第13話 菜々美が帰ってきた
「陽菜」
階段の途中から、もう一度声がした。
「やっと見つけた」
陽菜の肩が震える。
石段を踏む硬い音が、ゆっくり近づいてくる。
暗闇の中から、白い靴が現れた。
続いて、細い足首。膝。廃校へ来た時と同じ服。
最後に、階段の陰から少女の顔が下りてきた。
「……菜々美」
陽菜の口から、名前がこぼれた。
階段に立っていたのは、佐伯菜々美だった。
肩まで伸びた髪の毛先が内側へ巻かれている。小柄な身体も、丸い目も、少し困ったように下がる眉も、俺が覚えている菜々美と変わらない。
頬には埃がつき、服の裾は破れていた。
「よかった」
菜々美が息を吐く。
「ずっと探してたんだよ。みんな、急にいなくなるから」
陽菜が階段へ向かって一歩踏み出した。
「待って」
俺は陽菜の腕をつかんだ。
「コージ」
「写真を撮る」
菜々美が本当に戻ってきた可能性はある。
蓮と翔太も、姿を消しただけで生死は分かっていない。菜々美も、校内のどこかへ移されていただけなのかもしれなかった。
そう考えれば、階段を下りてきた足音にも説明はつく。
俺だって、本物であってほしかった。
「そこで止まってくれ」
菜々美へスマホを向ける。
「何で?」
「確認するだけだ」
「私だよ」
菜々美は傷ついたように陽菜を見た。
「陽菜なら分かるよね?」
陽菜の腕に力が入る。
俺はシャッターを押した。
写真には、階段の下から俺たちを見つめる菜々美が写っていた。
顔は菜々美だった。
黒い髪の少女も、余分な影も、背後に立つ人影もない。
写真だけを見れば、本人にしか思えなかった。
八重ちゃんへ送る。
画面の中の八重ちゃんは、画像を見たまま動かなくなった。
《菜々美ちゃんだよ!》
明るい文章が表示される。
八重ちゃん本人は勢いよく首を横へ振った。
それから、写真の右下を何度も指差す。
「右下?」
画像を拡大する。
菜々美の右手が写っていた。
手首には、細いブレスレットが巻かれている。
石室の明かりでは色まで分からなかったが、写真では黄色く見えた。
「陽菜」
俺は声を落とした。
陽菜も写真を見ていた。
自分の左手首へ視線を移す。
そこには、黄色と水色のブレスレットが2本並んでいる。
陽菜がいつもつけていたのは黄色。
菜々美がつけていたのは、水色だった。
「そのブレスレット」
陽菜が階段の少女を見る。
「どこで見つけたの?」
菜々美は自分の右手首へ触れた。
一瞬だけ、答えに迷ったように見えた。
「暗い廊下に落ちてたの。何も持ってなくて、不安だったから」
「菜々美のは水色だったよね」
「覚えててくれたんだ」
菜々美が笑った。
「でも、それは陽菜が持ってるじゃん」
水色のブレスレットへ視線が向く。
「私がいなくなった後、拾ったんでしょ?」
「これは……」
「似てるだけだよ。黄色なんて、珍しくないし」
確かに、同じ色の物がほかにないとは言い切れない。
怪異のいる校内で拾った物を、わざわざ身につけるのは不自然だ。それでも、菜々美が暗闇の中で何かにすがりたかったのだと言われれば、否定しきれなかった。
澪が俺の隣へ立つ。
「質問して」
「何を?」
「本人しか知らないこと」
陽菜は菜々美から目を離さなかった。
「高校で、最初に話しかけたのはどっち?」
「私」
菜々美はすぐに答えた。
「陽菜、入学式の日から周りに人がいっぱいいたから、話しかけるの少し迷ったんだよ。でも、次の日に同じ移動教室になって、私から声をかけた」
陽菜の表情が揺れる。
「去年の文化祭は?」
「同じ係だった。片づけが終わらなくて、2人で最後まで残った」
「海へ行った時に買ったのは?」
「色違いのブレスレット。陽菜が黄色で、私が水色」
陽菜の反応を見る限り、答えは全部合っていた。
「ほら」
菜々美は両手を広げた。
「私だよ」
声も、笑い方も同じだった。
階段の途中で立ち止まったまま、陽菜が来るのを待っている。
