↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/48

鈍い朝、白い廊下

第167章:鈍い朝、白い廊下


自動ドアが開くと、乾いた暖房の匂いが鼻腔に触れた。

朝の署内はいつも通りのざわめきをまとっている——はずだった。コピー機が回り、湯沸かし室のケトルが唸り、廊下の端で誰かが電話を切る。

だが、その音の一つひとつが薄い膜を挟んだように遠い。


ーーー姿勢を正し、執務室のドアを押した。


1 同僚たちの「半拍」


「おはようございます」

先に声を出したのは自分のほうだった。班の四人がそれぞれの机に座り、パソコンの画面を睨んでいる。

田所が最初に気づき、顔を上げた。

「……あぁ、おはよう」

半拍遅れて笑みらしきものが浮かぶ。その笑みは長く続かず、すぐに画面へ戻った。

向かいの三枝は頷いただけで、いつもの「昨日の続きどうなった?」もない。

後ろの棚で資料を束ねていた庶務の河村は、ホチキスを閉じる手を止め、それからわざとゆっくりと作業を再開させた。


「コーヒー淹れたけど、飲みます?」

声をかけてきたのは若い坂口だった。紙コップを一つ差し出してきて、なぜか目線が合わない。

「……悪い、あとで」

「そ、そっか。じゃ、置いときますね」

コップは彼の机の端、届きにくい位置にそっと置かれた。指先が、紙縁の白をやたらと気にしている。


ホワイトボードに目をやると、前夜まで貼っていた「地下爆発」の付箋がきれいに剥がされ、そこだけ新しいボードのように白い。

代わって「特殊詐欺/巡回強化」と「器物損壊(再発)」のマグネットが並び、カラフルな押しピンが均等に刺さっている。

均等——誰かがわざわざ定規で測ったかのような整いすぎた配置だ。


「溝口さん、課長から……来たら資料室に寄るように、って」

河村が机越しに言い、目線を紙の上に落としたまま動かさない。

「資料室?」

「ええ、引き継ぎの——書類の扱いに変更があったらしくって」

言い終えると、彼女はホチキスの芯を空打ちし、金属音を一つ、無理に出した。


背後で、誰かが囁く。

「……外れたんだろ」

「……本庁直轄……」

聞こえるほど小さく、聞こえないほど大きく。


机に鞄を置き、椅子を引く。脚のキャスターが床の目地に引っかかった。

(半拍、ずれる)

挨拶、視線、物音。全てが、ほんの少し。昨夜、扉の前で感じた「遅れ」と同じ種類の違和感が職場にも染みている。


2 資料室の“整頓”


地下の資料室は、朝一番の空気でも冷たい。蛍光灯の白が段ボールの縁を均一に照らし、通路には埃の匂いに混じって新品の紙の匂いが微かに漂っている。

「おはようございます」

資料管理の中村が台車を押して現れ、溝口を見るなり、作り置きの説明を取り出した。


「本庁情報管理課からの指示で、**地下爆発関係資料は“機密管理扱い”**に切り替えです。以後はここではなく、特別保管のロッカーで一元管理」

「特別保管?」

「はい、施錠の二重化、入退室ログ、閲覧は要申請。……閲覧は所属長を通してください」


溝口は頷き、棚のいつもの位置に視線を滑らせる。

未解決の棚——あの、赤いスタンプが幾重にも押された綴りの並び——が、きれいにスカスカになっている。

替わりに「年度末決算書類(仮置)」と書かれた箱が三つ、表向きに置かれていた。ペンの色が妙に新しい。

(隠したな)


「昨日、俺が出した報告書、ここに回しましたか?」

「報告書?」

中村は記録簿をめくり、「受領済」の欄を指でなぞる。

「昨夜二十三時二十七分。情報管理係 受領。サインは……『城戸』」

城戸——上層部から来ていた黒スーツの男の名だ。受領印の朱は濃く、紙の裏にまで沁みていた。


「返却は?」

「規定では未定。原本は移管。閲覧用の写しも今回は作成せず、とのことです」

「写しも……なし」

溝口は短く復唱した。背中のどこかに、冷たい板を押し当てられているような感覚がじわりと広がる。


「すみません。こちらでできるのは、搬出記録のお渡しまでで」

中村は申し訳なさそうに頭を下げ、薄い台紙に挟んだ搬出伝票を差し出した。

『案件:市内爆発事案(仮符号)/管理区分:機密/移送先:本庁 情報管理課 特別保管/担当:城戸』

整った明朝体の活字の下に、手書きのメモが一行だけ鉛筆で残っていた。

『未解決棚・空白分は一括廃棄候補(決裁待ち)』


(廃棄候補?——まだ検証が終わっていないのに)


