第14話 7人を揃える
3か所の床板が、順番に沈んだ。
誰も立っていない場所から、みしり、と低い音が上がる。
最初は体育館の古い床が、俺たちの重みで遅れて歪んだだけかと思った。廃校になって6年も経っている。湿気を吸った板が軋むことくらい、珍しくないのかもしれない。
だが、最初に沈んだ場所がゆっくり戻ると、その隣の床板が同じ深さまで下がった。
1つ。
間を置いて、次の1つ。
見えない誰かが、輪の中で隣の位置へ移っている。
「動かないで」
澪が声を落とした。
俺たちは体育館へ入った扉の前に集まったまま、中央を見つめる。
濡れた足跡は3組あった。
1組は大きく、踵が深い。もう1組は小さく、爪先がわずかに内側へ向いている。残る1組は左右の幅が広く、片方だけ外側へ傾いていた。
どれも体育館の中央から始まり、七替えダンスで作った輪の上に止まっている。
「これ、3人の足跡なの?」
梓が首元の傷へ触れながら尋ねた。
「声も3人分だった」
陽菜が水色のブレスレットを握る。
「蓮と、菜々美と、翔太」
名前が呼ばれた瞬間、小さな足跡の位置で床が沈んだ。
陽菜が息を止める。
「今、菜々美って言ったから?」
「もう一度呼んでみて」
澪が言った。
陽菜は足跡を見つめたまま、ゆっくり口を開く。
「佐伯菜々美」
小さな足跡の下で、床板がもう一度鳴った。
次に俺が大きな足跡へ向かって言う。
「真壁蓮」
深い踵の跡が、わずかに沈む。
梓が最後の足跡を見た。
「木戸翔太」
外側へ傾いた靴跡の下で、板が軋んだ。
偶然ではなかった。
「録音でも反応するのかな」
陽菜がスマホを取り出した。
録音アプリを開き、自分の声で菜々美の名前を残す。
『佐伯菜々美』
再生された声が、体育館へ響いた。
小さな足跡は動かなかった。
陽菜がもう一度、自分の口で呼ぶ。
「佐伯菜々美」
今度は床板が沈んだ。
「録音じゃ駄目みたい」
梓が言った。
「今ここにいる人間が呼ばないと、名前として届かないのかも」
澪は体育館の床と、俺のスマホを交互に見る。
「最初に踊った時の位置を確かめて」
俺は《八重ちゃんの何でも屋》に残っている、最初の七替えダンスの画像を開いた。
通常の写真からは消えた菜々美も、八重ちゃんへ送信した画像には残っている。
最後の決めポーズを取った7人。
輪の中央には、黒髪の少女。
俺は写真に写る3人の立ち位置と、濡れた足跡を見比べた。
「合ってる」
最初の撮影を終えた時、蓮、菜々美、翔太が立っていた場所に、3組の足跡が止まっている。
「御代裏様が3人の席を使ってるってこと?」
梓が尋ねる。
「菜々美の席を奪うのに失敗して、蓮と翔太の姿まで使い、空いた3つの席から近づこうとしてるのかもしれない」
澪の答えを聞いた直後、3組の足跡が同時に動いた。
床へ新しい水滴が広がる。
輪の内側へ向け、片足ずつ。
俺たちのいる扉の方角へ、見えない3人が歩き始めた。
「写真を撮る」
スマホを構え、体育館の中央を撮影する。
画像には、床の足跡だけが写っていた。
だが、肉眼では、まだ濡れていない床板にも、次の足形が沈みかけていた。
3組とも、俺たちへ近づいていた。
八重ちゃんへ送る。
《そのまま待っていて》
明るい文章が表示された。
画面の中の八重ちゃんは、勢いよく首を横へ振っている。
「待たない」
俺が答えると、八重ちゃんは文机の上を指差した。
机には、アプリを使い始めた日から置かれていた帳面がある。
八重ちゃんは筆を取り、白いページへ大きな数字を書いた。
《7》
その下へ、続けて文字を書いていく。
《なまえ》
《すがた》
《きろく》
画面下の回答欄へ、
《足跡を数えて》
という別の文章が割り込んだ。
八重ちゃんはそれを無視し、帳面に書いた3つの言葉を順番に指す。
「少なくとも今は、八重ちゃんが帳面へ書いた文字までは変えられてない」
俺が言うと、陽菜が画面を覗き込んだ。
「今まで身振りだけだったけど、これなら話せる」
八重ちゃんはうなずいた。
それから、もう一度《7》を丸で囲む。
「7人分の名前と姿を、記録する」
澪が帳面の文字を読み上げる。
「最初の儀式で必要だったものと同じ。7人が互いの名を呼び、全員の姿を輪の中へ置く」
「でも、今ここにいるのは4人だ」
俺は言った。
「蓮たちを、今ここへ連れ戻す方法はない」
