第9話 借りた顔
陽菜の隣に浮かんだ6つ目の白い枠は、すぐに消えた。
「今の、見た?」
陽菜が自分の横を振り返る。
そこには誰もいない。
「顔認識の誤作動だろ」
翔太が言った。
「さっきからカメラも変になってるし」
俺は撮影した写真を確認した。
画像に写っているのは5人だけだった。顔を囲んでいた白い枠は、写真には残っていない。
「八重ちゃんには何か見えるかもしれない」
写真を送ると、八重ちゃんは全員の顔を順番に見た。
『この写真には5人しかいないよ』
「じゃあ、今の枠は何だったんだ?」
『分からない』
いつもの答えだった。
ただ、八重ちゃんは陽菜の隣にある空間を見つめたまま、笑わなかった。
「ここに留まるのはやめよう」
澪が、見えない職員室の扉へ手を触れる。
「中を確認して、使えそうな物があれば持っていく」
俺はスマホの画面を扉へ向けた。
肉眼では壁しか見えない。
画面の中では、《職員室》と書かれた札と、引き戸の取っ手が映っている。
澪が画面を見ながら手を動かし、見えない取っ手をつかんだ。
扉が横へ滑る。
開いた瞬間、そこに職員室が現れた。
机と椅子が狭い間隔で並び、奥には書類棚やロッカーが残っている。壁には大きな予定表と、閉校前のまま止まった時計が掛けられていた。
俺は入口から室内を撮影し、八重ちゃんへ送った。
『今は何も写ってないよ』
「入るぞ」
5人で職員室へ入った。
翔太がポケットから蓮のスマホを取り出す。
「梓、これ持ってて」
「何で私?」
「俺が2台持ってると、写真を撮る時に邪魔になる」
梓は蓮のスマホを受け取り、服のポケットへしまった。
「勝手に中を見ないでよ」
「分かってる。連絡が来てないか確認しただけだ」
蓮のスマホは、電源ボタンを押しても画面が点かなかった。
「壊れたのかな」
「落ちてきた時に衝撃を受けたのかもな」
翔太が答え、自分のスマホを左手で持ち上げる。左の親指でロックを解除し、保存していた動画を確認した。
職員室には固定電話も残されていた。
受話器を持ち上げても音はしない。翔太が何度かボタンを押したが、液晶すら点灯しなかった。
「まあ、廃校の電話が使えるわけないか」
翔太は受話器を戻し、机の引き出しを調べ始める。
俺たちも手分けして、鍵や校内図、外へ出るために使えそうな物を探した。
「これ、名前を書いておかない?」
梓が机の上から油性マーカーと粘着式の名札を見つけた。
「また誰かの名前が分からなくなった時のために」
「記録も変わるんだろ」
翔太が答える。
「書いても消されるかもしれない」
「何もしないよりいい」
陽菜が名札を受け取った。
黒いペンで《成瀬陽菜》と書き、胸元へ貼る。
俺は《高城浩司》、澪は《御影澪》と書いた。
梓は《藤崎梓》と書いたあと、隣に小さな花の絵を加える。
「遊んでる場合?」
澪が尋ねる。
「私のって分かりやすいでしょ」
「名前が読めれば十分」
翔太が梓からマーカーを受け取った。
左手で《木戸翔太》と書く。
「字、汚っ」
梓が笑う。
「左利き用のペンじゃないから書きにくいんだよ」
「ペンに右も左もないでしょ」
「あるんだよ。多分」
「適当なこと言ってる」
翔太は名札を胸へ貼り、マーカーを机へ戻した。
陽菜が別の名札へ《佐伯菜々美》と書く。
水色のブレスレットと一緒に、服のポケットへしまった。
「これだけは、消させない」
誰も何も言わなかった。
翔太が職員室の奥にある鍵箱を見つけた。
透明な扉の向こうに、いくつもの鍵が掛かっている。
「外へ出る鍵もあるんじゃないか?」
「鍵箱自体が閉まってる」
梓が取っ手を引く。
