朝の光と食卓
第181章:朝の光と食卓
虫の音に包まれた夜は深く、溝口は珍しく夢を見なかった。
朝、窓から差し込むやわらかな光に瞼を押されるようにして自然と目を覚ます。
畳の匂いと涼やかな山風。
目を開けると、障子越しに映る光が淡く揺れていた。
昨夜まで張り詰めていた神経が、わずかに緩んでいる。
旅館という守られた空間の力か、それとも老警官の「祈り」の言葉がまだ効いているのか。
「失礼いたします」
襖が静かに開き、宿の主人が盆を抱えて現れた。
その所作は柔らかで、余計な物音を立てない。
盆の上には、焼き魚、温かな味噌汁、小鉢の煮物、香の物、そして白いご飯。
どれも簡素だが丁寧に整えられており、心を和ませる香りが部屋いっぱいに広がった。
「お口に合うと良いのですが……どうぞ、召し上がってください」
主人は深く頭を下げ、布団を畳む気配を気遣うように襖の外へ下がった。
溝口はしばらく盆を見つめ、箸を手に取る。
焼き魚の皮を割ると香ばしい香りが立ち、味噌汁を口に含むと、胃の奥にまでじんわりと温かさが広がった。
この数日の逃亡生活で感じた緊張が、少しずつ解けていく。
食事を終えると、静かな満足感が広がり、彼は深く息を吐いた。
「……まだ、ここは安全か」
そんな呟きが自然と零れる。
第182章:言伝
白いご飯の最後の一口を噛みしめ、味噌汁を啜ると、胃の奥にまで温かさが広がった。
焼き魚の香ばしい皮、ほろりと崩れる身、小鉢の煮物の素朴な甘さ。
それらを堪能しながら、ここ数日の緊張で麻痺していた味覚が少しずつ戻っていくのを実感する。
食事を終えてしばらく畳に座り、静けさに耳を澄ませる。
窓の外では山鳥の声と、遠くの川のせせらぎがかすかに混じり合っていた。
襖がすっと開き、旅館の主人が現れる。
「お食事はお口に合いましたでしょうか」
柔らかな笑みを浮かべながら、器を一つひとつ手際よく盆に戻していく。
溝口は軽く頭を下げた。
「とても……助かりました」
主人は頷き、盆を持ち上げると、少し声を落として付け加えた。
「そういえば、今朝、佐々木さんから伝言を預かっております」
主人の表情は笑みを保ったままだが、その瞳にはわずかな影が差していた。
「管内の動きが少々慌ただしくなってきているそうです。署の中で、妙な動きがある……と。
あくまで噂の域を出ないそうですが、何か心当たりがあるなら“気をつけろ”とのことでした」
その言葉は重く、部屋の静けさを揺らした。
主人はそれ以上は語らず、深く頭を下げると襖を閉めて去っていった。
畳の上に残されたのは、食事を終えた後の満足感と、新たな緊張感の入り混じる空気。
「署で……妙な動き、か」
資料の消え方、同僚の違和感、そして尾行。
全てが一本の線に繋がっていく気がして、胸がざわついた。
老警官がわざわざ伝えてくれた言葉。
それは単なる噂ではなく、溝口自身への警鐘にほかならないと感じられた。
彼は深く息を吐き、窓の外に目をやった。
青白い朝の光が、山の稜線を浮かび上がらせていた。
第183章:城戸という名
溝口は布団の上で腕を組み、じっと天井を見つめていた。
しばらくは身を潜める、それが一番安全なはずだった。
だが——どうしても頭から離れない顔がある。
副所長の隣に立っていた黒スーツの男。
妙に背筋を伸ばし、口数は少なかったが、鋭い眼差しを持っていた。
確か、名前は「城戸」と呼ばれていた。
「……あの男はいったい何者だ」
同僚たちの曖昧な態度や署の妙な動きと、彼の存在が結びついてしまう。
もし彼について何か分かれば、全体の構図が見えるかもしれない。
「すみません」
廊下に出ると、ちょうど主人が掃除をしていた。
「この辺りで……パソコンを使える場所はありますか」
