探り針
第191章:探り針
坂口は相変わらず、口角だけを持ち上げた笑みを貼り付けていた。
路地の奥で、消えかけた街灯が一度だけ瞬き、また薄くなる。世界の音は遠い。湿ったアスファルトの匂いだけが現実を確かめさせた。
「珍しいね、坂口。お前がこんなとこに旅行?なんてな」
皮肉めいた言葉をかけつつ溝口は肩の力を抜いたふりをして、身体を半歩だけ光の側へ寄せた。背後の抜け道を視界の端に置く。
「駅前は混んでたろ。呼び込みもうるさいし、こっちは静かで助かる」
「そうっすね。オレ、人混み苦手で」
坂口は軽く首をすくめ、ポケットに片手を突っ込んだ。指が布越しに小刻みに動く。癖だ。緊張の隙間に出る、嘘のリズム。
「班はどうだ。担当もすっかり模様替えだったな」
「ええ、特殊詐欺、また増えてて。巡回も増やせって上から」
「上、ね。課長か? それとも副署長?」
「はは、どっちも、ですかね」
笑いは乾いていた。風のない空間で、砂粒だけが転がる音がした気がした。
「そういえば」溝口は、思い出したように眉を上げる。
「お前、コーヒーは相変わらず砂糖二つか?」
「え? あ、はい。二つ、ですね」
「だろうな。さっき、駅前の店で見た奴も二つ入れてた」
「へえ」
一瞬、坂口の目が細くなる。ほんの刹那、瞳の奥で何かが揺れ、すぐに水面のように平らへ戻った。
「それにしても今日は冷える」
溝口は両手を擦り、袖口を直すふりをして、坂口の足の向きと肩の傾きを測る。逃げ道を塞いではいない。だが、前へ一歩出れば路地の口を横に切れる角度。動けば、縫われる位置取りだ。
「そういえば、河村が言ってたな。資料室の搬出、ここんところずっと残業だって」
「へえ、そうなんすか」
「『城戸』のサインが濃かった、とも」
名前を置く。石を水面に投げるように。
坂口の喉仏が、息を飲む音とともにわずかに上下した。
「……城戸さん、ですか」
「知ってるのか?」
「いや、噂で。情報管理の人でしょう?」
「噂、ね」溝口は薄く笑った。
会話は雑談の形をとりながら、互いの心拍だけが加速していく。
遠くの街のざわめきは完全に消え、この短い路地だけが夜から切り取られた箱になっていた。針の穴に糸を通すみたいな沈黙が、言葉と次の言葉の間にぶら下がる。
「坂口。お前、最近よく外に出てるな」
「現場多いですから」
「そうか。……じゃあ、さっきの駐車場の音、あれも“現場”か?」
「駐車場?」
「カチッ、とな。引き金を仕舞う音に似てた。気のせいだといいが」
坂口は笑った。今度は声も少し乗った。だがやはり、口角が先に上がって、目があとから追いかける。
「溝口さん、神経質になってますよ。休んだほうがいい」
「休みに出歩くな、と上は言うか」
「上は……そんなこと」
語尾がほどける。言葉が自重で落ちる。
溝口は一歩だけ前へ出た。靴底が小石を噛み、きゅっと短く鳴る。その音さえ、時間に傷を付ける刃のようだ。
「坂口。俺は怒ってない。確認したいだけだ。お前の仕事を責める気もない。だが——」
顔を上げる。
夜の薄明かりが、坂口の睫毛の影を路地に落とす。
「——なんで、誰の命令で俺を尾行している?」
言葉は柔らかい。だが芯は硬い。
反響が壁に当たり、遅れて戻ってくる。静止した世界が、問いの重みでわずかに軋む。
坂口の笑みが、初めて止まった。
目が、どこを見るでもなく少しだけずれる。
喉が鳴る。ポケットの中の指が、布をひと撫でした。
そして、息を整えるように短く吸い——
沈黙が、答えよりも雄弁に路地の温度を下げていった。
坂口の唇が、薄く笑んだまま動く。
「まあ――気づかれていますよね。記憶を失っても、大した洞察力です」
その言葉は路地の冷気に溶け、溝口の耳にゆっくりと落ちてきた。坂口の笑みは不自然で、目の奥には油断のない光が宿っている。何かを確かめるように、彼はゆっくりと両手を胸元に寄せた。
