旅館へ
第200章:旅館へ
二人は車に乗り込み、溝口がキーを回すとエンジンが低く唸りを上げた。
狭い路地を抜け、街灯の光が後方へ流れていく。
フロントガラスに映る夜の景色は落ち着きを欠き、どこか不自然に歪んで見えた。
車内には短い沈黙が漂った。
ハンドルを握る溝口の手には、まだ先ほどの銃声と閃光の余韻が残っている。
やがて、溝口が口を開いた。
「……今、俺は知り合いに紹介された小さな旅館に身を置いている。
山の麓で、人も少ない場所だ」
声には迷いが混じっていた。
彼の思考はすぐに先を巡る。
——もしあの旅館に戻れば、そこを嗅ぎつけられる危険があるのではないか。
老警官の厚意を裏切ることになるのではないか。
ハンドルを握る指に力がこもる。
そんな溝口の逡巡を見透かしたように、隣に座る凜がふっと口元に笑みを浮かべた。
「構いません。ひとまずそこに行きましょう」
その声は不気味なほど落ち着いており、まるで危険という概念そのものを意に介していないようだった。
凜の横顔に、窓の外の街灯の光が一瞬射し込み、その瞳に奇妙な光を宿す。
「……そうか」
短く返すと、溝口はアクセルを踏み込んだ。
タイヤがアスファルトを擦り、街のざわめきから遠ざかっていく。
目指すは、山奥にひっそりと佇む小さな旅館。
第201章:一息
山道を越え、二人は旅館へと辿り着いた。
木造の門をくぐり抜けると、虫の声と柔らかな灯籠の光に迎えられる。
主人は帳場の奥から顔を出し、落ち着いた調子で声をかけた。
「おや……お連れ様ですか?」
その声音は普段と変わらず、警戒心を煽るものは一切なかった。
だが溝口の心にはまだ街での緊迫感が残っており、その落差が逆に現実味を失わせていた。
「あぁ。この子に部屋を用意できるか?」
溝口が静かに問いかけると、主人は柔らかくうなずいた。
「はい、できますとも。準備はすぐにいたします」
旅館特有の木の匂いと、ほのかに漂う茶葉の香りが廊下に満ちる。
凜は小さく笑みを浮かべたまま一礼し、軽やかな足取りで部屋へと案内されていく。
溝口もまた、自室へと通される。
床の間には小さな掛け軸と花が飾られ、畳の匂いが心を落ち着かせる。
だが安堵は束の間に過ぎなかった。
畳に腰を下ろすと、街での銃撃、坂口の倒れる姿、凜の不気味な微笑みが脳裏に浮かび、胸の奥に重苦しいものを残していた。
ひとまず荷を解き、汗を拭い、一息ついた後。
溝口は立ち上がり、再び廊下へ出る。
館内は静まり返り、遠くで風鈴の音が小さく揺れている。
エントランスへ向かう足取りは重いが、凜ともう一度顔を合わせ、次の一手を話し合う必要があった。
第202章:影を辿って
旅館のエントランスは、夜の静けさに包まれていた。
小さなソファーに腰を下ろすと、溝口はふと横に並ぶ自販機へ目をやった。
「……紅茶でいいか?」
「はい」
凜の声はあっさりとしていて、まるでこの空間の緊張を吸い取るようだった。
缶が落ちる音が響き、二人は紅茶を手にした。
缶を開け、一口含んだところで溝口が切り出す。
「……どうして俺の居場所がわかった?」
凜はソファに背を預け、視線を宙に泳がせながら答えた。
「だから言ったじゃないですか。影ですよ、影」
言葉と同時に、薄く笑みを浮かべる。
その笑みは冗談めいていながらも、何か底知れぬ真実を含んでいるようで、溝口の背筋を冷たく撫でた。
すると凜は、まるで何かを思い出したように「あっ」と小さく声を上げた。
「そうそう、交通費は請求してもいいですか?」
無邪気にも思えるその問いかけは、妙に軽やかで、だがどこか挑発めいた響きもあった。
「素敵な旅館で一泊出来るみたいだし、交通費も混みで
貸し借り無し、ってことでいいですよ」
