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第7話 名前を呼んで

 扉の取っ手が、最後まで下がった。


「写真を見せてくれよ、浩司」


 蓮の声が、薄い扉を隔てて聞こえる。


 外側から扉が引かれた。


 扉と枠の間に、細い隙間が開く。


 澪が内側の取っ手を両手でつかみ、胸元へ引き寄せた。俺もその手に重ね、扉が開かないよう力を込める。


 古い蝶番が軋み、廊下の光が細く差し込んだ。


「開けろよ」


 声だけを聞けば、間違いなく蓮だった。


 教室でふざけていた時の、少し笑いを含んだ話し方まで似ている。


 狭い庫内で足に力を入れた拍子に、俺の肩が棚へ触れた。


 古い洗剤の容器が揺れ、棚板へ小さく当たる。


 扉の向こうが静かになった。


「いるじゃん」


 蓮が笑った。


 外から引く力が、さらに強くなる。


 取っ手が手のひらへ食い込み、扉の隙間がわずかに広がった。


「浩司」


 今度は、陽菜の声に変わった。


「助けて」


 澪の指が、俺の服へ深く食い込む。


 俺も息を止めた。


 陽菜たちは先へ逃げたはずだ。


 この扉の外にいるわけがない。


 分かっているのに、今すぐ開けなければならないような焦りが胸の奥へ湧き上がってくる。


 俺は片方の手で自分の手首を強く握った。


 爪が皮膚へ食い込む痛みで、頭の中に広がった衝動が少しだけ薄れる。


 スマホの中では、八重ちゃんが何度も首を横へ振っていた。


 開けるな。


 声を出すな。


 口は動いていないが、表情だけで十分に伝わった。


「浩司!」


 遠くの廊下から、別の陽菜の声が響いた。


「澪! どこにいるの!」


 扉の前にいた何かが、動きを止める。


 同じ声が、廊下の前後から聞こえていた。


「こっちにいるよ」


 扉の外の陽菜が、低い声で答える。


 靴音が離れていく。


 一歩。

 また一歩。


 やがて足音は速くなり、遠くの陽菜の声を追って廊下の奥へ消えた。


 すぐには動かなかった。


 足音が聞こえなくなっても、俺たちは取っ手を引いたまま、互いの呼吸を押し殺して待ち続ける。


 八重ちゃんが画面の中で、指を3本立てた。


 1本ずつ折っていく。


 最後の1本を折ったところで、八重ちゃんは廊下の方を指差した。


「写真を撮れってことか」


 俺は声にならないほど小さく呟いた。


 澪がうなずく。


 澪が内側の取っ手をゆっくり引き、扉を数センチだけ開けた。


 俺はスマホを隙間へ差し込み、廊下を撮影する。


 シャッター音が、やけに大きく響いた。


 すぐに扉を閉じ、画像を八重ちゃんへ送る。


 写真には誰も写っていなかった。


 濡れたような足跡だけが、廊下の奥へ続いている。


『今なら出られるよ』


 八重ちゃんが小声で言った。


 俺たちは清掃用具庫を出た。


 廊下には、蓮の姿も黒髪の少女もない。


 床に残った足跡は裸足ではなかった。運動靴の底に似た模様があり、用具庫から10歩ほど先で唐突に途切れている。


 澪が足跡の前でしゃがんだ。


「蓮と同じ靴だった気がする」


「覚えてるのか?」


「点検口へ引き込まれた時に見た」


 澪は立ち上がり、廊下の先へライトを向ける。


「でも、本人とは限らない」


「声も顔も真似できるなら、靴まで同じでもおかしくないか」


「そういうこと」


 俺たちは陽菜たちが逃げた方角へ進んだ。


 角を曲がる前に写真を撮り、八重ちゃんへ送る。


 誰もいないことを確認してから進む。


 それを何度か繰り返した先で、廊下に倒れたロッカーが見えた。


「浩司!」


 開いた教室の扉の陰から、陽菜が飛び出してくる。


 その後ろには、菜々美、翔太、梓もいた。


「無事だった!」


 陽菜が俺の腕をつかむ。


「澪もいる。よかった……」


「そっちも全員いるな」


 俺は4人を順番に確認した。


 陽菜。

 菜々美。

 翔太。

 梓。


 俺と澪を合わせて6人。


 蓮を除く6人が、ここにそろっていた。


「さっき廊下から呼んだのは陽菜か?」


「うん。足音が近づいてきたから、何か倒して気を引こうって翔太が」


 陽菜が横倒しになったロッカーを見る。


「その後、蓮の声が聞こえてきた」


「俺たちのいる場所を聞いて回ってた」


 翔太が蓮のスマホを握りしめていた。


「俺の名前まで呼んでたよ。まるで、こっちが隠れてるって分かってるみたいに」


「声に返事した?」


「するわけないだろ」


