02. 削れた
「アダマンタイトを石にしたい?」
神官は、書類から顔を上げた。
「はい」
「何のために?」
「削るためです」
神官はしばらく黙っていた。
「……削る?」
「石になれば削れますよね?」
「それは、まあ。普通の石であれば、石工道具で加工できるでしょう」
「じゃあ、魔法金属も石にすれば削れるんじゃないですか?」
神官は腕を組んだ。机の向こうに座っているのは、エダより二十歳ほど年上の男性だった。石化被害の救済や解呪を担当する部署の責任者で、名前はハロルドというらしい。
エダは神殿の受付で事情を説明し、ようやくこの部屋へ通されていた。
「まず確認しますが、あなたは魔法金属をお持ちなのですか?」
「はい。工房にミスリルがあります」
「ミスリルを石化させたい、と」
「そうです」
「それを削って、元に戻す?」
「はい!」
ハロルドは、何かを考えるように机を指で叩いた。
「石化した物品を修復すること自体は、珍しいことではありません。破損した家具や道具を、解呪前に修繕する場合もありますから」
「ええ、さっき荷馬車の修理をしていたんです。それで気づきまして」
「しかし、積極的に石化させて加工するという話は、少なくとも私は聞いたことがありません」
「そうなんですか?」
「ええ。わざわざ危険な魔物を使って、普通に加工できるものを石にする必要はありませんからね」
「普通に加工できないものだったら?」
神官は、そこで少し笑った。
「なるほど。そういうことですか」
エダは身を乗り出した。
「できますか?」
「何がでしょう」
「魔法金属も、石になるんでしょうか?」
ハロルドは困った顔をした。
「さあ。どうでしょうね」
「……知らないんですか?」
「バジリスクの魔眼が、さまざまな物質を石化させることはわかっています。しかし、アダマンタイトやミスリルに作用するかどうかについては、私の知る限り、確認された記録がありません」
「じゃあ、試してみたいです」
「そう簡単にはいきません」
「どうしてですか?」
「危険だからです」
それからハロルドは、神殿で管理しているバジリスクについて説明した。
捕獲した個体は、神殿の地下に設けられた専用施設で収容されている。魔眼を遮る二重の遮光板があり、餌やりも清掃も、訓練を受けた管理者が行う。
石化事故の研究や、解呪術の訓練に利用されることはあるが、一般の職人が自由に実験できるわけではない。
「それに、石化させた品物が元に戻せるという保証もありません」
「えっ?」
「何にでも同じように解呪が作用するとは限りません。魔法金属は特殊な材料ですから」
「……それは困りますね」
「でしょう?」
エダは少し考えた。
「じゃあ、まず鉄で試します」
「鉄ですか」
「はい。普通の鉄を石にして、削って、それから元に戻すんです」
「鉄であれば、解呪自体は問題ないと思いますが」
「それができたら、次はミスリルで」
「ですから、試験には許可が必要でして」
話は、そこからなかなか進まなかった。
神殿には実験申請のための書類がある。しかし申請者には身元の保証が必要で、目的、実験方法、使用する材料、事故が起きた場合の責任者まで決めなければならない。
施設の使用料もかかる。バジリスクの管理者と解呪を担当する神官には、それぞれ手当を支払う必要があった。
エダは説明を聞くうちに、次第に顔を曇らせた。
「……ずいぶん大変なんですね」
「当然でしょう。危険な魔物を扱うのですから」
「そうですよねえ」
ハロルドは申請書を一枚取り出した。
「まずは、これを工房の責任者に書いていただいてください」
エダは書類を受け取った。
「わかりました。ありがとうございます!」
椅子から立ち上がり、部屋を出ようとする。
「ああ、ちょっと待ってください」
「はい?」
