世界
第114章:世界
サイレンの音が夜を切り裂いていた。
赤と青の光が路地を照らし、パトカーが何台も並んでいる。
消防車の重々しいエンジン音、無線で飛び交う声。
街は騒然とし、ざわめきに包まれていた。
「こちら、確認急げ! 瓦礫の下にまだ人が残ってるぞ!」
「通行止めを広げろ! 近づくな!」
警察官と消防隊員が走り回り、黄色い規制線が張られていく。
周囲に集まった人々は不安げに声を潜め、揺れる炎の光に顔を照らされていた。
焦げた匂いと土埃が立ちこめる。
地面にはところどころ陥没が生じ、下から吹き出したような熱気がまだ漂っていた。
「まるで……地下から何かが……」
誰かが呟く。
しかし、その先の言葉はサイレンの音にかき消された。
夜の街は、理由を知らぬまま不気味な気配に包まれていた。
第115章:発掘されたモノ
サイレンの音が鳴り響く中、消防隊員たちは懸命に瓦礫をどかしていた。
鉄骨を切断する火花、崩れたコンクリートを持ち上げる音。
警察官たちも協力しながら、生存者を探していた。
「急げ! まだ中に人が残っているかもしれない!」
隊長の声が飛び、皆が息を切らしながら作業を続ける。
やがて、最初の“それ”が見つかった。
「……っ!? これは……!」
瓦礫の隙間から引き上げられたのは、人間の形をしている。
だが皮膚は干からび、骨と皮だけになったように痩せ細り、目は深く窪んで空洞だった。
まるで何十年も前に死んだミイラのような姿。
「どういうことだ……? 火災の犠牲者……じゃない……」
若い隊員が言葉を失い、手を震わせた。
次々と瓦礫の下から同じような遺体が掘り出される。
どれもみな一様に干からび、表情は恐怖と苦痛のまま固まっている。
数は一体や二体ではなかった。
「なんだこれは……こんなに……!」
警察官の一人が声を震わせる。
「爆発があったのは確かだ……だが、この死体は……」
誰もが息を呑み、言葉を失った。
ここで何が起きたのか。
ただ一つ分かるのは、ただの爆発や事故では説明できないということだった。
夜の街をサイレンとざわめきが包み込む。
第116章:刑事の眼
現場は混乱の渦中にあった。
サイレン、怒号、瓦礫をどかす金属音。
その中を一人の刑事が駆けつけた。
スーツは土埃で汚れ、額には汗が滲んでいる。
目の奥は鋭く、ただの事故ではないと直感していた。
彼は人員を押しのけ、瓦礫の中心へと歩み寄る。
「……現場の状況は?」
短く問いかける声に、警官が答える。
「瓦礫の下から……普通じゃない遺体が無数に……
まるで干からびたミイラのようで……」
言葉が詰まり、震えが混じる。
刑事は深く息を吸い込み、目を細めた。
「……全部、掘り出せ。まだ何かあるかもしれない」
消防隊員と警察が協力し、鉄骨をどかし、崩れたコンクリートを掘り進めていく。
その作業は過酷で、汗と埃が混じり、息は荒い。
そして——。
「待て! こっちに……!」
隊員の叫びが上がった。
瓦礫の下、かすかに動く影があった。
土埃にまみれ、息も絶え絶えに胸が上下している。
「生存者だ! まだ生きてる!」
掘り出されたその姿に、刑事も思わず目を見張った。
それは黒い外套をまとった少女。
布は裂け、血に濡れ、全身は傷だらけ。
だが確かに、彼女は生きていた。
「こんな……子供が……」
消防隊員が驚愕の声を漏らす。
刑事はその場にしゃがみ込み、泥と血に覆われた少女の顔を見つめた。
「この子は……一体、何を見たんだ……」
黒い外套が、まるで意思を持つかのように微かに震えていた。
刑事は直感した。
この少女こそが、ここで起きた「何か」の中心にいるのではないか…と。
第117章:搬送
「担架を! 早く!」
消防隊員の叫びに応じ、医療班が駆け寄る。
黒い外套を纏ったままの少女の体は瓦礫に削られ、血と泥に覆われていた。
その小さな胸はかすかに上下しており、確かに命の灯火が残っていた。
「脈は……弱いけどある! まだ間に合う!」
救急救命士が声を張り上げ、酸素マスクを取り付ける。
担架に慎重に乗せられた少女は、急ぎ足で救急車へと運ばれていった。
刑事はその後ろ姿をじっと見つめ、唇を強く噛みしめた。
「何が……どうなってるんだ……」
誰にも聞こえないほどの声で呟く。
救急車のドアが閉まり、赤いランプが回転する。
「出発します!」
運転席から叫ぶ声とともに、サイレンが夜を切り裂いた。
街のざわめき、警官たちの指示、消防の怒号が遠ざかっていく。
黒い外套を纏ったまま、少女は意識の彼方で揺れながら——
病院へと搬送されていった。
第118章:消えゆく記憶
夢の中、凛は静かな道を歩いていた。
夕暮れの街角、兄の背中が少し前を歩いている。
振り返ると、あの頃と変わらない優しい笑顔がそこにあった。
「……兄さん……」
伸ばした手は、確かに温かさを感じた。
だが次の瞬間、その姿は霧のように揺らぎ、溶けて消えた。
「兄さん!? 待って……!」
声を張り上げても、返事はない。
代わりに母の声が遠くから聞こえた。
「凛、こっちへ——」
その声も、泡のように弾けて消える。
案内人の不器用な笑み、サラの強い眼差し、巫女の祈る姿。
次々に現れては、瞬時に崩れていった。
