決意
第140章:決意
資料室を出た溝口は、夜の署内をゆっくり歩いた。
蛍光灯の冷たい光が、今は妙に遠くに感じられる。
机に戻り、手帳を開く。
——自分が発見された当時の記録には、管内の山中で“保護された”とだけ書かれていた。
だが、詳細を知る者が必ずいるはずだ。
発見現場に居合わせた警官か、搬送に関わった医師か。
自分が何者だったのかを知るためには、あの時を知る人物に会わなければならない。
溝口はペンを走らせ、保護時に関わった可能性のある人物の名前を控えていく。
報告書の片隅に書かれていた「現場対応:丘町交番」「救急搬送:森浜病院」——
断片的な文字が、手掛かりとなって浮かび上がる。
内なる声
「……俺は、狂人のような状態で発見されたらしい」
独り言のように呟く。
自分の記憶には無いが、ファイルにはそう記されていた。
しかし今こうして正気を保っている自分がいる。
——本当に“正気”なのか?
その問いが頭を離れない。
凛が呟いた「リトルアンダーグラウンド」。
自分が過去に口走ったと記録されていた「記憶の記録」「リトル」。
点が線になりかけている。
溝口は椅子から立ち上がり、背広の襟を正した。
「……保護した人物に会いに行く」
それは刑事としての義務ではなく、自分自身を知るための選択だった。
凛を理解するには、まず自分の空白を埋めなければならない。
夜更けの署を後にしながら、胸の奥で重く確かな決意が脈打っていた。
第141章:当時の証言
翌日。
溝口は朝から車を走らせていた。
目的地は、三年前に自分が発見されたと記録されていた山中近くの交番。
当時勤務していた警官がまだ在籍していると確認が取れていた。
交番は小さな集落の入り口に建つ古い建物だった。
車を降り、溝口は扉を開けて中に入る。
制服姿の初老の警官が振り返り、すぐに目を見開いた。
「……溝口さん、ですよね」
記憶にある顔なのだろう。
相手は驚きと、少しの戸惑いを滲ませながら言葉を続けた。
保護当時の様子
「三年前のあの日……あんたを見つけたのは私です」
警官は机に腰を下ろし、記憶を辿るように語り出した。
「山道でうずくまっていてね。全身は泥まみれ、服は破れて、骨と皮のように痩せていた。
それだけならまだしも……目が、少し普通じゃなかったね」
溝口の眉が動く。
「目が?」
「ああ……ギョロギョロと泳いで、何かを見ているようで見ていない。
時折叫び声をあげて、意味の分からない言葉を繰り返していた。
『地下』とか、『リトル』とか……。怖かったよ。刑事さんがまるで狂人みたいになっていたんだから」
警官はそこで言葉を切り、深く息を吐いた。
「救急車を呼んで、あんたは病院に運ばれた。
……それきり私は詳しいことを聞かされちゃいない」
「あんたが行方が分からなくなっていた刑事さんだと聞かされた当時は驚いたね」
「ただ、正直に言うと……あんたが無事に署に戻ったと聞いた時、驚いたよ。
あの日の様子を見てたら、とても正気に戻れるようには思えなかったからな」
沈黙が流れる。
溝口は無意識に拳を握りしめていた。
自分の記憶には存在しない“発狂の姿”。
だが目の前の男は、迷いなくそれを語った。
溝口の胸中
「……ありがとうございます。あなたの話が聞けてよかった」
短く礼を告げ、交番を出る。
外の空気を吸い込みながら、溝口は自分の胸に問いかけた。
——俺は本当に狂っていたのか。
——それとも、“何か”に触れて壊されていたのか。
そして、凛もまた同じ言葉を口にした。
「リトルアンダーグラウンド」。
足元が揺らぐような既視感の中で、溝口は決意を新たにする。
自分の過去と、あの少女の真実。必ず繋がっている。
第142章:搬送先の病院
昼下がり。
溝口はハンドルを握りながら、郊外の古びた総合病院へと車を走らせた。
三年前、自分が保護された直後に搬送された病院。
その記録が資料の片隅に残っていたのだ。
病院は山の麓に位置し、地方色の強い佇まいをしている。
車を降りた溝口は、重い足取りで受付へと向かった。
「すみません、三年前に搬送された件で伺いたいことがあります。
私は稲葉署の刑事で溝口といいます」
