第15話 バズるかも
俺の手にある端末と、ぴったり同じ大きさだった。
体育館の中央にできた窪みを見ながら、誰もすぐには口を開かなかった。
沈黙が3秒に近づく。
「高城浩司、成瀬陽菜、御影澪、藤崎梓、真壁蓮、佐伯菜々美、木戸翔太」
俺が7人の名前を呼ぶと、スマホの画面で梓の足元まで動いていた白い枠が中央へ戻った。
「まず、機材を取りに行こう」
陽菜が言った。
「4人で?」
「ああ。視聴覚室でビデオカメラを回収して、そのまま放送室へ行く。誰が残るかは、そこで決める」
梓は何か言いかけたが、澪に見られて口を閉じた。
床へ置いた3台のスマホを回収する。
菜々美の写真が持ち上がった途端、その席に薄い水滴が浮かび始めた。
「佐伯菜々美」
陽菜が名前を呼ぶ。
濡れた足形は、それ以上広がらなかった。
「席から写真を外しても、名前を呼んでいれば止められるみたい」
澪が残りの端末を拾う。
「でも、3秒以上は空けられない。移動中も順番に呼び続ける」
「順番を固定しよう」
梓が指を折った。
「高城浩司、成瀬陽菜、御影澪、藤崎梓、真壁蓮、佐伯菜々美、木戸翔太。これを繰り返す。誰かが詰まったら、次の人が最初から」
「分かった」
それ以降、誰かが話す時にも、別の1人が小声で7人の名前を繰り返した。
陽菜が最初の名前を呼び、俺たちは跳び箱を扉からどかした。
扉の向こうは、来た時と同じ校舎の廊下へつながっている。
八重ちゃんへ写真を送り、進んでもいいか身振りで確かめた。
八重ちゃんは左手を上げる。
《体育館から出ないで》
回答欄には反対の文章が表示された。
「高城浩司、成瀬陽菜、御影澪、藤崎梓、真壁蓮、佐伯菜々美、木戸翔太」
今度は澪が名前を呼びながら、廊下へ足を踏み出した。
俺たちは一列になり、視聴覚室を目指した。
名前が校内へ広がっていく。
誰かが一巡を終えるたび、次の一人が間を空けずに最初から呼ぶ。
最初は4人の声だけだった。
廊下を2つ曲がったところで、名前を繰り返す声がもう1つ増えた。
俺たちの声より少し遅れて、閉じた教室の中から同じ7人の名前が聞こえてくる。
「止まらないで」
澪が前を向いたまま言った。
「真似されても、私たちの順番は変えない」
教室の中の声は、最初は陽菜に似ていた。
次の曲がり角では蓮になり、その先では菜々美へ変わる。
呼ばれる名前は同じだった。
ただし、1人だけ抜けている。
藤崎梓。
壁の向こうの声は、梓の名前だけを飛ばしていた。
「わざとだよね」
梓が笑おうとする。
「私の席を空けさせたいんだ」
「なら、何度でも呼ぶ」
澪が答えた。
「藤崎梓」
名前だけを、はっきりと廊下へ響かせる。
その直後、右の教室から椅子が倒れる音がした。
扉は開かなかった。
俺たちも立ち止まらなかった。
見取り図では、視聴覚室まで2つ先の階段を上がるはずだった。
だが、廊下の突き当たりに現れたのは、見覚えのある白い扉だった。
《視聴覚室》
「向こうから来てくれたみたいだな」
俺は扉を撮影した。
写真には、扉の前へ立つ4人の影しか写っていない。
八重ちゃんも、開けるように左手で示した。
中へ入る。
プロジェクターは消えていたが、映像デッキの電源ランプだけが赤く光っていた。
梓が機材棚を開け、古いビデオカメラを取り出す。
片手で持つには大きく、側面には折り畳まれた画面がついている。
「電池は使えないと思う」
梓が電源を入れようとしたが、反応はなかった。
「やっぱり」
棚の奥から専用の電源コードと記録用のテープを探し出す。
壁のコンセントへつなぐと、カメラの側面に小さな明かりがついた。
画面が開き、視聴覚室の机が映る。
「動いた」
「体育館までコードが届かないぞ」
「延長コードも持っていく。ステージの近くにコンセントがあったよね」
梓は棚の下から巻かれた長いコードを引き出した。
《予備》と書かれた未開封の記録用テープを入れ、撮影ボタンを押す。