主人は手を止め、少し考える仕草を見せた。
「この宿には置いておりません。ですが、山を下った街の駅前に小さなカフェがあります。
あそこなら一応、インターネットに繋がるパソコンが置かれているはずですよ」
「カフェ、ですか」
溝口は頷き、メモ帳を取り出した。
「ええ。ただし営業時間は昼から夕方まで。……それと、あまり人目に立たないように」
主人の言葉は軽い口調だったが、その奥には警告めいた響きがあった。
部屋に戻りながら、胸の中で考えを固める。
城戸という男の素性。
署の妙な動き。
そして「リトルアンダーグラウンド」につながる扉。
——調べる必要がある。
だが同時に、ネットに触れるという行為が、自分の居場所を再び“彼ら”に知らせる可能性もある。
リスクを承知の上で、踏み込まねばならない時が来たのだ。
第184章:街へ
昼過ぎ、旅館の駐車場に停めていたレンタカーに乗り込む。
キーを回すとエンジン音が静かな山間に響き、溝口は深く息を吐いた。
舗装はところどころ荒れており、ハンドルを握る手に細かな振動が伝わる。
杉林の間を抜ける道は細く、昼だというのに木々の影が重なって暗い。
バックミラーを確認するたび、闇の中に何か潜んでいるのではと錯覚した。
山を降りるにつれて、空気が少しずつ乾き、人の営みの匂いが戻ってくる。
やがて、視界に街並みの輪郭が見え始め、信号機の赤い光が遠くで瞬いた。
山を下りきると、そこは一転して雑踏の世界だった。
ある程度閑散とはしているが、
車道にはバスが走り、歩道には買い物袋を下げた人々や学生がちらほら。
山間で感じた静けさはすでに遠い。
「駅前のカフェ……」
ハンドルを切りながら、旅館の主人に教えられた言葉を思い出す。
大通りを抜け、駅のロータリーに出ると、周囲にはチェーン店や古びた商店が混ざり合って立ち並んでいた。
表通りに出てすぐの場所ではないらしい。
溝口は車をコインパーキングに停め、歩いて探すことにした。
駅前の賑やかな看板を避け、路地へと足を踏み入れる。
人通りは減り、古いスナックや小料理屋が並ぶ一角に、小さな木製の看板が目に入った。
「インターネット利用できます」と手書きで書かれた文字。
窓越しに見えるのは、年季の入ったカウンターと数台のノートパソコン。
ここが、主人の言っていたカフェだろう。
扉に手を掛ける前に、溝口は深呼吸した。
これから調べるのは、副所長の隣にいた黒スーツの男——城戸。
ただの署員なのか、それとももっと別の“何か”なのか。
「……確かめなければ」
そう呟き、彼は扉を押して中へと足を踏み入れた。
第185章:消えた痕跡
小さなベルの音とともに扉を開けると、店内は薄暗く、木の香りが染み込んでいた。
カウンター席には常連らしき年配の客が一人、新聞を広げているだけで、空気は静まり返っている。
「いらっしゃいませ」
店員に軽く会釈を返し、ブレンドコーヒーを注文。
すぐ近くの窓際に置かれたノートパソコンの前に腰を下ろした。
湯気の立つカップが運ばれてくるのを横目に、電源を入れる。
まずは「城戸」という名前を打ち込み、検索をかけた。
だが表示されるのは同姓の一般人ばかり。
企業役員、学者、アマチュアの写真投稿者……だが、どれも「署の副所長の隣に立っていた黒スーツの男」には繋がらない。
氏名に地域や警察の関連を付け加えても、結果は変わらない。
「……まぁ、ネットには警察関係者の情報なんてあるワケないか」
次に「リトルアンダーグラウンド」や「扉」に関するワードを検索してみる。
SNSを遡ると、いくつかのアカウントが「夢が叶う扉」「異界へ繋がる街の伝説」といった呟きをしていた痕跡がキャッシュに引っかかった。
だが、肝心の投稿はどれも削除済み。