身分証を見せると、対応した看護師は目を丸くし、すぐに内線で誰かを呼んだ。
やがて現れたのは白髪交じりの医師だった。
小柄ながら、眼鏡の奥の瞳は鋭さを残している。
「あなたが……あの時の刑事さんか」
低い声でそう言うと、医師は応接室に案内した。
「はっきり覚えてますよ。あのとき救急車で運び込まれた時のことを」
椅子に腰を下ろし、医師は記憶を掘り起こすように語り始めた。
保護当時の姿
「全身は衰弱しきっていて、点滴をしても体が受けつけないほどでした。
何より印象的だったのは——目でした。
気がふれた人のように見開き、焦点が合わず、何かを必死に追いかけている。
まるでこちらの存在が見えていないようだった」
溝口は拳を握りしめた。
やはり警官の証言と一致している。
「言葉も支離滅裂でね。
“地下”だの“リトル”だの……そんな単語を繰り返していましたよ」
医師は首を傾げる。
「当時は幻覚症状だと判断しました。
しかし——不可解なのは、その後、数日で急速に落ち着いていったことです」
「……まるで、別人になったかのように」
医師は言葉を切り、こちらをじっと見つめた。
「覚えていませんか? あの時、あなたが何を見て、何を口走っていたか」
溝口は小さく首を振る。
覚えていないのではなく、記憶そのものが“存在しない”。
応接室に重苦しい沈黙が流れる。
内面の揺らぎ
立ち上がり、深く一礼をして応接室を出た。
廊下を歩きながら、胸の奥でざわめく声が響く。
——俺はあの時、確かに“何か”を見ていた。
——そして今、凛もまた同じ言葉を呟いている。
偶然ではない。
この線を追えば、真実に触れられるかもしれない。
溝口の決意はさらに強固なものになっていた。
第143章:再び病室へ
病院の玄関を出ると、午後の日差しが斜めに差し込んでいた。
溝口は駐車場に向かいながら、胸の奥に沈殿した違和感を振り払えずにいた。
——自分は確かに「地下」と口走っていた。
——そして凛もまた同じ言葉を呟いた。
今、会わなければならない。
そう思うと足は自然とハンドルを凛のいる病院へと向けていた。
救急搬送で運ばれたあの日から三週間。
凛は表向きには順調に回復している、と報告を受けている。
だが、溝口は違和感を覚えていた。
——あの不気味な笑み。
——呟いた、リトルアンダーグラウンドという言葉。
それらが記憶の奥底で絡み合い、彼を強く引き寄せていた。
溝口は、病室の前に立っている若い警官に軽く会釈をした。
「また来ました。少しだけ」
警官は真面目に頷き、ドアの脇に立ち直った。
溝口はドアに手をかけ、深く息を吸った。
開ける前に、自分に言い聞かせる。
これはただの事情聴取じゃない。
彼女と自分の過去が繋がるかもしれない。
静かにドアを開くと、凛がベッドに腰かけ、窓の外を眺めていた。
その横顔は年齢よりも大人びて、そしてどこか影を落としていた。
「おはよう。体調はどうだい?」
穏やかな声を意識してかける。
凛はすぐには振り返らず、小さく頷くだけだった。
それでも溝口は歩み寄り、椅子に腰を下ろす。
「ちょっと、話してもいいかな」
静かな病室に、時計の針の音だけが響いていた。
第144章:沈黙の中の声
病室は静まり返っていた。
窓の外では薄曇りの空に淡い光が広がっている。
溝口は凛の横顔を見つめながら、言葉を探していた。
しかし、口を開こうとするたびに、凛の目の奥に宿る影がそれを封じる。
ただ時計の針が淡々と時を刻む音だけが響いていた。
——このままでは、また今日も何も聞けずに終わる。
そう思いかけたそのとき。
「……あの場所について、調べてみましたか? 刑事さん」
唐突に凛の声が響いた。
あまりに突然で、溝口の心臓は一瞬止まったように感じた。
ゆっくりとこちらを振り向いた凛の口元には、わずかに不敵な笑みが浮かんでいた。
挑発的でありながら、どこか試すような笑み。
「……あの場所?」
溝口はわざと問い返した。
凛の瞳は冷たく、深い井戸の底を覗くような暗さを帯びている。
「そう。心を食べる街。人を試す地下。夢を奪う場所……」
凛は答えを急がず、視線を外さない。
その瞳の奥には、確かに意図があった。
“どこまで掴んでいるの、刑事さん?”