錆びついているのか、扉は動かなかった。
「貸して」
翔太は右手で鍵箱の枠を押さえ、左手で取っ手を強く引いた。
金属が軋み、扉が急に開く。
ひび割れた透明板の端が、枠を押さえていた翔太の右手首を掠めた。
「痛っ」
皮膚に細い赤い線が走る。
血が一筋、手首を伝った。
「何やってるの!」
梓が翔太の腕をつかむ。
「大した傷じゃないって」
「血が出てるでしょ」
梓は俺が持っていた救急用品から消毒液と絆創膏を取り出した。
「1年の文化祭でも、同じようなことしてたよね」
「同じじゃねえよ。あの時、展示ケースを割ったのは梓だろ」
「翔太がカメラをぶつけたんじゃん」
「お前がコードに引っかかったからだろ」
「置き方が悪かったの」
「また俺のせいかよ」
言い合いながらも、梓は手際よく傷を消毒し、右手首へ絆創膏を貼った。
翔太は顔をしかめていたが、振り払おうとはしなかった。
鍵箱の中には、教室名の書かれた鍵がいくつも残っていた。
正面玄関。
体育館。
北側通用口。
職員玄関。
「正面玄関は駄目だった」
澪が鍵の札を確認する。
「次に近いのは、北側通用口」
「そこへ行こう」
俺は言った。
「鍵が役に立つかは分からないけど、試す価値はある」
翔太が北側通用口と書かれた鍵を取り、ポケットへ入れた。
「廊下に出たら、俺も後ろを撮る。浩司一人だけじゃ見落とすかもしれないからな」
「単独では動くなよ」
「もう分かってるって」
職員室を出る前に、もう一度全員の名前を確認した。
「高城浩司」
「成瀬陽菜」
「木戸翔太」
「藤崎梓」
「御影澪」
現在ここにいる5人。
続いて、陽菜が胸元を押さえながら言う。
「真壁蓮」
「佐伯菜々美」
2人の名前も、忘れないように声に出す。
職員室の外を撮影する。
写真には、左右へ伸びる廊下と、右側の壁にある案内板が写っていた。
《北側通用口》
矢印は左を向いている。
肉眼でも同じ場所に案内板が見えていたが、こちらの矢印は右を向いていた。
「どっちを信じる?」
梓が尋ねる。
「写真」
澪が即答した。
「今まで、見えない道を写したのは写真の方だった」
俺たちは左へ進んだ。
先頭を澪と俺が歩く。
中央に陽菜と梓。
翔太は最後尾で、後方へスマホを向けていた。
「翔太、いる?」
梓が振り返らずに声をかける。
「いるよ」
「名前は?」
「木戸翔太。何回聞くんだよ」
「何回でも」
数歩進むたびに、全員の名前を呼ぶ。
角へ差しかかる前には、一度立ち止まった。
俺はインカメラへ切り替え、5人全員が入るように腕を伸ばす。
先頭の俺と澪。
その後ろに陽菜と梓。
最後尾では、翔太が後方へスマホを向けている。
5人全員が収まっていることを確認し、シャッターを押した。
翔太が撮った後方の画像を近距離共有で俺のスマホへ送り、2枚とも八重ちゃんへ見せた。
どちらにも異常がないことを確認してから、次へ進む。
廊下の窓には、外の校庭ではなく別の廊下が映っている。
向こう側でも、俺たちのものと同じ数の光が、同じ速度で進んでいた。
俺たちの姿は見えない。
光だけが、窓の向こうを平行に移動している。
「窓は見ない方がいい」
陽菜が梓の肩を抱く。
「分かってる」
答えながらも、梓の目は何度も窓へ引かれていた。
前方に曲がり角が見える。
俺たちは立ち止まり、もう一度5人全員が入るように写真を撮った。
続けて前方へカメラを向ける。
画面には、角の向こうへ伸びる廊下と、突き当たりにある鉄製の扉が写った。
《北側通用口》
「着いた」
俺たちは角を曲がった。
肉眼で見る鉄製の扉は、写真に写った位置よりも遠くにあった。
