは生活の中心を宇宙へ移していった。
地上の都市は、少しずつ使われなくなった。古い設備は移設され、再利用された。残された建物は、長い年月のうちに崩壊した。
アリスは、資料の中にある古代ドワーフの都市の図を眺めた。
地下に広がる工場。鉱山。住居。そして、大きな物流施設。
人類が遺跡として発見していたものと、よく似ている。ただし、その図に描かれている都市は、遺跡から想像されていたものよりも、はるかに大きかった。
「……地上には、こんな都市があったんですか」
アリスが尋ねた。
案内してくれた歴史研究員は頷いた。
「ええ。最も大きな都市の一つです」
「今は、もうないんでしょうか?」
「かなり古い施設ですからね。使われなくなってから、長い年月が経っています」
「どうして、地上へ戻らなかったんですか?」
研究員は少し考えた。
「戻る必要がなかったからでしょうね」
「……必要が?」
「ええ。仕事も暮らしも、こちらにありますから」
アリスは黙った。
地上の人類は、ドワーフたちがある日突然、姿を消したと考えていた。
しかし、彼らにとっては、ただ生活する場所が変わっただけだったのかもしれない。
人々が仕事を求めて別の町へ移り住むように。鉱山が閉じれば、別の鉱山へ移るように。
彼らは、地上から宇宙へ移っていったのである。
*
古い工業技術の展示室には、魔法金属で作られた品々が並んでいた。
工具、機械部品、食器、装飾品。
アリスは、展示されている金属塊を見て足を止めた。
それぞれの横に、古い文字と現在の文字が併記されている。
アダマンタイト。
ミスリル。
オリハルコン。
地上でも、まったく同じ名前で呼ばれている金属だった。
「……名前まで同じなんですね」
アリスが呟くと、研究員が振り向いた。
「何がですか?」
「この三種類です。地上でもアダマンタイト、ミスリル、オリハルコンって呼んでいます」
「ああ。それはそうでしょうね」
研究員は頷いた。
「どれも、地上にいたころから使っている名前ですから」
アリスは、古い文字を眺めた。
「……じゃあ、地上の私たちが使っている名前も、もともとはドワーフの言葉なんですね」
「そういうことになりますね」
研究員は、隣の展示を指差した。
「こちらに、当時の工房で使われていた材料台帳があります。ご覧になりますか?」
アリスは身を乗り出した。
台帳には、金属の種類と重量、用途らしい項目が並んでいた。古い文字なので読むことはできなかったが、各項目の横には現代語の説明が添えられている。
三種類の魔法金属の名前が、何度も現れていた。
千年以上前から使われていた名前。
地上の人々は、金属の加工方法を失っても、その名前だけは受け継いできたのである。
「……エーテリウムは?」
アリスが尋ねた。
「こちらにはありませんね」
「まだ見つかっていなかったんですか?」
「この時代には、地上で採取できる量が少なすぎて、工業材料としては扱われていなかったようです。後に宇宙での採掘が始まってから、独立した材料分類が整備されています」
アリスは頷いた。
アダマンタイト、ミスリル、オリハルコン。
その名前は、ドワーフが地上にいたころから伝わっている。
しかし、エーテリウムについては事情が違った。
地上の人々は、ドワーフたちがその物質を利用していたことさえ知らなかった。自分たちで隕石から発見し、性質を調べ、星晶という名前をつけたのだ。
アリスは少し笑った。
「……同じものでも、名前が違うんですね」
「ええ。珍しいことではありませんよ」
研究員も笑った。
「別々に発見されたものなら、そういうこともあるでしょう」
*
資料館の見学を終えた後、アリスは食堂へ案内された。
大きな窓の向こうには、月面都市の一部が見えている。遠くでは、巨大な輸送機械がゆっくりと動いていた。
食堂には、さまざまな人々がいた。
ドワーフたちは、地上の古い書物に描かれていた姿とよく似ている。背が低く、頑健な体格をしている者が多い。
しかし、見た目はそれぞれ違っていた。
細身の者もいれば、長い髭を蓄えた者もいる。髪の色も、肌の色も、さまざまだった。
作業服を着た者。研究者らしい服装の者。子どもを連れた家族。
誰もが普通に食事をしている。
アリスたちを珍しそうに見る者もいたが、ほとんどの人々は自分たちの会話へ戻っていった。
アリスは少し安心した。
ここにも、普通の暮らしがある。
それが、何となく嬉しかった。
食堂の奥では、料理人が大きな鍋を使ってスープを作っていた。
アリスは、その鍋を見て足を止めた。
銀灰色の金属。
滑らかな側面。
綺麗な曲線を描く持ち手。
見覚えのある形だった。
「……あの」
料理人が顔を上げた。
「何でしょう?」
「その鍋、何でできているんですか?」
「アダマンタイトですよ」
料理人は当然のように答えた。
「丈夫で使いやすいんです」
アリスは、しばらく鍋を眺めた。
祖母が若いころ、王立博物館で見た鍋によく似ている。
