15. 違う道具
月面都市に滞在して三日目、アリスはエーテリウム研究所を訪れた。
そこには、地上では見たことのない装置が並んでいた。
巨大な分析機器。精密な加工設備。高いエネルギーを扱うための装置。そして、エーテリウムの性質を調べるための測定器。
グランは一つずつ説明してくれた。
「こちらはエーテリウムの内部構造を調べる装置です」
「……こんなに大きいんですか」
「大きな結晶を測定する必要がありますからね」
装置の中央には、握り拳ほどの黒い結晶が置かれていた。
地上では、これほど大きな星晶を見たことがなかった。
表面は、光を当てる角度によってわずかに青く見える。内部には細かな縞模様があり、ところどころに黒い筋が走っている。
「これ、切り出したものなんですか?」
アリスが尋ねた。
「ええ。原鉱石から分離した後、測定用に形を整えています」
「すごいですね」
「そうでしょうか?」
「地上では、これだけの量があったら、研究所のみんなが大喜びすると思います」
グランは笑った。
「それなら、帰るときにいくつか持っていっていただきましょう」
アリスは目を丸くした。
「……いいんですか?」
「もちろん、持ち帰りの許可は必要ですが。研究用の試料くらいなら、それほど問題ないでしょう」
アリスは、少し呆然とした。
母が何十年も探し続けていた物質が、ここでは研究用の試料として普通に用意されている。
そのことを、ようやく実感し始めていた。
*
次の部屋では、エーテリウムを加工するための装置が動いていた。
細い光のようなものが結晶の表面へ当たり、少しずつ形を変えている。加工された部分からは、非常に細かな粒子が取り除かれていた。
アリスは足を止めた。
「……何をしているんですか?」
「加工です。エーテリウムを必要な形に削っています」
「削る?」
「ええ」
アリスは装置を覗き込んだ。
加工されているのは、小さな黒い結晶だった。何かの部品に使うのだろうか。細い溝がいくつも彫られ、中央には非常に小さな穴が開いている。
「……ずいぶん大がかりですね」
グランは苦笑した。
「そうなんです。エーテリウムの加工は、なかなか難しくて」
「どうしてですか?」
「私たちの精霊魔法が、あまりよく効かないんですよ」
アリスは顔を上げた。
「精霊魔法?」
「ええ。地上の魔法金属なら、火と大地の精霊を利用して精製・加工できます。しかし、エーテリウムはそういう方法では扱いにくいんです」
グランは加工装置を指差した。
「ですから、別の方法を開発する必要がありました」
アリスは頷いた。
アダマンタイト、ミスリル、オリハルコン。
ドワーフたちは、それらを精霊魔法によって自在に加工していた。
しかし、エーテリウムは地上に由来する金属ではない。大地の精霊を利用する技術では、十分に扱えなかったのだという。
アリスは、しばらく加工装置を眺めていた。
「……それで、こういう装置を作ったんですね」
「ええ。星晶……失礼、地上ではそう呼ぶのでしたね」
グランは笑った。
「エーテリウムの空間干渉を利用して、加工点へエネルギーを集中させています。材料自身の性質を利用するわけです」
「なるほど」
「ただし、これにも制約があります。大きな部品ならともかく、小さな形状を正確に仕上げるのは難しいんですよ」
アリスは加工中の結晶を見た。
非常に細い溝が、少しずつ彫られている。
それを作るために、巨大な装置が動いていた。
「……石化加工は、使わないんですか?」
グランは首を傾げた。
「石化加工?」
「はい。バジリスクを使う方法です」
「バジリスク?」
グランは少し考えた。
「ああ。故郷の惑星にいる魔物ですね」
「そうです」
「それを、加工に使うんですか?」
「はい」
アリスは、祖母の発見について説明した。
魔法金属を石化させる。
普通の石工道具で削る。
必要なら、石化した粉末を溶かして固める。
それから解呪する。
そうすると、元の魔法金属へ戻る。
グランは、興味深そうに話を聞いていた。
「……なるほど」
「地上では、今も使われている方法なんです」
「そうでしたか」
グランは少し考えた。