赤い表示が点灯し、画面の隅で時間が進み始めた。
「録画もできる」
梓へカメラを向けると、小さな画面の中で顔を囲む白い枠が表示された。
「古いのに、顔を検出できるんだ」
「これなら、7人分が映ってるか確認できる」
試し撮りを止め、梓がカメラを俺へ渡した。
スマホ用の三脚でも、上部のホルダーを外せば底のねじが合うらしい。
「次は放送室」
澪が扉へ向かう。
名前を呼ぶ声は、一度も止めていない。
視聴覚室を出た時、校内のどこかで放送開始を告げる音が鳴った。
低い電子音。
続けて、天井のスピーカーから梓の声が流れる。
『高城浩司、成瀬陽菜、御影澪、真壁蓮、佐伯菜々美、木戸翔太』
藤崎梓だけが抜けている。
隣にいる梓は、口を動かしていなかった。
「まだ放送室にも着いてないのに」
陽菜が天井を見上げる。
放送の声が、同じ6人の名前を繰り返す。
録音では床は反応しなかった。
それでも、梓そっくりの声で本人の名前だけが抜かれると、頭の中から何かを削られていくように感じた。
「藤崎梓」
俺たちは代わる代わる名前を呼んだ。
「ここにいる」
梓も自分で答える。
スピーカーの声は、短く笑って途切れた。
放送室は、職員室の隣にあった。
扉の札は斜めに傾いていたが、中の機材は視聴覚室と同じように電源が入る。
細長い机にマイクと操作盤が並び、壁には校内各所を示すスイッチがあった。
梓が電源を入れ、体育館を含む全校放送へ切り替える。
「声、届いてる?」
マイクへ話しかける。
少し遅れて、廊下のスピーカーから梓の声が返ってきた。
『声、届いてる?』
「大丈夫みたい」
次に、蓮のスマホで梓の映像を撮る。
ロック画面からカメラを起動し、放送室に残っていた出席簿の裏へ《藤崎梓》と書いた。
「どのくらい撮ればいい?」
「できるだけ長く」
「容量が許す限り撮ろう」
撮影を始める。
梓は名前の書かれた紙を胸元へ持ち、レンズを見た。
「藤崎梓。東雲高校3年。翔太の動画を手伝ってて、澪とは1年の時から同じクラス」
少しだけ考え、カメラへ向かって笑う。
その間も、残る3人で7人の名前を途切れさせずに呼び続けた。
「翔太は、面白くない時ほど自分で笑う。澪はホラー映画を見ると、その日の夜だけ部屋の電気を消せなくなる」
「梓」
澪が低い声で止める。
「今の必要?」
「私だって分かる記録でしょ?」
「前半だけで十分」
「恥ずかしがらなくていいのに」
いつもの調子で笑ったあとも、梓は名前を書いた紙を持ったままカメラを見つめ続けた。
録画時間が15分を越えたところで、撮影を止めて映像を再生する。
ロックを解除しなくても、直前に撮った映像は確認できた。
動画を最初から再生し、モバイルバッテリーへつなぐ。
少なくとも映像が終わるまでは、梓の姿を席へ残せる。
「やっぱり、私がここに残る」
梓がマイクへ手を置いた。
「ビデオカメラを運んで、体育館で配置を作るのは3人でできる。放送設備を扱えるのは私だけ」
「私も残る」
澪が言った。
「2人で交代すれば、声が止まらない」
「それだと、体育館にいる人間が2人になる。写真の席が5つになるだけで、準備に時間がかかるよ」
「時間の問題じゃない」
「澪」
梓の声が柔らかくなる。
「誰かが残らないと、始められない」
澪は返事をしなかった。
梓は俺と陽菜へ視線を移す。
「体育館へ着いたら、私の声を合図に録画を始めて。7人分の姿を映したら、中央へ八重ちゃんを置く」
「放送が途切れたら?」
「3人で名前を呼んで。私が戻るまで続けて」
「戻れる保証はない」
俺が言うと、梓は小さく息を吐いた。
「ここまで来て、保証があることなんて一つもなかったでしょ」
反論できなかった。
澪が梓の肩をつかむ。
「絶対にマイクから離れないで」
「うん」
「誰の声がしても、扉を開けない」
「分かってる」
「名前を止めないで」
「澪って、お母さんみたい」
