第11話 嘘つき
《入口を見つけたら、開ける前に写真を見せてね》
画面に表示された文章を頼りに、俺たちは視聴覚室を出た。
八重ちゃんの口は、閉じたままだった。
視聴覚室を出てから、一度も声を聞いていない。代わりに、画面の下へ短い文章だけが表示されている。
校内へ入ってから、電話も廊下も、何もかもがおかしくなった。アプリの音声だけ止まっていても、不思議ではないのかもしれない。
廊下へ出る前に、全員の名前を確認した。
高城浩司。成瀬陽菜。藤崎梓。御影澪。
今ここにいる4人。
そこにいない3人の名前も忘れない。
真壁蓮。
佐伯菜々美。
木戸翔太。
名前を口にするたび、失った人数を突きつけられる。
「音楽室って、どっち?」
陽菜が尋ねた。
澪がスマホに保存した見取り図を開く。
「視聴覚室と同じ特別教室棟。見取り図どおりなら、この廊下を戻って階段を上がった先」
「見取り図どおりなら、ね」
梓が廊下の両端を見た。
来た時にはなかった教室の扉が、壁沿いにいくつも並んでいる。札に書かれた文字は擦れ、どれも読めなかった。
「写真を撮りながら進む」
俺は廊下の先へスマホを向けた。
撮影した画像には、実際には見えない階段が写っていた。
八重ちゃんへ送る。
《そのまま真っ直ぐだよ》
新しい文章が表示される。
画面の中の八重ちゃんは、文机の端をつかんだまま、こちらを見ていた。
「行こう」
角を曲がる前、階段を上がる前、閉じた扉の前。
俺たちは必ず立ち止まり、写真を撮った。
《今は何もいないよ》
《その教室には近づかないで》
送信するたび、画面には短い文章だけが浮かぶ。
廊下の形は、歩くたびに少しずつ変わっていた。
窓があった場所に壁ができ、階段を上ったはずなのに、同じ階の案内板が現れる。それでも写真に写った道をたどると、少しずつ音楽室へ近づいているらしい。
最初の階段を上がってから、さらに別の階段を上った時だった。
高い音が一度だけ、廊下の奥で鳴った。
ピアノの鍵盤を、指先で軽く押したような音だった。
「今の聞こえた?」
梓が足を止める。
「音楽室が近いんじゃない?」
陽菜が答えた。
「誰もいないのに?」
「古いピアノなら、木が歪んで音が出ることもあるかも」
温度や湿度で、内部の部品が動いたのかもしれない。
そんなことで鍵盤が鳴るのかは分からない。それでも、今はそう考えたかった。
俺は音がした方向を撮影した。
写真の中では、廊下の突き当たりに両開きの扉が写っている。
扉の上には、
《音楽室》
と書かれた札があった。
「見つけた」
写真では近くに見えるが、肉眼では薄暗い廊下が続いているだけだった。
俺たちは数歩進むたびに立ち止まり、同じ方向を撮影し直した。
新しい写真を確認するたび、扉が少しずつ近づいてくる。
また、ピアノの音が鳴った。
今度は2回。
少し間を置いて、3回目。
「誰か弾いてるみたい」
梓が陽菜の腕へ触れる。
「鍵盤の上に物が落ちてるだけかもしれない」
澪はそう言ったが、足を速めようとはしなかった。
廊下の突き当たりまで進むと、肉眼でも音楽室の扉が見えるようになった。
扉は閉まっている。
曇った窓からは、中の様子が分からない。
取っ手へ触れる前に、俺は正面から写真を撮った。
八重ちゃんへ送る。
八重ちゃんは写真を見たあと、扉の窓へ視線を向けた。
口は動かない。
代わりに、画面へ文章が浮かぶ。
《中に入って》
「何がある?」
八重ちゃんは答えなかった。
さらに文章だけが表示される。
《右奥の戸棚に、小さな鈴があるよ》
《その鈴があれば、見えないものを遠ざけられるかもしれない》
