山の縁で噛む沈黙
第173章:警告
翌朝。
窓の隙間から差し込む薄い光で溝口は目を覚ました。
頭は重く、睡眠は浅かったようだ。
昨夜の声や影の記憶は、悪夢として片付けられれば良いものの、現実味が強すぎて心の奥にこびりついていた。
身体を起こし、周囲を見回す。
シーツは乱れているが、それは自分の寝返りによるものだろう。
しかし、すぐに胸の奥がざわついた。
——机の上の配置が、違う。
昨夜、チェックイン後に何気なく置いたはずのノートとペン。
ノートはページが少しだけ開いた状態で、ペンは妙に斜めに転がっている。
自分はそんな置き方はしていなかったはずだ。
慌ててバッグを開く。
財布、警察手帳、資料のコピー。
中身に欠けはない。
だが、資料の順番が、ほんのわずか入れ替わっている気がした。
「……気のせいか?」
呟いた声はかすれていた。
だが直感は囁く。
——誰かがこの部屋に入った。
洗面所へ向かい、顔を洗おうと蛇口をひねる。
冷たい水で目を覚ますが、ふと鏡に目をやった瞬間、心臓が止まりそうになった。
映った自分の背後に、黒い影がすっと揺れたのだ。
振り返ると、そこには誰もいない。
ただ、時計の秒針がまた一瞬、途切れていた。
ベッドに腰を落とし、深く息を吐く。
「これは警告か……それとも試されているのか」
凛の言葉と、尾行、そしてこの部屋の違和感。
全てが一本の線で繋がろうとしている気がした。
ここは安全ではない。
だが、もう後戻りすることもできない。
第174章:逃げ場
ホテルの部屋に漂う違和感を噛み締めながら、溝口は思考を巡らせていた。
——尾行。
——署内での妙な空気。
——資料の扱われ方。
どれを取っても「内部」に自分の居場所はもうないことを示している。
署に戻ることは、すなわち自分の行動を監視の下に置くこと。
そうなれば、事件の真相に近づくどころか、命さえ危うい。
「……戻るわけにはいかない」
低く呟いた言葉が、決意の形となった。
ノートを開き、地図を眺める。
ビジネスホテルは一時的な避難所にすぎない。
次に必要なのは、もっと人目の届かない場所。
選択肢はいくつかある。
知り合いの伝手を頼り、警察の外に潜む。
人混みの中に紛れ、一定期間アパートを借りて身を隠す。
あるいは、かつての保護先や関係者のもとへ足を運ぶ。
だが、どの選択肢にも危険は伴う。
動けば必ず、また「何者か」がついてくるだろう。
鞄に必要最低限の物を詰め直す。
財布、警察手帳、ノート、そして事件のコピー資料。
残りはすべて置いていく。
部屋を出る前にもう一度振り返る。
鏡の中の自分は、ただの自分に見えた。
エレベーターを待つ間、静寂が支配する。
遠くから掃除用ワゴンの車輪が転がる音が近づいてきた。
その金属音さえ、背中を突き刺すように聞こえる。
「……次は、もっと深く潜らなきゃならん」
そう胸に誓い、溝口はホテルを後にした。
第175章:老警官を訪ねる道
ホテルを後にした溝口は、人混みの中を歩きながら次の行き先を思案した。
署にも戻れない、同僚も信用できない。
だが——ひとりだけ、直感で信じられる人物がいる。
それは、かつて自分が「行方不明から戻った直後」に保護してくれた交番勤務の老人警官だった。
なぜか彼だけは、曖昧な記憶の中でも揺らがない。
理由は説明できないが、そこに頼るしかないと腹を括った。
駅に出ると、朝の通勤客で混雑していた。
スーツ姿の群れに混じりながら、気配を探る。
尾行は——今のところない。
それでも油断はできない。
駅前のレンタカー店に入り、手続きを済ませる。
慣れた動作で契約を終え、キーを受け取る。
新しい車に乗り込む瞬間、後方の視線を意識したが、ただの通行人のようだった。
エンジンをかけると、微かに震えるハンドルが安心感を与えた。
これで少なくとも、足取りを掴まれにくくできる。
老人警官が勤務しているはずの交番は、市街からやや外れた住宅地にある。
狭い道を曲がりながら、かつての自分の記憶を辿る。
あの時、自分は衰弱しきり、まともに会話すらできなかった。
