16. 同じ金属
最初の月面探査から五年後、王立材料研究所では、また一つ新しい加工実験が始まろうとしていた。
「……本当に、これを石にするんですね」
若い研究員が、試験台の上に置かれた黒い結晶を見つめていた。
米粒ほどの大きさだった。
角度によって青く光る表面には、細かな縞模様が走っている。隕石から見つかった最初の星晶と、よく似た外観だった。
ただし、この試料は隕石から採取されたものではない。
月面の鉱山で採掘され、精製されたエーテリウムだった。
「そのつもりです」
アリスが答えた。
「前にも試したんですよね?」
「ええ。でも、うまくいかなかったんです」
アリスは試験記録を開いた。
机の上には、これまでに行われた実験の結果が並んでいた。石化しなかった試料。表面だけが変質した試料。石化には成功したものの、解呪後に内部へ亀裂が生じた試料。
実験は、思っていた以上に難航していた。
エーテリウムは、ほかの魔法金属と違って、石化魔法に対して強い抵抗を示した。魔力を与えていない状態でも、結晶の周囲では微弱な空間干渉が生じている。それが石化の作用を妨げているらしかった。
月面の研究者たちは、エーテリウムの空間干渉を一時的に抑える装置を開発していた。
その装置を地上へ持ち込み、石化魔法と組み合わせる。
ようやく、結晶全体を石化させることができるようになったのである。
しかし、石化できることと、加工できることは別だった。
石化した結晶に穴を開け、解呪すると、確かに穴は残る。
ところが、元の結晶が持っていた空間干渉の性質が、うまく戻らないことがあった。
見た目は同じでも、魔力を与えると反応が不安定になる。細かな亀裂が生じた試料もあった。
「……今日は、加工する方向を変えてみます」
アリスは図面を指差した。
「前回の試料は、この向きに穴を開けました。でも、結晶の内部構造を調べたら、この方向に細かな亀裂が入りやすいことがわかったんです」
「だから、今度は九十度ずらす?」
「はい。それと、穴の周囲に少し肉を残します」
研究員は図面を覗き込んだ。
「……ずいぶん小さな穴ですね」
「そうなんです」
アリスは笑った。
「普通に加工するのが大変な形なので、わざわざ石化させるんですよ」
実験には、月面のエーテリウム研究所も参加していた。
壁に設置された通信画面には、ドワーフの研究者グランが映っている。
「こちらの準備はできています」
グランが言った。
「地上側はいかがですか?」
「もう少しで始められます」
アリスは試験装置を確認した。
石化処理室の中央には、小さな遮蔽容器が設けられている。エーテリウムの空間干渉を抑える装置が、その周囲を囲んでいた。
石化魔法を作用させるための設備は、従来のものを改良して利用している。ただし、エーテリウムの処理中に異常な反応が起こる可能性があるため、試験室は無人にしておく決まりだった。
「試料の状態、正常」
研究員が報告した。
「空間干渉抑制装置、正常」
アリスは頷いた。
「では、始めましょう」
装置が動き始めた。
しばらくして、石化処理室の内部に淡い光が広がった。
光が消えると、黒い結晶は灰色へ変わっていた。
「……石化を確認」
研究員が言った。
アリスは測定結果を確かめた。
試料は、ほぼ全体が石化しているようだった。
「よし。加工へ進みましょう」
石化した結晶は、専用の加工室へ運ばれた。
小さな固定台へ試料を取りつけ、細い工具で穴を開ける。
普通の魔法金属なら、石化した時点で加工は容易になる。しかし、今回のエーテリウムは試料が非常に小さく、必要な形状も複雑だった。
加工機がゆっくりと動き始めた。
細かな石粉が、試料の周囲へ落ちていく。
アリスは測定画面を見つめた。
工具の位置。
切削抵抗。
試料の変形。
どれも、予定した範囲に収まっている。
「……穴、開きました」
研究員が言った。
アリスは頷いた。
「仕上げに入りましょう」
工具を交換し、穴の内側を少しずつ整える。
それから、外周をわずかに削った。
加工が終わると、灰色の小さな部品が残った。
中央に細い穴が開いている。
「……綺麗ですね」