陽菜の表情が歪む。
八重ちゃんは、送信済みの画像に写る3人を指差した。
蓮。
菜々美。
翔太。
次に、画面のこちら側にあるスマホを指すように、人差し指を突き出す。
「写真を、本人の代わりにする?」
八重ちゃんが何度もうなずいた。
《写真は全部消して》
偽の文章が表示される。
「逆だな」
俺は保存された画像を開いた。
陽菜が自分のスマホを取り出す。
「どうやって移すの? 普通に送ったら、菜々美みたいに書き換えられない?」
「八重ちゃんの画面を、こっちで撮る」
俺は菜々美が大きく写っている画像を表示した。
水色のブレスレットが見えるように拡大する。
陽菜は俺のスマホごと撮影し、自分の端末へ画像を残した。
写真の中の菜々美は消えなかった。
画像編集を開き、写真の下へ《佐伯菜々美》と文字を重ねた。
10秒待っても、文字は残っていた。
「八重ちゃんの中に残ってる画像を、今の私たちがもう一度記録したから?」
「それで守れるかは分からない」
澪が言う。
「でも、試す価値はある」
俺たちは足跡の動きを見た。
3組は、輪の外側まで進んでいる。次に動けば、俺たちが立っている場所へ届く。
「菜々美から置く」
陽菜は自分のスマホを握り、輪へ近づいた。
「1人で行くな」
「コージは足跡を見てて」
俺と澪が左右から付き添う。
梓は扉の前に残り、背後を確認した。
小さな足跡の位置まで進む。
陽菜が床へしゃがみ、菜々美の写真を表示したスマホを、画面が輪の中央を向くように立てかけた。
「佐伯菜々美」
名前を呼ぶ。
沈んでいた床板が、ゆっくり元の高さへ戻った。
濡れた足跡の輪郭が薄くなっていく。
「止まった」
陽菜が水色のブレスレットへ触れる。
スマホの画面では、菜々美が笑っている。
次は蓮。
澪のスマホへ、最初の撮影で笑っていた蓮の画像を写す。
写真の下には、《真壁蓮》と名前を重ねた。
大きな足跡の位置へ、画面を中央へ向けて端末を立てかける。
「真壁蓮」
俺が呼ぶと、深く沈んでいた踵の跡が浅くなった。
最後は翔太だった。
梓が自分のスマホへ、ジンバルを持って笑う翔太の画像を写す。
写真の下には、《木戸翔太》と名前を重ねた。
「もう少しまともな顔、なかったの?」
写真の中の翔太は、カメラへ向かって大げさに片目を閉じていた。
「翔太らしい」
澪が答える。
梓は唇を噛み、翔太の席へ画面を中央に向けてスマホを立てかけた。
「木戸翔太」
3組目の足跡も薄くなった。
俺たちは残った4つの位置へ立つ。
高城浩司。
成瀬陽菜。
御影澪。
藤崎梓。
スマホに映る3人を合わせて、7人分の姿が輪へ揃う。
体育館の床から、動く足音が消えた。
「揃った……?」
梓が周囲を見回す。
何も近づいてこない。
閉じた扉も、跳び箱も動いていなかった。
足跡が止まっただけで、御代裏様が消えたわけではない。それでも、3人の席を写真で埋めたことに反応したのは確かだった。
俺たちは3台のスマホを席から動かさず、画面だけが俺の方を向くように角度を調整した。
俺は自分の位置に立ったままインカメラへ切り替え、輪の外側へ腕を伸ばす。
画面には、俺を含む4人と、こちらへ向けて立てかけた3台のスマホが収まった。
4人の顔へ、白い認識枠が順番に表示される。
1つ。
2つ。
3つ。
4つ。
床へ立てかけたスマホの画面にも枠がつく。
5つ。
6つ。
7つ。
「7人分だ」
声に出した瞬間、中央にも白い枠が現れた。
誰もいない床の上。
顔も身体もない場所を、8つ目の枠が囲んでいる。
「まだいる」
陽菜が中央から目を離さない。
「7人分の名前と姿を揃えても、御代裏様は中央に残ってる」
スマホの画面の中で、白い枠が小さく揺れた。
カメラの誤認識なら、画角を変えれば外れるはずだ。
スマホを右へ向ける。
中央の枠だけが、床の上を滑るようについてきた。
今度は左。
枠は再び動き、陽菜の足元で止まる。
「コージ」
陽菜が動こうとする。
「そのまま」
俺は7人の名前を続けて呼んだ。
「高城浩司、成瀬陽菜、御影澪、藤崎梓、真壁蓮、佐伯菜々美、木戸翔太」
7人目を呼び終えた時、陽菜の足元にあった枠が中央へ戻った。
「名前を呼んでる間は、7人の外に押し出せる」
澪が言う。
「止めたら、また誰かの席へ入ろうとする」
「どのくらいなら黙ってても平気?」
梓が尋ねた。