まるで紙片を炎に投げ込んだように、すべてが白く燃え尽きていく。
「やめて……お願い……消えないで……!」
凛は涙を流しながらも、止めることができなかった。
掴もうとした手は虚空を切り、記憶は音もなく崩れ落ちていく。
——残ったのは。
血に濡れた刃の感触。
鎖の軋む重み。
そして、胸の奥底に焼きついた「許せない」という憎しみ。
兄をあんな姿にしたものへの怒りだけが、消えずに残っていた。
夢の中で嗚咽しながら、凛はそれでも立ち上がった。
心のほとんどを失っても——戦いの術と復讐心だけは、確かにそこにあった。
第119章:二週間後
白い壁に囲まれた静かな病室。
窓から差し込む午後の光がベッドを照らしている。
機械の規則正しい電子音だけが、かすかに響いていた。
凛はベッドに座り、膝にかけられた毛布を握っていた。
あの日の傷はすっかり癒えたわけではないが、命に別状はなかった。
だが彼女の目は、以前のような怯えや戸惑いではなく、鋭い光を宿していた。
看護師が声をかけても、わずかに頷くだけ。
言葉は短く、感情を抑えたような声音になっていた。
「……ありがとうございます」
そう呟いた声は冷ややかで、どこか突き放すようでもあった。
——2週間前。
彼女は崩れ落ちるように担架に運ばれてきた。
今の凛は、同じ人物とは思えないほどに変わっていた。
記憶の大部分を失った空白。
しかし残ったのは、戦いの術と、断ち切れない憎しみ。
そのせいか、彼女の眼差しは地上の誰も知らない「深淵」を覗いているように冷たかった。
刑事は病室の扉越しに、その姿を見ていた。
あの鋭い眼光を見ていると、胸の奥に説明のつかない痛みが走った。
「……この子は、一体……」
呟く刑事の言葉は誰にも届かず、
凛はただ、窓の外を見つめ続けていた。
第120章:すれ違う会話
病室のドアが軽く叩かれた。
看護師が顔を出し、「面会の方です」と告げる。
入ってきたのは、高校生だった頃の友人だった。
制服姿ではなく私服で、どこか気まずそうに花束を抱えている。
「……凛、久しぶり」
「……ああ」
凛は短く答えた。
友人は椅子を引き、花瓶に花を差しながら笑顔を作った。
「学校の子たちも、心配してたよ。……もうすぐ進級だけど、どうする?」
「……わからない」
返事は冷たく、声に温度はなかった。
友人は言葉を探し、何とか続けようとする。
「ほら、前に一緒に行った映画の話……覚えてる?」
凛は友人の目を見つめたまま、わずかに首を振った。
「……思い出せない」
会話は噛み合わず、空気が重く沈む。
友人の笑顔はぎこちなくなり、やがて耐え切れずに立ち上がった。
「……また来るね」
凛は何も答えず、ただ窓の外を見続けた。
第121章:問い
病院の廊下。
友人が肩を落としながら帰ろうとしたその時、低い声がかかった。
「失礼、少しいいかい?」
黒いコートを羽織った刑事が立っていた。
鋭い眼光に射抜かれ、凜の友人は思わず足を止めた。
「君、さっきあの病室に行っていたみたいだね。……凜さんの友人かい?」
「……はい。あの、何か……?」
刑事は真剣な表情で問いかける。
「彼女は、以前と同じ様子だったかい?」
「記憶喪失みたいな症状だと聞いてはいたのですが…」
凛の友人はしばらく黙り込み、やがて唇を震わせた。
「記憶喪失というか……
まるで、人が変わったみたいで……。
昔のことを話しても、まったく興味も無いようで……目も、怖くて……」
刑事の目が細められる。
その言葉は、彼自身が胸の奥で感じていた“既視感”と重なっていた。
「……そうか」
「ありがとう」
低く答えると、刑事は凜の友人を見送った。
その背中を見ながら、刑事の中に拭えない疑問が残る。
——なぜ、自分はあの少女に惹かれるのか。
だが刑事の記憶に、答えはなかった。
第122章:刑事の調査
夜。
机の上には分厚いファイルと数枚のコピー用紙が散らばっていた。
刑事は煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を吐きながら書類をめくっていく。
「……凛、か」
彼が気にしていたのは、あの瓦礫の下から救い出された黒い外套の少女。
なぜ自分の目を離せないのか、その理由はわからない。
ただ、その存在に強烈な引っかかりを覚えていた。
ー家族の記録
調べを進めるうち、凛の成り立ちが浮かび上がる。
幼い頃に父親と死別。
父親は交通事故で命を落とし、母親はその直後に行方不明。
残された兄妹は児童養護施設へ。
兄が10歳、凛はわずか5歳の時だった。
古い記録の写真には、無邪気に笑う兄と、その後ろに隠れるように立つ幼い凛の姿が残っていた。
刑事は写真に指を這わせながら、小さく息を吐いた。
「……こんなに小さくして、か」
ー兄妹の暮らし
さらに数年分の記録を追う。
凛が中学を卒業すると同時に、兄と共に施設を出た。
生活は決して楽ではなかったが、二人で小さなアパートを借り、互いに支え合いながら暮らしていた。
近隣住民の証言も残っていた。
「仲の良い兄妹でしたよ。お兄さんは妹さんを大事にしてて……」
刑事はメモを取る手を止め、無意識に唇を噛んだ。
記憶の奥底で何かが疼く。
自分は、この光景を知っている——?