研究員が呟いた。
「うん」
アリスは少し笑った。
形だけなら、これまでの試料よりずっとよくできていた。
しかし、まだ成功ではない。
解呪してから、元の性質が保たれているか調べなければならなかった。
*
解呪後の部品は、元の黒い光沢を取り戻していた。
加工した穴も残っている。
外観を調べても、大きな欠陥は見つからなかった。
しかし、問題は内部だった。
アリスたちは試料を精密測定装置へ移した。
微細な亀裂がないか調べ、結晶内部の構造を記録する。
その後、少しずつ魔力を与えて、空間干渉の性質を確かめた。
最初の測定値は、正常だった。
次も、正常。
アリスは、手帳に数値を書き込んだ。
魔力を少し強くする。
反応が大きくなった。
しかし、以前のような不安定な変化は現れなかった。
「……いいですね」
通信画面の向こうで、グランが言った。
アリスも頷いた。
「はい。今までで一番いい結果です」
「もう少し繰り返してみましょう」
「そうですね」
測定は、その後も続いた。
何度も魔力を与え、止める。温度を変え、試料の向きを変える。外部から小さな振動を加え、反応がどの程度変化するかも調べた。
結晶は、安定していた。
もちろん、完全な結果ではなかった。
加工前の試料と比べると、空間干渉の効率はわずかに低下している。また、長期間使用した場合の耐久性については、まだわからない。
それでも、初めて実用を検討できる水準に達した。
「……できましたね」
アリスが言った。
グランは、通信画面の向こうで笑った。
「ええ。ようやく」
若い研究員が、試料を眺めた。
「これで、エーテリウムも石化加工できるようになったんですね」
アリスは少し考えた。
「……できるようになった、とは言えるかな」
「違うんですか?」
「まだ、条件が限られてるんです」
アリスは測定装置を指差した。
「これだけの設備を使って、ようやく一つ作れました。しかも、解呪後の性質がどこまで保たれるかは、形状によって違うかもしれません」
グランも頷いた。
「そうですね。大きなエーテリウム部品を作るなら、今までの方法の方がずっと効率的でしょう」
「でも、小さな部品なら?」
「可能性があります」
グランは笑った。
「特に、複雑な内側の形状を作る場合ですね」
アリスは手元の部品を見た。
中央には、小さな穴が開いている。
最初の実験で祖母が作ったミスリルの円柱も、確か、こんな形だった。
もっとも、あちらの穴はずいぶん曲がっていたらしいが。
*
新しい加工方法が実用化されるまでには、そこからさらに二年かかった。
試料の大きさによって、石化に必要な条件が変わる。
結晶の内部構造によって、加工に適した方向が違う。
解呪後に生じる微細な欠陥も、すべてなくせたわけではなかった。
それでも、少しずつ使える範囲が広がっていった。
エーテリウムを石化して加工する方法は、従来の加工法を置き換えるものではなかった。
空間干渉抑制装置と石化設備を組み合わせるため、処理費用は決して安くない。大きな部品を作るなら、ドワーフたちが長年使ってきた加工法の方がずっと合理的だった。
しかし、ごく小さな部品や、複雑な内部形状を必要とする部品では、石化加工の方が少ない工程で製造できる場合があった。
それは、誰もが期待していたような革命的な成果ではなかった。
巨大な航路門が、突然安く作れるようになったわけではない。
宇宙船の性能が飛躍的に向上したわけでもない。
ただ、これまで製造するのが難しかった小さな部品を、少し簡単に作れるようになった。
それでも、工業技術としては十分に意味があった。
最初の実用品は、月面宇宙港で使われる精密な計測装置の部品だった。
航路門の周囲で生じる微細な空間変化を測定するための装置である。装置全体は非常に大きく、複雑な仕組みを持っていたが、その中に使用されるエーテリウムの部品は、指先ほどの大きさしかなかった。
新しい石化加工法によって、その部品の製造工程を一部簡略化できることがわかったのである。
共同研究に参加した技術者たちは、何度も試作品を作り、性能を測定し、製造条件を調整した。