「私たちは、バジリスクを工業利用したことがないんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ。アダマンタイトやミスリルなら、精霊魔法で加工できますから。危険な魔物を使う必要がありませんでした」
「なるほど」
「それに、宇宙へ移住するときも、わざわざバジリスクを連れてくる理由はなかったですし」
グランは笑った。
「今では、こちらで生きた個体を見ることもありません」
アリスは加工装置を見た。
黒い結晶が、ゆっくりと削られている。
「……エーテリウムにも、効くんでしょうか」
グランは少し驚いた顔をした。
「石化魔法が?」
「はい」
彼は、しばらく考えた。
「……どうでしょうね」
「試したことは?」
「ありません」
グランは腕を組んだ。
「ただ、エーテリウムは空間へ作用する性質を持っていますから、普通の物質とは違う反応を示すかもしれません」
「そうですよね」
「それに、仮に石化できたとしても、元へ戻したときに性質が保たれるかどうかは別問題です」
「はい」
アリスは頷いた。
それは、祖母が最初にミスリルを加工したときと同じだった。
石化できるかどうか。
削れるかどうか。
解呪して、元へ戻るかどうか。
一つずつ確かめなければならない。
「……でも、面白そうですね」
グランが言った。
アリスは顔を上げた。
「本当ですか?」
「ええ。特に、石化状態で溶融・接合できるという点が興味深いです」
グランは加工装置を指差した。
「エーテリウムの加工費用は、決して安くありません。すべてを置き換えることはできなくても、一部の工程で利用できるかもしれません」
アリスは頷いた。
「確かに、これだけ大きな装置が必要なら、小さな部品を作るのも大変そうですね」
「そうなんです」
グランは、少し嬉しそうに笑った。
「小さな部品ほど、かえって難しいこともありますからね」
アリスは、その言葉を聞いて笑った。
祖母も、よく似たことを言っていた。
巨大な機械を作るのも大変だが、小さな部品を正確に作るのは別の意味で難しい。
ほんの小さな誤差が、機械全体の動きを悪くすることがある。
どんなに丈夫な材料を使っても、形が正確でなければ役に立たない。
「……祖母が聞いたら、喜びそうです」
アリスが言った。
「お祖母様が?」
「はい。最初に石化加工を考えたのは祖母なんです」
「そうでしたか」
グランは頷いた。
「それは、ぜひお話を伺いたいですね」
「もうずいぶん年を取っていますけど、今でも工房で機械を見ています」
「素晴らしいことです」
グランは加工装置を眺めた。
「もしよろしければ、石化加工についての資料を送っていただけませんか?」
「もちろんです」
「石化魔法の作用範囲や、解呪後の物性について、詳しいデータが欲しいですね」
「わかりました。地上の研究所にも相談してみます」
グランは頷いた。
「ありがとうございます」
*
研究所の見学を終えた後、アリスはグランに一つの質問をした。
「……あの、エーテリウムって、どんなところで使われているんですか?」
グランは少し考えた。
「いろいろありますよ。空間航行のための装置が最も大きな用途ですが、精密測定や位置制御にも利用されています」
「位置制御?」
「ええ。物体の位置や距離を非常に正確に制御するための装置です」
グランは手元の表示装置を操作した。
そこには、さまざまな機械の図が並んでいた。
巨大な航路門。
宇宙船の航法装置。
精密な計測器。
そして、小さな機械部品。
アリスは、その中の一つを指差した。
「……これ、何ですか?」
「空間干渉を利用した微小位置補正装置です。精密機械の一部で使われています」
「どのくらい動かせるんですか?」
「用途によりますが、非常に小さな距離です。普通の機械では制御しにくい領域ですね」
アリスは図面を眺めた。
小さな部品だった。
黒い結晶と、金属製の枠が組み合わされている。
「……これ、地上でも研究してるんです」
「そうなんですか?」
「はい。母の研究室で、星晶を使った精密測定装置を作っています」
グランは嬉しそうに笑った。
「それは興味深いですね」
「まだ性能は全然違いますけど」
「構いませんよ」
グランは頷いた。
「どんな方法を使っているのか、ぜひ見てみたいです」