指先がシャツの裾から滑り出す。まずは黒い革のホルスターらしきものが覗き、次に金属の輝きが夜の影に溶ける。動作は過剰なほどに丁寧で、まるで時間を引き伸ばすかのようだった。坂口の右手が銃把にかかると、もう一方の手で静かにサイレンサーを取り出す。指の動きに無駄がなく、その所作が余計に不気味さを増幅させる。
サイレンサーをねじ込む音が、かすかに「キリッ」と響いた。路地の静けさがその小さな金属音を増幅し、溝口の鼓膜が震える。銃口が整うたびに、坂口の表情が微かに変わる。嬉々としているわけではない。ただ、任務を遂行する者の冷徹な落ち着きがある。彼はゆっくりと腕を伸ばし、狙いを定める。照準は溝口の胸のあたりに、ゆっくりと定まった。
時間の流れが極端に遅く感じられる。溝口は足の裏で路面の凹凸を確かめるようにわずかに体重を移す。反応する余地はまだ残されている。肺の中で酸素が回り、視界の端に集まる街灯の光が点滅する。その間にも、坂口の指先は引き金に触れ、冷たい決意を伝えてくる。
「誰の命令だって?」溝口の声は低く、震えを抑えた刃のようだった。だが坂口は応えず、銃の狙いを微かに修正するだけである。夜の風が頬に触れ、二人の間の空気が更に張り詰める。路地の奥からは、遠くて小さな生活音が届くが、この場の緊張を崩すことはできない。
そして、引き金に触れた坂口の指先がわずかに動く――その瞬間、溝口の身体が本能的に反応する。時間はまだ止まってはいない。だが次の瞬間に何が起きるのか、夜は黙して見守っている。
第192章:銃声
「パンッ、パンッ!」
乾いた衝撃が、路地の空気を切り裂いた。
サイレンサーがついているにもかかわらず、その音は肺の奥まで震わせるような鋭さを帯びていた。
坂口の腕は微動だにせず、発砲の反動すら吸い込んでしまったかのようだった。
弾丸が疾走する気配を肌で感じ、溝口は咄嗟に身を反らした。
一発目は肩先をかすめ、耳元で鋭い風切り音を残す。
二発目は頬をかすめ、火花のような熱が一瞬肌を焼いた。
必死にかわした反動で、重心が崩れる。
背中が壁にあたり、足がもつれる。
湿ったアスファルトが背中に迫る感覚と同時に、膝から力が抜けた。
「ぐっ……!」
鈍い衝撃が全身に走り、地面に叩きつけられた。
肺の中の空気が一気に押し出され、視界が一瞬白く染まる。
耳にはまだ銃声の残響がまとわりついている。
世界はスローモーションのように歪み、坂口の影がこちらへ迫ってくるのがわかった。
転んだままの体勢。
逃げ場はない。
だが、まだ終わってはいない。
アスファルトの冷たさと、血がにじむ頬の熱。
その両方が、確かな現実として溝口をここにつなぎとめていた。
坂口の足音が、ゆっくりと近づいてくる。
銃口は依然、真っ直ぐ溝口を見据えていた。
——次の一手が、命を決める。
第193章:意味深な銃口
足音がじりじりと近づいてくる。
アスファルトに仰向けた溝口の視界に、坂口の影が覆いかぶさった。
銃口は決して揺れない。狙い続けながら、坂口はゆっくりと口を開いた。
「記憶をなくしてもなお、扉に行きついてしまうなんて……やっぱり溝口さんは侮れないですね」
その声音は敬意でも嘲笑でもない。まるで淡々とした報告のようで、だからこそ不気味さを増す。
「……何を知っている」
溝口は、乾いた喉から絞り出すように問う。
坂口は薄い笑みを保ったまま、銃口を動かさず一歩近づく。
「知っている? いえ、あなた自身が忘れてしまっただけですよ。あなたが何を追っていたのか、なぜ“戻された”のか……既に答えは出ているんです」
「……戯言を」
「戯言かどうかは、あなたが一番よく知っているはずでしょう」
「まぁもっとも、前のあなたなら…ですが」
銃口が胸元に近づく。冷たい金属の気配が、空気を凍らせる。
坂口の靴音がアスファルトを擦るたび、路地の静止した空気が振動するように感じられる。
「上は、あなたを危険視している。扉の“痕跡”を嗅ぎつける者は、必ず——始末しないと」