「実験ができるようになったとして、成功したらどうするおつもりですか?」
エダは首を傾げた。
「成功したら?」
「ミスリルを加工できるようになったら、ということです」
「ああ」
エダは嬉しそうに答えた。
「軸受を作ります」
ハロルドは、何とも言えない顔をした。
*
神殿を出たエダは、南門へ戻った。
修理中だった荷馬車は、ようやく車輪の応急処置が終わったところだった。神官が到着し、石化した荷馬車の解呪を始めている。
光が車体を包み、灰色の石が木材と鉄の色へ戻っていった。エダが溝を彫った鉄輪にも、元の金属光沢が戻る。
溝は、そのまま残っていた。
エダは指先でそれをなぞった。さっき自分が石に彫った溝と、まったく同じ形をしている。
「お嬢さん、どこへ行ってたんです?」
商人が尋ねた。
「神殿です」
「それは見ればわかりますけど……」
「すみません。続きやりますね」
エダは工具を取り出した。
石工の応急処置で車輪はどうにか形を保っていたが、解呪後も安全に使えるかは別問題だった。鉄輪の継ぎ目や木製の輪の状態を確かめ、傷んだ箇所は交換することにした。
結局、修理には夕方までかかった。
エダが工房へ戻ったころには、日が傾き始めていた。
「遅かったな」
ロアンが作業台から顔を上げた。
「すみません。南門の荷馬車で、ちょっと」
「聞いてるよ。修理は済んだのか?」
「はい。それで、親方」
「何だ?」
エダは申請書を差し出した。
「これ、書いてもらえますか?」
ロアンは書類を受け取り、目を通した。しばらくして、眉間に皺が寄った。
「……バジリスク?」
「はい」
「何に使うんだ?」
「加工です」
「何の加工だ?」
「ミスリルです」
ロアンは、もう一度書類を読んだ。それから、ゆっくりと顔を上げた。
「……馬鹿か?」
「違いますよ。ちょっと聞いてください」
エダは、南門で見たものを説明した。
石化した荷馬車の鉄輪を削ったこと。普通の鑿で、簡単に溝を彫れたこと。その溝が、解呪後も鉄輪に残っていたこと。
「それで?」
「だから、ミスリルも石にすれば削れるんじゃないかなって」
ロアンは腕を組んだ。
「……待てよ」
「はい」
「石化した鉄は、普通の石と同じように削れるんだな?」
「そうです」
「で、削ってから元に戻すと、穴や溝が残る」
「はい」
「なら、ミスリルを石化させれば……」
ロアンは言葉を切った。工房の奥にある棚を見た。そこには、先代から引き継いだミスリルの塊が置かれている。
「……なるほどな」
親方は立ち上がった。
棚から塊を取り出し、作業台へ置く。淡い銀灰色の表面には、何十年も前につけられた小さな傷跡が残っていた。鋼鉄の工具で加工しようとして失敗した跡だった。
「こいつを石にするのか」
「はい」
「それで、削る」
「そうです」
「削ったら元に戻す」
「はい!」
ロアンは金属塊を持ち上げ、しばらく眺めた。
「……できたら、すごいことだな」
「でしょう?」
エダは嬉しくなった。
「親方も、そう思いますよね?」
「思う」
ロアンは塊を作業台へ戻した。
「だが、本当に石化するのか?」
「わかりません」
「戻せるのか?」
「それも、やってみないと」
「失敗したら、このミスリルはどうなる?」
「……石のままかもしれません」
ロアンは少し黙った。
工房に残されたドワーフ製のインゴットは、これ一つだけだった。加工できないとはいえ、貴重な金属標本である。先代の親方が長年大切に保管してきたものでもあった。
エダも、それはわかっていた。
「全部は使わなくてもいいんです。小さな破片でもあれば……」
「ああ、そういや」
ロアンは棚の奥をごそごそと探り始めた。やがて、古びた革袋を取り出した。袋の中には、いくつかの小さな金属片が入っていた。
「昔、親父がまとめて買ったやつだ。インゴットの欠片だとか何とか言ってたな」