そう問われている気がした。
沈黙がふたたび落ちる。
しかし、今度はただの沈黙ではなかった。
互いに探り合い、心の奥を覗き込もうとするような緊張が満ちていた。
第145章:掴んだ断片
凛の問いに、溝口は一拍おいてから口を開いた。
「……ああ、少しは調べた」
凛の眉がわずかに動く。
その瞳には、試すような光が宿っていた。
「ネットには極僅かだがそれっぽい書き込みがあった。
『夢が叶う場所』だの、『華やかな地下の街』だの……。
都市伝説みたいに語られていたよ」
凛は口角をわずかに上げ、不敵な笑みを深めた。
「へえ……噂…ね」
溝口は首を横に振る。
「噂話を信じたわけじゃない。だが、未解決事件の記録に妙な共通点があった。
人が突然干からびたように死んだり、記憶を失って狂ったり……。
全部、説明のつかないまま“資料終了”で打ち切られていた」
「あの時の爆発事故で見つかったミイラのようにね」
凛は視線を落とし、ベッドのシーツを指でなぞった。
「……やっぱり、調べたんですね」
声は小さく、どこか愉快そうで、同時に寂しげでもあった。
「ふふふ——」
第146章:核心の問い
凛は相変わらず不敵な笑みを浮かべ、溝口をじっと見ている。
その瞳は深い影を宿しながらも、どこか挑発的で、返答を待っているようだった。
溝口は深く息を吸い、意を決して言葉を発した。
「……君は、その——リトルアンダーグラウンドへ行っていたのかい?」
声は穏やかだったが、その奥に押し殺した焦りが滲んでいた。
凛の瞳がわずかに細められる。
その口元の笑みは、さらに深まった。
凛はすぐには答えなかった。
一瞬だけ視線を伏せ、それからゆっくりと顔を上げた。
口元には、わずかに不敵な笑み。
「刑事さんも、そこまで踏み込むんですね、
まるでおとぎ話?SNSの噂話?都市伝説?的な」
口元には笑みを浮かべながら
ただ、試すように溝口を揺さぶる響きを持っていた。
「私が行ったかどうか……知ってどうするんですか?」
凛の声は低く、感情を抑えた調子だった。
だが、その奥にかすかな挑発の色が混じっている。
「ただの噂話として終わらせるなら、それでいい。
でも、もし本当に——」
凛は言葉を切り、再び窓の外に視線を移した。
曇天の光を映す瞳は、年齢以上の影を帯びていた。
溝口はその横顔を見つめながら、答えのない沈黙に耐えるしかなかった。
第147章:兄の影
静寂がふたたび病室を包む。
凛は窓の外に視線を向けたまま、何も言わない。
だが、その横顔には、確かに言葉を選んでいる気配があった。
溝口は躊躇したが、胸の奥で脈打つ確信に突き動かされ、口を開いた。
「……君の兄も、その場所に関係しているのか?」
低く、慎重な声。
だが、その問いには刑事としてではなく、人としての焦りが滲んでいた。
凛の肩がわずかに震える。
すぐには振り返らなかったが、数秒の沈黙の後、ゆっくりと溝口を見据えた。
その瞳は鋭く、氷のような光を帯びていた。
口元の笑みは消え、ただ冷たい影だけが残っていた。
「……どうして、そう思うんですか?」
声は低く抑えられていたが、その奥には確かな警戒があった。
「君が言った言葉、そして……俺が掴んだ断片。
失踪と、地下。
全部が同じ線に繋がっているように思えた」
自分の声が少し震えていることに気づきながらも、溝口は視線を逸らさなかった。
凛はその言葉を静かに聞き、ふっと短く息を漏らした。
それは笑いなのか、嘆きなのか、判別できない微かな音だった。
その瞬間、病室に再び重苦しい沈黙が落ちた。
だがその沈黙は、もうただの静けさではなかった。
“兄”という言葉が、二人の間に不可視の影を落としていた。
第148章:告白
病室に落ちた沈黙を破ったのは、今度は溝口だった。
「……俺もな、君に……どうしても言わなきゃならないことがある」
凛がわずかに顔を動かし、視線を向ける。
その目は冷たくも、興味を示す光を帯びていた。
「……三年前、俺は突然消息を絶った。
同僚や家族にも何も告げずにだ。
約一年後、山中で発見されたと記録には残っている」
凛は瞬きを一度だけして、黙って聞いている。
「保護された時、俺は狂ったように意味の分からないことを叫んでいたらしい。
『地下』とか……『リトル』……それから『記憶の記録』だそうだ。
資料にはそう書かれていた」
声を落とし、机に置いた自分の手を強く握る。
「……俺自身には覚えがない。
だが、戻ったあともずっと“何かを探していた”感覚だけが残っている。
まるで、そこに忘れてきたものがあるように」
凛の表情は揺れなかった。
ただ、その口元の笑みは消え、代わりにどこか遠くを見るような影が差した。
「……刑事さんも、だったんですねぇ」
小さな声がもれた。
それは同情か、諦めか、あるいは同じ地を歩いた者への共鳴か。
溝口は彼女の言葉に応えず、言葉を続けた。
「名前さえも、最初は思い出せなかった。
家族の顔も、どんな人生を送ってきたかも……何一つとして浮かばなかったんだ」
溝口の目が遠くを見つめる。
「あの時、山中で発見された俺には、人間として最低限の常識しか残っていなかった。
食べ方や言葉の使い方、社会でどう振る舞うか」
「まるで殻のように、それだけが体に染み付いていた。だからこそ、同僚や昔の記録を見て、 自分が誰なのか“塗り直すように”覚え直したんだ」
凛はしばらく無言のまま、溝口の言葉を聞いていた。