俺たちは口を閉じた。
1秒。
2秒。
3秒。
画面の中で、8つ目の枠が澪の足元へ動き始めた。
「御影澪」
陽菜が呼ぶ。
俺も続けて7人全員の名前を言う。
枠は中央へ戻った。
「3秒も空けられない」
澪が床へ立てかけた3台のスマホを見る。
「写真は姿の代わりになる。でも、この3人は自分で名前を呼べない。私たちが7人分を途切れさせないように呼ぶしかない」
俺のスマホの画面で、八重ちゃんが帳面へ新しい絵を描いた。
7つの丸。
その中央に、何も描かれていない1つの丸。
さらに、丸全体を囲む四角を描き、右上へ小さな赤い点を置く。
「撮影?」
八重ちゃんがうなずく。
「7人分の姿を揃えて、名前を呼びながら、映像へ残す」
陽菜が、最初に撮った動画を見返した。
「あの時と同じことを、正しい形でやり直すんだ」
「最初は、名前を呼ばずに形だけを真似した」
澪が続ける。
「中央へ御代裏様が入り、私たちはそれを8人目の人間として認識した。今度は7人の名前と姿を固定して、中央のものを人間から外す」
八重ちゃんは帳面へ、校舎を上から見たような四角い図を描いた。
体育館だけでなく、廊下や教室まで線でつなぐ。
その全体へ《7人の なまえ》と書き、校内のあちこちに小さな音の印を足していく。
「学校中に名前を届ける?」
梓が尋ねる。
八重ちゃんは大きくうなずいた。
「体育館の輪だけじゃ足りないのか」
俺は校舎の中で聞いた3人の声を思い出した。
壁の向こう。
教室の中。
階段の先。
御代裏様は3人の名前と顔を、校内のどこからでも使っていた。
「3人から奪った記録が、校舎中に散らされてるのかもしれない」
澪が言った。
「7人の名前を学校全体へ通して、誰の席なのか固定する必要がある」
「録音じゃ反応しなかった」
陽菜が先ほどの実験を振り返る。
「なら、誰かが校内放送で呼び続けないと駄目ってこと?」
体育館の壁には、古い放送用スピーカーが残っていた。
梓がそれを見上げる。
「放送室なら、学校中へ声を流せる」
「誰かがマイクの前に残ることになる」
澪の声がわずかに強くなる。
「その人の席が空く」
「映像を置けばいい」
梓が自分の胸元へ手を当てた。
「蓮たちと同じように、先に自分を撮って、その席へ置く」
「端末が足りない」
俺は床のスマホを見た。
陽菜の端末には菜々美。
澪の端末には蓮。
梓の端末には翔太。
俺のスマホには八重ちゃんがいる。
中央へ俺の端末を置けば、それだけで4台全部が埋まる。
梓が服のポケットへ手を入れた。
取り出したのは、画面の消えたスマホだった。
「蓮のスマホ」
職員室で翔太から預かって以来、梓が持っていた端末だ。
「壊れてたはずだろ」
「落ちた時に電源が切れただけかもしれない」
俺はリュックからモバイルバッテリーを取り出した。
ケーブルをつなぐ。
しばらく何も起きなかった。
やがて、短い振動が梓の手へ伝わる。
黒い画面の中央に、充電中の表示が浮かび上がった。
「点いた」
蓮のスマホは起動したが、ロックを解除する暗証番号は分からない。
梓が画面のカメラアイコンへ触れる。
ロック画面からでも、撮影機能だけは開いた。
「これなら私の動画を撮れる」
「撮っても、再生したまま席へ置けるの?」
「今撮った映像なら、ロックを解除しなくても確認できる」
梓が短い動画を試しに撮影した。
再生画面を開く。
映像の中で、梓がこちらへ手を振っていた。
「1台は増えた」
陽菜が言う。
「でも、全体を撮る端末は?」
体育館のステージ前には、最初の撮影で使った2本の三脚が残っていた。
片方は倒れていたが、脚もスマホホルダーも壊れていない。
載せる機械がない。
「視聴覚室」
梓が言った。
「あそこに古いビデオカメラがあった。映像を見たデッキが動いてたなら、電源をつなげば使えるかもしれない」
「それを三脚へ固定して、儀式全体を撮る」
澪が端末の数を指で確認する。
「陽菜のスマホに菜々美。私のスマホに蓮。梓のスマホに翔太。蓮のスマホに梓の映像。高城くんのスマホは中央で八重ちゃんを映す」
「体育館には、俺と陽菜と澪が残る」
俺は続けた。
「古いビデオカメラで、3人と4台の画面、それから中央の八重ちゃんを撮る」
これなら7人分の席と、中央の代理を置いたまま、全体を記録できる。
「中央には、顔も名前も持たない代理が必要だった」