ロアンは、そのうちの一つを取り出した。小指の爪ほどの大きさだった。
「これなら使ってもいいぞ」
「本当ですか?」
「ああ。どうせ何十年も棚に入ってたんだ。失敗したら失敗したで、仕方ねえ」
エダは、ミスリルの小片を受け取った。
小さな金属片だった。しかし、これまで人類がどれだけ試しても、まともに加工できなかった金属である。
エダは、それを指先でつまんだ。
「……ありがとうございます」
「ただし、俺も行くぞ」
「え?」
「実験だろ。親方が責任者なんだから、立ち会わなきゃ駄目だろうが」
ロアンは申請書を広げた。
「それに、面白そうじゃねえか」
*
神殿から実験の許可が下りるまで、十二日かかった。
思っていた以上に費用がかかった。施設の使用料、魔物管理者への手当、解呪を担当する神官への謝礼、安全設備の点検費用。合わせれば、工房の一週間分に近い利益が消える金額だった。
さらに、実験の前には材料の申告と検査が必要だった。
鉄片一つ、ミスリル片一つ。どちらも小さな試料である。
神殿の担当者は、何度も申請書を読み返した。
「本当に、この二つだけでよろしいのですか?」
「はい」
「大きなものを石化させるわけではないのですね?」
「そうです」
「実験が終わったら、必ず解呪しますね?」
「はい」
担当者は頷き、最後に確認した。
「なお、石化した試料が元に戻らなかった場合、神殿では補償できません」
「わかっています」
エダは書類に署名した。ロアンも、その隣に署名した。
実験は、三日後の午後に決まった。
*
神殿の地下にある石化試験室は、想像していたよりも小さかった。
厚い石壁で囲まれた部屋の奥に、バジリスクを収容する檻がある。檻の前には二重の遮光板が設けられ、試験用の台座だけが魔眼の作用範囲へ出せる構造になっていた。
エダとロアンは、厚い防護壁の向こうにある観察室へ案内された。硝子窓の外側には、さらに金属製の遮光板が設けられている。試験中は直接覗き込まず、遮光板を閉じた状態で待つ決まりだった。
魔物管理者が説明する。
「魔眼を開放するのは三呼吸だけです。それ以上は、試験台の周囲まで石化が進む可能性があります」
「そんなに広がるんですか?」
エダが尋ねた。
「個体にもよります。今回使う個体は小型ですが、扱いを誤れば危険です」
ロアンが腕を組んだ。
「なるほどな」
「試料を台座へ置いたら、職員以外は部屋へ入らないでください。石化後も、安全確認が終わるまで触れてはいけません」
二人は頷いた。
最初の実験には鉄片を使うことになっていた。縦三寸、横一寸ほどの小さな鉄の板である。エダはあらかじめ表面を磨き、寸法を測っておいた。
試験室の職員が鉄片を台座へ置く。
遮光板が閉じられた。
魔物管理者が合図を出す。
奥の檻で、重い仕掛けが動く音がした。
しばらくの沈黙。
そして、二度目の金属音が響いた。
「終了しました」
管理者が告げた。
エダは思わず身を乗り出した。
「石になりましたか?」
「安全確認を行います。少々お待ちください」
しばらくして、試験室の扉が開いた。職員が台座を運んでくる。その上には、灰色の石片が置かれていた。
形は、先ほどの鉄片と変わらない。しかし、表面の金属光沢は完全に失われている。
エダは石片を手に取った。表面は少しざらついていて、指で触ると、普通の石とほとんど変わらない感触だった。
「……本当に石になってる」
ロアンが隣から覗き込む。
「どうだ?」
「削ってみます」
エダは作業台へ移動した。
道具は神殿で用意されたものではなく、自分で持ってきた鑿と金槌だった。普段、金属加工に使っているものとは違う。石工に借りてきた、小さな石彫用の道具である。
石片を固定し、細い鑿を当てる。軽く金槌を振り下ろした。