言葉は脅しではなく、決定を告げる声のようだった。
坂口の瞳には憐憫の影すらなく、ただ“執行者”の無感情な色だけがあった。
溝口は歯を食いしばりながら、銃口の先に映る己の影を睨み返した。
——答えを得る前に終わるわけにはいかない。
夜の路地は、さらに重苦しい沈黙に沈み込んでいった。
第194章:交差する音
坂口の指が、引き金の上でわずかに動いた。
「カチリ」と小さな音が闇に落ちる。
その刹那、時間そのものが凍りついたように思えた。
銃口はまっすぐに溝口の胸を射抜いている。
わずかでも呼吸を乱せば、即座に命を奪われる。
冷たい鉄の気配が、彼の鼓動をさらに早めていく。
「……終わりです、溝口さん」
坂口の声は低く、執行の合図のようだった。
だが次の瞬間、路地の奥から、足音が響いた。
コツ、コツ、と規則正しく、しかし異様なほど澄んだ響き。
まるでこの世界とは違うリズムを刻むようなその音が、静止した空気を切り裂いていく。
坂口の眉がわずかに動いた。
銃口は溝口から逸れないが、明らかに注意が分散する。
路地の緊張が新しい要素を含み込み、さらに濃密な圧力へと変わった。
「……誰だ」
坂口の低い声が漏れる。
溝口は荒い息を吐きながら、足音の主を探そうとした。
だが路地の奥は闇が濃く、姿はまだ現れない。
ただ、確かに誰かが近づいてくる。
冷や汗が背を伝い、心臓が強く鳴る。
第195章:ヒカリ
「誰だっ!」
坂口が再び叫んだ。声が路地に反響し、重い空気をさらに震わせる。
その刹那、上空を切り裂くように鋭い閃光が走った。
闇を裂く白光は目を焼き、瞬時に路地全体を昼のように照らし出す。
坂口の手にあった銃が「バチンッ」と弾け飛んだ。
彼の驚愕の声が短く上がるよりも早く、さらに「シュッ」と風を裂く鋭い音が重なった。
刃が走ったであろう箇所には、そぎ落とされたような切り裂きの痕が残る。だが驚くべきことに、その傷口からは血は流れてこない。皮膚が裂けた感触だけを残して、そこにあるはずの赤は見えなかった。路面に落ちるものは無く、ただ漆黒の空気だけが微かに震える。
坂口は一瞬、目を見張り、そのまま力を失ったように崩れ落ち、膝まずいてそのまま動かなくなった。呼吸は浅く、小さな呻きが漏れるのみで、やがて意識は途絶えた。
閃光の残像が瞼に焼きつき、視界はちらついた。路地の闇の奥を凝視するが、そこにはまだはっきりとした人物の姿は見えない。だが確かに“誰か”が介入したであろう事だけはわかる。
「いったい誰が…」
溝口は息を呑み、路地の奥を睨む。
だが闇の中にはまだ人影ははっきりと映らない。
ただ、確かに何者かがいる。
それは人の手によるものか、異界の影によるものか。
まだ、この場では判別できなかった。
だが一つだけ確かなのは——自分を狙っていた坂口は、今や完全に力を削がれているということだった。
第196章:現影
坂口が倒れ込んだまま動かなくなると、路地に再び重苦しい静寂が戻った。
銃声の余韻も消え、ただ夜の空気が湿り気を含んで張りつくように漂っている。
溝口は荒い息を抑えながら、視線を闇の奥に向けた。
そこにはまだ、先ほどの閃光と刃の余韻が漂っている。
一歩ずつ近づく
コツ、コツ、と一定のリズムで足音が響く。
その音は焦りも急ぎもない。
むしろ、登場を意識的に遅らせているかのような、確信を持った足取りだった。
闇の奥から、ゆっくりと人影が浮かび上がる。
街灯に照らされた輪郭は細身で、肩にかかる黒い影が揺れている。
手にはまだ、見たことのない異様な武器の残光がまとわりついていた。
「……誰だ」
問いかけても、返答はない。
ただその人物は、淡々と歩を進め、坂口の倒れた身体を一瞥する。
血の一滴も流れない傷。
まるで“斬られた”という事実だけが刻まれ、結果が欠け落ちているような異常な光景。
溝口は膝をついたまま、視線をそらさずにその影を追った。
