07. 三本の物差し
最初に疑われたのは、測定装置の故障だった。
それも当然だった。
オリハルコンの導線へ魔力を流せば、周囲の機器に影響を与えることがある。精密な光学装置の支持台がわずかに温まったり、測定器内部の部品が変形したりする可能性もあった。
研究員のリオは、まず自分の装置を分解した。
台座の固定ねじを締め直し、鏡の位置を調整し、光源を交換する。振動の影響を減らすため、装置の脚の下には厚い石板を敷いた。
しかし、測定値の異常は消えなかった。
「……やっぱり、そっちの装置が悪いんじゃないですか?」
リオが言う。
「私の?」
「ええ。魔力を流すたびに何か出てるんでしょう」
セラは、黒い結晶を取り出した。
「じゃあ、これを外してみよう」
空の状態で測定する。
リオの装置は動かなかった。
試料の代わりに、鉄片を置いてみる。
やはり、動かない。
ミスリルでも、オリハルコンでも、同じだった。
ところが黒い結晶を置くと、測定値がずれた。
「……やっぱり、これですね」
ニルが言った。
「みたいだね」
セラは結晶を見つめた。
外観は何も変わっていない。光っているわけでも、熱を持っているわけでもなかった。
しかし、魔力を与えると、近くにある測定器の値が変わる。
それも、魔導測定器ではなく、距離を測るための光学装置だった。
「何か光を曲げてるのかな」
セラが呟いた。
リオは頷いた。
「まずはそれでしょうね」
光が曲がれば、干渉を利用した測定器に影響が出る可能性がある。
ならば、光を使わない方法で測ってみればよい。
セラたちは、別の測定器を用意した。
*
翌日、研究室の中央には長い測定台が据えられていた。
両端に金属製の標識を固定し、その距離を三種類の方法で測る。
一つは、普通の物差し。
一つは、光の干渉を利用した測定装置。
もう一つは、接触式の精密測定器だった。
接触式の測定器は、細い金属棒の端を標識へ当て、その伸び縮みを機械的に読み取る仕組みである。光学装置ほど細かな変化は測れないが、光の屈折や反射の影響は受けない。
リオは、一つずつ測定値を確認した。
「普通の状態では、全部一致しています」
「よし」
セラは、黒い結晶を測定台の中央へ置いた。
オリハルコンの輪を通して魔力を与える。
光学装置の値が、わずかに変化した。
接触式の測定器も動いた。
「……あれ?」
リオは顔を上げた。
セラが尋ねる。
「そっちも?」
「ええ。ただ、光学装置とは変化の大きさが違います」
「どういうこと?」
「わかりません」
リオはもう一度測定した。
装置の値は再現した。
魔力を止めると元に戻り、再び流すと変化する。
同じ金属棒を使い、試料の位置を変えてみた。結晶を標識の近くへ置くと、測定結果はまた違った。
「熱の影響じゃないんですか?」
ニルが尋ねた。
「それなら、これほどすぐには戻らないと思う」
セラは答えた。
金属の膨張は、温度によって起こる。魔力を止めた瞬間に元へ戻るわけではないし、試料の位置によって影響が変わるとしても、温度分布を調べれば説明できるはずだった。
しかし、温度計には大きな変化が出ていなかった。
セラたちは、測定台を別の部屋へ運んだ。
翌日には、地下の振動の少ない実験室へ移した。
光源を変え、標識の材質を変え、測定台そのものを別のものへ交換した。
それでも、黒い結晶を置いて魔力を与えると、奇妙な変化が現れた。
普通の物差しでは、ほとんどわからない。
しかし、精密測定器では確かに何かが起きている。
しかも、測定する方法によって、距離が違って見えるのだった。
*
研究は、数週間にわたって続いた。
セラは、最初のうちは装置の故障だと思っていた。
リオも同じだった。
ある日は光学装置の鏡を交換し、別の日には測定台を石で作り直した。魔力の供給方法も変えたし、結晶を遮蔽するための箱も作った。