人類が長い間、作ることのできなかった鍋だった。
古代ドワーフの高度な技術を伝える、貴重な国宝。
その鍋が、ここでは普通に使われている。
「……昔から、こういう鍋を使っていたんですか?」
料理人は頷いた。
「ええ。ずいぶん古くからありますよ」
「そうなんですか」
「最近のものは少し形が違いますけどね」
料理人は別の鍋を指差した。
そちらには、少し複雑な持ち手と蓋がついていた。
「こっちの方が扱いやすいんです。古い型は重心が少し悪くて」
アリスは笑った。
「……そうなんですね」
「ええ。昔の鍋も悪くはないんですが」
料理人は、スープをかき混ぜた。
アリスは、少しの間、その様子を眺めていた。
祖母は、あの鍋を見て、どうやって魔法金属を加工するのか考え始めた。
そして、石化加工という方法を発見した。
それが人類の産業を大きく変えた。
しかし、ここでは、その鍋はただの日用品だった。
アリスは、何とも言えない気持ちになった。
少しおかしくもあった。
少し嬉しくもあった。
何より、祖母に見せてあげたかった。
あの鍋が、普通に使われているところを。
*
食事の後、アリスたちは宇宙港の見学を許された。
案内してくれたのは、材料工学を専門とするドワーフの研究者だった。
名前はグランという。
グランは、月面都市にあるエーテリウム研究所で働いていた。
「地上では、星晶という物質を研究されていると伺いました」
グランが言った。
アリスは頷いた。
「はい。母が研究しています」
「それは興味深いですね。こちらのエーテリウムと同じ物質だという話は聞きました」
「そうなんです」
「地上では、どの程度の大きさの結晶が見つかっているんですか?」
「一番大きいものでも、握り拳よりずっと小さいくらいです」
「なるほど。それでは、研究に使える量が限られますね」
「はい。母もずっと困っていました」
グランは少し考えた。
「でしたら、研究所も見学していただいた方がよさそうです。比較できる試料がいくつかありますから」
「ありがとうございます」
「もっとも、今日は時間があまりありませんから、まずはこちらを」
彼は大きな窓を指差した。
その向こうには、巨大な宇宙港が広がっている。
何層にも重なった船の発着場。無数の貨物輸送設備。整然と並んだ宇宙船。
そして、そのさらに奥に、途方もなく大きな環状の構造物があった。
アリスは、しばらくそれを眺めた。
巨大な輪だった。
直径は、何里あるのかもわからない。
その内部には、暗い空間が広がっている。
しかし、よく見ると、何かが違っていた。
輪の向こうに見える星の配置が、窓の外にある宇宙の景色と一致しない。
アリスは首を傾げた。
「……あれは、何ですか?」
グランが答えた。
「航路門です」
「航路門?」
「ええ。別の星系へ向かうための」
アリスは、しばらく黙った。
「……別の星系?」
「そうです」
グランは、何でもないことのように説明した。
「エーテリウムを利用して、二つの離れた空間を接続しているんです。あの門を通れば、向こう側の星系へ行けます」
アリスは、もう一度輪を見た。
その内部には、確かに星空が見えている。
しかし、それは月から見える星空ではなかった。
遠くで、大きな貨物船が動き始めた。
船はゆっくりと航路門へ向かう。
輪の中央へ入っていく。
そして、そのまま向こう側へ消えていった。
アリスは息を呑んだ。
「……今の船は?」
「貨物船です」
「どこへ?」
「第七外縁星系の採掘拠点ですね。定期便です」
グランは手元の表示装置を確認した。
「今日は、もう二便ほど出港する予定です」
アリスは何も言えなかった。
人類は、つい先ほど月へ到達したばかりだった。
月までの距離を越えるだけで、何十年も研究を続けてきた。
しかし、目の前では、遠い星へ向かう貨物船が普通に出港している。
それも、毎日のように。
「……これも、エーテリウムで?」
ようやく、アリスが尋ねた。
「ええ。主要な機構にはエーテリウムが使われています」
グランは頷いた。
「空間を接続するためには、特殊な性質を持つ材料が必要ですから」
アリスは輪の中央を見つめた。
母が何十年も研究してきた星晶。
小さな結晶が、距離そのものへ影響するという、奇妙な現象。
それを、ドワーフたちはこんな形で使っている。
遠い星々を結ぶ、巨大な航路として。
アリスはゆっくりと息を吐いた。
「……すごいですね」
グランは少し笑った。
「そうですか?」
「はい」
「ありがとうございます」
彼は窓の外を見た。
「私たちも、最初からこんなものを作れたわけではありません。ずいぶん長い時間がかかりましたよ」
アリスは頷いた。
それは、何となく理解できた。
祖母が石化加工を発見してから、ここまで来るだけでも何十年もかかった。
ドワーフたちもまた、長い年月をかけて、少しずつ技術を積み重ねてきたのだろう。
ただ、その積み重ねが、人類よりもはるかに先へ進んでいただけだった。