だが今、凛はその兄を失い、記憶の多くを欠いた状態で病院に横たわっている。
そして自分は刑事でありながら、なぜか彼女に「既視感」を抱いている。
「……俺は、何を忘れている……?」
書類を閉じ、刑事は窓の外の闇を見つめた。
第123章:初対面
次の日、刑事は面会時間開始と同時に凜のいる病院に向かった。
病院の廊下は静かで、消毒液の匂いが漂っていた。
刑事はゆっくりと歩を進め、凛の病室の前に立つ。
ドアの横には制服警官が直立しており、目が合うと軽く会釈をしてきた。
「ご苦労さま」
刑事も穏やかに返し、ノックをして静かにドアを開ける。
白い光に包まれた病室。
ベッドの上で凛が外を見ていたが、音に気づいて視線を向けた。
その瞳は虚ろさを残しながらも、どこか鋭く光っていた。
刑事はベッドの脇まで歩み寄り、声を落として問いかけた。
「身体の具合はどうだい?」
凛は小さく頷く。
「……大丈夫」
短い言葉。
その声音には、幼さよりも冷たさが滲んでいた。
「自分は稲葉署の刑事で、溝口って者なんだが…」
刑事は胸ポケットから名刺を取り出し、机の上にそっと置く。
「先日の爆発現場で君を保護した時に現場にいたんだ。
少しだけ、話を聞かせてくれるかい?」
凛は外套を膝に掛けたまま、溝口をじっと見つめていた。
沈黙が数秒流れ、やがて小さく息を吐いた。
「……覚えてることは、あまりない」
その言葉は淡々としていたが、瞳の奥には何か言葉にできないものが揺れていた。
溝口はその表情を見逃さず、心の奥にひとつの疑問が芽生える。
——この少女は、何を抱えている?
第124章:沈黙の中で
病室には静かな時間が流れていた。
溝口が問いかけた後も、凛は膝にかけた黒い外套をじっと見つめたまま、ほとんど口を開かなかった。
その無言が続く中、溝口の脳裏に、ここへ来る前に歩いた場所と聞き込みの記憶が蘇る。
ーかつてのアパート
凛と兄が二人で暮らしていた小さなアパート。
古びた外階段、鉄が錆びついた手すり。
そこで近隣の住人から聞いた言葉が甦る。
「凛ちゃん? 静かで礼儀正しい子だったよ。
お兄さんと二人で越してきたのは、ちょうど十五の頃だな。
ずっと仲が良くて、夕飯の買い物もいつも一緒にしてた」
住人の目には、“どこにでもいる普通の子”として映っていた。
ースーパーでの証言
次に思い出したのは、凛と兄がよく利用していた近所のスーパー。
買い物袋を提げて歩く兄と、その横を並んで歩く小柄な妹。
店員たちが語った証言は鮮明だった。
「二人でよく来てましたよ。お兄さんは控えめだけど頼りになる感じで、妹さんは後ろからついていってて……なんだか微笑ましかった」
しかし、別の店員は声を落として続けた。
「ただ、お兄さんが失踪してからは……様子が変でした。
目の焦点が合わないようで、声をかけても返事が遅くて……
どこか怯えているように見えました。
まぁ、そりゃお兄さんが失踪してしまったんだから、
そうもなるんでしょう けど」
ー今、目の前の少女
溝口はふと視線を上げ、病室で沈黙を守る凛を見つめた。
あの時住人や店員が語った「大人しく、礼儀正しい少女」と、
今目の前にいる「鋭い眼光で言葉を選び、冷たさをまとった少女」。
——確かにまるで別人だ。
一体、行方不明だった一年の間に何が起きたのか。
溝口は心の奥で重く問いを繰り返した。
だが、答えをくれるはずの本人は、窓の外に視線を逸らしたまま、黙り続けていた。
第125章:静かな引き際
沈黙はまだ続いていた。
窓の外に視線を逸らしたままの凛は、何を思っているのか分からない。
溝口は問いかけを重ねようとしたが、喉元で言葉が止まった。
——無理に引き出すことじゃない。
——この少女には時間が必要だ。
そう思い直した。
溝口は椅子から腰を上げ、柔らかい声で言った。
「今日はここまでにしよう。……無理に思い出そうとしなくてもいい。
時間がかかることもあるからな」
凛は振り返らず、ただ小さく頷いたように見えた。
それが同意なのか、拒絶なのかは分からない。
溝口は机の上の名刺を指先で軽く叩き、
「何か思い出したら、いつでも呼んでくれ」
とだけ残して病室を後にした。
廊下に出ると、制服警官が直立不動で控えていた。
溝口は軽く会釈を返し、ポケットに手を突っ込んだまま歩き出す。