アリスは少し驚いた。
「……ドワーフの技術の方が、ずっと進んでいるのに?」
「それは、分野によるでしょう」
グランは、当然のように答えた。
「私たちが使っていない方法を、そちらで考案しているかもしれませんから」
アリスは、しばらく黙った。
ドワーフたちは、地上の人類よりもはるかに高度な技術を持っている。
巨大な宇宙船を作り、遠い星々を結び、エーテリウムを自在に利用している。
しかし、彼らがすべての方法を知っているわけではない。
それは、考えてみれば当然のことだった。
地上の人類は、魔法金属を加工するために、石化魔法という別の方法を見つけた。
ドワーフたちは、精霊魔法を利用していたため、その方法を使う必要がなかった。
どちらも、同じ材料を扱うための技術だった。
ただ、そこへ至る道が違っていたのである。
「……そうですね」
アリスは頷いた。
「じゃあ、帰ったら、地上の研究資料を送ります」
「ありがとうございます」
グランは笑った。
「こちらからも、公開可能な資料をお送りしますよ」
*
月面滞在を終える前日、アリスたちは再び宇宙港を訪れた。
帰還船への合流に向けて、着陸機の点検を行う必要があったからだ。
ヴァルドが案内してくれた整備施設には、見慣れない装置が並んでいた。
その中に、人類の月面着陸機が置かれている。
周囲の巨大な宇宙船と比べると、驚くほど小さく見えた。
「……何だか、おもちゃみたいですね」
アリスが呟く。
ヴァルドは笑った。
「そうでしょうか?」
「ここへ来るまでは、ずいぶん大きな宇宙船だと思っていたんです」
「なるほど」
ヴァルドは機体を見上げた。
「でも、よくできていますよ」
「本当ですか?」
「ええ。限られた質量とエネルギーで月まで来られるよう、ずいぶん工夫されていますね」
アリスは少し嬉しくなった。
「ありがとうございます」
ヴァルドは着陸機の脚を指差した。
「特に、ここの衝撃吸収機構が面白いですね。材料をあえて変形させる構造になっている」
「ああ、それ、私が設計しました」
「そうでしたか」
「最初は魔法金属で作ろうと思ってたんですけど、硬すぎて駄目だったんです」
アリスは笑った。
「だから、普通の金属に戻しました」
「なるほど。確かに、衝撃を吸収するには、適切に変形する材料が必要ですからね」
ヴァルドは頷いた。
「いい判断だったと思います」
アリスは、着陸機を見上げた。
自分たちが何年もかけて作った機械だった。
宇宙港に並ぶ船と比べれば、性能も規模も遠く及ばない。
それでも、この船は地上から月まで飛んできた。
そして、無事に着陸した。
小さな故障はいくつかあったが、どれも修理できる範囲だった。
帰りのための燃料も、予定どおり残っている。
「……じゃあ、帰りましょうか」
アリスが言った。
レナが頷いた。
「そうね」
マラは少し残念そうな顔をした。
「……もう少し石を調べたかったな」
「また来ればいいじゃない」
レナが笑った。
マラは、窓の向こうに広がる巨大な宇宙港を見た。
「……そうね」
そして、少し笑った。
「次は、もっと大きな船で来たいわ」
アリスも頷いた。
今度は、もっとたくさんの試料を持ち帰れるかもしれない。
星晶。
エーテリウム。
二つの名前を持つ、同じ物質。
地上の人類が隕石から発見し、長い年月をかけて研究してきた結晶が、ここでは普通の工業材料として使われている。
それでも、地上で積み重ねてきた研究が無意味になったわけではない。
グランたちも、石化加工に興味を持ってくれた。
アリスは、着陸機の外壁へ手を触れた。
少しざらついた、金属の感触だった。
祖母が若いころ、初めてミスリルを削ったときも、こんな気持ちだったのだろうか。
新しい方法が見つかった。
それで、何ができるのかは、まだわからない。
でも、試してみたいことは、いくらでもある。
アリスは、少し笑った。
「……帰ったら、お母さんに話さないとね」
レナが振り向いた。
「何を?」
「エーテリウムのこと」
アリスは答えた。
「それから、ドワーフの研究者が、石化加工を試してみたいって言ってたこと」
レナは頷いた。
「喜びそうね」
「うん」
アリスは笑った。
「きっと、すごく」