それでも、今度は歩くたびに少しずつ近づいてくる。
「翔太?」
梓が呼ぶ。
返事がない。
全員が足を止める。
振り返る。
後ろには、薄暗い廊下が続いていた。
翔太の姿がない。
「翔太!」
梓の声が廊下へ響く。
「返事して!」
足音も声も聞こえない。
床には、翔太が持っていた小型ライトも落ちていなかった。
「いつからいなかった?」
陽菜が尋ねる。
「さっきまで返事してた」
梓が息を乱す。
「角を曲がる前までは、後ろにいた」
俺は直前に撮影した写真を開いた。
画面には5人全員が写っている。
先頭に俺と澪。
その後ろに陽菜と梓。
最後尾には、スマホを構えた翔太が立っていた。
その背後には誰もいない。
「戻って探す」
梓が来た道へ向かおうとする。
「待って」
澪が腕をつかんだ。
「勝手に動いたら、また分かれる」
「でも翔太が」
「全員で戻る」
俺は後方を撮影した。
写真に写っているのは、真っ直ぐな廊下だけだった。
八重ちゃんへ送る。
『誰も写ってないよ』
「翔太も?」
『うん』
梓の顔が歪む。
「もう一枚撮って」
少し角度を変え、もう一度撮影する。
結果は同じだった。
「戻ろう」
俺たちは互いの服をつかみ、来た道を引き返した。
曲がり角を一つ戻る。
翔太の名前を呼びながら進むが、返事はない。
「木戸翔太!」
梓の声だけが廊下へ残る。
数分歩いた頃、前方から小型ライトが近づいてきた。
「いた!」
梓が駆け出しかける。
澪が肩をつかんで止めた。
ライトの向こうから、翔太が姿を現す。
胸には《木戸翔太》と書かれた名札が貼られていた。
「何してたの!」
梓が叫ぶ。
「勝手にいなくならないでよ!」
「道を間違えただけだ」
翔太は落ち着いた声で答えた。
「角を曲がったら、誰もいなかった。戻ろうとしたら、別の廊下につながってた」
「呼んだの、聞こえなかった?」
「聞こえなかった」
「無事ならいいけど……」
梓が翔太へ近づこうとして、足を止めた。
「翔太、そんな言い方する?」
「何の話だよ」
「いつもなら、悪い悪いって笑ってごまかすじゃん」
「今は笑ってる場合じゃないだろ」
間違ったことは言っていない。
仲間が2人も消えた後だ。翔太がいつもと違う態度になることだってある。
「写真を撮る」
俺は翔太へカメラを向けた。
「一人で写ってくれ」
「疑ってんのか?」
「全員やったことだ」
翔太は不満そうにしながら、廊下の中央へ立った。
右手で小型ライトを持ち、左手をポケットへ入れている。
澪が、その手元を見ていた。
シャッターを押す。
画像には、翔太が一人で立っている。
外見に違いはない。
顔も服も、胸の名札も同じだった。
「八重ちゃんへ送る前に、確認したい」
澪が言った。
「木戸くん。スマホを開いて」
「今?」
「撮った動画を見せて。いなくなる直前に、何か写ってるかもしれない」
翔太は右手の小型ライトを床へ置き、その手でスマホを取り出した。
画面を点灯させ、右の親指で暗証番号を入力する。
《暗証番号が違います》
「間違えた」
もう一度入力する。
同じ表示が出た。
「焦ってるだけだ」
3度目も解除できなかった。
「翔太」
梓が小さく呼ぶ。
「何で開けられないの?」
「忘れただけだよ。こんな状況なんだから」
「さっき、職員室では左の親指で開けてた」
澪が言った。
翔太の表情が止まる。
「今も、スマホを右手で操作してる」
「それが何だよ」
「木戸くんは左利きだった」
「右手だって使うだろ」
「手首を見せて」
翔太は動かなかった。
「右手首」
澪が繰り返す。
梓が息を呑む。