それでも老人は根気強く世話をしてくれ、病院へと繋いでくれた。
あの目だけは、忘れられない。
どこか寂しさを湛えながらも、真っ直ぐに人を見つめる眼差し。
だが不安もある…
「……本当に、彼を頼っていいのか」
ハンドルを握る手に汗が滲む。
凛の言葉が頭をよぎる。
「刑事さん、影がついちゃってますよ」
その影が自分を追うなら、老人を巻き込むことにもなる。
それでも、今は彼に会わなければならない。
——自分がまだ「人間」でいられるうちに。
溝口は車を加速させ、交番のある方へと走り出した。
第176章:老警官との再会
およそ二時間、ハンドルを握り続けた。
舗装の継ぎ目をタイヤが踏むたび、規則的なリズムが心臓を揺らす。
途中で何度もバックミラーを確認し、尾行がいないことを確かめながら、ようやく郊外の交番に辿り着いた。
街の明かりから離れたその場所は、夕暮れに沈む山の影に守られるように、ひっそりと佇んでいた。
交番の前で車を停め、ゆっくりとドアを開ける。
小柄な老警官が椅子に腰かけ、書類に目を落としていた。
顔を上げた瞬間、その皺だらけの表情に驚きが浮かぶ。
「……おや。溝口さんじゃないか」
「この間はありがとうございます」
わずかに声が震える。
老人はしばし目を細め、何かを察したのか、深くは問わずに席を立った。
「顔色が良くないな。ここまで来るのに、よほどのことがあったんだろう」
溝口は詳細を語らなかった。ただ、居場所を失ったことだけを伝える。
老人は顎に手を当てて考え込み、やがて穏やかに笑んだ。
「事情はよく分からんが……ならば、少し離れたところに昔からの旅館がある。
顔なじみだし、あんたのことも口外はしないさ。数日くらいなら、身を隠すにはいいだろう」
老警官は机の引き出しからメモ帳を取り出し、震える手で住所を書きつけた。
「ここを訪ねなさい。宿の主人には私の名を出せばいい。……きっと力になってくれる」
溝口は深く頭を下げる。
「助かります。本当に……」
老人は笑みを崩さず、しかしその瞳には影が差していた。
「どうか無事でな。旅の安全を祈るよ」
言葉は短くとも、その声には確かな重みがあった。
背を向け、交番を出る溝口。
外はすでに宵闇が迫り、空気はひんやりと冷たい。
胸の奥にわずかな安堵と、言葉では表せぬ不安を抱えながら、紹介された旅館へと車を走らせた。
第177章:山の縁で噛む沈黙
コンビニの自動ドアが「シュッ」と閉まる音を背に、溝口は小さな紙袋を片手に車に戻った。
田舎の個人経営らしく、陳列棚はぎゅっと詰まっていて、品出しの匂いとラップの油の残り香が混ざる。レジの婆さんが目で「気をつけてね」と合図した気がしたが、気のせいかもしれない。彼の頭はいつしか、あの夜の残響へと戻っていた。
車を山へ向けて走らせる。
道は細く、左右に生い茂る木々がライトの光をやわらげる。舗装の継ぎ目がリズムを刻み、エンジン音だけが外界と彼を隔てる。やがて視界が開ける場所に出ると、肩肘張らないようにゆっくりとブレーキを踏み、車を止めた。周囲に人影はなく、そこだけ時間が少し遅れているような静けさがあった。
ハンドブレーキを上げ、エンジンを切ると、山間の空気がすっと入ってくる。冷たい。深呼吸をすると、胸の奥でぎゅっと何かが縮こまるのを感じた。紙袋を膝に置き、外套の襟を立てて車のドアを開ける。夜の空は低く、遠くの集落の灯りが点々と瞬いている。
紙袋の中には、薄くバターの香るサンドイッチと、小さなペットボトルのホットコーヒー。車のリアシートに腰掛け、膝の上に皿代わりのそのままの袋を広げる。包み紙を破く指先が少し震えている。最初の一口は、冷めかけていながらも素直に胃に落ちた。噛むたびに、単純な塩気とパンの甘さが口に拡がる。思わず、誰かと共有する必要のない味覚がここにあることにほっとする自分がいた。
コーヒーを口に含む。薄く苦く、それでも温かい。湯気が立ち、息と混ざり合って白い小さな雲になる。丸い缶の底を膝で押しながら、外の闇を見つめる。木々の葉が揺れる音、遠くの虫の鳴き声——そうした自然の雑音が、昨夜の「無音」とは違い、安定して彼を包む。