——あの沈黙の奥に、確かに何かがある。
——だが今は、その扉をこじ開けるべきではない。
彼の中で疑念は膨らむ一方だった。
しかし同時に、凛の鋭い眼光が頭から離れなかった。
「……時間を待つしかない、か」
溝口は小さく呟き、夜の気配が漂い始める病院の外へと出ていった。
第126章:兄の足跡
病院を出た溝口は、その足で署にある資料室へと向かった。
蛍光灯の光が冷たく反射する中、彼は過去の失踪記録を引っ張り出す。
そこに記されていたのは——凛の兄、「秋月航アキヅキ コウ」の名前。
ー失踪の記録
秋月航が最後に目撃されたのは、凛と同じアパートの近隣住人による証言。
「夜遅くに出かけていくのを見た。だが帰ってこなかった」
時刻は不明瞭、行き先も分からない。
警察は「家出または失踪」として処理したが、手がかりは一切なく、半年で捜査は打ち切られていた。
溝口はページを捲りながら眉をひそめる。
「半年……そして凛が姿を消すのは、その後だ」
ー周囲の証言
彼は再び、自ら足を運び当時の証言者たちを訪ね歩いた。
アパートの隣人は言う。
「秋月くんは真面目な子だったよ。
昼間はアルバイトに出て、妹さんの世話もしてた。
……でも、いなくなる少し前は妙だったな。
よく夜中に出ていっては、朝方戻ることが増えてた」
近所の古い雑貨屋の主人も思い出す。
「航くん、時々見たことのない紙切れを持ってきて、
何か探してるようだった。
何を探してたのかは、俺にもわからん。だが……
あの目つきは普通じゃなかったな」
溝口はその言葉を手帳に書き留め、深く考え込んだ。
航はただ失踪したのではない。
“何か”に導かれ、あるいは追い立てられるように消えていったのだ。
ー推察
「航が消えた半年後、凛が後を追うように姿を消した……。
そして一年後、彼女だけが戻ってきた」
その因果関係は偶然とは思えなかった。
溝口は煙草に火をつけ、夜の街の暗闇を見やった。
「——秋月航……お前は一体、どこへ行った?」
煙の向こうで、忘れてしまった記憶がまだくすぶり続けているようだった。
第127章:塗り直された記憶
夜、溝口は署の資料室にひとり腰を下ろしていた。
蛍光灯の光が冷たく紙を照らす。手元の書類に視線を落としながらも、意識は別の場所へと沈んでいく。
——3年前、自分は唐突に消息を絶った。
家族も同僚も理由を知らず、1年間の空白が続いた。
戻ってきたのは、それから約1年後のこと。
保護された自分は、名前も、妻の顔も、ほとんどの記憶を失っていた。
家に戻ったとき
埃を被った自宅の部屋。
写真立てに笑う妻の姿。
机の引き出しには名刺、表彰状。
「溝口は刑事である」と証明する痕跡がいくつも残されていた。
同僚は「お前は真面目な刑事だった」と語り
上司は「また戻ってこい」と背を押した。
だがそれは“思い出した”のではなく、“塗り直した”に過ぎなかった。
自分はその証言と記録を手掛かりに、かろうじて「溝口」という人格を再構築したのだ。
唯一残っていた感覚
——自分は刑事だ。
——そして“誰か”か、“何か”を探している。
その焦燥感だけは消えずに残っていた。
それが自分を引き戻し、今の立場に繋がっている。
ー凛との重なり
病室で沈黙を守っていた少女、秋月凛。
記憶を欠いたまま、鋭い眼差しだけを残していた。
その姿は、かつての自分を鏡に映したようだった。
「……あの子は、まるで昔の俺みたいだ」
凛は兄を追い、そして失った。
自分は何を追っていたのか、まだ分からない。
だが、彼女の沈黙と鋭い視線の奥に、自分と同じ空白の闇が広がっているのを溝口は感じていた。
煙草の火をもみ消し、手帳を閉じる。
「秋月凛……君が見たものを知れば、俺も……」
呟きは夜の資料室に吸い込まれ、誰にも届くことはなかった。
第128章:残された声
翌朝、溝口は秋月航の足跡を追い、彼が働いていたというアルバイト先を訪ねた。
街の外れにある倉庫兼店舗。扉を押し開けると、古びた金属の匂いと段ボールの埃が漂ってきた。
「警察の者だ。少し話を伺いたい」
溝口が手帳を示すと、店主は驚いたように目を丸くし、それから苦々しい顔で頷いた。
「秋月航か。ああ、よく働いてくれた子だったよ。真面目でな。