そして、ようやく量産に向けた仕様がまとまった。
*
製造仕様書の最終確認は、地上と月面を結ぶ通信会議で行われた。
アリスは、机の上に並べられた資料を確認していた。
向こう側には、グランと数人のドワーフの研究者がいる。
「加工条件については、これで問題なさそうですね」
グランが言った。
「はい。こちらでも確認しました」
アリスは頷いた。
「ただし、試料の内部構造によって補正量が変わるので、製造前の検査は必要です」
「承知しています。こちらの検査工程に組み込みましょう」
会議は順調に進んだ。
石化処理の条件。
加工時の寸法。
解呪後の検査方法。
不良品の判定基準。
記録の保管方法。
それぞれの項目について、担当者が確認を行った。
やがて、最後の項目になった。
「……材料名についてですが」
地上側の研究員が言った。
「こちらの仕様書では、星晶と記載しています」
グランが頷いた。
「こちらではエーテリウムですね」
「どちらに統一しましょうか?」
アリスは少し考えた。
「両方書いておけばいいんじゃないですか?」
「両方?」
「はい。星晶、括弧でエーテリウム」
グランが笑った。
「それでも構いませんが、こちらの仕様書では逆になりますね」
「じゃあ、逆でもいいです」
アリスは笑った。
「材質が同じだとわかれば、それでいいんじゃないでしょうか」
研究員は少し困った顔をした。
「……でも、書類によって名前が違うのは、管理上よくないのでは?」
グランは頷いた。
「それなら、材料規格番号を統一しましょう。名称は、それぞれの言語で表記すればよいと思います」
「ああ、それなら」
研究員は納得した。
「では、規格番号を共通にして、正式名称は併記することにします」
アリスは頷いた。
「それがいいですね」
グランも笑った。
「ええ」
それから、彼は資料の最後の項目を確認した。
「では、これで製造仕様が確定ですね」
「はい」
「長い研究でした」
アリスは少し笑った。
「そうですね」
「最初に石化加工の話を聞いたときは、こんな形で利用できるとは思っていませんでした」
「私もです」
二人は笑った。
そして、会議は終わった。
*
数か月後、月面宇宙港に新しい計測装置が設置された。
その中には、地上で開発された石化加工技術を利用して製造された、小さなエーテリウム部品が組み込まれていた。
装置の試運転は、問題なく終了した。
測定精度は予定した範囲に収まり、長時間の連続運転でも大きな異常は見つからなかった。
運用開始の許可が下りた後、装置は通常の監視系統へ組み込まれた。
それだけだった。
宇宙港で働く人々のほとんどは、新しい部品が使われていることなど知らなかった。
巨大な航路門は、今日も予定どおり動いている。
貨物船が通過し、旅客船が到着し、作業員たちは次の便の準備に追われていた。
そのすべてが、これまでと同じように続いていた。
ただ、航路門の状態を調べる装置の一つに、地上の人類が考案した加工法で作られた部品が使われるようになったのである。
*
アリスが月面宇宙港を訪れたのは、その少し後のことだった。
今回は探査ではなく、共同研究の打ち合わせだった。
地上と月を結ぶ交通は、以前よりずっと便利になっていた。ドワーフの技術を取り入れた輸送船も運航され始め、研究者や技術者が行き来する機会も増えている。
もっとも、宇宙船の運航費用はまだ高かった。
誰でも気軽に月へ旅行できるというわけではない。
アリスは、宇宙港の通路を歩いていた。
窓の外には、巨大な航路門が見える。
その向こうでは、貨物船がゆっくりと出港の準備をしていた。
グランが、隣を歩いていた。
「例の部品、今のところ順調ですよ」
「よかったです」
「製造工程も安定してきました。次のロットからは、もう少し費用を下げられそうです」
「本当ですか?」
「ええ。ただ、検査工程を簡略化するには、もう少しデータが必要ですね」
「そうですね」
二人は、しばらく歩いた。
通路の向こうには、材料研究所の新しい実験室がある。
そこでは、エーテリウムを別の方法で加工するための研究が進められていた。
石化加工だけではない。
