01. 国宝の鍋
王都で一番高価な鍋は、王立博物館の三階にあった。
直径一尺半ほどの、何の変哲もない両手鍋だった。装飾らしいものといえば、縁に刻まれた二本の細い線くらいしかない。蓋は失われ、片方の持ち手には小さな傷がついている。それでも、この鍋は王国の一等国宝に指定されていた。
千年以上前にドワーフが作った、アダマンタイト製の鍋だからだ。
「……本当に、これが国宝なんですか?」
エダが尋ねると、隣に立つ学芸員は少し不愉快そうな顔をした。
「疑っておられるのですか?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど」
エダは展示箱を覗き込んだ。
「ずいぶん普通の鍋だなと思って」
「普通ではありません。古代ドワーフの遺物ですよ。しかも、ほぼ完全な形で残されている」
「それはわかります。でも、鍋なんですねえ」
学芸員は溜息をついた。
エダは二十四歳。王都の北側にあるロアン機械工房で、歯車や軸受の製作を担当している。今日、博物館を訪れたのは展示物の昇降装置の打ち合わせのためだった。仕事が終わった後、学芸員がせっかくだからと館内を案内してくれたのである。
エダは古い武器や歴史的な宝物にはあまり興味がなかったが、機械や金属製品なら話は別だった。そして目の前の鍋は、間違いなく並外れた金属製品だった。
アダマンタイト。
地中に存在する三種類の魔法金属のうち、最も硬いとされる金属である。
普通の鋼鉄では傷をつけることすら難しく、火に入れても容易には軟らかくならない。人類の技術では、精製された塊を切断することも、鍛造することも、まともに穴を開けることさえできなかった。
エダも以前、一度だけ試したことがある。金属塊に鋼鉄の鑿を当て、思いきり金槌を振り下ろした。欠けたのは鑿の方だった。
ところが、この鍋である。
厚みが均等に揃った側面。綺麗な曲線を描く持ち手。そして、驚くほど平らな底面。
エダはしゃがみ込み、展示箱の下から鍋を覗いた。底の縁が均一に揃い、置いたときにぐらつかないよう仕上げられているのがわかる。もしこれを削って平らにしたのだとすれば、いったい何を工具に使ったのだろう。鋳物なのだとしても、これほど薄く均等な厚みを出すのは簡単ではないはずだった。
「どうやって作ったんでしょうね」
「火と大地の精霊を使ったと伝えられています」
「それは知ってます。でも、どうやってこんなに薄くしたんでしょう。叩いたのかな。削ったのかな。それとも鋳物なんでしょうか」
「製法は失われています」
「それも知ってます」
エダは立ち上がった。
「底を見せてもらえませんか?」
「無理です」
「ちょっとひっくり返すだけでいいんですけど」
「国宝ですので」
「傷つけたりしませんよ」
「そういう問題ではありません」
エダは諦めた。
ドワーフは、千年ほど前まで地上に暮らしていたとされる種族だった。背は低いが頑健で、地下に広大な都市を築き、火と大地の精霊を自在に操ったという。彼らだけが、アダマンタイト、オリハルコン、ミスリルという三種類の魔法金属を加工できたと伝えられている。
しかし、ある時代を境に、ドワーフたちは地上から姿を消した。戦争で滅びたとも、疫病に襲われたとも、地底深くへ移り住んだともいわれている。確かなことは誰も知らない。
各地には彼らの地下都市の遺跡が残されているものの、その大部分は長い年月のうちに崩壊していた。木材は腐り、鉄は錆び、建物は土砂に埋もれた。それでも魔法金属で作られた品々だけは、ほとんど劣化することなく残されている。
剣、鎧、金槌、斧、食器。そして、鍋。
それらは古代ドワーフの卓越した技術を伝える、貴重な遺物として扱われていた。
「しかし、なぜ鍋なのでしょうねえ」
エダが呟く。
「まだお気になさっているんですか」
「だって、こんなに丈夫な金属なら、もっといい使い道がありそうでしょう?」
「例えば?」
「歯車とか」
学芸員は笑った。
「伝説の魔法金属を、歯車に?」
「歯車は大事ですよ」
「それはわかりますが」
「うちの工房なんて、毎週のように歯車を取り替えてるんです。軸受なんかもっとひどいですよ。水が入ったり油が切れたりすると、あっという間に減っちゃうんです」
エダは鍋を指差した。
「これだけ硬くて摩耗しにくかったら、ずっと長持ちするでしょうね」
「しかし、人類には加工できませんから」
「そうなんですよねえ」
エダはもう一度鍋を眺めた。
「こんなに硬くなくてもいいのに」
学芸員は、今度こそ何も言わなかった。
*