だが……最後の数か月は、妙に落ち着きがなくなってな。
夜勤を代わってくれとよく言うようになった」
記録はすでに処分され、残っているのは人々の記憶だけ。
だが、その記憶の断片はどれも同じ方向を示していた。
ー最後の夜
同僚の一人は、こう証言した。
「最後に見たのは夜勤の配送に出る時でした。
……でも、戻ってこなかった。
警察も捜索したけど、結局何も出なかったんです」
その日を境に、航の行方は完全に途絶えた。
彼がどこへ向かい、何を探していたのか——今となっては確かめる術はない。
溝口は深く息を吐いた。
——彼は“導かれるように”して消えた。
ー推察
「秋月航が消え、その半年後に妹の凛も消えた。
そして、一年後に妹だけが戻ってきた……」
これはただの家出や事故ではない。
何か、もっと別の“理”が絡んでいる。
喉の奥に苦い感覚が広がる。
それは、かつて自分が記憶を失い、戻ってきたあの時と同じ匂いだった。
「……やはり、俺と同じか」
溝口は空を仰ぎ、かすかな デジャヴ を振り払おうと煙草に火をつけた。
煙の奥に、まだ言葉にできない真実の影が見え隠れしていた。
第129章:医師の証言
午後、溝口は凛が搬送された病院を再び訪れた。
受付で事情を告げると、案内されたのは白衣の年配医師の執務室だった。
机の上にはカルテと数枚の検査結果が積まれている。
「秋月凛さんの件ですね。……ええ、あの日、私が担当しました」
医師は眼鏡を指で直しながら、当時の状況を語り始めた。
「全身に外傷があり、特に片腕と片足の損傷が酷かった。
ですが、奇妙なことに致命的な内臓損傷は見られなかった。
衰弱は激しかったが、生命力そのものはしぶとい……
そんな印象を受けました」
溝口は静かに頷き、さらに尋ねる。
「他に気づいたことは?」
医師は少し言葉を選ぶように沈黙し、それから口を開いた。
「……いや、医学的には説明がつかないものですがね。
妙なことがありました」
ー鎖の痕跡
医師はカルテの端を指で叩いた。
「右腕に、鎖のように巻き付く模様があったんです。
刺青なのか痣なのか……傷ではなかった。皮膚に刻まれているようで、
しかし異常な発赤もない」
溝口の眉がわずかに動く。
医師はさらに続けた。
「それだけではありません。
腰から左の大腿部にかけても同じような痕が見られました。
刀のような形、とでも言えばいいでしょうか。
まるで皮膚の下に描かれた紋様のようでした」
ー医師の言葉
医師は椅子に背を預け、小さく笑った。
「いや、若い子の間でそういう刺青もあるのかと思ったんです。
……珍しいなとね。もっとも、
最近の子なら特段珍しくもないのかもしれませんが」
そして眼鏡を外し、真剣な表情で付け加えた。
「ですが——医学的に説明はできません。
痣でも、外傷でも、刺青でもない……
あれは“刻まれている”としか言えませんでした」
溝口は無言でその言葉を反芻した。
鎖。刀。
それは凛が病室で沈黙を守っていた時、外套の下に隠していたものと一致する気がしてならなかった。
「……なるほど」
低く呟き、溝口は席を立った。
医師は去っていく背中に、まだ疑念を残したような視線を送っていた。
第130章:兄の影
溝口はその後、凜のいる病室に向かった。
病室のドアを静かに開けると、窓際に座った凛が振り返った。
彼女の表情は変わらず硬く、眼差しは冷ややかだったが、以前よりも血色は戻っているように見えた。
「具合はどうだい?」
溝口は穏やかな声をかける。
凛は視線を逸らし、小さく答えた。
「……大丈夫」
返事は簡素で、感情を抑え込んでいるようだった。
それでも、溝口は少しだけ安堵する。
椅子を引き寄せ、腰を下ろすと、声を低めた。
「君には、もう散々質問があったんだろうな。……だから同じことを聞くのは気が引けるんだが」
そこで、少し間を置き、真っ直ぐ彼女の目を見た。
「——君の兄、秋月航についてだ。失踪する少し前は、どんな様子だった?」
凛の肩がわずかに強張った。
彼女の眼差しが鋭さを増す。
「何か普段と違うことはなかったか? 言葉や態度に変化は?」
声は柔らかく、しかしその奥には刑事としての確信が滲んでいた。
彼女の兄の失踪が、今もなお影を落としていることを、溝口は直感していた。
第131章:記憶の影
