外される者
第161章:外される者
翌日。
溝口は突然、課長室へ呼び出された。
扉を開けた瞬間に伝わる空気の重さ——机の向こうには捜査一課長、副署長、さらに上層部から派遣されたと見えるスーツ姿の男までもが並んでいた。
「溝口刑事、座ってくれ」
課長の声は硬く、いつも以上に抑揚がない。
背筋を伸ばし椅子に腰掛けると、すぐに冷たい言葉が突きつけられた。
「地下爆破事件の調査からは、今日をもって外れてもらう」
一瞬、呼吸が止まった。
思わず問い返す。
「……理由を、お聞かせ願えますか」
副署長が眼鏡を押し上げ、冷たい目を向けてきた。
「上からの指示だ。君の調査は行き過ぎている。事件性は認められたが、今後は本庁直轄で扱う。捜査の一環として、被害者への接触も禁止する」
「被害者……秋月凜さんとも?」
声がわずかに震える。
スーツの男が短く答えた。
「そうだ。今後は病院での面会も、聞き取りも、すべて制限する。関わりは一切絶ってもらう。
理解してもらえるな?」
淡々とした口調に、命令以上の“壁”を感じた。
まるで「そこには触れるな」と暗に告げられているように。
溝口は唇を噛み、机上の書類を見つめる。
そこには「処理済」「捜査終了」の赤いスタンプが押された調書の山。
未解決で終わった事件と同じ印が、今この案件にも重ねられようとしていた。
(——なぜだ。なぜ触れてはいけない?)
疑念は胸を焦がしたが、言葉にはできなかった。
ここで反論すれば、ただの越権行為として処分されるだけだ。
「……了解しました」
静かに頭を下げ、席を立つ。
背後で紙の束が整えられる音がした。
部屋を出て扉を閉じると、足が重く床に沈むように感じられた。
廊下の窓から見える朝の光は澄んでいるのに、心は濃い靄に包まれていた。
事件から外されただけではない。凛とも繋がりを断たれた。
だが、その命令の裏にある「触れるな」という意志は、かえって溝口の決意を固めた。
——公式には、これ以上近づけない。
だが刑事である前に、自分は調査を頼まれた身だ…。
凛のあの言葉が再び甦る。
「刑事さん、あなたも帰ってこれたならまだ終わっていないでしょう?」
心臓の鼓動が、再び強く鳴り始める。
(……終わらせるのは、俺自身だ)
溝口は静かに廊下を歩き出した。
第162章:影の気配
溝口は「最後に」と心に言い聞かせ、再び病院へ足を運んだ。
面会禁止を言い渡されていたが、それでも伝えねばならないことがあった。
——自分はもう、この事件の調査から外されたという事実を。
病室の前にはいつもの警官が立っていた。
顔見知りの彼に軽く会釈をし、短い言葉を交わす。
「すぐに出る。ほんの一言だけだ」
警官は一瞬迷ったが、溝口の表情を見て静かに頷いた。
ドアを開けると、凛は窓辺に腰掛けていた。
外の光が差し込み、その頬を淡く照らしている。
彼女は振り返ると、ゆるやかな笑みを浮かべた。
「刑事さん……。今日はどうしました?」
溝口は深く息を吸い、言葉を選ぶように口を開いた。
「……今日は、君に伝えることがあって来た」
「俺は、この事件の調査から外れることになった。
それに、もう君に面会することも許されなくなる」
短い沈黙。