思考が静かに底を打つように広がっていく。
なぜ自分が尾行されるのか。
何が引き金になったのか。
まず思い浮かぶのは、あの扉だ。
地図に印を付け、映像をコマ送りにし、無音の瞬間と落書きの位置を重ね合わせたときのあの手応え。自分の指先に残った紙のざらつき。確証ではない。だが、何かが出入りする痕跡は確かにそこにあった。扉――おとぎ話のように語られる「アンダーグラウンド」の入口。噂を掘り返しただけで、誰かの目に止まるとは思えない。だが、探るという行為が既に「触れてはいけないもの」に触れてしまったのだろうか。
次に浮かぶのは、資料の扱われ方。
自分が作った報告書が黒スーツの男に受領され、原本が消えていった事実。閲覧権限が本庁へ移され、未解決棚の“空白分”が廃棄候補に上がる。誰かが、体系的に「線」を消そうとしている。消す理由は何か。記録が消されるとき、その背後には必ず得をする者がいる。あるいは、触れたら危険だと技術的に知っている者がいるのかもしれない。
もっと不気味な可能性が、細い影のように忍び寄る。
自分が近づいたことで、扉の側にいる何か――「影」だと凛は言った――がこちらへ向きを変したのか。
もしくは、自分の中に残る過去の欠落、塗り直された記憶そのものが、誰かに「触れられた」形跡なのか。自分を追う者は、人間か。機構か。あるいは人ならざる“何か”なのか。答えは出ない。
ただ、問いが増える。
サンドイッチの最後の一切れを噛みしめ、コーヒーの底をすこし傾ける。夜風が窓隙から差し込み、紙の端が微かに震えた。静寂の中、車内の小さな光景だけがある。時計を見れば時間は深夜に近い。ここから旅館まではさらに道を下り、また人里へ出る必要がある。
「これが正しいのか」——自問自答する。だが正解らしい答えは、いつだって選択の後にしか見えない。
彼はゆっくりとバッグの中のメモを取り出し、まとめた「扉の位置」と「印」の場所を確かめる。紙の上の字が、誰にも奪われない証拠のように思える。ページを指で撫でれば、インクの擦れが指先に伝わった。
眼前の闇が、わずかに奥行きを持って見える。山の向こうにある旅館の灯りが、粒のように散らばっている。エンジンをかけ、ヘッドライトを灯す前に、彼はもう一度深呼吸をした。尾行がついてくるかもしれないという思いが胸を締め付けるが、それでも動かねばならない。ここで立ち尽くしているわけにはいかない。
サンドイッチの包み紙を畳み、空き容器を小さくまとめてダッシュボードへ押し込む。コーヒーのペットボトルも蓋を閉め、ドリンクホルダーに収める。ミラーに映る自分の顔は浮腫んでいて、目にはくまができている。だが、それが今の自分だ。
山道へハンドルを切ると、ヘッドライトが闇を裂き、路面の濡れた光を照らす。後ろを気にしてミラーを覗くと、遠くに何も見えない。安心するにはまだ早い。だが、少なくともここでは一息つけた。焦燥は消えないが、次に取るべき一歩の輪郭は、紙の上にだけははっきりと残っている。
車の中で、もう一度だけコーヒーを口に含む。苦味が喉を通り抜けて、静かな決意が胸に宿る。追ってくる影、扉、消される記録――それらがどれほど危険であろうとも、動くしかないのだ。
車の窓越しに見える夜空に、薄く雲が流れる。彼はエンジンをかけ、再び街へと下りていった。
第178章:旅館の門
山の稜線が闇に溶けて久しく、街の灯りも遠のいた。
道の両脇は杉木立が続き、車のヘッドライトが切り取る範囲以外は深い闇に沈んでいた。
心臓の鼓動はエンジン音と重なり、まるで夜そのものが彼を試しているようだった。
やがて、古びた石垣と瓦屋根が見えてくる。
時代に取り残されたような佇まいの建物。
看板には、達筆な筆文字で「旅館」とだけ記されていた。
車を停めると、しんと静まり返った夜気が全身を包み込んだ。
虫の声さえ途切れ、風もない。
ただ、月の光が庭の石畳を淡く照らしていた。
溝口は鞄を肩に掛け、ハンドルに残った力をゆっくりと解き放った。
