第5話 外へ出られない
鉄製の扉が閉まった音は、体育館の壁と天井を何度も跳ね返った。
誰かが息を呑む。
暗闇の中で、スマホの画面が一つ、また一つと点灯した。白い光が床や顔を断片的に照らしていく。
俺が持ってきたLEDライトは、電源を押しても反応しなかった。
「何で点かないんだよ」
さっきまでは、充電も十分に残っていた。
何度押しても、2台とも沈黙したままだった。
最後に翔太が、ジンバルへ取り付けた小型ライトを点けた。弱い光だったが、何も見えないよりはましだった。
「今の、誰?」
菜々美の声が震えていた。
「誰って何が?」
蓮が聞き返す。
「笑った子。私たちじゃないよね?」
誰も答えない。
俺はスマホの光を体育館の中央へ向けた。
さっきまで黒髪の少女が立っていた場所には、誰もいなかった。床へ置いた印と、舞い上がった埃だけが残っている。
「いなくなった……?」
陽菜が俺の腕へ触れる。
「最初から誰もいなかったんじゃない?」
翔太が言った。
「あの写真は、光の加減か何かだろ。暗い場所だと変なふうに写ることもあるし」
「写真だけじゃない」
澪が翔太を遮る。
「私も見た。中央に誰か立ってた」
「私も」
菜々美が小さく続ける。
「誰だったか、思い出せないけど」
その言葉を聞いた途端、また胸の奥に妙な懐かしさが広がった。
名前は出てこない。
顔もよく見えなかった。
それなのに、確かに知っている気がする。
「人数を確認しよう」
俺はその感覚を振り払うように言った。
「全員、自分の名前を言ってくれ」
「急に何?」
「いいから」
陽菜が俺の顔を見て、最初に口を開いた。
「成瀬陽菜」
「佐伯菜々美」
「真壁蓮」
続いて、翔太たちも名乗る。
「木戸翔太」
「藤崎梓」
「御影澪」
「高城浩司」
7人。
誰も欠けていない。
増えてもいない。
「ほら、7人じゃん」
翔太が笑おうとしたが、声にはいつもの軽さがなかった。
「なら、あれは何だったの?」
梓が尋ねる。
「知らねえよ。だから早く出よう」
翔太が側面の扉へ駆け寄り、取っ手を下げる。
扉は動かなかった。
「おい」
何度か取っ手を揺らし、肩をぶつける。それでも扉は閉じたままだった。
「さっきまで開いてたよね?」
梓が翔太の後ろから覗き込む。
「閉まった勢いで、錆が噛んだんだろ」
蓮も加わり、2人で扉を押す。
金属が軋む音はするが、隙間すらできない。
俺も反対側から取っ手を引いた。
鍵を掛けた覚えはない。そもそも内側には、鍵らしいものが見当たらなかった。
「別の出口は?」
陽菜が周囲へ光を向ける。
体育館の奥には、校舎へ続く渡り廊下の扉がある。
澪がスマホを取り出し、保存していた校舎の見取り図を開いた。
「体育館の奥に渡り廊下がある。そこから校舎へ入れば、正面玄関まで一番近い」
「分かった。全員、離れるな」
俺たちは荷物を持ち、渡り廊下へ向かった。
体育館の床を横切る間も、スマホの光を中央へ向けないようにした。見たところで何もいないはずなのに、あの場所をもう一度確かめる気にはなれなかった。
渡り廊下の扉は、簡単に開いた。
冷えた空気が頬へ触れる。
外へ出たわけでもないのに、体育館より温度が低かった。
「ここを真っ直ぐ行けば、校舎だよ」
澪が先頭に立つ。
左右には大きな窓が並び、その向こうに校庭が見えていた。夕暮れの明るさはほとんど消え、開いた校門の向こうには木々の黒い影が重なっている。
渡り廊下は、外から見た時には短かった。
体育館と校舎の間をつなぐだけなら、10メートルもなかったはずだ。
だが、歩いても校舎側の扉が近づいてこない。
「こんなに長かったっけ?」
陽菜が足を止める。
「暗いから、そう見えるだけじゃない?」
菜々美が答える。
全員が立ち止まると、前方にある扉も動きを止めたように見えた。
いや。
最初から動いてなどいない。
「進もう」
俺は言った。
「同じ速度で歩け。走るな」
「何で?」
「ばらばらにならないためだ」
俺たちは互いの位置を確認しながら、歩き出した。
10歩。
20歩。
窓の外に見えるバスケットゴールが、ずっと同じ位置にある。
「待って」
澪が窓へライトを向けた。
「外の景色、変わってない」
「校庭が広いからだろ」
翔太が返す。