沈黙。
病室の空気が、急に重くなる。
凛は視線を落とし、毛布の端をぎゅっと握りしめた。
その指先に力が入る。
やがて、低く、吐き捨てるように言った。
「……覚えていない」
そう答えた瞬間、凛の胸は痛みで締めつけられるように震えていた。
本当に覚えていないのか。
それとも、思い出してはいけないのか。
頭の奥に、ぼんやりとした兄の姿が浮かんでくる。
——夜の街角で、何かを探すように立ち尽くしていた背中。
——疲れた顔をして、笑ってごまかした表情。
だがその映像はすぐに砂のように崩れ、闇に溶けてしまう。
思い出せない……。
どんなに手を伸ばしても、指先からすり抜けていく。
記憶をたどろうとするたび、胸の奥に恐怖が走り、強烈な拒絶の壁が立ちふさがった。
だから凛は、嘘のように冷たく言った。
「覚えていない」と。
それが自分を守るための唯一の答えだと、本能が告げていた。
溝口の視線がまだこちらに注がれているのを感じながら、凛は窓の外へと顔を向けた。
青白い空の光だけが、心の奥の暗闇をかすかに照らしていた。
第132章:幼き日の記憶
病室を出た溝口は、深い息を吐いた。
——彼女からは、これ以上は引き出せない。
そう判断した彼は、足を次の調査先へ向けた。
車を走らせた先は、秋月航と凛が幼い頃に暮らしていた児童養護施設だった。
古びた門の前に立ち、溝口は一瞬ためらったが、すぐに名刺を片手に足を踏み入れた。
ー職員の証言
応対に出てきたのは、年配の女性職員だった。
名刺を受け取ると、彼女は記憶を探るように目を細める。
「秋月……ああ、いましたよ。
お兄ちゃんの航くんと、妹の凛ちゃん。
二人とも小さな頃にここへ来ました。
お父さんが事故で亡くなり、
その後お母さんも行方が分からなくなってしまってね。
残された兄妹を受け入れることになったんです」
溝口は黙って頷き、メモを取り続けた。
「航くんは面倒見の良い子で、妹を守るようにしていましたよ。
凛ちゃんは少しおとなしかったけれど、
お兄ちゃんの後ろにぴったりとくっついていてね。
あの子にとって航くんは、本当に世界そのもののようでした」
ー航の様子
溝口はさらに尋ねた。
「航くんは、どんな子でしたか? 特に印象に残っていることは」
女性はしばし考え込み、記憶を手繰るように言った。
「真面目で優しい子でしたよ。けれど時々……
外をじっと見ていることがあました。
子どもにしては妙に遠くを見ているような目で。
何かを探しているのか、待っているのか……
そういう姿が気にかかることはありましたね」
ー溝口の胸の内
施設を後にしながら、溝口の胸は重く沈んだ。
——幼い頃から、航には“遠くを見つめる癖”があった。
——そして凛は、そんな兄を唯一の拠り所にしていた。
今の凛が、あの鋭い眼差しで沈黙しているのは偶然ではない。
兄を追うようにして消え、そして一人で戻ってきたのだ。
車に戻り、ハンドルを握る手に力を込める。
「……やはり、この兄妹には“何か”がある」
その“何か”は、自分がかつて味わった記憶の空白とも繋がっている気がしてならなかった。
第133章:囁き
翌日。
溝口は再び病院を訪れ、凛の病室の前に立った。
廊下は静かで、人の気配はほとんどない。
ドアに手を伸ばしたとき、ふと気づく。
——ドアが、わずかに開いていた。
ほんの隙間から、病室の中が見える。
溝口は声をかけるのをやめ、無意識に足を止めた。
ー凛の奇妙な行動
そこにいた凛は、ベッドに腰を下ろし、右腕をじっと見つめていた。
まるで誰かと会話をしているように、唇が小さく動いている。
声は低く、ほとんど聞き取れない。
溝口は耳を澄ませた。
だが断片的な囁きは壁に吸い込まれ、意味を結ばない。
ただ、その表情だけは見えた。
目を細め、時に首を傾げ、まるで返事を聞いているかのように。
やがて凛の唇が止まり、静寂が訪れた。
不気味な笑み
次の瞬間、凛は右腕を軽く撫で、かすかに肩を震わせた。
「……アハハ」
乾いた笑いが漏れ、口角が吊り上がる。
病室の光に照らされたその横顔は、不気味なほど冷たい笑みを浮かべていた。
普段の沈黙や無表情とは異なる、どこか狂気を孕んだ表情だった。
溝口は息を呑み、ドアの隙間から目を逸らした。
——右腕に語りかけていた?