それを破るように、凛はクスクスと笑い声を洩らした。
「あらあら、ふふ。ヘマをしてしまったみたいですねぇ」
その声音は軽やかだが、妙に冷たい響きがあった。
「……どういうことだ」
思わず問い返す溝口。
凛はどこか目の焦点を外したまま、虚空を見つめながら呟く。
「気づいてないんですねぇ、刑事さん。影がついちゃってますよ」
溝口の背筋に寒気が走る。
「影……だと?」
凛の口元は笑っているが、その目線はどこか遠く、まるで現実を見ていない。
「まっ、仕方ないですね」
そう言うと、再び楽しげに微笑んだ。
不気味な笑み
「私ももうすぐ退院できるので……ん~、もしかしたら、そうですね、
身の安全を確保したほうが良いかもしれませんよ。刑事さん」
その言葉を告げる凛の笑顔は、どこか人間味を欠いていた。
まるで外界と自分の世界が噛み合っていない者の表情。
溝口は声を失い、ただ彼女の横顔を見つめるしかなかった。
胸の奥で何かがざわつき、危うい兆しをはっきりと感じていた。
第163章:忠告
「……身の危険があるというのか?」
溝口の声は低く、張りつめた糸のようだった。
刑事としての冷静さを装いながらも、その胸奥では得体の知れぬ不安が膨れ上がっていた。
凛はしばらく答えず、窓の外を眺めていた。
光を映す瞳は焦点が定まらず、まるで別の世界を見ているかのようだ。
やがて小さく笑い、柔らかな声で言った。
「そうですね……。退院したら、連絡します」
その口調はどこか上機嫌で、しかしその笑みは人間味を欠いていた。
それが約束なのか、からかいなのか、溝口には判別できない。
不意に、凛はくるりと顔をこちらに向け、唇を弧にゆがめた。
「じゃあ……刑事さん。背中を向いて、立ってください」
「どういうことだ……何を言っている?」
怪訝に問い返す溝口。
「いいから。そうしてください」
声は穏やかだが、拒めない圧があった。
まるでこの瞬間だけは彼女が主導権を握っているかのように。
しぶしぶ背を向けた溝口。
その瞬間、背後の空気がひやりと冷たくなった。
凛の小さな笑い声が部屋に満ちる。
「ふふ……やっぱり。ついてきてるんですね」
ぞわり、と背筋を這う感覚。
自分の影が、ただの影ではないものに見られている錯覚。
溝口は振り返ろうとしたが、凛の声がそれを止めた。
「振り向かないほうがいいですよ。まだ今は」
その声音には、忠告とも嘲笑ともつかぬ響きがあった。
第164章:聞こえない抜刀
溝口が背を向けたまま立っていると、背後の空気がふっと沈んだ。
次の瞬間、耳に届いたのは現実にはあり得ないはずの音だった。
——シャリン、と。
鉄の鎖が擦れ合う乾いた響きと、刃が鞘から滑り出る鋭い音。
それは確かに刀を抜いた音だった。
現実には見えない
振り返っても凛の手には何も見えないはずだ。
そこに武器などない。
だが、音は鮮明だった。
耳の奥に残響がこびりつき、鼓膜が震えた感覚だけが現実を示している。
そして続けざまに——
——ザシュッ。
何か厚いものを斬り裂く、重く湿った音がした。
その音に合わせ、背後の空気が震動し、溝口の髪がふわりと浮き上がる。
斬られたのは何か
溝口は思わず肩を強張らせた。
自分が斬られたのか?