「……ここだな」
自分に言い聞かせるように呟き、車を離れる。
旅館の木製の門は低く、少し傾いている。
だが、その古さがかえって温かみを醸し出していた。
格子の間から灯りがわずかに漏れ、誰かがまだ中にいることを示している。
溝口は深呼吸をひとつ。
荷物は最小限、だが心は重い。
門を押し開けると、木の軋む音が夜に響いた。
石畳の向こうに、ぼんやりと灯る玄関の明かり。
その光が、不安に沈んだ心をわずかに支えた。
彼はゆっくりと歩を進め、旅館の玄関へと近づいていった。
第179章:宿の主人
石畳を踏みしめて玄関に辿り着くと、木製の引き戸の向こうに柔らかな明かりが差していた。
硝子越しに見える灯りは白熱球の色で、どこか懐かしい温もりを思わせる。
扉の前に立つと、木の香りと藁のような畳の匂いが微かに漂ってきた。
溝口は戸を軽く叩き、深呼吸をひとつ。
中から、足音がとことこと近づいてきた。
戸が開くと、現れたのは年配の男性だった。
背筋は少し曲がっているが、眼光はまだ鋭く、長年宿を切り盛りしてきた気配を漂わせていた。
「こんばんは。……おや、初めての顔ですね」
落ち着いた声に、溝口は頭を下げ、用意していた言葉を口にした。
「突然すみません。こちらの宿のことを、丘町交番の佐々木さん(老人警官)から伺いました。彼に紹介されて……」
主人の眉がわずかに動いた。だがすぐに柔らかな笑みを浮かべる。
「それはそれは、あの佐々木さんの。なるほど、そういうことですか。あの方からの紹介なら、何も心配いりません。さ、どうぞ中へ」
木製の下駄箱と土間を抜けると、柔らかい畳の感触が足元に伝わった。
廊下は少し薄暗いが、ランプの灯りが所々に置かれていて、不思議な落ち着きを与える。
「荷物は少ないようですね。旅慣れておられるようで」
主人の言葉に、溝口は曖昧に笑みを返した。
「……まぁ、事情があって」
「事情があって来る方も、ここには時々おられます。安心して休まれるといい」
主人はそれ以上は問わず、鍵のついた木札を差し出した。
二階に続く階段を案内してくれる途中、主人はふと立ち止まった。
「佐々木さんは、昔から不思議な縁を持っている人です。……あなたのことを気にかけていたのでしょう」
「どうぞ、ごゆっくり。」
その言葉は穏やかだったが、不思議な重みを帯びていた。
溝口は軽く会釈し、鍵を握りしめた。
長い一日の果てに辿り着いた安息の場——そう信じたい気持ちが胸に広がっていた。
第180章:虫の音に包まれて
案内された部屋は二階の端にあった。
障子を開けると、畳の香りがふわりと立ち込め、灯りは小さな行灯ひとつだけ。
どこか懐かしい温かさに包まれ、ここが「現実」なのかどうかさえ曖昧になるほどだった。
鞄を隅に置き、靴を脱ぎ捨てると、足の裏から畳の柔らかさがじんわりと広がる。
数日の緊張で強張っていた身体が、ようやく重力に委ねられる感覚だった。
窓を少し開けると、山風がひんやりと差し込み、同時に虫の音が耳に届いた。
規則正しく、しかし時に重なり、時に途切れる。
その不規則さが心地よく、耳障りでありながら、不思議なリズムを刻んでいた。
数日間——尾行、凛との会話、署での違和感、ホテルでの影。
あまりに多くのことが一度に押し寄せ、胸の中で言葉にならない重みとなっていた。
ようやくたどり着いたこの宿で、ただ静かに座っているだけでも救われるようだった。
「ここ数日で……随分と変わってしまったな」
声に出すと、部屋の空気に吸い込まれていった。
刑事としての足取りを追うはずが、気づけば見えない影と向き合っている。
答えの出ない問いを胸に抱えたまま、彼は布団を敷き、背を横たえた。
虫の音が次第に遠ざかり、身体の緊張も解けていく。
思考はまだざわめいているが、それすらも心地よいノイズに変わっていった。
薄い布団の温もりに包まれながら、溝口はようやく深い眠りへと落ちていった。
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