「本当に使えるのか?」
《うん。見つけたら3回鳴らしてね》
八重ちゃんは笑っていた。
ただ、文机の上に置いた指先だけが、強く曲がっている。
「さっきから、八重ちゃん、しゃべってないよね」
陽菜が俺の画面を覗き込んだ。
「アプリの調子が悪いんじゃないか」
そう答えながら、もう一度画面を見る。
八重ちゃんの頭が、わずかに左右へ動いた気がした。
もう一度見ると、いつもの笑顔でこちらを見ている。
映像が一瞬乱れただけだろう。
「鈴があるらしい」
「どうして音楽室に、見えないものを遠ざける鈴があるの?」
澪が眉を寄せる。
「分からない」
「説明は?」
「写真に写ってる範囲しか分からないんだろ」
陽菜が俺を見る。
「入るの?」
「ほかに手がかりがない」
俺は取っ手をつかんだ。
「全員、離れないでくれ」
扉を開く。
古い木材と埃の匂いが流れ出した。
音楽室には、机や椅子がほとんど残っていなかった。
左側の壁には、作曲家の肖像画が並んでいる。奥には埃で白く曇ったグランドピアノがあり、蓋は閉じられていた。
ピアノの前には、座る人のいない椅子が置かれている。
右奥には、背の高い戸棚があった。
「写真を撮る」
俺は入口から室内全体を撮影した。
画像には、ピアノ、肖像画、楽器をしまう棚が写っている。
人影はない。
天井にも異常は見えなかった。
八重ちゃんへ送る。
《右奥の戸棚だよ》
画面の文章が、戸棚の場所を示した。
俺たちは4人で音楽室へ入った。
床を踏むたび、乾いた板が小さく軋む。
誰も触れていないピアノから、また高い音が鳴った。
一度。
全員が足を止める。
「中に何かいるんじゃない?」
梓がピアノを見る。
「蓋は閉まってる」
澪がライトを向ける。
鍵盤を覆う蓋も下りていた。
外から押せる状態ではない。
「弦が切れた音かもしれない」
俺が言った直後、別の鍵盤の音が鳴った。
今度は低い。
高い音。
低い音。
誰かが2つの鍵盤を交互に押している。
「先に鈴を取ろう」
陽菜が梓の手を握った。
右奥の戸棚には、楽器や楽譜が雑然と詰め込まれていた。
棚の中央には、黒ずんだ布が敷かれ、その上に小さな鈴が置かれている。
真鍮製らしく、表面はくすんでいた。
持ち手には赤い糸が巻かれている。
「これ?」
陽菜が手を伸ばしかける。
「待って」
俺は鈴を撮影した。
写真を送ると、すぐに文字が浮かぶ。
《それだよ》
《浩司くんが持って、3回鳴らして》
俺は鈴を手に取った。
見た目より重い。
赤い糸は湿っているように指へ張りついた。
「何か変だよ」
澪が言った。
「音楽室へ入ってから、画面は鈴のことしか言ってない」
「必要な物だからだろ」
「本当に?」
澪の視線が俺のスマホへ向く。
画面の八重ちゃんは笑っている。
いつもと変わらないように見えた。
「鳴らすぞ」
鈴を振る。
澄んだ音が、音楽室の奥まで広がった。
壁に掛けられた肖像画の額が、一斉に揺れた。
「地震?」
梓が天井を見上げる。
床は動いていない。
2回目。
鈴の音へ重なるように、天井から何かを細く引きずる音が聞こえた。
糸を強く引いたような音だった。
「浩司、止めて」
陽菜が言う。
俺も同じ違和感を覚えていた。
スマホを見る。
《あと1回!》
画面の文章だけが、俺を急かしている。
八重ちゃんは両手を文机へつき、こちらを見ていた。
口元は笑っている。
目だけが、笑っていなかった。
「鳴らさない方がいい」
澪が俺の手首をつかむ。
その時、ピアノが大きな音を立てた。
閉じていた鍵盤の蓋が、内側から持ち上がる。
梓が声を上げ、陽菜の背後へ下がった。