紅茶を手にしながら、凜はニヤリと口角を上げる。
その姿はまるで、互いの立場を意識させる“遊戯”のように見えた。
第203章:貸し借りなし
「……経費で落ちるかな」
溝口は紅茶を軽く掲げて、わざとらしく肩をすくめた。
凜はその返しに声を立てて笑うでもなく、口元をわずかに歪めただけだった。
その仕草が一層、彼女の底知れぬ不気味さを引き立てる。
エントランスの空気が少し和らいだ。
冷えた缶を両手で包みながら、凜はゆったりとした呼吸をしている。
その様子は、ほんの短い間だけ「普通の少女」に見えた。
だがその眼差しは、やはりどこか深い闇に繋がっていた。
溝口は視線を逸らすように外の闇を見つめ、息をつく。
紅茶の甘さが舌に残るのに、心は少しも休まらない。
缶をテーブルに置き、しばし沈黙したのち、溝口はゆっくりと口を開いた。
「さて……」
凜がわずかに首を傾げ、耳を傾ける。
「俺には……何もかも、わからん」
その言葉は自嘲のようであり、同時に吐露でもあった。
調べれば調べるほど闇は深く、追えば追うほど真実は遠ざかる。
そして目の前の少女さえも、理解から外れていく存在だった。
第204章:扉の条件
缶を置き、溝口は深く息を吐いた。
「……聞きたいことが山ほどある。だがその前に、前に話していた“扉”についてだ」
その声は抑えていたが、探るような鋭さを帯びていた。
凜が缶を弄びながら、まるで続きを待つかのように小さくうなずく。
「俺が調べた限りでは——」
溝口は記憶を辿るように、言葉を慎重に紡いでいった。
出やすい環境
扉は、街の中でも人気の少ない路地や廃墟など、闇や静寂に支配された場所に現れる可能性が高い。
しかも、そうした場所では必ず「異様な気配」が漂っていたという証言がある。
音
出現の直前には「耳鳴り」や「歪んだ旋律のような音」を聞いた者がいた。
中には、童謡の一節が崩れたような声を聞いた、という報告もある。
時間
深夜から明け方にかけての時間帯に集中している。
ただし、それはあくまで人が少なく、境界があいまいになる時間だと解釈できる。
「……つまり、条件が揃わないと現れない」
溝口の言葉に、凜は缶を唇に当てたまま、少しだけ目を細めた。
「ふふ……さすが刑事さん。ちゃんと調べてくれたんですね」
その笑みは柔らかいが、不気味さを含んでいた。
まるで正解に近づいた者を試すように。
「……俺も実際に試したんだ」
溝口は視線を落とし、紅茶の缶を両手で転がしながら語った。
「扉に触れようとしたが、まるでそこに“膜”があるようでな。触っているはずなのに、指先が滑っていく……。奇妙な感覚だった。押しても引いても、まるで何もない空気を掴んでいるみたいで、開くことはなかった」
声に混じるのは苛立ちというより、自分だけが“拒まれた”ような虚無感だった。
溝口の言葉を受けて、凜は一度視線を外し、テーブルの影をじっと見つめる。
数秒、いやもっと長い間、彼女は黙ったまま考え込むように見えた。
やがて、缶を口に運び、一口飲んでから小さく笑みを浮かべる。
「最初に扉に入った時……どうだったかな」
わざとらしく記憶を探る仕草をし、首をかしげる。
「普通に、開いた気がしますけど?」
その答えはあまりにあっけらかんとしていて、逆に不気味だった。
まるでそこに必然も条件も存在せず、ただ選ばれたかのように。
「普通に……か」
その言葉を繰り返しながら、溝口は唇をかみしめる。
条件を探し、理屈を積み上げてきた自分とは違い、凜の扉はただ「開いた」。
そこにどんな差があるのか。
——それを知ることこそ、今の自分にとって最大の謎だった。
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