——そして、あの笑み。
昨日、医師が言った「鎖のような痕」「刀のような紋様」の言葉が、頭の中で重なった。
胸の奥で、不安と既視感がせめぎ合う。
あれは本当にただの“高校生の少女”なのか。
それとも、自分と同じく——いや、それ以上に“何か”を抱えて戻ってきた存在なのか。
溝口はドアから静かに離れ、深く息を吐いた。
これ以上踏み込めば、取り返しがつかないものに触れてしまう気がした。
第134章:覚悟
廊下を離れた溝口は、無意識に足をロビーへと運んでいた。
明るいガラス窓から差し込む光。
自販機の前で立ち止まり、硬貨を投じてコーヒーの缶を取り出す。
プルタブを開けると、ほのかな苦みの匂いが立ち上った。
一口飲み込み、深く息を吐く。
冷たい液体が喉を流れ落ちるのに合わせて、張り詰めた胸の鼓動がわずかに落ち着いていく。
だが、すぐにあの光景が脳裏に浮かぶ。
——右腕に語りかける凛の姿。
——最後に浮かべた、不気味な笑み。
缶を握る手に力がこもった。
彼女は普通の少女じゃない。
そう認めざるを得ない。
それでも、向き合わなければならない。
刑事としてではなく、自分の“過去の空白”と重なる存在として。
コーヒーを飲み干し、溝口は缶をゴミ箱に投げ入れた。
乾いた音が鳴り、覚悟が固まる。
ー病室へ
再び廊下を進み、今度はためらわずに病室のドアをノックする。
「秋月さん、入っていいかい?」
ドアを開けると、凛はベッドの上でこちらを見た。
さっきの不気味な笑みなどなかったかのように、無表情で。
溝口はゆっくり歩み寄り、柔らかな声で言葉をかけた。
「おはよう。体調はだいぶ良くなってきてるみたいだね」
凛はほんの一瞬だけ視線を揺らし、短く答えた。
「……まあ」
その返答に、先ほど見た狂気が幻だったのかどうか、溝口自身も一瞬わからなくなった。
だが、彼の心には確かに刻まれていた。
——あの笑みは、現実だった。
第135章:ささやかな会話
沈黙が落ちそうになった空気を、溝口が先に破った。
「病院って、やっぱり退屈だろう? 本なんか読むのは好きかい?」
凛は少しだけ視線を動かし、窓辺の小さな棚を見た。そこには、病院のボランティアが置いていった古い文庫本が数冊並んでいる。
「……あまり読まない」
「そうか。俺は逆に、こういう時にしか読まないんだよ。前は推理小説を無理に読んで、頭が痛くなったこともあったけどな」
溝口は苦笑し、肩を竦めてみせた。
凛は反応しなかったが、わずかに目の端が揺れた。
「コーヒーは飲めるか? あのロビーの自販機のやつ、やけに苦いけど、意外と悪くないんだ」
「……苦いのは好きじゃない」
「そうか。じゃあ甘いのかな? 俺も若い頃はそうだったよ。缶コーヒーに砂糖を足して飲んだりしてな」
ほんの些細なやりとり。
事件にも記憶にも触れず、ただ時間を埋めるための会話。
凛はまだ多くを語らない。
だが、その冷たい眼差しの奥に、わずかに人間らしい揺らぎが戻ってきているように、溝口には思えた。
第136章:小さな声
「最近はどうだい?何か、ん~例えば、楽しい事とか」
「……別に」
短い返事。
それでも、少しずつ世間話を重ねていくうちに、病室の空気はわずかに和らいでいた。
溝口は窓の外をちらりと見て、肩を竦めた。
「そういえば、あの爆発事故……
もうメディアじゃほとんど報道されなくなったよ。
一時は大騒ぎだったが、今じゃ別のニュースばかりだ。
……平和なもんだな」
自嘲気味に笑ってみせる。
凛は黙ったまま、表情を変えなかった。
溝口はしばしの沈黙のあと、柔らかく声をかけた。
「俺に出来る事とか、何か欲しいものはあるか?
本でも、甘い飲み物でも……遠慮なく言ってくれ」
凛は首を横に振る。
その仕草は簡素で、言葉を発することすら避けるようだった。
溝口は深い溜息が出そうになるのを堪えた。
「そうか。ありがとう。
じゃあ、今日はこのへんで帰るよ」
溝口は椅子から立ち上がり、ドアの方へ歩く。
「また明日——」
言いかけたその時。
背中に、小さな声が届いた。
「……」
かすかな呟き。
ほとんど聞き取れない、消え入りそうな言葉。
溝口は振り返る。
「……今、なんて?」
凛は窓の外を見たまま沈黙していた。
しかし、次の瞬間、再び小さく唇が動く。
「……リ……ル……アンダーグラ……」
途切れ途切れの声。
かろうじて言葉の断片だけが耳に届く。
——リトル……アンダーグラウンド?