凛は頬杖をつき、虚ろな眼でこちらを見やる。
「名前も、ですか。へえ、それは大変でしたねぇ」
皮肉めいた響きだが、声に熱はなかった。
それは慰めの言葉ではなかった。
自分に言い聞かせるような、どこか切ない響きを帯びていた。
溝口は答えられず、ただその言葉を胸に刻んだ。
凛は口元だけで笑い、少し間を置いてから言った。
「じゃあ、同じですね。私も。
戻ってきた時、何もかも抜けてましたから。
名前くらいは覚えてたけど……それ以外は、空っぽ」
言葉は冷たく乾いていた。
「兄を探してたこと、そのために歩いてたこと……それくらいしか残ってなくて。
あとは人形みたいに、動くやり方だけ知ってる感じ」
窓の外に視線を戻し、肩をすくめる。
「記憶なんて、戻るものじゃないんでしょう。穴が開いたら、自分で適当に埋め直すしかないんですね」
「でも、埋め直しが出来るなんて意外でした、それは大きな収穫です」
溝口は言葉を失い、ただ彼女の横顔を見つめた。
凛の口調は生意気で突き放すようだが、その奥に微かな共鳴を感じた。
二人を結ぶのは“失われたもの”の影。
第149章:同じ場所
病室の空気は冷え切っていた。
凛は窓の外を見たまま、生気のない声で記憶の喪失を語った。
その言葉を聞きながら、溝口の胸の奥に燻っていた疑念が、はっきりとした輪郭を帯びていく。
彼は、思わず口を開いた。
「……君と俺は、同じ場所にいたのだな」
凛は振り返ることなく、しばし沈黙した。
やがてゆっくりと首を傾け、半ば笑うように、半ば吐き捨てるように言った。
「刑事さん、断言しちゃうんですね。
……でも、そうかもしれませんね」
瞳は虚ろで、だが口元はどこか片側に歪んでいた。
「記録に残っていた。俺は発狂し、叫んでいたらしい。
そして君も……同じように記憶を失い、戻ってきた」
溝口の声は低く、確信を帯びていた。
凛はベッドのシーツを指でなぞりながら、軽く鼻で笑った。
「じゃあ刑事さん、私たち、同じ夢でも見てたんでしょうか。
——夢なんて、叶わない場所で」
その言葉に、溝口の胸がざわりと揺れた。
二人を繋ぐのは、同じ「場所」。
失われた記憶の底で響き続けるざわめきだった。
第150章:核心の刃
病室に漂う静けさは、刃のように鋭かった。
溝口は視線を逸らさず、低い声で切り込んだ。
「……君の兄も、その場所にいるのか?」
その問いは鋭く、凛の心を抉るようだった。
凛はすぐには答えなかった。
窓の外に視線を戻し、唇を結んだまま、ただ淡い光を受けていた。
彼女はゆっくり口を開く。
「……ふふ、さっきも聞きましたね」
声は冷えた水のように平坦で、生気はなかった。
だがその奥には、わずかな震えが混じっていた。
「君が失ったものと、俺が失ったもの。
どちらも同じ地下に繋がっている。
そこに君の兄も関わっているとしか思えない」
一拍置き、さらに踏み込む。
「——君は、兄に会えたのか?」
凛は目を伏せ、シーツを握りしめた。
小さな笑みを浮かべたが、それは不敵さではなく、苦笑に近かった。
「……会えたかどうかなんて、言えるものじゃないですよ」
彼女の声は淡々としていたが、わずかに震えていた。
「兄は確かに“そこ”にいました。でも、それが兄なのかどうか……私にも、分からなかった」
溝口は息を飲んだ。
それ以上の言葉は出なかった。
だが、凛の答えは十分だった。
兄は生きている。
だが、もう“兄”ではないかもしれない。
第151章:不敵な願い
沈黙の中で、凛はふいに小さく肩をすくめた。
どこか思い出したように、軽い調子で言葉を紡ぐ。
「……あ、そうそう」
溝口が眉を動かす。
凛はゆっくりと顔を上げ、その瞳に影を宿したまま、不敵な笑みを浮かべた。
「刑事さん、前に言ってましたよねぇ。
“何でもやれることは言ってくれ”って。……覚えてます?」
声は丁寧な響きだが、急に子供っぽく訪ねてきた。
挑発にも似た調子に、溝口は無意識に背筋を伸ばした。
「じゃあ——お願いしてもいいですか?」
少し間を置き、笑みを深める。
「その場所へ行くための“扉”を探してほしいんですけど。
……やっていただけます?」
声色は柔らかく、言葉遣いも一見礼儀正しい。
だが、その奥に潜む圧のようなものが、病室の空気を重くした。
溝口は答えられず、ただ彼女の瞳を見つめ返す。
その目は、死んだように静まり返っているのに、どこか底知れない炎を宿していた。
“扉”——。
凛の口から出たその言葉が、溝口の過去の空白と重なり、胸を強く締めつけた。
第152章:おとぎの扉
凛の口から放たれた「扉を探してほしい」という言葉が、まだ病室の空気に漂っていた。
溝口はしばし沈黙し、考えを整理するように息を吐いた。
やがて、低く呟く。
「……噂話のようなおとぎの国の扉をか?」
口にした瞬間、半ば自分でも可笑しいと思った。
だが目の前の少女は、真剣な眼差しでこちらを見返している。
その瞳には曇りひとつなく、不気味なまでの確信が宿っていた。
「だが——どうやって探せばいい?
そんなもの、地図にも記録にも残っていないはずだ」
声はあくまで穏やかに。
だが、その裏にある困惑と警戒は隠せなかった。
凛は小さく肩を揺らし、口元に不敵な笑みを浮かべた。
「探し方……ん~~わからないな。
でも、刑事さんなら見つけられると思ってますよ」
声はどこか小馬鹿にするような響きを含んでいる。
「だって刑事さん、自分でも気づいてるんじゃないですか?