小さな欠片が落ちた。
もう一度、叩く。
やはり、簡単に削れた。
エダは鑿を持ち替え、石片の中央に穴を開け始めた。しばらくすると、直径半寸ほどの穴が開いた。石片を裏返して、穴の縁を整える。少し形が歪んでいたので、やすりを使って修正した。
作業が終わると、エダは石片を光にかざした。穴の向こうに、観察室の窓が見える。
「できました」
ロアンが覗き込んだ。
「うん。綺麗に開いてるな」
「これで戻してみます」
エダは解呪を担当する神官へ石片を渡した。
神官は台座へ置き、両手をかざした。淡い光が広がる。
灰色の石が、ゆっくりと黒い金属光沢を取り戻していった。
光が消える。
台座の上には、鉄片が置かれていた。ただし、元の鉄片とは違う。
中央に穴が開いている。
エダは、それを持ち上げた。穴の内側まで、ちゃんと鉄になっていた。
「……戻った」
ロアンは、鉄片を受け取った。穴に指を通してみる。裏返す。もう一度、指を通す。
「……鉄だな」
「鉄ですね」
「穴、開いてるな」
「開いてますね」
二人は顔を見合わせた。
ロアンは笑い出した。
「できてるじゃねえか!」
エダも笑った。
神官は、二人が何を喜んでいるのかよくわからない様子だった。
鉄に穴を開けるだけなら、普通に錐を使えばいい。わざわざバジリスクを使って石化し、それを削って元に戻すなど、手間も費用もかかるだけである。
しかし、エダたちにとっては違った。
鉄に穴を開けられたことが重要なのではない。
鉄を、鉄のまま加工する必要がなかったことが重要なのだ。
*
二度目の実験は、同じ日の午後に行われた。
今度は、ミスリルだった。
ロアンが棚の奥から見つけてきた、小指の爪ほどの破片である。エダは、午前中と同じように試料の寸法を測った。小さな金属片だったが、石化後にどの程度形が変わるかを確かめるため、長さと幅を記録しておくことにした。
それから、石化試験室の台座へ置く。
魔物管理者が、少し不安そうに尋ねた。
「魔法金属を試すのは、私も初めてなのですが……本当に大丈夫でしょうか?」
エダは笑った。
「それを確かめに来たんです」
「そうでしょうけど」
「石にならなかったら、別の方法を考えます」
管理者は何とも言えない顔をした。
それでも手順どおりに試験を進めた。
遮光板が閉じる。
金属の仕掛けが動く。
しばらくして、終了の合図が出された。
安全確認が終わり、台座が運び出されてくる。
エダは、その上を覗き込んだ。
小さな灰色の石が置かれていた。
「……なってる」
エダは呟いた。
ロアンが顔を近づける。
「本当か?」
「はい」
ミスリルは、石になっていた。
表面には金属光沢がない。手に取ると、普通の石と同じような感触がする。
エダは鑿を取り出した。石片を作業台へ固定する。細い刃を当てた。
金槌を軽く振り下ろす。
かつん、と小さな音がした。
石片の角が欠けた。
「……削れた」
エダは、思わず声を漏らした。
ロアンが身を乗り出す。
「どうだ?」
「削れます」
「もう一回やってみろ」
エダは頷いた。
今度は、少し大きめに削ってみた。
簡単に刃が入る。
金槌を叩くたび、小さな石片が落ちていった。
エダは、しばらく何も言わずに作業を続けた。小さな石片を円柱状に削り、中央に細い穴を開ける。
さすがに、石工のように綺麗にはできなかった。外周には小さな凹凸が残り、穴の位置も少しずれている。
それでも、形にはなった。
エダは石片を手に取り、光にかざした。中央の穴を、光が通り抜ける。
彼女はしばらくその穴を眺めていた。
ミスリルに穴を開けた。
いや、まだミスリルではない。今は、ただの石である。
問題は、これを元に戻したときだ。
「……解呪、お願いします」
エダは石片を神官へ渡した。
神官は台座へ置き、静かに祈りの言葉を唱えた。