3 電子の扉


執務室へ戻る前に、情報端末室に寄る。端末にログインし、事件管理システムのケース番号を打ち込んだ。

画面に、薄い灰色のダイアログが静かにせり上がる。

『閲覧権限がありません(コード:403)』

もう一度、別の関連番号で。

『権限がありません』

さらに古い失踪案件——政治家の変死、記憶喪失の保護例。

『権限が……』

指先が冷たくなっていく。

(電子の扉も、閉めたか)


「どうかしました?」

管理担当の若い職員が覗きこんでくる。


「いや、権限がどうのこうのと出てしまってね」


「ええ……昨夜から対象案件のアクセスロールが本庁に付け替わってます。現場の係員は閲覧不可に。ログは全部向こうに流れる設定です」

「ログ?」

「誰がいつどの画面を開いたか。今のこれも記録されます」

職員は気まずそうに言い、モニタの隅の小さな赤点を指差した。録画の印。

(ここも“扉”だ。開けば、背後に誰かが立つ)


「そうか……助かった」

礼を言って席を立つと、職員は「お気をつけて」と言いかけて、飲み込んだ。


4 机の引き出し


自席に戻ると、椅子の背もたれが微妙に動いていた。誰かが触れたのか、単に自分の記憶がズレているのか。

引き出しの鍵穴に指をかける。金属の縁に新しい擦り傷が一筋ついていた。

(開けたな)

鍵を回して中を確認する。昨夜、警察手帳の原本はここに置いていった。

問題ない。所定の位置に収まっている。手帳の下に忍ばせた紙片——扉の場所の星印や「無音」「無風」といった単語を走り書きしたメモ——も無事だ。

ただ一枚、A4に清書した**「現象・痕跡・仮説」**のリストが見当たらない。

代わりに、引き出しの底に小さな白い紙片がひらりと残っていた。

『受領済』

赤いスタンプが押してある。誰の署名もない、無記名の受領票。

(誰が、いつ、ここから——)


視界の端で、廊下の蛍光灯が一瞬だけ明滅した。


5 廊下の空気


水を飲もうと湯沸かし室へ向かうと、曲がり角で田所と鉢合わせした。

「よう」

「よう」

同じ言葉を同じタイミングで。重なるはずの声が、わずかにずれて耳に入る。

田所はすぐ冗談めかして続けた。

「すまんな、ホワイトボード、綺麗にしちまって」

「仕事だろ」

「いや、その……いろいろ、あってよ」

「いろいろ?」

田所は笑って誤魔化し、肩を叩く。その手が、肩に触れる寸前で止まり、空を切った。

触れない挨拶。

「溝口、昼飯まだだろう?軽く行くか?」


「悪い、資料と情報端末。ちょっと詰めないと」


「そっか。……気をつけろよ」

最後の一言だけは、ずれずに真っ直ぐだった。


湯沸かし室の窓に、自分の影が映る。背後を通る誰かの影が、影の中で半拍遅れて動いた。

振り向くと、誰もいない。


6 扱われ方を見るということ


午後、庶務の河村に頼んで搬出記録の写しを正式に申請した。

「本庁からの持ち出しは、二系統。紙の原本の移送と、サーバの権限付け替え。現場の副本は作らない。未解決棚の*“空白分”*は廃棄候補」

河村は読み上げ、顔を曇らせる。

「空白分って?」

「……書式不備、捜査打ち切り時に所見の無いもの。あるいは」

「あるいは?」

「意味が分からないもの、だそうです」

彼女は吐き捨てるように言い、それから慌てて言葉を飲み込んだ。


意味が分からない——無音、無風、旋律、扉。

意味を与える前に消す。

扱いとはそういうことだ。

なかったことにするための整頓。整え、揃え、均す。


7 手元に残すもの


夕方、デスクに戻ると、朝の紙コップのコーヒーは冷えきって表面に薄い膜が張っていた。

メモの束を鞄に移し、最低限の断片だけは自分の手元に置く。

誰がどう整頓しようと、この紙のざらつきだけは奪えない。

星印、無音、無風、印、時間。


ホワイトボードに新しい案件の指示が増える。笑い声がせわしなく行き交い、電話が鳴る。

日常は音を取り戻している。

だが、溝口の耳には、その背後で別の拍が鳴っていた。

一拍遅れの足音。半歩遅れの視線。引き出しの底の「受領済」。

——扱いは分かった。

これは、消される種類のものだ。


ゆっくり椅子から立ち上がり、窓の外の暮れかけた雲を見た。

遠くのビル影が長く伸び、路地のどこかに音が死ぬ角が口を開ける時間が近づいている。


(公式は閉じた。なら、非公式で行く)