「今それを言う?」
「言えるうちに言っとこうと思って」
梓は澪の手へ自分の手を重ねた。
「大丈夫。ちゃんと戻るから」
澪は最後まで納得していない顔だった。
それでも、梓の手を離した。
俺たちはビデオカメラ、延長コード、梓を映した蓮のスマホを持って放送室を出た。
扉が閉まる直前、梓がマイクのスイッチを入れる。
『高城浩司、成瀬陽菜、御影澪、藤崎梓、真壁蓮、佐伯菜々美、木戸翔太』
7人の名前が、校内放送へ流れた。
その声を背中に受けながら、俺たちは体育館へ向かった。
梓は同じ順番で、何度も名前を繰り返す。
廊下の形は、放送が始まる前より安定していた。
余分な扉は増えず、窓の位置も変わらない。
階段を下りた先に、体育館へ続く渡り廊下が現れた。
その途中で、別の声が放送へ混じった。
『梓』
翔太の声だった。
『何してんだよ。俺、放送室の前にいるんだけど』
梓は名前を呼ぶことを止めない。
『高城浩司、成瀬陽菜、御影澪、藤崎梓……』
『開けてくれよ。無事だから』
翔太の声は、梓のすぐ近くから聞こえているようだった。
マイクが、扉の外の声まで拾っている。
『梓。俺の顔を見れば分かるって』
放送室の扉を叩く音がする。
3回。
間を置いて、また3回。
『真壁蓮、佐伯菜々美、木戸翔太』
梓は一巡を終え、すぐ最初の名前へ戻った。
声はまだ落ち着いている。
俺たちは渡り廊下を走った。
体育館の扉を開けると、薄暗い床の上に濡れた3組の足跡が残っていた。
ステージ前に残っていた三脚のスマホホルダーを外し、ビデオカメラを固定する。
延長コードを壁際のコンセントへつなぐ。
カメラの画面を開き、七替えダンスの輪全体が収まるように三脚の高さと角度を調整した。
斜め上からなら、3人の顔と、床へ立てかける4台のスマホ、その中央まで一度に映せる。
陽菜のスマホには菜々美。
澪のスマホには蓮。
梓のスマホには翔太。
蓮のスマホには、名前を書いた紙を持つ梓の映像。
4台を元の席へ置き、画面だけをステージ前のビデオカメラへ向ける。
俺、陽菜、澪も自分の位置へ立った。
ビデオカメラの画面に、7人分の顔認識枠が表示される。
その中央。
誰もいない場所に、8つ目の枠が浮かんでいた。
『高城浩司、成瀬陽菜、御影澪、藤崎梓、真壁蓮、佐伯菜々美、木戸翔太』
梓の放送は続いている。
俺は録画ボタンを押した。
赤い表示が点灯する。
「始めるぞ」
自分のスマホを体育館の中央へ置いた。
四角い窪みへ、端末が隙間なく収まる。
画面の中で、八重ちゃんは文机の前に立っていた。
俺たちを見回し、帳面へ最後の言葉を書く。
《7人を わすれないで》
「忘れない」
俺が答える。
八重ちゃんは筆を置き、自分の頬へ両手を当てた。
黒い瞳が消える。
鼻と口の凹凸も薄れ、肌色の滑らかな面へ変わっていく。
顔を失った八重ちゃんが、画面の中央に立っていた。
その瞬間、体育館のスピーカーから流れる梓の声が二重になった。
一つは放送室から届く声。
もう一つは、輪の中から聞こえている。
「陽菜」
菜々美の声だった。
水色のブレスレットを表示したスマホの隣に、白い靴が見える。
足首。
破れた服の裾。
陽菜が顔を上げると、そこには菜々美の姿が立っていた。
「写真なんか見ないで」
菜々美が泣きながら手を差し出す。
「私、ここにいるよ」
陽菜の手首で、水色のブレスレットが揺れた。
「一緒に帰ろう」
「帰るよ」
陽菜は答えた。
「でも、あんたとは帰らない」
「どうして?」
「菜々美は、私に謝らせたりしない。私を写真から引き離そうともしない」
差し出された手を見たまま、陽菜が名前を呼ぶ。
「佐伯菜々美」
床のスマホに映った菜々美の顔が明るくなる。
目の前に立つ少女の指が、1本だけ長く伸びた。
「私の親友は、そっちにいる」
陽菜は水色のブレスレットを握る。
「私は、もう忘れない」
少女の泣き声が、急に低くなった。