心臓が早鐘を打つ。だが恐怖と同時に、どこかで既視感のようなざわめきもあった。
その人影が、最後の一歩を踏み出し、街灯の下に顔を半ば晒す。
夜は、次の言葉を待っているかのように静まり返っていた。
第197章:再会
足音は一定で、恐れも急きもなく、ただそこに現れることを当然とするかのようだった。
街灯の光がその輪郭を照らし、黒い外套と鋭い眼光が浮かび上がる。
「……あらあら、危なかったですね」
透き通るような声が夜気を震わせた。
「これで二度目ですよ、あなたを助けたのは。次は命を落としちゃうかもしれませんね。
偶然はそんなに続きませんよ」
その口調はどこか軽やかで、だが張り詰めた空気を切り裂くほど強い。
ふと彼女は首をかしげ、微笑んだ。
「……あれ? 以前、誰かに同じ様なことを言われたような気がしますね」
そして小さく笑い声を漏らす。「ふふっ」
街灯の下に現れたその姿を、溝口は茫然と見つめていた。
胸の奥が大きく震える。
「……凜……秋月凜……」
その名を呼んだ瞬間、彼女の瞳がわずかに輝きを増したように見えた。
溝口の表情は驚愕と混乱に塗り替えられる。
「君が……なぜここに……」
言葉は途中で途切れた。
今見ている光景が現実なのか幻なのか、すぐには判断できなかった。
路地には、倒れ伏す坂口の静かな気配と、立つ二人の息遣いだけが残っていた。
時間が止まったように、世界がこの瞬間を見守っているかのようだった。
第198章:影を追って
「……凜、なのか」
溝口の声は震えていた。
目の前の姿は確かに秋月凜。だがその佇まい、瞳の奥の光は、かつて病室で見た弱々しい少女とはまるで別人に見えた。
「なぜ……ここがわかった」
喉を絞るように問いかける。
凜は薄ら笑いを浮かべ、ゆっくりと肩を竦めた。
「あなたの“影”を追ってたら、こんなところまで来させられちゃったんですよ」
その声音はどこか愉快げで、だが底知れぬものを含んでいた。
「退院はもう少し先の予定でしたけどね。今日はなぜか病院の警備が薄くて……だから、今日退院することにしました」
言いながら、彼女は街灯に照らされ、口元だけを笑みで歪めた。
その笑顔は軽やかでありながら、寒気を伴うものだった。
「……影を追った、だと……?」
その言葉が耳に残る。
尾行の気配を必死に振り払っていた溝口の胸に、不吉な真実が重なる。
もしかすると、自分が“追われていた”のではなく、“導かれていた”のか。
眼前の少女は、確かに助けてくれた。
だが同時に、得体の知れない何かをまとい始めていることも否応なく伝わってきた。
路地の空気はさらに冷たく、二人の間の緊張は別の段階へと移っていった。
第199章:提案
張り詰めた空気が残る路地で、凜がふっと表情を緩めた。
「とりあえず、移動しましょう。ここに長居するのは良くないです」
軽く肩をすくめながらも、その声音には一切の迷いがなかった。
「あぁ……」
溝口は息を整えながら、壁に手をついてゆっくりと立ち上がった。
全身を走る緊張と疲労で膝が重く、喉はまだ乾いていたが、歩を進めなければならない。
視線を落とすと、足元に坂口が倒れ込んでいる。
銃を取り落としたまま動かず、顔は闇に沈んでいた。
「……死んでいるのか?」
溝口は身を屈め、倒れた坂口を覗き込む。
呼吸の気配も微かで、意識は完全に途絶えているように見えた。
背後から凜の声が静かに降りてくる。
「死んではいませんよ」
さらりと告げるその調子には、奇妙な確信があった。
凜はもう一度短く言葉を重ねる。
「……行きましょう」
街灯に照らされたその横顔は、冷静でありながらどこか愉快げにも見える。
溝口はしばし坂口を見下ろしていたが、やがて大きく息を吐き、頷いて歩き出した。
二人は足音を揃え、暗い路地を抜けて車へと向かっていく。
背後に倒れた坂口の姿だけを残して。
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