手帳に新しいページを開き、静かな字で日付と場所と、次の仮説を書き込んだ。


「扱いの反対側に、入口がある」


書き終えたペン先が、ごく僅かに震えた。

それは恐れか、期待か、あるいは——。


第168章:静かな退勤


溝口は机に手を置いたまま、しばし天井を仰いだ。

事件資料が扱われ方ごと消され、同僚の反応が半拍ずつずれている——。

その中に身を置く自分が、すでに危険な立ち位置にあることを痛感する。



ゆっくりと椅子を引き、立ち上がる。

「今日は……早めに上がるわ」

何気ない調子で声を掛けた。


振り返った同僚たちは、それぞれ曖昧に頷いた。

「おう、お疲れさん」

「珍しいな、溝口さんが早退なんて」

口調は軽いが、目の奥に探るような色が浮かんでいるのを見逃さなかった。


「ちょっと用事があってね」

そう付け加え、軽く笑みを作る。

怪しまれないよう、あくまで普段通りを装う。


ロッカーで上着を羽織り、鞄を肩に掛け、エントランスを抜ける。

夜気が肌を刺し、街灯に自分の影が長く伸びた。

足音を響かせないようにゆっくりと駐車場へ。


愛用のセダンに乗り込むと、ハンドルを握る指先に微かな震えが残っていた。

同僚の目線、資料の扱われ方、凛の「影」という言葉——すべてが背中を押してくる。


エンジンをかける。低い振動が車内を満たし、ようやく外界との境界が閉じられた気がした。



「……怪しまれずに済んだか」

独り言を吐き、ゆっくりと車を走らせる。


職場を離れる距離が増えるにつれ、わずかに肩の力が抜けていった。

しかし同時に、後部座席に誰かが潜んでいるような感覚が離れない。

バックミラーをちらりと覗く。そこに映るのはただの闇だけだった——。


第169章:忍び寄る尾


ハンドルを握りながら、溝口はミラーに視線をやった。

街灯が等間隔に流れ、後続車のライトが赤く反射する。

普段なら気にも留めない光景。だが、この夜は違った。


曲がり角を二つ、信号を三つ。

それでも、同じ間隔を保ってついてくる車の影がある。

黒いセダン。車種は一般的で、ナンバーも見えにくい。

「偶然か……? それとも」

胸中で呟く声は冷たく震えていた。


加速する。

後方のライトも、同じように距離を詰める。

次の交差点で急に左折する。

だが、それも追随してきた。


血が騒ぐ


刑事としての経験が告げていた。

——これは尾行だ。

それも素人ではない、一定の距離を保ち、決して先を急がない巧妙さ。


溝口の額にじわりと汗が滲む。


ホテルへ直行するか。

それとも、署に戻るか。

あるいは、敢えて人通りの少ない道へ誘い込み、正体を確かめるか——。


ハンドルを切りながら、溝口は奥歯を噛み締める。

背後のライトは、なおも等間隔を保っていた。


第170章:逃走


溝口は、バックミラーに光る二つのライトを睨みつけながら、市街地へとハンドルを切った。

尾行は続いている。だが人の多い通りに入れば、ひとまず時間を稼げる。



繁華街に差し掛かると、馴染みのある小さなラーメン屋の看板が目に入る。

ここなら——と決めて、急にウインカーを出し、狭い駐車スペースへ滑り込んだ。


自動ドアを押すと、湯気とスープの香りが押し寄せてくる。

「おう、いらっしゃい!」と店主の声。

カウンターに腰を下ろし、素知らぬ顔で「醤油ラーメン一丁」と告げる。


丼が出てくるまでのわずかな時間、心臓の鼓動が耳に響く。

後ろから誰か入ってきた気配は……ない。


ラーメンが出てきた瞬間、箸を取り、ほんの数口だけ啜った。

味も熱さも分からない。ただ演技として口にしただけだった。

どんぶりの下に札を挟み腰を上げる。



「すみません、トイレどこですか」

と店主に聞きながら、奥へと歩く。

トイレの横に小さな裏口があるのを知っていた。

非常口の錆びた扉を押すと、ひやりとした夜気が流れ込んだ。


裏路地。人気はなく、湿ったアスファルトに街灯の光が斑点を落とす。

溝口は一気に走り出した。



駐車場に戻ると、そこには予想通り、黒い影があった。

自分の車のすぐ近く、煙草の火が小さく光る。

張り込みだ。