「同じ場所を見てるだけじゃないのか?」
「それなら、扉には近づいてるはず」
澪の言葉に、誰も返事をしなかった。
俺が後ろを振り返る。
体育館の扉も、来た時と変わらない距離にあった。
前にも、後ろにも進んでいない。
背中を汗が伝う。
「走るぞ」
蓮が先に駆け出した。
「蓮、待て!」
全員で追う。
足音が渡り廊下を埋め、窓ガラスが細かく震えた。
前方の扉は動かない。
それでも走り続けると、突然、扉が目の前に現れた。
「うわっ!」
蓮が慌てて足を止める。
後ろから翔太がぶつかり、2人が扉へ倒れ込んだ。その拍子に扉が開き、俺たちは雪崩れ込むように校舎内へ入った。
薄暗い廊下。
壁には色褪せた掲示物が残り、足元には剥がれかけた床材が続いている。
後ろの扉を確認すると、その向こうには短い渡り廊下と体育館が見えた。
さっきまでの長さが嘘のようだった。
「走ってただけで、距離の感覚がおかしくなったんだろ」
翔太が呼吸を整えながら言う。
「暗いし、焦ってたからさ」
合理的な説明ではある。
俺も、そう考えたかった。
澪がもう一度、見取り図を確認する。
「正面玄関は、この廊下を右。突き当たりの階段を下りて、1階を真っ直ぐ」
「迷うほどじゃないな」
翔太が先に進もうとする。
「待て。全員いるか確認する」
俺たちはもう一度、名前を呼び合った。
7人いる。
今度は、名乗り終えた直後に遠くから小さな声が重なった気がした。
誰の名前を言ったのかは聞き取れなかった。
「今、何か聞こえなかった?」
梓が周囲を見回す。
「風だろ」
翔太が答える。
窓はすべて閉まっていた。
俺たちは廊下を進み、階段を下りた。
1階には靴箱が並んでいる。
その先には、ガラス張りの正面玄関があった。扉の向こうには校庭と、開いたままの校門が見える。
「外だ」
菜々美が息を吐く。
翔太が先に扉へ駆け寄り、鍵を確認する。
「開いてる」
「全員で一緒に出るぞ」
俺は後ろを確認した。
陽菜、菜々美、蓮。
翔太、梓、澪。
全員いる。
翔太がガラス扉を押し開けた。
夜の空気が入ってくると思った。
だが、鼻へ届いたのは湿った床と古い木材の匂いだった。
「何だよ、これ」
翔太の声が掠れる。
扉の向こうには、校庭がなかった。
薄暗い廊下が続いている。
左右には教室の扉が並び、窓の向こうには、別の廊下が平行に伸びていた。
「玄関じゃなかったの?」
菜々美が靴箱を振り返る。
「ここが玄関」
澪が答える。
「見取り図でも、そうなってる」
「でも、外が……」
梓が言葉を失う。
翔太が一度扉を閉める。
ガラスの向こうには、元どおり校庭と校門が見えていた。
「ほら、外じゃん」
もう一度開く。
扉の向こうに現れたのは、同じ暗い廊下だった。
翔太が閉める。
校庭。
開ける。
廊下。
「やめて」
梓が翔太の腕をつかんだ。
「何回やっても同じだって」
「映像でも見せられてるのか?」
蓮がガラスへ手を触れる。
「外の景色が、画面みたいに貼りついてるとか」
「そんなわけあるか」
言いながら、翔太の声は震えていた。
「窓から出ればいい」
蓮が廊下の窓へ向かう。
窓の外には、確かに校庭が見えている。
鍵を外し、窓を横へ滑らせた。
その向こうにも、暗い廊下があった。
窓枠のすぐ先から床が続き、反対側の壁には、教室の札が斜めに下がっている。
《2年3組》
蓮は窓を閉めた。
誰も言葉を発しない。
外へ出る場所が、校舎の内側へつながっている。
さすがに、見間違いでは説明できなかった。
「警察に連絡しよう」
梓がスマホを操作し、耳へ当てる。
全員が彼女を見守った。
呼び出し音は鳴らない。
「……駄目。つながらない」
「圏外?」
澪が尋ねる。
「違う。アンテナは立ってる」
俺も警察へ電話をかけた。
画面には発信中と表示されている。
だが、呼び出し音も案内音声も流れない。
しばらくすると、何事もなかったように通話画面が閉じた。
陽菜が家族へ電話をかけ、翔太は別の番号を試す。
結果は同じだった。
「電波はあるのに、どこにもつながらないってこと?」
菜々美がスマホを握りしめる。
「たぶんな」
「裏口を探そう」
陽菜が言った。
声は震えていたが、菜々美の手をしっかり握っている。