俺の手が反射的に動いた。
3回目の鈴が鳴る。
天井から、何かが落ちた。
床へ当たる直前で止まった。
白い手だった。
人形のものらしい小さな手が、黒い糸で天井から吊られている。
続いて、別の場所から丸い頭が下りてきた。
髪のない頭。
片方の目だけが描かれている。
音楽室の天井一面から、細い糸が垂れ始めた。
「出ろ!」
俺は鈴を投げ捨て、入口へ走った。
扉が閉まる。
陽菜が取っ手へ飛びついたが、動かない。
「開かない!」
天井から木の関節が擦れる音が降ってくる。
から。
からから。
音が増えるたび、白い手や頭、細い脚が少しずつ低くなっていく。
全身は見えない。
糸の先につながった部品だけが、俺たちの頭上を埋めていた。
「窓!」
澪がカーテンを開ける。
窓の向こうには、別の音楽室が広がっている。
同じピアノ。
同じ肖像画。
同じ4人。
窓の向こうの俺たちは、全員が天井を見上げていた。
「駄目!」
梓が後ろへ下がる。
その髪へ、黒い糸が触れた。
「梓!」
陽菜が腕を伸ばす。
糸が梓の首と肩へ巻きつき、身体を天井へ引き上げようとした。
梓の両足が床を滑る。
「離して!」
陽菜が梓の腰へ抱きつく。
俺も梓の腕をつかんだ。
天井から、さらに何本もの糸が下りてくる。
梓の手首。
足首。
髪。
細い糸が次々に絡みつき、身体を上へ持ち上げていく。
「澪、何か切れる物!」
澪が楽器棚を開けた。
中から金属製の譜面台を引き抜き、脚の部分を糸へ叩きつける。
黒い糸が2本切れた。
ちぎれた端から、赤黒い液体が床へ落ちる。。
梓の身体が一度下がった。
「もう一回!」
俺は梓を引き戻しながら叫んだ。
澪が譜面台を振る。
糸が切れるたび、天井のどこかで鈴が鳴った。
1つ。
2つ。
数えられないほどの音が、頭上で重なっていく。
ピアノの鍵盤が激しく鳴り始めた。
ばらばらの音。
音楽にならない音が、壁と床を震わせる。
陽菜が梓の身体を引いた。
「梓、こっち!」
首へ巻きついた最後の糸が、澪の譜面台で切れる。
梓が俺たちの方へ倒れ込んだ。
俺はその身体を受け止める。
頭上から、白い顔が一つだけ下りてきた。
目も口も描かれていない。
顔の中央に、赤い糸が縫いつけられている。
「扉から離れて!」
陽菜の声が響く。
閉じていた両開きの扉が、突然廊下側へ開いた。
俺たちは梓を支え、音楽室を飛び出した。
最後に澪が譜面台を投げ捨てる。
廊下へ出た直後、扉が閉まった。
内側から、無数の物が扉へぶつかる。
木や陶器で作られた小さな物が、何度も体当たりしているような軽い音だった。
俺たちは扉から距離を取った。
「梓、大丈夫?」
陽菜が床へ座り込んだ梓の肩を支える。
首と手首には、糸が食い込んだ細い跡が残っていた。血は滲んでいるが、深い傷には見えない。
「大丈夫。動ける」
梓は息を整えながら答えた。
鈴は、音楽室の床へ投げ捨てたままだった。
俺のスマホが震える。
《音楽室へ戻って!》
同じ文章が、画面へ何度も表示された。
《鈴を鳴らせば、今度こそ追い払えるよ!》
「見えないものを遠ざけられるって、画面に出てたよね」
陽菜の声が低くなる。
「それを信じて鳴らしたら、梓が連れていかれそうになった」
「でも、今までは八重ちゃんに助けられてきた」
俺は反射的に言い返した。
「ほかに分かるやつがいないだろ」
「だからって、何でも八重ちゃんに聞くの?」
陽菜が俺を見た。
「コージはどう思ってるの?」
答えが出なかった。
廊下も、写真も、仲間の顔も、俺は八重ちゃんへ見せて判断してもらってきた。
自分で考えていたつもりだった。