そのうち、測定装置そのものに奇妙なことが起きているのではなく、結晶の近くを通る測定経路によって、得られる距離が変わるらしいことがわかってきた。
例えば、二つの標識の間を直接測る。
次に、少し離れた場所に第三の標識を置き、そこを経由して距離を測る。
普通なら、測定結果は幾何学的な関係に従うはずだった。
ところが黒い結晶に魔力を与えると、標識を固定したままでも、その関係がわずかに変わる。
光学装置だけの問題ではなかった。
測定台の一部が伸び縮みしただけでも、説明できなかった。
リオは何度も計算をやり直した。
「……これは、おかしいですよ」
ある日の夕方、彼は手帳を机へ置いた。
セラは顕微鏡から顔を上げた。
「また?」
「またです。数字が合いません」
「どれ?」
リオは図を描いた。
三つの標識が三角形を作っている。標識そのものは固定されていた。
「この二点間の距離は、こうです。こちらも測定しました。では三つ目の距離はどうなるか」
リオは計算結果を書き込んだ。
「普通なら、ここはこの値になるはずです」
「うん」
「でも、実際に測ると違うんですよ」
「結晶の影響で光が曲がってるんじゃない?」
「それなら、別の測定方法で調べれば説明できるはずです。ところが、どうやっても全部が一致しない」
セラは図を眺めた。
三角形の三辺。
測定器の値。
魔力を流したときの変化。
リオは続けた。
「しかも、結晶の位置を変えると、どの経路に影響が出るかも変わるんです」
「……ということは?」
「わかりません」
彼は肩を落とした。
「私たちの装置が、全部おかしくなってるんでしょうか」
セラは、しばらく図を眺めていた。
それから尋ねた。
「……距離そのものが変わってるってことはないの?」
リオは顔を上げた。
「距離?」
「うん。物差しの方が間違ってるんじゃなくて、測ろうとしている距離そのものが」
「……どういう意味ですか?」
セラは少し考えた。
「例えば、こういうことはできないのかな」
彼女は紙に三つの点を描いた。
それから、その間に小さな丸を一つ描き込んだ。
「この丸の近くを通ると、距離が少し変わる。遠くを通ると、変わらない」
「光が曲がるということですか?」
「光だけじゃなくて」
セラは、言葉を探した。
「……空間が、少し変わってるとか」
リオは黙った。
セラも黙った。
机の上には、細かな測定値が書かれた紙が何枚も広がっている。
リオは、もう一度図を見た。
「……空間?」
「うん」
「それは……」
リオは言葉を切った。
しばらくして、ゆっくりと頷いた。
「……そういう考え方も、できるのかもしれません」
セラは、少し笑った。
「変な話だよね」
「ええ」
リオも笑った。
「でも、今までの説明よりは、数字が合いそうです」
*
もちろん、その場で空間の性質が解明されたわけではなかった。
むしろ、研究はそこから急に難しくなった。
まず、空間そのものが変化しているという仮説を、どうすれば確かめられるのかが問題だった。
光が曲がっているだけかもしれない。
魔力が測定器へ作用しているのかもしれない。
あるいは、まだ知られていない別の物理現象が起きている可能性もある。
セラたちは、物理学者や魔術研究者へ協力を求めた。
最初に相談した教授は、話を聞いて眉をひそめた。
「空間が変わる?」
「はい」
「そんなことが起きると、本気で考えているのですか?」
「可能性の一つです」
「まず装置を疑うべきでしょう」
「それは、もうずいぶんやりました」
「では、別の装置を使いなさい」
「それもやりました」
教授は、しばらく黙った。
それから、セラの持ってきた測定記録を読み始めた。
読み進めるにつれて、少しずつ表情が変わった。
「……これは、誰が測定したのですか?」
「私とリオです」
「繰り返し回数は?」
「ここにあります」
「対照試験は?」
「こちらです」
教授は手帳を閉じた。
「……一度、実物を見せてください」