ドワーフたちが長年使ってきた精密加工技術と、地上の人類が発展させた工作機械の技術を組み合わせる試みも始まっていた。
どちらの文明にも、得意なことと不得意なことがあった。
新しい研究が始まるたび、知らなかった方法が見つかる。
アリスは、それが面白かった。
「……そういえば」
グランが言った。
「先日送っていただいた加工記録ですが、興味深いものがありました」
「どれですか?」
「最初にミスリルを石化して削ったときの記録です。ずいぶん古いものですね」
「ああ」
アリスは笑った。
「祖母の実験記録ですね」
「そうです。中央に穴を開けた、小さな円柱の」
「はい」
「面白いですね。最初の試験で、ああいう形を作ったんですか」
「そうみたいです。祖母は機械工房で働いていたので、穴を開けてみたかったんじゃないでしょうか」
「なるほど」
グランは笑った。
「それで、今度はエーテリウムに穴を開けたわけですね」
アリスも笑った。
「そうですね」
その言葉を聞いて、少し不思議な気持ちになった。
祖母が最初に加工したミスリルの円柱。
自分たちが新しく加工したエーテリウムの部品。
どちらも、小さな穴の開いた金属片だった。
しかし、そこへ至るまでには、ずいぶん長い時間がかかっている。
鉱石を砕き、選別し、溶かし、合金を作る。
新しい材料を発見し、その性質を調べる。
宇宙船を作り、月へ行き、ドワーフたちと出会う。
そして、また別の材料を削る。
アリスは、少し笑った。
「……祖母に見せたら、喜ぶでしょうね」
グランは頷いた。
「ぜひ、見せてあげてください」
*
実験室では、若い技師たちが新しい試料を準備していた。
机の上には、黒いエーテリウムの結晶と、灰色の石化試料が並んでいる。
その隣には、小さな鋳型が置かれていた。
アリスは足を止めた。
「……何を試してるんですか?」
若い技師が顔を上げた。
「ああ、アリスさん。ちょうどよかった」
彼は鋳型を持ち上げた。
「石化したエーテリウムの粉末を、一つにまとめられないか調べているんです」
アリスは首を傾げた。
「粉末を?」
「はい。加工すると、石の粉が出るでしょう?」
「そうですね」
「これ、毎回捨てるのはもったいないと思いまして」
技師は、小さな容器を指差した。
その中には、灰色の粉が少しだけ溜まっていた。
「ミスリルなら、石化した粉末を溶かして固められると聞きました。エーテリウムでも、同じことができないかと思って」
アリスは、容器の中を覗き込んだ。
普通の石粉と、ほとんど変わらない。
けれど、その一粒一粒がエーテリウムだったものだ。
「……なるほど」
アリスは頷いた。
「面白そうですね」
「でしょう?」
技師は嬉しそうに笑った。
「ただ、石化中に加熱すると、解呪後の性質がどうなるかわからないんですよね」
「そうですね。溶けたとしても、元のエーテリウムとして使えるとは限りませんから」
「はい。だから、まずは少量で試してみようと思っています」
アリスは、机の上の鋳型を見た。
小さな、何の変哲もない容器だった。
その隣には、灰色の粉が入った皿が置かれている。
「……私も見ていていいですか?」
アリスが尋ねた。
「もちろんです!」
技師は頷いた。
「これから、最初の加熱試験をするところなんです」
アリスはグランを見た。
グランも、少し笑っていた。
「……それなら、私も見学させていただきましょう」
若い技師は嬉しそうに頷いた。
そして、試料の入った容器を持ち上げた。
実験室の奥では、炉の準備が進んでいる。
まだ、どうなるかはわからない。
石化したエーテリウムの粉末が溶けるかどうかも、溶けたものを元に戻せるかどうかも、誰も確かめていなかった。
アリスは、試験記録用の手帳を開いた。
グランが、加熱条件について技師に尋ねている。
若い技師は、これまでの試験結果を説明し始めた。
アリスは、その話を聞きながら、机の上の灰色の粉を眺めていた。
それから、少し笑った。
「……じゃあ、やってみましょうか」
技師は頷いた。
「はい!」
炉の扉が、ゆっくりと開いた。
『魔法金属の削りかた』 完