ロアン機械工房は、王都の北門に近い運河沿いにあった。煉瓦造りの工場が一棟と、その裏に材料置場があるだけの小さな工房だったが、仕事は絶えなかった。水車、蒸気機関、製粉機、揚水装置。王都の各地で使われる機械の修理や部品製作が、次から次へと持ち込まれる。
エダが戻ると、親方のロアンが大きな金属の輪を持って待っていた。
「おう、エダ。いいところに戻った」
「どうしました?」
「また製粉所の軸受が駄目になった」
差し出されたのは、青銅製の軸受だった。内側がひどく摩耗し、ところどころに深い溝ができている。軸が偏って回転したらしく、片側だけ薄くなっていた。
「これ、前に交換したばかりですよね」
「三か月だ」
「ええ……」
「水が入るんだよ。あそこの機械、いくら密閉しても水が漏れる。油もすぐ流れちまう」
エダは指で溝をなぞった。
「軸の方は?」
「そっちも減ってる。両方交換だな」
「材質を変えた方がいいんじゃないですか?」
「何に?」
「アダマンタイトとか」
ロアンは鼻で笑った。
「お前、博物館で鍋でも見てきたか?」
「見てきました」
「立派だったか?」
「すごく立派でした」
「そりゃ結構だ。だが、うちにはドワーフがいねえぞ」
ロアンは軸受を作業台に置いた。エダはしばらく考え、工房の奥へ歩いていった。
材料置場の棚には、鉄や青銅の塊、真鍮の棒、石炭、使い古した工具などが雑然と積まれている。その一番下の棚に、小さな金属塊があった。
淡い銀灰色の、角張った塊。ミスリルである。
大きさは握り拳ほど。表面には、どこかの遺跡で出土したらしい古い刻印が残っていた。先代の親方が、何十年も前に収集家から買い取ったものだという。
当時は加工方法を研究するつもりだったらしいが、結局、何をしても歯が立たなかった。それ以来、棚の隅に置かれたままになっている。
魔法金属の鉱石自体は珍しくない。山へ行けば、アダマンタイトやミスリルの成分を含む石はいくらでも見つかる。しかし人類には、それを実用的な量で精製する方法がなかった。
魔法金属の結晶は非常に硬く、鉱石を細かく砕くことさえ難しい。結晶の周囲に入り込んだ岩石成分を十分に除去できず、普通の炉で加熱しても、金属だけを取り出すことはできなかった。
だから、千年前のドワーフが残したインゴットは、今でも特別な金属標本として取引されている。
もっとも、加工できない金属の塊に大金を出す者は限られていた。歴史的な由来を持つ武器や工芸品ならともかく、ただのインゴットは研究材料や収集品にしかならない。小さなものなら、工房でも購入できた。
エダはミスリルを持ち上げた。
見た目より軽い。少し青みを帯びた表面は、何十年経ってもほとんど変化していなかった。
以前、エダもこれに鋸を当てたことがある。鋸の刃が潰れただけだった。硬い材料には、より硬い工具が必要になる。しかし、アダマンタイトのような材料を加工しようと思ったら、いったい何を工具にすればいいのだろう。
エダは塊を作業台へ持っていった。
「親方、これ、まだ使っていいですか?」
ロアンは振り向いた。
「何だ、また削る気か?」
「いえ、今日は見てるだけです」
「好きにしろ」
エダは塊を机に置き、その隣に摩耗した青銅の軸受を並べた。
片方は使いやすいが、すぐ減る。もう片方は丈夫だが、使える形にできない。どうにかならないものだろうか。
エダはしばらく二つを見比べていた。しかし、妙案は浮かばなかった。
仮にミスリルを削れる工具があったとしても、今度はその工具をどうやって作るのかという問題がある。熱して軟らかくする方法も、薬品で溶かす方法も、昔から大勢の人間が試してきた。そのどれもが、満足のいく結果を出せなかった。
考えたところで、すぐにどうにかなる問題ではない。
エダはミスリルを棚へ戻し、新しい青銅の軸受を作る仕事に取りかかった。
*
それから八日後、王都の南門でバジリスクが暴れた。
山から運ばれてきた荷馬車の積荷に、幼い個体が紛れ込んでいたらしい。逃げ出したバジリスクは広場を駆け回り、通りがかった人々や家畜、荷馬車を次々と石化させた。
幸い、駆けつけた神官たちによって魔物はすぐに捕獲された。石化した人々も、ほとんどが無事に解呪されたという。
しかし、荷馬車の一台だけは厄介なことになっていた。
石化した拍子に横転し、車輪が割れてしまったのである。
エダが呼び出されたのは、その修理のためだった。
「これ、どうしたらいいでしょうね」
依頼人の商人が、途方に暮れた顔で尋ねた。