もう“向こう”に片足突っ込んでるって」
溝口の胸の奥に、再び冷たいざわめきが走った。
——扉。
——地下。
——自分が探し続けていた“何か”。
凛の言葉は、それらを一つに結びつけるように響いていた。
第153章:記憶の扉
凛の不敵な笑みと挑発めいた声が、病室の空気に影のように広がっていた。
溝口は返す言葉を見つけられず、ただじっと彼女の瞳を見つめる。
胸の奥に、ふと冷たい疑問が芽を落とした。
「……俺は、既にその扉を通ったことがあるのか?」
誰に向けた言葉でもない。
まるで自分の中の空白に投げ込むような、独白だった。
凛は口元を歪めて笑った。
「さあ、どうでしょうね。
でも——刑事さんの目、もう普通の人の目じゃありませんよ」
その声音は、からかいとも警告とも取れる曖昧さを帯びていた。
心臓が一瞬、強く脈打つ。
脳裏に蘇るのは、行方不明だった一年の空白。
気がついた時には病院のベッドにいて、自分の名前すらわからなかった。
残っていたのは人間である感覚と、何かを追い続けているという衝動だけ。
——あの時、俺はどこを歩いていた?
——その“扉”を、すでに通っていたのではないか?
思考が絡まり、背筋に冷たい汗が伝う。
凛はわざとらしく首をかしげ、虚ろな笑みを浮かべた。
「でももしそうなら……刑事さんは、また戻るしかないんじゃないですか?
だって、一度踏み込んだら、もう抜け出せないんですから」
その言葉に、病室の空気がさらに重く沈んでいった。
第154章:問いかけ
しばらくの沈黙を挟み、溝口は小さく頷いた。
「……わかった。出来るだけ努力はしてみよう」
その声音は穏やかだったが、奥には覚悟が滲んでいた。
凛の言葉を、ただの気まぐれや狂言として処理することはできなかった。
むしろ彼自身の空白と重なり、無視できない重みを帯びていた。
だが、ふと心に浮かんだ疑念を抑えきれず、問いかける。
「ところで……君はなぜ、その扉を探したいんだい?
まさか……またそこへ行くつもりなのか?」
言葉の端に、驚きと恐れが混じった。
凛はわずかに口角を上げ、にこやかに笑った。
その笑みは温かさを欠いており、どこか空虚な色をしていた。
「行くつもり、じゃないです。——行かなきゃいけないんです」
一呼吸置き、楽しげに言葉を重ねる。
「“終わらせないと”いけないんです」
その声音はまるで他人事のように軽やかで、だが確実に底知れぬ決意を孕んでいた。
「終わらせる……?」
思わずその言葉を繰り返しながら、溝口は背筋を冷たいものが這うのを感じた。
兄を探しに行くのではなく、終わらせる?
凛のその決意は、希望よりもむしろ破滅の気配を纏っていた。
第155章:不穏な胸中
溝口は思わず問いかけようとしたが、その前に凛が続ける。
「……刑事さん」
声は低く、しかし妙に耳に残る響きだった。
「あなたも帰ってこれたなら、まだ“終わっていない”ってことじゃありません?」
凛は細い指でシーツをなぞりながら、笑った。
その笑みは優しさとはかけ離れた、不気味な無邪気さを帯びている。
「あなたのセンリツ。
まだここに響いてるんですよ」
“旋律”——?
その言葉に、溝口の背筋がぞくりとした。
音楽でも、詩でもない。
彼女の口から洩れたその響きは、むしろ「自分が知らない自分」を示すようで、言葉の意味以上の重さを持っていた。
まるで、自分の空白を知っているかのように。
溝口は息を詰め、凛の眼をまっすぐ見返す。
だがその瞳は虚ろで、そこに映っているのは自身ではなく、
自身の奥に潜む何かのようだった。
第156章:動揺を隠して
(——駄目だ、これ以上は踏み込めない)
心のどこかでそう告げる声がした。
凛の言葉は謎めき、答えを追えば追うほど、底なしの闇に足を踏み入れてしまう気がした。
「……今日はここまでにしよう」
できるだけ穏やかに、何事もないふりをして言葉を落とす。
病室を出る
凛は微笑みを浮かべたまま、何も答えなかった。
ただ、その瞳の奥で何かを知っているような光が、淡く揺れていた。
溝口はそれを直視することなく、病室のドアに手をかけた。
外の廊下に出ると、足元から力が抜けるように重く感じられた。
(……旋律……)
心臓の鼓動だけが耳の奥で鳴り続け、病院の静けさがやけに遠く感じられた。
第157章:扉の気配
病院を出た溝口は、ハンドルに手を置いたまま、しばらくエンジンをかけなかった。
フロントガラスの向こうで秋の陽が傾き、ビルの稜線が刃みたいに空を切っている。
——扉。
凛の不気味な笑みと「終わらせないと」という声音が、耳の奥で鈍く鳴っていた。
意識して深呼吸を三度。ようやくイグニッションを回し、署へ戻る。
1 机の上の地図
自席に着くと、まず机の上を空けた。雑多な案件のファイルを脇へ寄せ、A3の市街地図を二枚広げる。