菜々美の姿は崩れない。
顔の中で目と口の位置だけが、少しずつずれていく。
「浩司」
今度は俺の背後から声がした。
振り返らなくても分かった。
蓮の声。
「助けてくれ」
ビデオカメラの画面を見る。
俺の席のすぐ後ろに、日焼けした顔が浮かんでいる。
首から下は、体育館の暗がりに溶けて見えなかった。
「天井の中で、ずっと待ってたんだ」
「蓮」
「そうだよ。俺だ」
「なら、俺の名前を呼んでみろ」
蓮の顔が笑う。
「浩司くん」
「違う」
俺は正面を向いたまま答えた。
「蓮は、俺を浩司くんなんて呼ばない」
笑顔が止まる。
「お前が借りた声は似てる。でも、呼び方までは借りられなかった」
「見捨てたくせに」
「それでも、蓮の名前はお前に渡さない」
床へ置かれたスマホを見る。
「真壁蓮」
写真の中の蓮は、カメラへ向かって笑っていた。
背後から聞こえる声が、いくつも重なる。
蓮。
翔太。
菜々美。
最後には、俺自身の声まで混ざった。
「澪」
輪の反対側で、梓の声がした。
澪の正面に、明るい色のTシャツが見える。
顔は梓だった。
首元には、音楽室でついた傷まで残っている。
「迎えに来て」
梓の姿をしたものが手を伸ばす。
「放送室に一人なんだよ。澪なら来てくれるよね?」
同時に、天井のスピーカーから本物の梓の声が流れていた。
『高城浩司、成瀬陽菜、御影澪、藤崎梓……』
澪は目の前の梓を見たまま動かなかった。
「梓は今、名前を呼んでる」
「私が梓だよ」
「違う」
澪の声は静かだった。
「梓の声は、あなたの口から聞こえてない」
偽物の口が動く。
少し遅れて、スピーカーの声が同じ形をなぞる。
「藤崎梓」
澪が名前を呼んだ。
梓の姿をしたものの顔から、表情だけが抜け落ちる。
3つの借りた姿が、輪の内側へ近づいてきた。
菜々美の手。
蓮の顔。
梓の足。
別々の場所にあるはずなのに、ビデオカメラの画面では、どれも中央の8つ目の枠へつながっていた。
放送室の方から、何かが倒れる音が響く。
『梓!』
翔太の声が叫んだ。
扉を叩く音が激しくなる。
『開けろ! そこにいたら死ぬぞ!』
梓の呼ぶ名前が、一瞬だけ乱れた。
『高城浩司、成瀬陽菜、御影澪、藤崎……真壁蓮、佐伯菜々美、木戸翔太』
藤崎梓が抜けた。
目の前の偽物が、澪へ一歩近づく。
「藤崎梓!」
澪が叫んだ。
偽物の足が止まる。
放送室のマイクへ、荒い息が入っている。
『高城浩司、成瀬陽菜、御影澪、藤崎梓、真壁蓮、佐伯菜々美、木戸翔太』
梓は順番を戻した。
だが、その背後で扉の蝶番が軋んでいる。
何かが、放送室へ入ろうとしていた。
『梓』
今度は菜々美の声。
『私たちの名前を呼ばないで』
続いて蓮。
『そいつらだけで帰ればいい』
翔太の声が最後に重なる。
『お前の席なんか、最初からなかっただろ』
「うるさい」
梓の声が、マイクを通して校内へ響いた。
『私は藤崎梓』
短く息を吸う。
『高城浩司、成瀬陽菜、御影澪、藤崎梓、真壁蓮、佐伯菜々美、木戸翔太』
名前を呼ぶ速度が上がる。
扉を叩く音も速くなる。
輪の中にいる3つの姿が、同時に中央を向いた。
顔の一部が次々に入れ替わっていく。
菜々美の目。
蓮の口。
翔太の眉。
梓の頬。
誰のものでもない顔が、まだ完成しないまま俺たちを見ていた。
スマホの中で、顔を消した八重ちゃんが両腕を広げる。
画面の奥にある和室の引き戸が、ひとりでに開いた。
その先には和室ではなく、光のない空間が広がっている。
梓の声が、また一巡する。
『高城浩司、成瀬陽菜、御影澪、藤崎梓、真壁蓮、佐伯菜々美、木戸翔太』
放送室で、ガラスの割れる音がした。
梓が短く息を呑む。
『澪』
名前を並べる時とは違う声だった。
『生きて帰って』
「梓!」
澪がスピーカーを見上げる。
激しいノイズが校内放送を塗り潰した。
梓の声が途切れる。
3秒。
待つ必要はなかった。