荷馬車は、南門の脇に横倒しになっていた。木製の荷台も、車輪も、鉄の金具も、すべて灰色の石になっている。車輪の一本は三つに割れ、荷台を支える金具の一部も欠けていた。
「解呪したら直るんじゃないですか?」
エダが尋ねる。
「元の材質には戻りますが、割れたものは割れたままだそうで」
「ああ、そうか」
石化魔法の性質は、よく知られていた。
バジリスクの魔眼を浴びたものは、材質にかかわらず石になる。石化した人間も、動物も、道具も、神官の解呪によって元に戻せる。ただし、石化している間に生じた損傷は、解呪しても消えない。
石化した人間の腕が折れれば、解呪後も腕は折れている。石化した荷馬車の車輪が割れれば、元に戻しても車輪は割れたままである。
そのため、解呪する前に石工を呼び、破損した部分を修復することもあった。
今日も車輪の破片を接着するために、石工が一人呼ばれていた。石工は割れた破片の接合面を調べ、欠けた場所へ石粉を混ぜた充填材を詰めている。荷車を起こすには、車輪の破損部を一度整え、解呪してから改めて木材と金具の状態を確認する必要がありそうだった。
エダは石工の作業を眺めていた。
「鉄の金具まで石になってるんですね」
「ええ、バジリスクの魔眼は何でも石にしてしまいますから」
商人が答える。
エダは、車輪の外側に嵌められていた鉄輪を触った。ざらりとした、普通の石の感触だった。鉄輪だった部分も木材だった部分も、今はほとんど同じ色をしている。境目は、元の形が残っているから辛うじてわかる程度だった。
指先に、小さな欠けが触れた。
エダは腰の道具袋から細い鑿を取り出した。
「ちょっと削ってもいいですか?」
「え? ええ、どうぞ」
鑿を当て、軽く金槌で叩く。
小さな石片が落ちた。
もう一度叩く。
簡単に刃が入った。
「……あれ?」
エダは鑿を止めた。
鉄だったものが、石になっている。だから、普通の石と同じように削れる。
当たり前のことだった。
石工は、もうずっと前から石化したものを加工している。欠けたところを削って整えたり、割れた石像のような人間を修復したりする。それはエダも知っていたし、特別な技術だとも思っていなかった。
しかし、削ったところは解呪しても元には戻らない。
石化した車輪を修復するのは、そういうことだ。
エダは、もう一度鑿を当てた。今度は、鉄輪だった部分に細い溝を一本彫ってみた。
あっけなく彫れた。
「……あの」
商人が心配そうに声をかけた。
「直りそうですか?」
「ええ、たぶん」
「よかった」
エダは返事をしながら、溝の底を指でなぞった。刃物の通った跡が、綺麗に残っている。
これを解呪すれば、鉄に戻る。
しかし、溝は残る。
つまり、鉄に溝を彫ったのと同じことになる。
エダは立ち上がった。
「すみません、ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「何でしょう?」
「バジリスクって、どんな金属でも石にするんですか?」
「……さあ?」
「魔法金属でも?」
商人は困惑した。
「どうなんでしょう。神官様なら、ご存じかもしれませんが」
「そうですよね」
エダは頷いた。
それから、車輪にできた溝をもう一度見た。
鉄だった部分は、普通の石工道具で簡単に削れた。鉄を削ろうと思ったら、それなりの工具が必要になるのに。
では、ミスリルだったらどうだろう。
アダマンタイトだったら。
エダは、工房の棚に置かれた銀灰色の塊を思い浮かべた。鋼鉄の鋸も鑿も受けつけなかった、あのミスリルの塊。
もし、あれも同じ石になるのなら。
エダは道具を袋にしまった。
「すみません、神殿に行ってきます!」
「えっ?」
「すぐ戻ります!」
「いや、ちょっと、荷馬車は?」
「石工さん、車輪をお願いします! 解呪したら金具を見に戻りますから!」
エダは走り出した。
商人は、石化した荷馬車の横に取り残された。石工はしばらくエダの走り去った方を見ていたが、やがて何事もなかったように鑿を取り上げ、車輪の修理を再開した。
南門から神殿までは、歩けば半刻ほどの距離だった。
エダは、途中で何度か息を整えながら、それでも足を止めずに走った。
石になれば削れる。
削ってから元に戻せる。
だったら、削れないものを、石にしてから削ればいい。
どうして今まで考えなかったのだろう。
エダは走りながら笑っていた。
まだ、うまくいくと決まったわけではない。そもそも、魔法金属が石化するかどうかもわからない。
それを確かめるには、まず神官に聞かなければならなかった。
神殿の大きな屋根が見えてきた。エダは最後の角を曲がり、その門へ駆け込んだ。