だが痛みはない。血も流れていない。
けれど背中にまとわりついていた冷たい気配が、不意に消えていた。
——まるで何か見えないものが、自分の背後から断ち切られたように。
異様な雰囲気
「な、何を……」
声が上ずる。
振り返ると、凛は椅子に腰を掛けたまま、静かに呼吸を整えていた。
右腕は確かに空を握っていたはずなのに、今は膝の上に安らかに置かれている。
その表情は笑顔、だが眼差しは焦点が合わず、遠くを見つめていた。
「ふふ……。ちょっと、斬っただけですよ」
その言葉はあまりに軽やかで、背筋に冷気を走らせた。
何を斬ったのか。
影なのか、呪いなのか、それとも——自分自身の一部なのか。
溝口は無意識に背後を振り返る。
ただの白い壁と、影を落とす蛍光灯の光。
異常は見えない。
だが胸の奥では、確かに「何かが断たれた」実感が残っていた。
「……お前は、一体……」
言葉を絞り出した瞬間、凛は再び不気味な笑みを浮かべる。
「だから言ったでしょう? 影がついちゃってるって。
でも、これで少しはマシになったかもしれませんね」
その声は子供が戯れに冗談を言っているかのように軽かった。
しかし、彼女の周囲の空気は確かに異様な重みを帯びていた。
第165章:影を残して
凛の「斬った」という軽やかな言葉が、病室の空気を凍らせていた。
溝口は背筋に残る冷気を拭えないまま、しばらく立ち尽くす。
何をされたのか、何が斬られたのか——答えはどこにもなかった。
静かな退出
「……」
言葉を見つけられず、ただ視線を落とす。
凛は椅子に腰掛けたまま、不気味な笑みを浮かべ続けている。
その笑顔は優しさにも見えるが、同時に底知れぬ悪意を隠しているようでもあった。
やがて溝口は、軽く頭を下げる仕草を残し、静かに病室のドアに手を掛けた。
背後から、凛の鼻歌のような声が微かに届く。
旋律とも、ただの音とも判別できない、不思議な揺らぎ。
ドアを閉めると、廊下の光がやけに明るく感じられた。
だが、胸の奥にはなお冷たいざわめきが残っている。
自分の影が蛍光灯の下で伸びるのを見て、思わず足を止めた。
その影はただの影——のはずだ。
けれど、ほんの一瞬、別の「何か」が重なったように見えた。
「……気のせいだ」
そう呟き、靴音を響かせて歩き出す。
答えのない不安
病室を離れても、凛の言葉が耳から離れない。
「影がついちゃってますよ」
「これで少しはマシになったかもしれませんね」
何を意味するのか。
自分はすでに何かに囚われているのか。
答えはなく、不安だけが膨らんでいく。
その夜、溝口は自室の明かりを消した後も、窓に映る自分の影を見つめ続けていた。
背後から、誰かが覗いている気がしてならなかった。
第166章:避難の朝
翌朝、溝口は目を覚ますとすぐに、前日の凛の言葉を思い出した。
「身の安全を確保したほうがいいですよ、刑事さん」——。
軽やかに笑いながら放たれたその声が、耳の奥でまだ響いている。
彼はまずノートパソコンを開き、警察宿舎でも自宅でもない場所を探し始めた。
遠く離れたビジネスホテル。
署からも自宅からも適度に距離があり、普段の生活圏から切り離された空間。
それが今の自分にとって必要だと、理屈よりも直感が告げていた。
予約を終えると、心のどこかで小さな安堵が広がる。
しかしそれは安心ではなく、嵐の前に張った防御壁のような一時的なものに過ぎなかった。
スーツを着替え、鞄に最低限の荷を詰める。
着替え、身分証の控え、ノート、録音機。
忘れてはいけない資料を確認し、机の引き出しに残してきた調査メモを新しいファイルに収める。
鏡を覗き込むと、目の下に濃い影ができていた。
凛の「影がついてますよ」という言葉が脳裏を過ぎる。
自分の影は本当に自分のものか?
数秒じっと見つめ、やがて頭を振って我に返った。
宿泊用の小さなバッグを肩に掛けると、ドアを閉める。
朝の空気は冷たく、通りには通勤客のざわめきが広がっていた。
普段と変わらぬ街並みに、妙な違和感が混ざる。
人々の足音が、いつもよりわずかに遅れて聞こえてくるように思えた。
それでも足を止めるわけにはいかない。
一度深呼吸をして、署へと向かう。
署の建物が視界に入ると、胸の奥で鈍い痛みのようなものが広がった。
ここに来れば、自分は「公式には爆発事件の担当を外された刑事」だ。
だが、扉と影を知ってしまった以上、引き下がることはできない。
溝口は心を固め、自動ドアを通り署内へ足を踏み入れた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
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