「高城浩司、成瀬陽菜、御影澪、藤崎梓、真壁蓮、佐伯菜々美、木戸翔太!」
俺たち3人で名前を呼ぶ。
輪の中央へ集まりかけていた影が押し戻される。
俺はビデオカメラを見た。
録画は続いている。
7人分の顔認識枠。
その中央に、8つ目の枠。
全員が映像へ残っている。
「この輪にある人間の席は7つだ」
「誰の席も欠けていない。お前が入る席はない」
声を張る。
「高城浩司」
自分の胸へ手を当てる。
「成瀬陽菜」
陽菜が続ける。
「御影澪」
澪が名前を言う。
床へ置かれた4台のスマホを順番に見る。
「藤崎梓」
「真壁蓮」
「佐伯菜々美」
「木戸翔太」
7人。
誰も欠けていない。
誰も増えていない。
中央に集まった目と口が、俺へ向いた。
借りた声が重なる。
「なら、私は誰?」
「お前は誰の代わりでもない」
「菜々美じゃない。蓮でも翔太でもない。梓でもない」
人の顔になりきれなかったものが、細かく震える。
「これは人間の名前じゃない」
「お前が戻るべき役目の名だ」
「お前は、御代裏様だ」
役目を返した瞬間、体育館からすべての声が消えた。
無音の中で、8つ目の認識枠が中央のスマホへ縮んでいく。
画面の奥に開いた暗闇から、白い指が伸びた。
借り物の目と口を一つずつつかみ、和室の中へ引き込んでいく。
最後に残ったのは、顔のない輪郭だけだった。
それも八重ちゃんの端末へ沈み、朱色の引き戸が閉まる。
画面全体に細い亀裂のような線が走った。
「八重ちゃん!」
肌色の平らな顔に、黒い瞳と鼻と口が戻る。
途切れていた八重ちゃんの声が、もう一度だけ聞こえた。
『浩司くん』
「何だよ」
八重ちゃんは、最初にアプリを開いた時と同じ笑顔を見せた。
『この動画、きっとバズるよ』
軽やかな鈴の音が鳴る。
朱色の引き戸が閉じた。
次の瞬間、アプリの画面が消えた。
ホーム画面へ戻る。
そこに、《八重ちゃんの何でも屋》のアイコンはなかった。
体育館の床が大きく揺れた。
天井から埃が降り、ステージ脇の壁に亀裂が走る。
「録画は?」
澪が尋ねる。
ビデオカメラの赤い表示は消えていた。
画面も暗い。
確認している時間はない。
「梓を迎えに行く!」
澪が校舎側の扉へ駆ける。
取っ手を押すと、扉は簡単に開いた。
だが、その向こうに廊下はなかった。
床も壁も途中で崩れ、底の見えない暗がりが体育館の外まで続いている。
「梓!」
澪が叫ぶ。
放送用スピーカーから返事はない。
天井の梁が大きく軋み、破片が床へ落ちた。
「澪、今は外へ出るしかない!」
陽菜が澪の腕をつかむ。
「でも、梓がまだ……!」
「忘れない。絶対に戻ってくる。でも、ここで全員潰されたら終わりだ!」
俺は中央の窪みからスマホをつかみ取った。
「端末を回収しろ! 側面の扉から出る!」
陽菜と澪も、それぞれの席へ走る。
梓と翔太を映した2台と、ビデオカメラまでは持ち出せない。
3人で側面の扉へ向かった。
最初は開かなかった鉄製の扉が、今度は抵抗なく外へ開いた。
湿った夜の空気が流れ込んでくる。
外には校庭があった。
廊下でも、別の教室でもない。
俺たちは校庭を横切り、開いた校門を目指した。
背後で窓ガラスが割れる。
校舎の中から、いくつもの足音が追ってきた。
もう名前を繰り返す必要はなかった。
それでも、梓の名前を忘れたわけではない。
走っているのは、3人だけだった。
陽菜。
澪。
俺。
校門を越えた瞬間、背後の音が止まった。
山の中から、夏の虫の声が戻ってくる。
俺たちは坂道へ倒れ込むように座り、しばらく誰も動けなかった。
鏡坂高校は、暗闇の中に残っている。
崩れたはずの壁も、割れた窓も、校門の外からは見えなかった。
ただ、体育館の窓が一つだけ、白く光っていた。
光はすぐに消える。
俺の手の中で、スマホが震えた。
画面には通知も、着信も出ていない。
ホーム画面を何度探しても、朱色の傘を持った黒髪の少女は見つからなかった。