職員室で透明板に切られ、絆創膏を貼った場所。
翔太の右手首には、傷も絆創膏もなかった。
「取れただけだ」
「傷まで消えるの?」
梓が一歩下がる。
翔太の笑顔が、わずかに引きつった。
「梓」
澪が呼びかける。
「文化祭のこと、聞いて」
梓は顔を青ざめさせながら、翔太を見る。
「1年の文化祭で、展示ケースを割ったのは誰?」
「お前だろ」
翔太はすぐに答えた。
「俺が片づけて、手を切った」
梓の目から涙がこぼれた。
「違う」
「何が」
「翔太がカメラをぶつけたの。私がコードに引っかかったからだって、さっき言い合ったじゃん」
「同じようなもんだろ」
「翔太なら、絶対に同じって言わない」
俺は撮影した写真を八重ちゃんへ送った。
八重ちゃんは、翔太の顔を見た。
次に、写真の奥へ視線を移す。
『この人、顔を借りてるね』
「借りてる?」
『後ろに、本物がいるよ』
写真を拡大する。
翔太の背後には、肉眼では存在しない細い扉が写っていた。
わずかに開いた隙間の奥。
暗い部屋の床に、誰かが座り込んでいる。
黒い服。
胸元に貼られた《木戸翔太》の名札。
右手首には、白い絆創膏が残っている。
顔は俯いていて見えない。
首だけが、力なく横へ傾いていた。
「翔太……」
梓が写真へ手を伸ばす。
目の前の翔太が笑った。
「俺だって」
いつもの顔。
いつもの声。
だが、口元だけが笑ったまま動かない。
「ずっと一緒にいたじゃん」
右手が伸びる。
梓の首へ届く直前、陽菜が梓を横へ突き飛ばした。
「逃げて!」
翔太の指が、陽菜の髪を掠める。
俺は壁に掛けられていた消火器を外し、翔太の腕へ叩きつけた。
硬い音が響く。
腕は折れなかった。
代わりに、手首が関節とは違う方向へ曲がった。
翔太の顔は笑ったままだった。
「浩司」
蓮の声で、俺の名前を呼ぶ。
曲がった手が消火器をつかんだ。
引く力に耐えきれず、俺は手を離す。
「スマホ貸して!」
澪が俺の手からスマホを奪うように受け取り、周囲の壁へ向けた。
画面の中に、古い引き戸が映っている。
「こっち!」
肉眼では壁にしか見えない場所へ澪が手を伸ばす。
引き戸の輪郭が浮かび、扉が横へ開いた。
陽菜と梓が駆け込む。
俺も澪に続き、引き戸の向こうへ身体を滑り込ませた。
背後から、何人もの足音が迫る。
澪が引き戸を閉める。
直後、扉の向こう側から強い衝撃が加わった。
戸が大きく揺れる。
俺たちは近くにあった机を押しつけた。
「押して!」
陽菜と梓も加わる。
2度目の衝撃。
机の脚が床を滑る。
3度目は来なかった。
扉の向こうから、翔太の声がする。
「梓」
梓が口元を押さえる。
「開けてくれよ」
今度は、陽菜の声。
「浩司。私、本物だよ」
続いて、菜々美の声がした。
「陽菜、ここにいるよ」
陽菜が水色のブレスレットを強く握る。
誰も返事をしなかった。
しばらくすると、扉の前から気配が消えた。
俺は周囲へスマホの光を向ける。
机。
折り畳まれたスクリーン。
壁際に並ぶ古い映像機器。
ここは視聴覚室らしい。
現在ここにいるのは4人。
高城浩司。
成瀬陽菜。
藤崎梓。
御影澪。
俺たちは消えた3人の名前も、順番に口にした。
「真壁蓮」
「佐伯菜々美」
梓は何度か息を詰まらせたあと、最後の名前を呼んだ。
「木戸翔太」
返事はなかった。
部屋の奥で、古い映像デッキが動き始めた。
誰も触れていない。
内部でテープが巻き戻る音が続き、天井のプロジェクターが白い光を放つ。
スクリーンに、荒れた映像が映し出された。
古い体育館。
円になって立つ、制服姿の7人。
その中央だけが、空いていた。