光が広がる。
灰色の石が、ゆっくりと色を変え始めた。
淡い銀色。
それから、少し青みを帯びた金属光沢。
光が消える。
台座の上に、小さな金属製の円柱が置かれていた。
中央には、細い穴が開いている。
エダは、しばらく動けなかった。
ロアンも、何も言わなかった。
最初に口を開いたのは、神官だった。
「……どうやら、戻ったようですね」
エダは、そっと円柱を持ち上げた。
軽い。
ミスリル特有の、淡い銀色をしている。
中央の穴も、そのまま残っていた。
彼女は作業台に置かれた鋼鉄の針を手に取った。円柱の表面へ当て、強く引っかいてみた。
針の先端が潰れた。
ミスリルの表面には、ほとんど傷が残っていない。
「……親方」
「ああ」
「戻りました」
「ああ」
「穴も、残ってます」
「見りゃわかる」
ロアンは、エダの手から円柱を受け取った。穴を覗き込み、指先で外周をなぞる。鋼鉄の針で、もう一度表面を引っかいてみる。
やはり、傷はつかなかった。
ロアンは、しばらく金属片を眺めていた。
「……本当に、加工できたんだな」
「はい」
「ドワーフの金属を」
「はい」
二人は顔を見合わせた。
エダは笑った。
ロアンも笑った。
そして、親方は突然、大きな声を上げた。
「やったじゃねえか!」
エダは、思わず飛び上がった。
「やりました!」
神官が驚いて振り向いた。魔物管理者も、何事かとこちらを見ている。
しかし、エダたちは構わなかった。
何百年も前にドワーフが姿を消して以来、人類には不可能だとされてきた加工だった。
それが、普通の鑿と金槌でできてしまった。
*
神殿の職員たちは、実験の成功を祝ってくれた。
ただし、神官のハロルドは、少し困った顔をしていた。
「これは……予想以上の結果ですね」
「でしょう?」
エダは嬉しそうに答えた。
「でも、まだ小さな破片ですから。次はもっと大きなものを試したいです」
「ちょっと待ってください」
「はい?」
「今回の実験結果は、正式な記録として残しておく必要があります」
「そうなんですか?」
「当然です。魔法金属を石化できることが確認されたのですから」
ハロルドは、エダの作ったミスリルの部品を見つめた。
「それに、これまで解呪の対象とされていなかった物質にも、術式が有効だとわかりました。神殿としても、興味深い結果です」
「じゃあ、また実験できますか?」
「今後のことは、技術院にも相談した方がいいでしょう」
「技術院?」
「王立技術院です。金属や機械の研究をしている方々がいますから」
エダは少し考えた。
王立技術院の名前は知っていた。工房で使う工作機械の中には、技術院の研究成果をもとに作られたものもある。しかし、エダ自身が研究者たちと仕事をしたことは、ほとんどなかった。
「……私、普通の工房の技師なんですけど」
「ええ。存じています」
「そんなところに行ってもいいんでしょうか?」
ハロルドは笑った。
「少なくとも、今日の実験を見せれば、話は聞いてくれると思いますよ」
ロアンが頷いた。
「そりゃそうだろうな」
エダは、手の中の小さなミスリルを見た。
石にして削り、元に戻しただけの部品だった。
それでも、確かにこれまで誰も作れなかったものだった。
「……じゃあ、行ってみます」
*
帰り道、エダとロアンは神殿から運河沿いの道を歩いていた。
夕方の王都は、仕事を終えた人々で賑わっていた。荷馬車が行き交い、運河には貨物船が浮かんでいる。遠くでは、工場の蒸気機関が白い煙を上げていた。
エダは、今日作ったミスリルの部品を何度も眺めていた。
穴の位置は少しずれている。外周も綺麗な円になっていない。精度という点では、まだ到底実用品とは言えなかった。
しかし、もっと大きな材料を使えば、きっとまともな部品を作れるだろう。