だが実際には、画面に出た答えを選んでいただけだったのかもしれない。
「待って」
澪が俺のスマホへ顔を近づける。
画面には、明るい文章が繰り返し流れている。
《大丈夫だよ!》
《音楽室へ戻って!》
その奥で、八重ちゃんは声を出さずに泣いていた。
口は動いていない。
黒い瞳からこぼれた涙が、頬を伝って文机へ落ちる。
それでも画面の文章だけは、俺たちを音楽室へ戻そうとしていた。
「八重ちゃんが嘘をついたんじゃない」
澪が言う。
「さっきから、表示される文章と本人の動きが合ってない」
「文章だけ、別の何かに書き換えられてるってこと?」
梓が首元を押さえながら尋ねる。
「確かめる」
澪は八重ちゃんへ向かって、ゆっくり話しかけた。
「音楽室へ戻ってほしいなら、右手を上げて。戻ってほしくないなら、左手を上げて」
八重ちゃんは迷わず、自分の左手を上げた。
《違うよ。右手を上げてるよ!》
文章が割り込む。
だが、画面の中で上がっているのは、間違いなく八重ちゃんの左手だった。
「やっぱり」
澪が息を吐く。
「文字は信用できない」
「八重ちゃん。声は出せるか?」
俺が尋ねる。
八重ちゃんは口を開いた。
何も聞こえない。
何度か声を出そうとしたあと、悔しそうに唇を噛んだ。
そして、文机の下を指差す。
続けて、画面のこちら側へ両手を伸ばし、下へ向けた。
「床を見ろってこと?」
八重ちゃんが何度もうなずく。
《音楽室へ戻って!》
文章はまだ同じ指示を繰り返している。
俺たちはそれを無視し、廊下の床へスマホを向けた。
撮影する。
肉眼では、剥がれかけた床材と埃しか見えない。
写真には、床の中央に四角い切れ目が写っていた。
切れ目の片側には、黒く錆びた鉄の輪がある。
「扉?」
陽菜が床へ手を触れる。
指先で探ると、写真と同じ位置に細い隙間があった。
澪が周囲の床材を剥がす。
下から現れたのは、校舎の床とは明らかに年代の違う石の蓋だった。
表面には、円を囲む7つの人影が浅く刻まれている。
円の中央には、何も描かれていなかった。
その配置に、視聴覚室で見た映像が重なる。
7人が輪を作り、最後には中央を空ける。
七替えダンスと、まったく同じ形だった。
俺は石の蓋を写真に撮り、八重ちゃんへ送った。
《開けないで》
画面へ文章が表示される。
八重ちゃん本人は、両手で鉄の輪を持ち上げる仕草をした。
「もう一度確かめる」
俺は八重ちゃんを見る。
「この蓋を開けるべきなら左手。開けない方がいいなら右手を上げて」
八重ちゃんは、迷わず左手を上げた。
《開けないで》
文章が画面いっぱいに広がる。
俺は石蓋を撮影した写真を見直した。
刻まれているのは、円を囲む7つの人影だけだ。
白い顔も、黒い糸も写っていない。
だからといって、この下が安全だとは限らない。
八重ちゃんの姿そのものまで信用していい保証もなかった。
「どうする?」
陽菜が俺へ尋ねる。
今度は、画面ではなく俺を見ていた。
背後では、音楽室の扉へ内側から何かがぶつかり続けている。
ここに留まれば、あの糸がもう一度出てくるかもしれない。
石蓋に刻まれた7つの人影は、18年前の映像と同じ配置をしている。偶然で片づけるには、重なりすぎていた。
「開ける」
俺は答えた。
「八重ちゃんがそうしてるからじゃない。ここに留まる方が危ない。それに、この蓋は18年前の事件につながってる。俺は、下を確かめるべきだと思う」
陽菜が小さくうなずく。
澪は鉄の輪の反対側へ手を添え、梓も立ち上がった。
俺が鉄の輪へ手をかけた時だった。
背後の音楽室から、鈴が一度だけ鳴った。