リンクを辿ろうとすると「このページは存在しません」と表示されるばかりだった。
まるで何者かが意図的に“消している”かのように。
コーヒーを一口飲む。
苦味が舌に残り、背筋が冷たくなる。
「……やっぱり、そう簡単には辿れないか」
頭の中で、署の妙な空気、老警官からの言伝、凛の呟きが絡み合う。
そして城戸という男の、痕跡のない存在感。
——情報を探れば探るほど、逆に“消されている”ことが際立っていく。
第186章:視線
パソコンの電源を落とし、コーヒーを飲み干した。
カップの底に残った苦味がやけに重たく感じる。
時計を見ると、すでに夕刻を過ぎている。
窓の外はオレンジから群青へと移ろい、街灯が少しずつ灯り始めていた。
溝口は椅子を引き、静かに立ち上がる。
会計を済ませ、カウンターの店員に軽く会釈を返し、カフェを出ようとした。
ドアに手をかけたその瞬間、背中に粘りつくような気配を覚える。
何かがこちらを“測っている”。
振り返ると、カウンターに座っていたはずの新聞を読む男が、視線だけをこちらに向けていた。
新聞紙は手から滑り落ち、床に広がっているのに、彼は拾おうともしない。
ただ無言で、瞳だけで溝口を射抜いていた。
「……」
喉が自然と鳴り、心拍が速くなる。
足を止めるべきか、歩みを続けるべきか——一瞬の逡巡。
次の瞬間、男はゆっくりと笑った。
しかしその笑みは、口角だけが引きつるように吊り上がった不自然なものだった。
人間の表情であることを疑いたくなるほど、硬直した笑み。
ドアを押し開けて外へ出ると、すでに街の空気は冷え始めていた。
人の往来はあるが、どこか影が濃く、雑踏の中にも孤立感がある。
背後のカフェの扉が閉まる音がやけに大きく響き、心臓に刺さる。
「……尾行か? それとも……」
答えの出ないまま、溝口は歩みを早め、駅前の雑踏へと紛れ込んでいった。
第187章:駐車場へ
人混みを抜け、駅前から外れた通りを歩く。
しばらくして、昼間停めたコインパーキングの入口が見えてきた。
夕闇の中、街灯が弱々しく車列を照らしている。
溝口は足を止め、深く息を整えた。
「……大丈夫だ、ただの思い過ごしだ」
そう自分に言い聞かせながら、駐車場へと入っていく。
しかし、すぐに異様な気配を覚えた。
さっきまで周囲を歩いていた人影が、まるで嘘のように消えている。
車の並びは同じはずなのに、どこかが違う——そう感じた。
レンタカーの白いボディが視界に入る。
だが、その車の周囲の空気だけが、妙に濃い。
風が吹いているわけでもないのに、木の葉が舞い落ちるような気配が漂っている。
止まる足
一歩、近づこうとした瞬間、鳥肌が立った。
車の影に、人影が立っているように見えたのだ。
けれど視線を凝らすと、そこには何もない。
「……気のせい、か?」
呟いてみるが、声は震えていた。
昼間感じた視線、カフェの中の男の笑み、それらが頭の奥で重なっていく。
緊張の中で鍵を取り出すが、すぐにドアに差し込む気になれなかった。
車へ近づくことすら、何かを呼び起こしてしまうような直感があったからだ。
——ここに戻るべきではなかったのか。
そう考えた瞬間、耳の奥に「カチリ」と小さな音が響いた。
まるで、誰かが隠れて引き金を整えたような、不自然な金属音。
溝口は即座に身を翻し、駐車場を飛び出した。
第188章:人混みの中へ
駐車場を飛び出した溝口は、荒い息を吐きながら夜の街を走った。
背後を振り返ると、暗がりの中で白いレンタカーだけが浮かび上がるように見える。
だが、そこに人影はない。
——いや、そう思いたいだけだった。
足音が自分のものか、それとも誰かが追っているのか、判断できない。
彼は迷わず繁華街の光の方へ向かった。
繁華街の入口に差しかかると、空気は一変した。