もし偽物なら、どうしてここまで知っている。
翔太の顔を借りたものは、スマホのロックを解除できず、梓との思い出も間違えた。だが、目の前の菜々美は違う。
顔だけでなく、菜々美の記憶まで持っている。
「御代裏様は、名前を奪う」
澪が小さく言った。
「記憶も一緒に持っていかれたのかもしれない」
菜々美の笑顔が止まった。
「何の話?」
「あなたが本物なら、気にしなくていい」
澪は感情を見せずに答えた。
「石室へ入って。階段から離れて、両手が見えるようにして」
「嫌だよ」
菜々美の声が強くなる。
「どうして私が疑われなきゃいけないの?」
「翔太の顔をした偽物がいたから」
梓が首元の傷へ触れながら言った。
「声も顔も、本人と同じだった」
「私まで同じだと思ってるの?」
「分からないから、確かめたいだけ」
「陽菜も?」
菜々美の視線が陽菜だけを捉える。
「私を疑ってる?」
陽菜は答えられなかった。
「ずっと暗いところにいたんだよ」
菜々美の目に涙が浮かぶ。
「名前を呼んでも誰も来なかった。やっと陽菜の声が聞こえて、ここまで来たのに」
階段を1段下りる。
「私を置いていったのに」
もう1段。
「忘れてたんでしょ?」
最後の1段を下り、菜々美が石室の床へ足を置いた。
陽菜が後ろへ下がった。
「それは……」
「私のこと、いなかったことにしたんでしょ?」
菜々美は泣きながら笑っていた。
「なら、謝ってよ」
「菜々美」
「ちゃんと、私に謝って」
声だけを聞けば、傷ついた友人の言葉だった。
実際、陽菜は菜々美を忘れた。
水色のブレスレットを見るまで、親友がいたことさえ思い出せなかった。
「ごめん」
陽菜の口から、小さな声が出た。
菜々美の笑みが深くなる。
「聞こえない」
「私……」
「もっと近くで言って」
菜々美が手を差し出す。
「陽菜が私のことを忘れたって、ちゃんと謝って」
陽菜の左手が上がった。
黄色と水色のブレスレットが、石室の明かりを受ける。
その手は菜々美へ伸びなかった。
水色のブレスレットを強く握った。
「違う」
陽菜の声が変わった。
震えは残っている。それでも、今度ははっきり聞こえた。
「何が?」
「菜々美は、そんなこと言わない」
階段の少女から、涙が消えた。
「私を忘れかけた時も、菜々美は怒らなかった」
陽菜は一歩前へ出た。
「まだ忘れてないって言ってくれた。名前を呼んだら、今呼んでくれたからって笑ってくれた」
「陽菜」
「菜々美は、私に自分のことを忘れたって謝らせたりしない」
石室の中で、何かが軋んだ。
中央の台座から聞こえた。
白い布の下で、木の関節がゆっくり曲がるような音だった。
目の前の菜々美の口元が引きつる。
「どうして?」
声は菜々美のままだった。
「全部、覚えてるのに」
「覚えてるだけ」
陽菜が答えた。
「あんたは、菜々美じゃない」
菜々美の顔から、表情だけが抜け落ちた。
目も口もそのままなのに、誰かが作った写真を貼りつけたように動かなくなる。
右手首の黄色いブレスレットが、床へ落ちた。
乾いた音が一度だけ響く。
落ちた輪は、黄色い糸を雑に結んだだけの物へ変わっていた。
スマホの中で、八重ちゃんが何度もうなずいている。
《陽菜ちゃんが間違ってるよ》
表示された文章は、まだ俺たちを騙そうとしていた。
「陽菜」
階段の少女が呼ぶ。
今度は、菜々美の声ではなかった。
「助けてくれよ」
蓮の声だった。
陽菜の顔が強張る。
「俺、まだ上にいるんだ」
少女の左目だけが、蓮のものへ変わった。
日焼けの残る肌と、見慣れた眉が、菜々美の顔の中に重なっている。
「なあ、コージ」
続いて口元が翔太へ変わる。
「俺だって。ずっと一緒にいたじゃん」
顔全体が一度に変わることはなかった。
目と口と声だけが、借りた相手を次々に替えていく。
右手の指が石室の床へ触れた。
指先が、1つ多く曲がった。
「階段へ走れ」
俺は言った。
少女は、陽菜へ近づくため、石室の中まで下りてきている。