尾行者は一人残り、確実に戻ってくるのを待っている。


「……厄介だな」

鍵を握る手に力がこもるが、ここで無理に戻れば間違いなく気づかれる。



仕方なく、路地を抜けて駅へと向かう。

階段を降りると、地下鉄構内特有の湿った空気と、金属のきしむ音が広がっていた。

改札を抜け、人混みに紛れる。


背後の気配を探るが、今のところ追ってくる影はない。

電車がホームに滑り込む音。

その轟音が、胸にまとわりついた恐怖をわずかに切り裂いてくれるように感じた。


ドアが閉まる。

電車が動き出すと、ようやく溝口は深く息を吐いた。


向かう先は——予約済みのビジネスホテル。

しばらくはそこで身を潜めるしかない。


第171章:違和感


地下鉄を乗り継ぎ、予約していたビジネスホテルに辿り着いたのは夜も更けた頃だった。

チェックインを済ませ、淡々と鍵を受け取る。

どこにでもある簡素なフロント、機械的に笑顔を貼り付けたスタッフ。

だが、それらがむしろ安心感を与えた。

人目のある場所、規則正しく管理された空間。そこならば、と。



カードキーで部屋を開ける。

一人用のシングルルーム、白いシーツに淡い照明。

テーブルの上に置かれた小さなメモ帳とボールペン。

ユニットバスからはわずかに漂う清掃用の薬品の匂い。


バッグを床に置き、コートを椅子に掛ける。

深く息を吐いて、ようやく腰を下ろした。

ここまで来れば、とりあえずは安全だ。

尾行者の姿もなかった。


だが、静けさの中で徐々に胸の奥にざらつくものが浮かんでくる。

何かが、妙に「整いすぎている」。


カーテンを閉めようと窓際に立つと、外の街灯が妙にぼやけて見えた。

窓ガラスに映る自分の姿が、ほんの一瞬——わずかに遅れて動いたように見えた。


背筋が冷える。

思わず目を凝らしたが、映っているのは自分自身。

疲れによる錯覚だと、自分に言い聞かせる。


ベッドに腰を落とすと、壁際に置かれた時計の針が耳に届いた。

「カチ……カチ……」

秒針のリズムは一定のはずなのに、どこかで一瞬「途切れる」。

ほんのわずか、間延びする。

その間隙の中で、別の何かが呼吸しているように思えた。



「……気のせいだ」

低く呟き、コートのポケットから煙草を取り出す。

火を点けると、煙が揺れ、天井に昇る。

だが煙の影は、ひとつだけ余分に揺れていた。


その影は、壁に伸びる自分の腕よりもわずかに長い。

誰かが横に立っているかのように。


第172章:眠りの淵


部屋の隅に余分な影が揺れているのを見ながらも、溝口はあえて気づかないふりをした。

「今さら驚いてどうなる……」

そう自分に言い聞かせ、ベッドに横たわる。

シーツの冷たさが肌を包み、わずかに緊張を和らげる。


だが、心臓の鼓動は速まっていた。

耳を澄ますと、外の車の音も、隣室の気配も遠のいていく。

代わりに「時計の間延びした音」と「壁を這うようなざらつき」が耳の奥を叩いていた。


瞼が重くなり、意識が薄れていく。

夢と現の境界が曖昧になる中、声がした。


——「刑事さん……」


耳元に、確かに囁く。

凛の声に似ているが、それより冷たく、乾いていた。

呼吸のリズムに合わせて、声は何度も重なってくる。


——「まだ、ついてきてますよ」

——「あなたの影に、です」



身体は動かない。

夢なのか現実なのかの境界で、背中を撫でる冷気だけが確かな感覚だった。

うっすらと見えるのは、ホテルの壁に伸びる影。

そこに「自分ではない輪郭」が混じり、ゆっくりとこちらを向いた気がした。


瞼を閉じたまま、溝口は心で叫ぶ。

——これは夢だ。

——だが、もし現なら。


思考が深い闇に飲み込まれていく。



そのまま眠りに落ちる瞬間、再び声がした。


「目を開けてはいけませんよ、刑事さん……」


そして意識は完全に途切れた。



ここまで読んでいただきありがとうございます。

楽しんで頂けたら幸いです。

いいね、ブクマ、コメント等も是非よろしくお願いします!




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。