一本は爆発事故の現場を中心に、周辺の監視カメラの位置、路地の抜け道、地下鉄の出入口、ビルの非常扉を赤いペンで記した。
もう一本は、未解決の失踪・変死情報から拾った地点を年代別に色分けする。政治家の「ミイラ化」現場には黒丸、記憶喪失者の保護地点には青三角、捜索打ち切りの失踪は鉛筆で薄く×印。
印を打つたび、紙の下で見えない何かが線を引きたがっている気配がした。
「まずは、扉の“出方”だ」
独り言を押し殺す。地図の上で、点と点の間に透明な糸が張るのを想像しながら。
2 ファイルを洗う
未解決の内部資料を台車で引っ張り出す。失踪届、実況見分、鑑識の短い所見、どれも途中で「資料終了」の赤いスタンプで途切れている。
記憶喪失の保護例に共通する語を手帳に抜き出した。
・「夜」/「深夜」
・「風が急に止む」
・「音が消えた(周囲の騒音が急に遠のく)」
・「冷たい空気」
・「メタリックな匂い」
・「壁/扉があった気がする」
人は恐怖を盛る。だが、**消える“音”**という表現の繰り返しは、無視できない。
「センリツ、か……」
凛の口から出た“旋律”という単語が胸の裏をかすった。
3 映像を観る
庁内ネットワークから交通・防犯カメラの映像にアクセスする。
爆発事故の前後三時間、現場から半径一キロのカメラを片っ端から再生。倍速にし、異常があれば停止してコマ送り。
二十台目で手が止まった。現場から四百メートル、夜間でも比較的明るい交差点。
画面右上、古い雑居ビルの非常口の鉄扉がフレームの端に映る。
人通りが薄くなる午前一時台、その扉の縁だけが一瞬だけ白く飽和して、次の瞬間には元通り。露出の悪戯かと思い、フレームを行き来させる。
その直後、歩道の端にいた若い男が、顔をしかめて耳を押さえる仕草をした。
——音だ。聞こえないはずの“何か”を耳が拾ったとき、人はまず耳を塞ぐ。
さらに巻き戻す。別の日、同じ扉、同じように縁が滲む瞬間が二度。どちらも風がぴたりと止まるのが街路樹の葉で分かる。雨の日でも、濡れた葉が一拍だけ動きを止める。
「音と、圧」
ペン先で地図のその地点に小さく星印を打った。
4 SNSの底
次はSNS。一般公開の範囲で、検索語を手当たり次第にかけていく。
〈#地下の扉〉〈#小さな地下〉〈#夢が叶う場所〉〈#音が消える角〉〈#風が止む夜〉……
くだらない与太話、創作、加工動画が山ほどヒットする。その中から、地名・時間・具体描写があるものだけ残す。
古い匿名掲示板のスレに、素人くさい長文が引っかかった。
「角を曲がったら、音が死んだ。信号機の電子音が遠くなって、小さく“カン”って鳴って、壁が開いた」
「“カン”……」
金属に何かが触れる、短い打撃。鍵穴に鍵先が当たる音——鍵。
別の短い動画。路地の奥でネオンが規則的に点滅し、投稿者が「なんかヤバい」と笑っている。動画の最後、笑い声が急に遠ざかり、無音の二秒が挟まる。スマホのマイクの自動制御にしては不自然な矩形の沈黙。
投稿位置情報は削除されているが、フレームに写る街路灯の型番と店の袖看板から、凡そ(おおよそ)の区画は割り出せる。地図の赤いペンが二度三度、小さな円を描いた。
複数の点が、歩いて十分圏に密集していく。
5 音の条件
映像の音声波形を抜き出してみる。鑑識ではないから精密なことはできないが、素人でも見える乱れはある。
“扉の縁が飽和”していた時間帯の環境音に、低い脈打つような成分が重なる瞬間がある。
電車が高架を通り過ぎた後の残響にも似ているが、線路は遠い。工事騒音?——夜間工事は記録なし。
“旋律”というほど整ってはいない。だが、一定の周期で膨らんで萎むうねりが、静寂とともに訪れる。
風が止み、ネオンが脈打ち、無音が差し込む——環境のリズムが反転する瞬間に、それは顔を出す。
「音で、開くのか。音に、開くのか」
つぶやきを手帳の端にメモる。自分に向けた疑問は、後で読み返すときに役に立つ。
6 印
映像をさらに漁っていると、路地の壁面に小さな落書きが繰り返し現れるのに気づいた。
涙型の楕円に、横一文字の切れ目。パッと見はペンキの跳ね。だが場所が違っても、比率が同じだ。
通り過ぎる清掃員がその印のあたりでモップをわずかに避ける仕草。無意識なのか、癖なのか。
別の日、別の区画。自販機の脇のコンクリに同じ印。二台先のカメラでも同様。
印の近くでは、例の**“無音の二秒”が高確率で見つかった。
地図に楔のようなマークを打ち、凡そで円を繋ぐと、地下鉄の古い換気塔や廃止された避難階段**とも重なった。
「誰かが、印している。今も」
背筋に氷水を流したような感覚。だが指先は、やっと骨格に触れた手応えで少し温かい。
7 紙の底
最後に、紙の資料へ戻る。