「ここが駄目なら、別の出口があるよ。体育館だって、ほかにも扉があるかもしれないし」
「そうだな」
蓮がうなずく。
「屋上から外の様子を見るのもありだろ」
「屋上へ行く必要はない」
俺は止めた。
「同じ階を移動する。窓と扉を確認しながら、全員で進む」
「仕切るねえ」
翔太が言った。
「ほかに案があるなら聞く」
「ない」
「なら離れるな」
俺たちは玄関を離れた。
先頭は翔太と蓮。
その後ろに澪と梓が続き、陽菜と菜々美、最後に俺。
廊下の角を曲がるたびに、全員がついてきているか確認する。
スマホの明かりが、壁や天井を忙しなく行き来していた。
階段の前へ差しかかった時だった。
「蓮」
上の階から、陽菜の声が聞こえた。
「助けて!」
蓮が足を止める。
俺のすぐ前には、陽菜がいる。
菜々美の手を握ったまま、青ざめた顔で階段を見上げていた。
「今の、私じゃない」
陽菜が呟く。
階段の上から、再び声がする。
「蓮、早く!」
「陽菜?」
蓮が階段へ一歩近づいた。
「私、ここにいる!」
陽菜が声を張る。
蓮が振り返った。
俺たちの前にいる陽菜を見たはずなのに、その視線はすぐ階段へ戻る。
目の焦点が合っていない。
その瞬間、上の階から何かが床へ倒れる音がした。
「痛い……」
陽菜と同じ声が泣いている。
「足、動かない。蓮、お願い」
「行くな」
俺は蓮の肩をつかんだ。
「陽菜はここにいる」
「分かってる」
口ではそう答えながら、蓮の右足が階段の一段目へ上がる。
「蓮?」
陽菜が呼びかける。
蓮は反応しない。
階段の上だけを見つめている。
「おい、蓮!」
俺が肩を引いた瞬間、蓮は腕を振り払った。
そのまま階段を駆け上がる。
「蓮!」
陽菜の声が響く。
俺たちも後を追う。
階段を曲がった先に、蓮のスマホの光が揺れていた。蓮は踊り場で立ち止まり、上の階を見ている。
「どこだ!」
返事はない。
俺たちが踊り場へ近づくと、蓮がゆっくり顔を上げた。
「上から聞こえる」
天井には、配管作業用らしい大きな点検口があった。
蓋がわずかにずれ、黒い隙間が開いている。
「蓮、戻れ」
「でも、今……」
点検口の奥から、陽菜の声がした。
「見つけた」
蓮の真上。
黒い隙間から、顔が逆さまに降りてきた。
短い髪。
日焼けの残る肌。
見慣れた眉と、わずかに開いた口。
蓮と同じ顔だった。
違うのは、その目が真下の蓮ではなく、俺たちの方だけを見ていたことだ。
「え」
蓮が声を漏らす。
天井の隙間から、白い指が何本も伸びた。
蓮の肩と首へ絡みつく。
「蓮!」
翔太が腕をつかんだ。
俺も蓮の腰へ手を回す。
俺と翔太が引き戻そうとしても、蓮の身体は止まらなかった。
蓮の身体が持ち上がり、靴の裏が床から離れる。
「離せ! 離せって!」
蓮が天井へ向かって腕を振り回す。
陽菜と菜々美も服をつかんだ。
布が裂ける音がする。
点検口の奥で、蓮と同じ顔が笑った。
「コージ」
そいつは、蓮の声で俺の名前を呼んだ。
次の瞬間、引く力が一気に強くなる。
俺たちの手から蓮の身体が抜けた。
蓮は点検口の中へ引きずり込まれ、黒い隙間の奥へ消えた。
鈍い音が一度だけ響く。
点検口の蓋が閉じた。
「蓮!」
陽菜が天井へ叫ぶ。
返事はない。
翔太が跳び上がり、点検口へ手を伸ばすが届かない。澪は踏み台にできる物を探し、近くの掃除用具入れを開けた。
その時、階段に何かが落ちた。
蓮のスマホだった。
数段を跳ね、踊り場で画面を上にして止まる。
インカメラが起動していた。
画面には、何もいない天井が映っている。
いや。
スマホの画面の中だけに、蓮の顔があった。
逆さまのまま、天井へ張りついている。
両目を開き、こちらを見下ろしていた。
陽菜が息を呑む。
画面の中の蓮が、口を動かした。
「助けて」
蓮の口から出たのは、本物の陽菜とまったく同じ声だった。
スマホの画面が消える。
同時に、俺の手の中でスマホが震えた。
《八重ちゃんの何でも屋》
通知を開く。
暗い和室の中で、八重ちゃんが文机へ両手をついていた。
いつもの笑顔はない。
『浩司くん』
「蓮が……」
『私に写真を見せて』
「何?」
『廊下も、天井も、みんなの顔も』
八重ちゃんは画面のこちら側を見つめる。
『見えないものも、写真なら見つけられるかもしれないから』