翌週、教授は研究室へやってきた。
測定装置を自分で操作し、セラたちの記録と同じ現象が起きることを確認した。
さらに別の研究者が招かれた。
そして、また別の研究者がやってきた。
研究は次第に、材料研究所だけでは扱いきれない規模へ広がっていった。
数学者たちが新しい幾何学的なモデルを考え、魔術研究者たちが魔力と空間の関係を調べ始めた。
セラは、次々と増える研究者の名前を覚えるのに苦労した。
自分はただ、新しい鉱物を分析していただけだったのに。
いつの間にか、空間そのものについて議論する会議へ出席するようになっていた。
もっとも、会議の内容は難しいものが多かった。
セラには、数学者たちの書く式の意味がわからないこともあった。
そのたびに質問した。
「すみません。今の式って、どういう意味ですか?」
研究者たちは説明してくれた。
しかし、説明がさらに難しくなることも多かった。
そういうとき、セラは手帳の端に小さな絵を描いて考えることにしていた。
三つの点。
その間に置かれた黒い結晶。
結晶へ魔力を与えると、点と点の距離が変わる。
少なくとも、今のところ、それが最も観測結果によく合う説明だった。
実験で得られる変化は、非常に小さい。
しかし、確かに再現する。
そして、その変化は、結晶へ与える魔力によって強くなった。
研究者たちは、次第に一つの結論へ近づいていった。
この黒い結晶は、周囲の空間へ直接作用する性質を持っているらしい。
それは、既知の魔法金属にはない性質だった。
*
新しい物質の存在が正式に認められたのは、最初の分析から一年ほど後のことだった。
研究所の会議室には、セラたちの他にも多くの研究者が集まっていた。
黒い結晶の化学組成は、既知の鉱物とは一致しなかった。高い硬度と特有の電気的性質を持ち、魔力を与えると周囲の距離の測定結果に再現性のある変化を生じさせる。
空間そのものへの作用という解釈には、まだ研究の余地があった。
それでも、未知の物質であることは疑いようがなかった。
「名称を決める必要がありますね」
会議の最後に、議長が言った。
研究者たちは、いくつかの候補を挙げた。
発見場所にちなんだ名前。
外観にちなんだ名前。
空間干渉という性質にちなんだ名前。
しかし、なかなか意見がまとまらなかった。
セラは、しばらく話を聞いていた。
それから、手を挙げた。
「あの、星晶というのはどうでしょう」
議長が顔を上げた。
「星晶?」
「はい。隕石から見つかった結晶ですし」
「なるほど」
「それに、地上の鉱石ではまだ見つかっていませんから」
研究者の一人が頷いた。
「悪くないですね」
「発音もしやすい」
「他の三種類の魔法金属とも区別できます」
しばらく議論した後、新しい物質は「星晶」と呼ばれることになった。
アダマンタイト、オリハルコン、ミスリルに続く、第四の魔法金属。
もっとも、セラ自身は、それを魔法金属と呼んでよいのか少し迷っていた。
見た目は金属に似ているが、性質はあまりにも違っている。
それでも、今のところ、他によい分類が見つからなかった。
研究室へ戻ると、ニルが新しい試料ラベルを作っていた。
そこには、大きな文字で「星晶」と書かれている。
「名前、決まりましたね」
「うん」
「いい名前だと思いますよ」
「ありがとう」
セラは棚から硝子容器を取り出した。
小さな黒い結晶が、中に入っている。
最初に発見したときと、見た目はほとんど変わらなかった。
ただ、今ではこの結晶が、普通の鉱物ではないことを知っている。
セラは容器を光にかざした。
「……変なの」
ニルが笑った。
「またそれですか」
「だって、変でしょう。こんなに小さいのに、距離が変わるんだよ」
「そうですね」
「何でだろう」
「それを研究してるんじゃないですか」
「そうなんだけどね」
セラは、もう一度結晶を眺めた。
研究しなければならないことは、まだ山ほどあった。