石工用の道具も、もっといいものを使えばよい。あるいは、石を加工するための専用機械を作れば、もっと正確に削れるはずだ。
エダは次々と考え始めた。
小さな歯車。軸受。長い棒。薄い板。管。複雑な形の部品。
今まで加工できなかった金属を、普通の石工技術で扱えるようになる。
ただし、問題もあった。
「……親方」
「何だ?」
「これ一個作るのに、いくらかかったんでしょう」
ロアンは苦笑した。
「聞くな」
「高かったですよね」
「そりゃもう」
「普通の軸受、何十個も買えますよね」
「何十個じゃ済まねえな」
エダは、小さな金属片を見つめた。
これを製粉機の軸受に使えば、きっと長持ちするだろう。しかし、こんなに高価では、誰も買ってくれない。
「……やっぱり、まだ実用には難しいですね」
「そりゃそうだ。今は神殿で一個ずつ石化させてるんだからな」
「工房で石化できるようになればいいんですけど」
「バジリスクを飼う気か?」
「小さいのなら……」
「やめろ」
ロアンは即答した。
エダは少し笑った。
「冗談ですよ」
「お前の冗談は信用できねえ」
二人は運河に架かる橋を渡った。橋の向こうには、工房の煙突が見えている。
「それに、材料も足りないですよね」
「ああ」
「ドワーフのインゴットなんて、たくさん買えませんし」
「そもそも、どれだけ残ってるのかもわからん」
「鉱山には、いっぱいあるのになあ」
「鉱石がな。金属にできなきゃ意味がねえ」
ロアンは遠くの山並みを見た。
「まあ、そこは鉱山の連中に考えてもらうしかねえだろう」
「そうですねえ」
エダは頷いた。
魔法金属の鉱石は、決して珍しくない。ただ、精製する方法がないだけだ。精製できたとしても、これまでは加工できなかった。
だから、誰も積極的に採掘しようとはしなかった。
でも、今は少し事情が違う。金属になってさえいれば、加工できる。
エダは、手の中の小さな部品を見た。
これだけでも、今までとは大きく違う。
*
工房へ戻ると、エダはすぐに作業台を片づけた。
実験に使った工具を並べ、ミスリルの部品を中央に置く。それから寸法を測り始めた。
長さ。直径。穴の位置。表面の状態。
鋼鉄の針で傷をつけられないことは確認できたが、それだけでは強度までわからない。小さな試料なので、強く叩いて破壊するわけにもいかなかった。
ロアンは、隣の作業台で別の仕事を始めていた。
「今日はもう帰れよ、エダ」
「もうちょっとだけ」
「明日も仕事だぞ」
「わかってます」
エダは測定値を書き込んだ。試料が小さすぎるため、正確に測れない部分も多かった。それでも、できる限り記録を残しておきたかった。
しばらくして、ロアンが声をかけた。
「なあ、エダ」
「はい?」
「さっきの石粉、どこへやった?」
「石粉?」
「ミスリルを削ったときに出たやつだよ」
「ああ」
エダは、小さな布袋を取り出した。
神殿の作業台に残った切削屑を、職員に頼んで集めてもらったものだった。袋の中には、灰色の石粉が少しだけ入っている。
「これです」
「よし。捨てるなよ」
「もちろんです」
エダは、袋を机へ置いた。
「これだって、解呪したらミスリルですもんね」
「ああ。元は高価な金属だからな」
「でも、こんなに細かくなっちゃったら、使い道がないですね」
「そのままじゃな。まあ、いつか何かに使えるかもしれん」
エダは頷いた。
石粉を小さな皿へ移し、こぼれないように蓋をした。皿の底に薄く積もった灰色の粉は、普通の石粉と少しも変わらない。
それでも捨てるわけにはいかなかった。
エダは皿に「ミスリル・石化切削屑」と書いた紙を貼り、作業台の奥へ置いた。
それから、もう一度、小さなミスリルの部品を手に取った。
穴の向こうに、ランプの光が見える。
次はもっと綺麗に作ろう。
エダはそう決めて、測定の続きを始めた。