都市計画局から以前入手した下水・共同溝・通信管路の図面。市が公開している範囲は穴だらけだ。それでも、古い層ほど地上の路地と“ずれ”がある。
戦後の区画整理前の曲がりが、今も地下に残っている箇所。
その“ねじれ”の上で、SNSとカメラで拾った無音・印・飽和が重なる。
地図の上に透明シートを重ね、三色のマーカーで塗る。
色が濃くなった交差点がある。見覚えがあった。——爆発現場から北へ二ブロック、雑居ビルの非常口の並びだ。
「ここだな」
声に出してしまった。誰もいない島で、自分の声が小さく跳ね返る。
8 時刻
最後の作業。“現れやすい時刻”を絞る。
映像と書き込みから、無音・飽和・風止まりが出た時間だけを抜き、曜日・気温・湿度(気象庁サイトのローカル記録)をノートに写す。
深夜一時台が突出。次点で午前四時前後。湿度は高め、気温は急降下の夜、風速は0.5〜1.5。
ネオンの点滅が安定しない夜、電圧の微妙な揺らぎが出る日と重なる。
電力会社の公開資料で瞬低(瞬間的電圧低下)の記録を当たり、ぼんやりと一致が見える。
「環境が“揺れる”夜に、口を開ける」
仮説に過ぎない。だが、動くには十分だった。
9 手帳の最後のページ
手帳の最後に、雑な字で殴り書きした。
・地点:爆発現場北二ブロック/雑居ビル裏手非常口並び/換気塔脇の路地
・目印:涙型+横線の落書き/自販機横の同形印
・合図:風が止む/ネオンが脈打つ/耳鳴り or 無音の一拍
・時間:深夜1:10〜1:40/予備4:00前後
・持ち物:懐中電灯(暖色と白色)/耳栓/録音機(低音感度)/粉チョーク(印の上書き確認)/身分証のコピー
・同道:不可(まず単独確認)
・留意:「扉」は固定ではない。音と圧とずれの交点で“出る”。
書き終えると、背もたれに体を沈めた。肩甲骨のあたりがじんと痛い。
時計は日付をまたいでいた。夜勤の若い連中の笑い声が、遠くで少しだけ聞こえる。
その音を聞きながら、ふいに心のどこかが凍りついた。
——戻ってこられるのか。
凛の声が重なる。「帰ってこれたなら、まだ終わっていないでしょう?」
胸の奥で、誰かが小さく舌で歯を鳴らしたような気がした。カン、と。
10 最後の確認
引き出しを開け、薄い布袋に道具を詰める。懐中電灯は二本。予備電池。録音機は試しに回し、指を擦って低音のノイズが拾えるか確認。
耳栓を一度耳に押し当て、外す。何も聴こえない空白に、不安と安堵が同時に流れ込む。
上着の内ポケットに、名刺を十枚入れ、原本の警察手帳は机の鍵付き引き出しへ。コピーだけ持つ。
自分の名前——溝口——という文字を見て、一瞬だけ遠い感覚に襲われる。
名前も、家族も、塗り直した文字だ。けれど今夜必要なのは、塗り直した自分のほうだ。
地図を三つ折りにし、懐に滑り込ませる。
机の上の蛍光灯を消す。廊下に出ると冷たい空気が頬に触れた。
夜の署は、音の密度が薄い。靴音だけがまっすぐ伸びる。
自動ドアを出たところで、風が一度だけ吹き、すぐ止んだ。
——今夜だ。
ポケットの中で、録音機の赤い点が、心臓の鼓動と違うリズムで瞬いた。
都市のどこかで、音が死ぬ角が、口を開けるかもしれない。
溝口はコートの襟を立て、地図に打った印の一つへ向けて歩き出した。
扉は、噂話じゃない。
まだ終わっていないものの入り口だ。
第158章:現場へ
夜の帳が街を覆いはじめたころ、溝口は署を出た。
首元までコートの襟を立て、ポケットの奥で録音機の赤いランプがかすかに点滅しているのを確かめる。
吐く息は白く、冷え込んだ空気が肺の奥まで刺すように沁みた。
地図の指し示す先へ
地図に打った星印のひとつ。爆発現場の北二ブロックにある雑居ビルの裏手。
古びた非常口と、壁際に刻まれた涙型の落書き——。
歩を進めるごとに周囲の雑踏は薄れ、夜の街は急に広さを増したように思えた。
街路灯が一本、また一本と背後に消えていく。
繁華街からほんの数分なのに、まるで人の気配が絶えた別の街に紛れ込んだような静けさがある。
足音だけがアスファルトに吸い込まれ、響きが短く切れる。
その路地へ差し掛かった時だった。
風が止む。
車道を走る車の音、信号機の電子音、遠くの踏切のベル——すべてが一瞬で遠ざかる。
かわりに、耳の奥で低いうねりが膨らんでは萎む。
「……きたか」
唇が乾く。
懐中電灯を点けようとしたが、躊躇して手を止める。
光で追い払うべきか、闇のまま確かめるべきか、判断が揺れた。
ビルの非常口が視界に入る。
鉄扉の縁が、わずかに白く滲んでいるように見えた。
目を凝らすと、壁に刻まれた涙型の印が月明かりに浮かび上がる。
その切れ目から、誰かがこちらを覗いている錯覚を覚える。
心臓が鼓動を早め、指先の感覚が鈍る。
扉の奥から風のような、呼吸のような、旋律にも似た揺らぎが押し寄せてきた。
溝口は一歩、前へ進む。