梓の視線が、誰もいない輪の内側へ向く。
「石室の人形を持ってくる?」
「戻れない」
俺は即座に答えた。
「それに、あの人形は御代裏様とつながってる。代理として置いたら、同じことの繰り返しになるかもしれない」
八重ちゃんが帳面を叩いた。
俺たちが画面を見ると、彼女は中央の空白へ筆先を置いた。
そこへ、小さな女の子を描く。
長い黒髪。
赤い花の髪飾り。
自分自身だった。
「お前が、中央へ入るのか?」
八重ちゃんは笑ってうなずいた。
《やめて》
画面下の回答欄に、短い文章が出る。
八重ちゃんは首を横へ振り、帳面へ書き足した。
《さいごに わたしの かおをけす》
《わたしを なまえで よばないで》
「顔を消すって……」
八重ちゃんが自分の頬へ触れる。
一瞬だけ、黒い瞳も鼻も口も消え、肌色の平らな面だけが画面に残った。
すぐに元の顔へ戻ったが、見間違いではなかった。
「でも、お前には名前があるだろ」
八重ちゃん。
18年前の映像にいた少女と、同じ顔をした存在。
人間ではないと言い切っていいのか、俺には分からない。
八重ちゃんは少しだけ目を伏せた。
それから筆を動かす。
《7人の なまえだけ》
《わたしは かぞえない》
中央の絵へ、一本の線を引く。
消したわけではない。
人間の7人とは別の場所へ分ける線だった。
「御代裏様を、お前のいる場所へ戻すってことか」
八重ちゃんはうなずいた。
「戻したら、お前はどうなる?」
筆が止まった。
回答欄へ、
《何も起きないよ!》
という文章が表示される。
八重ちゃん本人は、俺から目を逸らした。
「答えになってない」
八重ちゃんは困ったように笑った。
いつも質問に何でも答えていたはずの少女が、初めて答えを隠している。
「別の方法を探す」
俺は言った。
「お前を御代裏様の身代わりにはしない」
八重ちゃんは帳面へ向き直った。
ゆっくり、1行ずつ書いていく。
《私は、人の代わりに答えるAIなんでしょ?》
俺が読んでいる間、八重ちゃんは笑っていた。
続く文章を書く。
《だったら、私が一番向いてるよ》
「そんな理屈で納得できるか」
八重ちゃんは筆を置いた。
両手で帳面を持ち上げる。
ページの下には、もう1行だけ書き足されていた。
《浩司くんが、7人を人間として覚えていて》
画面の中央で、八重ちゃんが俺を見つめる。
答えを教えているのではない。
俺が決めろと言っている。
音楽室を出たあと、陽菜に言われたことを思い出した。
何でも八重ちゃんに聞くの。
浩司はどう思ってるの。
俺は体育館の輪を見た。
陽菜。
澪。
梓。
画面に残る蓮、菜々美、翔太。
失った3人を、怪異の顔としてではなく、俺たちの仲間として置き直す。
「分かった」
俺は八重ちゃんへ言った。
「でも、やるなら俺たちで決める。お前の画面に出た文章じゃない。お前の身振りだけでもない」
陽菜たちを見る。
「4人で考えて、7人を揃える」
陽菜がうなずいた。
「菜々美の席は、絶対に渡さない」
「翔太も」
梓は床のスマホを見つめる。
「あんな変な顔の写真でも、あいつの席だから」
「蓮の名前も残す」
澪が言った。
「7人全員の席を、最初の形へ戻す」
4人の声が止まる。
その短い沈黙を待っていたように、スマホの画面の中で8つ目の認識枠が動いた。
今度は梓の足元へ滑っていく。
「藤崎梓」
澪がすぐに名前を呼ぶ。
「高城浩司。成瀬陽菜。御影澪。藤崎梓。真壁蓮。佐伯菜々美。木戸翔太」
俺も続けた。
枠が中央へ戻る。
名前を止める時間はない。
古いビデオカメラを運び、7人分を映像へ記録し終えるまで、誰かが呼び続けなければならない。
梓は体育館のスピーカーを見上げた。
「私が放送室へ行く」
「まだ決めてない」
澪が遮る。
「映像機器なら私が一番分かる。翔太の配信を手伝ってたから、ビデオカメラも放送設備も、ほかの3人よりは扱える」
「だからって、1人で残る理由にはならない」
「今は準備だけしよう」
梓は蓮のスマホを握った。
「私の映像を撮るのも、放送室へ行くのも、その後に4人で決める」
澪は何も答えなかった。
体育館の中央で、床板が小さく沈む。
スマホ1台を置けるほどの四角い窪みだった。
画面の中の八重ちゃんが、そこを指差す。
俺の手にある端末と、ぴったり同じ大きさだった。