 そう答えた翔太の顔からは、いつもの軽い表情が消えていた。


「この教室へ入ろう」


 澪が開いた扉を示す。


「廊下で話してる方が危ない」


 俺は先に室内を撮影した。


 机と椅子が端へ寄せられた普通の教室だった。黒板にも床にも、写真で見える異常はない。


 八重ちゃんも、


『今は何も写ってないよ』


 と答えた。


 6人で教室へ入り、扉の前へ机を運ぶ。


 窓のカーテンを閉め、全員のスマホの明かりを中央へ集めた。


「ここからどうする?」


 梓が尋ねる。


「出口を探すしかない」


 俺は答えた。


「ただ、その前に確認したい」


 全員の顔を見る。


「もう一度、名前を言おう」


「また?」


 翔太が眉を寄せる。


「廊下で俺たち以外の声が重なった。蓮の姿をしたものも、名前を知ってた」


「だから何?」


「まだ分からない。でも、誰がここにいるのか、確認し続けた方がいい」


 澪がうなずく。


「賛成。人数だけじゃなく、名前も確認した方がいいと思う」


 俺たちは教室の中央へ輪になるように集まった。


「俺から右回りに言おう」


 自分の胸へ手を当てる。


「高城浩司」


「御影澪」


「木戸翔太」


「藤崎梓」


「成瀬陽菜」


 最後に全員の視線が、陽菜の隣へ向いた。


 菜々美は一瞬だけ遅れて口を開く。


「……佐伯菜々美」


 6人。


 名前も人数も合っている。


「これでいい?」


 翔太が言う。


「今のところは」


 俺は6人全員が入るように写真を撮った。


 画像には、教室の中央へ集まった俺たちだけが写っている。


 余分な影も、黒髪の少女もいない。


 八重ちゃんへ送信すると、彼女は写真へ顔を近づけた。


 黒い瞳が、一人ずつ確認するように動いていく。


 途中で、その視線が止まった。


『浩司くん』


「何か写ってるのか?」


 八重ちゃんが、陽菜の隣にいる菜々美を指差した。


『この子の名前、もう一度教えて』


「さっき名乗っただろ。佐伯菜々美」


『うん。聞いたはずなのに、この写真を見ると名前が抜け落ちるの』


「今は分かるのか?」


『教えてもらったばかりだから。でも、また写真を見ると消えそうになる』


 八重ちゃんの表情から笑みが消えた。


『今度は、菜々美ちゃんだけを撮って』


「分かった」


 菜々美を教室の壁際へ立たせる。


 陽菜が一緒についていこうとしたが、八重ちゃんは首を横へ振った。


『一人で写るようにして』


「何で?」


『ほかの人がいると、分からなくなるから』


 菜々美が自分の腕を抱える。


「撮って。大丈夫だから」


 陽菜は不安そうにしながらも、数歩離れた。


 俺は菜々美へカメラを向ける。


 白い壁を背に、菜々美が一人で立っている。


 シャッターを押す。


 撮影した写真を見ても、異常はなかった。


 菜々美の顔も服も、いつもどおり写っている。


 八重ちゃんへ送る。


 画像を見た八重ちゃんの表情が強張った。


『菜々美ちゃん、名前を取られ始めてる』


「名前を?」


 菜々美が自分の胸元を押さえる。


「どういう意味?」


『写真に菜々美ちゃんは写ってる。でも、名前だけが写真の中に残らないの』


「八重ちゃんも忘れかけてるのか?」


『うん。このままだと、みんなも名前だけじゃなくて、菜々美ちゃんがいたことまで思い出せなくなるかも』


「そんなわけない」


 陽菜がすぐに否定した。


「私は菜々美のこと、ちゃんと覚えてるよ」


 菜々美の肩を抱き、こちらを見る。


「高校に入ってからずっと一緒で、去年の文化祭では同じ係で、それから……」


 陽菜の言葉が止まった。


「どうした?」


「何でもない」


 陽菜は首を振る。


「それから、夏休みに一緒に海へ行って、色違いのブレスレットを買って……」


 黄色のブレスレットをつけた左手で、菜々美の水色のブレスレットに触れる。


「ほら。覚えてる」


「じゃあ、名前を呼んで」


 澪が言った。


 陽菜が振り返る。


「何?」


「その子の名前」


「そんなの……」


 陽菜は笑おうとした。


 だが、口を開いたまま声が出ない。


「なな……」


 菜々美の顔を見つめる。


「なな……み」


「そう。菜々美だよ」


 菜々美が答えた。


 陽菜の顔から血の気が引く。


「ごめん。今、急に出てこなくなって」


「疲れてるだけだよ」


 菜々美が笑った。


「こんなことが続いてるんだもん。言葉くらい詰まるって」