居酒屋の呼び込み、若者の笑い声、ネオンの光、焼き鳥の煙。
そこは日常の延長であり、同時に異質な「隠れ蓑」だった。
人混みに紛れた瞬間、背後の気配が遠のいたように感じる。
だが安心はできない。
群衆に紛れたまま近づいてきている可能性は十分ある。
「……こんな長時間、尾行までされる。俺はもう、完全に監視下に置かれているのか」
自分がただの刑事ではなく、“あの扉”に関わろうとしているから狙われているのか。
それとも、もっと前から——自分が失踪して戻ったあの日から。
警戒の視線を四方に走らせながら、繁華街の奥へと足を進める。
ネオンの海の中で、自分だけが水底に沈んでいくような感覚があった。
第189章:追い詰められる影
溝口は雑踏の中をぐるぐると歩き回った。
居酒屋の軒先をすり抜け、コンビニに立ち寄り、角を曲がるたびに尾行を振り払おうとする。
だが、背後の粘りつくような気配は途切れない。
視線を感じるのに、振り返れば誰もいない。
人混みに紛れたはずなのに、常に背骨に冷たい影が張り付いている。
「……まだいる」
汗が首筋を伝う。
ネオンが瞬き、看板がぎらつく中、歩く人々の声がどんどん遠ざかっていくように感じられる。
やがて、足の向かうままに繁華街の裏路地へ入っていた。
表の喧騒は背後に遠のき、人気が薄くなっていく。
軒先に置かれた壊れた自転車、消えかけた街灯、閉じられたシャッター。
そこは同じ街のはずなのに、まるで異界の境界線を越えてしまったような気配を放っていた。
ふと気づくと、周囲が異様に静まり返っている。
ほんの数分前まで耳を騒がせていた笑い声や車のクラクションが消えていた。
時計を見れば針は進んでいるのに、街全体が「静止」したかのような錯覚。
足を止めた溝口の背後で、風が吹いたように衣擦れの音がする。
だが、その場には誰もいない。
影が揺れる。
それは街灯のせいではなく、別の「何か」が動いているせいだった。
「……追い込まれた、か」
心臓が喉の奥を叩く。
逃げ場はあるのか、それともこの路地そのものが罠なのか。
暗がりの奥、わずかな光の外に、誰かが立っている気配。
しかし輪郭は曖昧で、見ているようで見えていない。
空気は重く、胸の奥を圧迫する。
静寂の中、世界そのものが彼を締め上げていた。
第190章:影の正体
重苦しい沈黙を切り裂くように、薄暗がりから人影がゆっくりと姿を現した。
街灯に照らされ、その顔が露わになる。
「……坂口?」
溝口は思わず声を漏らした。
そこにいたのは、同じ班に所属する若手刑事・坂口だった。
だが、その表情はどこか張り付いた笑みのように見える。
「いやぁ、溝口さん。こんなところで偶然お会いするなんて」
軽い口調で言うが、場違いな言葉にしか聞こえなかった。
この暗がりで“偶然”など、信じられるはずもない。
喉が自然と渇く。
「偶然……? こんな山奥にある小さな町で、偶然…ね…。」
心の奥で警鐘が鳴り響く。
坂口は普段、署内では物腰の柔らかい若者だった。
だが今、その立ち姿は“見張り役”のように冷たい。
しかも、ここに至るまで尾行の気配を確かに感じていた。
——坂口、お前がつけていたのか?
一体、誰の命令なのか。
副所長か。
それとも隣に立っていた黒スーツの男——城戸か。
いや、それだけではない。署そのものが妙な動きを見せていた。
(……もう内部は、信用できないのか)
そんな思いが脳裏をよぎる。
坂口の視線は笑っているようで、笑っていなかった。
無邪気な言葉の裏に隠された意図が読めない。
この“偶然”の出会いは、偶然ではない。
それだけは確かだった。
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