録音機の赤い光が胸元で瞬き、低音のノイズが不規則に跳ねた。
足下の影が、ほんのわずかに遅れて付いてくる。
——そこに、扉はある。
第159章:扉に触れる
溝口は深呼吸を一度してから、そっと扉に手を伸ばした。
指先が鉄に触れた——はずだった。だが、触感がない。
まるでそこに存在するのは「映像だけ」で、実体は抜け落ちているような、虚ろな感触。
掌を押し当てても同じだ。冷たさも、堅さもない。
ただ、膜を隔てて自分の手が揺れているような違和感だけが残った。
「……触れているようで、触れられない」
思わずつぶやき、手を引く。
扉は変わらずそこにあり、白く滲んだ縁取りだけが微かに脈動している。
溝口は一歩退き、冷静さを取り戻すように周囲を観察した。
まず壁の印。涙型の落書きに懐中電灯を当てると、ペンキの上から何層も塗り重ねられている痕跡が見える。だが新しい層だけは、わずかに発光しているように見えた。
塗料のせいか、あるいは別の……。
録音機を回してみる。
扉の前に立っているときだけ、ノイズが不規則に跳ねた。
耳では感じ取れない低い波が、マイクの奥でうごめいている。
風速計アプリをスマホで起動してみる。風はゼロ。
周囲の木々も、街灯に吊られた旗も、微動だにしない。
まるでこの一角だけが密封されているかのように。
ポケットからチョークを取り出し、扉の縁に印を付けようとした。
だが、チョークは鉄板に触れず、空中で削られて粉になって散った。
溝口は苦い笑みを浮かべ、代わりに地面のアスファルトに丸を描いた。
次にデジカメで数枚撮影。
ファインダー越しに見ると、扉の縁の滲みはさらに濃く写り、黒い影のような筋が一瞬画面を横切った。
再生すると、その筋は記録されていない。
カメラは真実を捉えられなかったか、あるいは人の目にだけ見せるものなのか。
「……やはり、まだ入るべきではない…」
扉の前に立ち尽くしながら、溝口は思う。
今ここで足を踏み入れれば、二度と戻れないかもしれない。
凛の言葉を確かめる前に、証拠を固めることが先だ。
足を引き、地図に今日の記録を赤ペンで追加する。
無音、無風、録音機のノイズ、触れられない扉、発光する印。
それらはまだバラバラの断片だが、必ず「道」に繋がっている。
背を向けて歩き出すと、再び街の喧騒が押し寄せてきた。
信号機の電子音、車のクラクション、人の笑い声。
世界が戻ってきたことに安堵しながらも、心の奥に小さな空洞が残った。
——扉は確かにそこにあった。
だが、開くには「まだ何かが足りない」。
第160章:署に戻って
溝口は、扉の前から離れ、雑踏に紛れると心の奥で安堵と焦燥を同時に抱えながら署へ戻った。
足取りは重い。だが、扉に触れた感覚の「なさ」が、かえって確信を深めてもいた。
自席に戻る前に、地下の資料室に立ち寄った。
今日の調査で得た断片を ファイル化するためだ。
現象:無音、無風、環境の急停止
痕跡:涙型の印、白く滲む扉の縁
物証:録音機のノイズ(保存済み)、写真(影の筋が写らず)
仮説:扉は存在するが、まだ“開く条件”を満たしていない
手帳に殴り書きしたメモを、A4の調査報告用紙に書き直す。
活字にすると現実味が増すはずなのに、どこか「作り話」を書いているような気恥ずかしさもあった。
署内の端末に保存した防犯カメラ映像を再生する。
やはり映像でも扉の縁が白く飽和していた。
それに加えて、街路樹の葉が止まった瞬間をコマ送りで確認すると、影の輪郭までも一瞬だけ凍りついたように動きを失っている。
「環境そのものが……止まっている?」
つぶやきを記録に残す。
続いて、メモしていたSNSの断片をもう一度読み返す。
「音が死んだ」「風が止まった」「カンと鳴った」
バラバラの言葉が、少しずつ今日の体験と重なっていく。
だが同時に、断片を繋ぎ合わせるほど「こちらの世界」が崩れていくような錯覚も強まった。
引き出しを開け、自分の名前が刻まれた警察手帳を見つめる。
——名前、所属、役職。
だがそれらが「塗り直された記憶」であることを、誰よりも自分が知っている。
凛の言葉が蘇る。
「刑事さん、あなたも帰ってこれたならまだ終わっていないでしょう?」
あの言葉が、胸の奥に突き刺さったまま抜けない。
溝口は改めてノートにこう記した。
「次の一歩は、条件を満たす夜を待つこと。
風、音、光。
それらが交差するとき、扉は開く」
そして、その横に小さく書き添えた。
「凛は“終わらせるため”に行こうとしている。
俺は“確かめるため”に行く。
同じ扉でも、理由は違う」
記録を閉じたとき、夜明け前の薄い青が窓の外に広がり始めていた。
ここまで読んで頂きありがとうございます。
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