その背後には、上へ続く階段が空いていた。
「私が引きつける」
陽菜が答えた。
「駄目だ」
「私を見てる」
少女の顔が菜々美へ戻る。
「陽菜。置いていかないで」
陽菜は水色のブレスレットを握ったまま、中央の台座を挟んで反対側へ動いた。
「こっちだよ」
その声に、少女の首が向く。
身体は動かない。
首だけが、少し遅れて陽菜を追った。
「今!」
澪が走る。
梓が続き、俺は陽菜の腕をつかんだ。
「一緒に行くぞ!」
台座の横を回り、階段へ向かう。
背後で石を擦る音がした。
少女の指が床を掻いている。
「陽菜!」
菜々美の声。
「浩司!」
蓮の声。
「梓、待って!」
翔太の声。
呼ばれるたび、足が止まりそうになる。
俺たちは振り返らなかった。
澪が先頭で階段を上がる。
梓。
陽菜。
俺。
4人いる。
石蓋の隙間から廊下の明かりが見えた。
澪が床板の破片を押しのけ、身体を滑り込ませる。梓と陽菜も続いた。
俺が最後の段へ足をかけた時、足首へ冷たいものが触れた。
振り返らずに脚を引く。
指先が靴の踵を掠めた。
「コージ!」
陽菜が俺の腕をつかみ、廊下へ引き上げる。
石蓋の下から、白い手が伸びた。
手首から先だけが床へ這い出し、6本の指で石を掻く。
澪と梓が石蓋へ体重をかけた。
「閉めるよ!」
俺と陽菜も加わり、石蓋を押す。
白い指が隙間へ挟まった。
骨ではなく、濡れた木が折れるような音がする。
指は引っ込まなかった。
石蓋がその上を通り、見えなくなった。
鉄の輪が床へ当たる。
石蓋の下から、菜々美の声がした。
「痛いよ、陽菜」
陽菜は目を閉じた。
「菜々美じゃない」
自分へ言い聞かせるように繰り返す。
「菜々美じゃない」
石蓋が内側から持ち上がった。
「走れ!」
俺たちは廊下を駆け出した。
音楽室の扉は静かになっていた。
代わりに、閉じた教室の中から、3人分の足音がついてくる。
俺たちが走るたび、壁の向こうでも同じ速さで何かが走った。
「どこへ行くの?」
菜々美の声が右の教室から聞こえる。
「そっちは行き止まりだぞ」
前方から蓮が呼ぶ。
「こっち、近道!」
左の壁から翔太が笑う。
どの声も、俺たちの進む先を知っていた。
角を曲がる前に写真を撮る余裕はない。
スマホの画面では、八重ちゃんが両手を大きく振っている。
声は出ない。
偽の文章が次々に表示された。
《右へ曲がって!》
《止まって!》
《後ろを見て!》
八重ちゃん本人は、全部に首を横へ振っている。
「どっちだ!」
廊下の突き当たりが左右へ分かれていた。
八重ちゃんが画面の左側へ駆け寄る。
左手を上げ、何度も左を指した。
「左!」
澪が迷わず曲がる。
その先に、両開きの扉があった。
曇った窓の向こうへ、バスケットゴールの白い板が見える。
「体育館?」
梓が声を上げる。
校舎の特別教室棟から、体育館へ直接つながるはずはない。
だが、この廃校では見取り図の方が先に壊れている。
「開けるぞ!」
取っ手を押す。
扉は抵抗なく開いた。
広い体育館へ、俺たちは転がり込むように入った。
最後に陽菜が扉を閉める。
澪と梓が壁際に置かれていた跳び箱を押し、扉の前へ寄せた。
外から追ってきた足音は止まった。
何もぶつかってこない。
菜々美の声も聞こえなかった。
「全員いる?」
陽菜が息を切らしながら尋ねる。
「いる」
澪。
「私も」
梓。
「高城浩司」
俺は自分の名前を言った。
「成瀬陽菜」
陽菜も続ける。
4人。
誰も増えていない。
誰も欠けていない。
俺はスマホのライトを体育館の中央へ向けた。
最初に七替えダンスを踊った場所には、あの時の靴跡が薄く残っていた。
7人が囲んだ輪。
その上に、新しい濡れた足跡が3組増えている。
どれも俺たちが入ってきた扉からは続いていなかった。体育館の中央から始まり、輪の中の別々の場所で止まっている。
誰も立っていないのに、3か所の床板が順番に沈んだ。