 緊張や疲労で、知っている言葉が出てこなくなることはある。


 俺も何度か経験したことがあった。


 だから、陽菜が一度名前を言い淀んだだけなら、それで説明できる。


「佐伯……」


 翔太が呟く。


 菜々美へ顔を向けたまま、その先を言わない。


「何だよ」


「いや」


 翔太は眉間へ指を当てた。


「下の名前、何だっけ」


 教室の空気が止まる。


「菜々美」


 俺が答えた。


「佐伯菜々美だ」


「ああ、そうだ。菜々美」


 翔太はすぐに繰り返した。


 だが、自分の記憶を確かめるような言い方だった。


 梓がスマホを取り出す。


「陽菜から聞いた時のメモがあるはず」


「メモ?」


「動画を送る時に名前が必要だから、みんなの名前を残してたの」


 画面を操作し、一覧を開く。


 梓の指が止まった。


「どうした?」


 翔太が覗き込む。


「一人分、空欄になってる」


 梓が見せた画面には、7人分の項目が並んでいた。


《高城浩司》


《成瀬陽菜》


《真壁蓮》


《御影澪》


《木戸翔太》


《藤崎梓》


 最後の一行には、名前がなかった。


 空白だけが残っている。


「さっき入力したの?」


 菜々美が尋ねる。


「したよ。絶対にした」


「保存し忘れただけじゃない?」


「空欄の項目だけ作る方がおかしいでしょ」


 梓の声が震える。


 菜々美は自分のスマホを取り出し、メッセージアプリのプロフィール画面を開く。


《佐伯菜々美》


 そこには、まだ菜々美の名前が表示されていた。


「私のスマホには残ってる」


「本人が持ってる記録までは、まだ消えてないのか?」


 俺は考えながら菜々美を見る。


 顔は分かる。


 声も分かる。


 一緒に過ごした記憶も、今は残っている。


 それでも名前を起点に、菜々美へつながる思い出まで薄れ始めている。


『名前を呼んで』


 八重ちゃんが言った。


「呼べば戻るのか?」


『分からない』


「分からないのかよ」


『でも、名前を忘れたら、その人がいた場所に別の誰かが入ってくるよ』


 誰も声を出さなかった。


 体育館の中央に立っていた黒髪の少女。


 誰かの友人だったように感じた、名前のない存在。


 あれが、菜々美の場所へ入ろうとしている。


「どうすればいい?」


 陽菜が尋ねる。


『名前を呼んで』


 八重ちゃんは繰り返した。


『忘れないように、何度も呼んで』


 俺は菜々美を見る。


「佐伯菜々美」


 菜々美の肩が揺れた。


 澪が続ける。


「佐伯菜々美」


「菜々美」


 梓も名前を呼ぶ。


 翔太は一瞬遅れたが、


「佐伯菜々美」


 とはっきり口にした。


 陽菜だけが、菜々美の手を握ったまま俯いている。


「陽菜」


 菜々美が呼びかける。


 陽菜が顔を上げた。


「私の名前、分かる?」


「分かる」


「じゃあ、呼んで」


 陽菜の唇が震える。


「菜々美」


 最初は小さな声だった。


「菜々美。佐伯菜々美」


 同じ名前を、もう一度繰り返す。


「高校で最初に話しかけてくれたのも、文化祭で一緒に残ったのも、海でブレスレットを選んだのも、菜々美」


 水色のブレスレットを握る。


「私の親友は、佐伯菜々美」


 菜々美の目から涙がこぼれた。


「うん」


 陽菜も泣いていた。


「ごめん。忘れかけた」


「まだ忘れてないよ」


「でも」


「今、呼んでくれたから」


 菜々美は陽菜の手を強く握り返す。


「私の名前、絶対に忘れないで」


「忘れない」


「何回でも呼んで」


「分かった」


 陽菜は涙を拭いながら、もう一度言った。


「菜々美」


 俺たちも順番に名前を呼んだ。


 佐伯菜々美。


 佐伯菜々美。


 佐伯菜々美。


 繰り返すうちに、曖昧になりかけていた名前が、また菜々美の顔へ結びついていく。


 八重ちゃんは画面の中で、黙って俺たちを見ていた。


 菜々美の名前を呼び終えると、俺はもう一度、6人が入るようにスマホを構えた。


 画面には、教室の中央に集まった俺たちが映っている。


 陽菜の隣で、菜々美が目元を拭っていた。


 カメラが顔を認識し、白い枠を表示する。


 一つ。

 二つ。

 三つ。

 四つ。

 五つ。


 6人いるはずなのに、白い枠は5つしか出なかった。


 菜々美の顔にだけ、何も表示されていなかった。

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