溝口の眉が深く潜む。
その響きは、意味も正体も掴めない。
だが、胸の奥に奇妙な既視感が走った。
彼女の視線はまだ外を向いたまま、感情を失ったように揺れていた。
まるで、その言葉は彼女自身ではなく、別の“何か”が口を通して囁いたかのように。
溝口は呼吸を整え、小さく「……また来る」とだけ告げて病室を後にした。
廊下に出ると、心臓の鼓動が異様に速くなっているのに気づく。
——リトルアンダーグラウンド。
その言葉が、耳の奥でいつまでも反響していた。
第137章:まことしやかな噂
署に戻った溝口は、自分のデスクに腰を下ろすとすぐにパソコンを立ち上げた。
凛が口にした、あの奇妙な言葉——「リトルアンダーグラウンド」。
頭から離れず、指は無意識にキーボードを叩いていた。
検索窓に文字を入力し、エンターを押す。
ーネットの断片
結果は拍子抜けするほど少なかった。
学術的な記録も、新聞記事もない。
代わりに、SNSや匿名掲示板の片隅に、断片的な書き込みが見つかるだけだった。
「リトルアンダーグラウンドって知ってる? 夢が叶う場所らしい」
「地下の華やかな街に行ける……って、ただの都市伝説だろw」
「消えた人間はそこで暮らしてるって聞いたけど」
掴みどころのない話ばかり。
噂は「夢が叶う場所」「華やかな街」と、むしろ幻想的に語られていた。
ー溝口の直感
モニターを見つめながら、溝口は眉をひそめる。
——ただの噂話で片付けられるものなのか?
凛が呟いた時のあの表情を思い出す。
あれは幻ではなかった。
「……夢が叶う場所、ね」
低く呟く。
ネットの書き込みは笑い話のようだが、胸の奥にざらついた違和感が広がっていた。
それは、3年前に自分が“空白”を経験した時と同じ感覚。
記憶の奥で、形を持たない何かがうごめいているような。
溝口は画面を閉じ、深く息を吐いた。
「……調べる価値はある」
第138章:未解決の闇
深夜の署内。
溝口は照明を落とした資料室に足を踏み入れた。
棚に眠る分厚いファイルの山から、未解決事件の綴りを次々と引き出し、机の上に広げていく。
「リトルアンダーグラウンド」。
その言葉の手がかりが、どこかに潜んでいるはずだ。
ー未解決ファイル
最初に開いたのは十数年前の失踪事件。
若い女性が忽然と姿を消し、捜索は長期にわたったが発見には至らなかった。
結局「自発的失踪」と処理され、資料はそこで打ち切られていた。
次に開いたのは不審死の記録。
老人が自宅で急死していたが、外傷はなく、臓器も正常。
ただ、目は虚ろに見開かれ、苦悶の痕跡もなく亡くなっていた。
心筋梗塞として処理されていた。
だが、その中に混じって、明らかに異質なファイルが目を引いた。
ー奇妙な変死体
——ある有力政治家が、会合に向かう直前に突然倒れ、そのまま絶命。
発見時の遺体は、まるで長い年月を経たかのように干からび、皮膚は茶色く縮み、ミイラのような状態になっていた。
死亡直前まで健康診断で異常はなかったという。
捜査は混乱を極めたが、原因不明のまま資料は封じられ、未解決のまま終結していた。
さらに別のファイルには、こう記されていた。
——「記憶喪失となり発見された者、しかし言葉を失い、狂人のように意味不明の行動を繰り返す」
——「元の生活に戻ることはできず、精神病院に収容」
まるで人の“核”そのものが抜き取られたかのような症例。
溝口は次々とファイルを繰ったが、どれも途中で途切れていた。
「了」——そうスタンプが押されているだけ。
——掘り返すな、という意思。
まるで、何者かが真実を隠すように。
溝口は椅子にもたれ、目を閉じた。
凛の言葉、「リトルアンダーグラウンド」。
そして、奇妙な変死や記憶喪失の症例。
点と点がまだ繋がらない。
だが、すべてが同じ深い闇に根を持っていることだけは確かだった。
第139章:自分の記録
ファイルを繰る手が、不意に止まった。
そこに挟まっていたのは——「行方不明者・溝口ミゾグチ 護マモル」に関する記録。
自分自身の名前を見つけた瞬間、心臓が大きく跳ねた。
ページを開く。
記録は三年前のもので、見出しには「消息不明」とある。
ー発見時の記録
「溝口刑事、三年前の秋に突然消息を絶つ。
私物はそのまま残され、失踪の理由は不明。
約一年後、管内の山中で発見・保護」
そこまでは、これまで耳にしてきた話と同じだった。
しかし、続く記述は自分に伝えられていた内容とは異なっていた。
「発見時、極度の衰弱状態。
眼はギョロギョロと泳ぎ、発狂状態に近い様子。
意味不明の言葉を叫び、暴れ続ける。
数時間後に昏睡、その後、目覚めて以降は失語的となり、記憶も欠落」
溝口はページを握る手に汗がにじむのを感じた。
——狂人のように?
——俺が?
自分の記憶には存在しない一日。
いや、丸ごと消された一年。
ー奇妙な注釈
さらに別のページには、震えた文字でこう走り書きされていた。
「“地下”という言葉を繰り返す。
‘リトル’と断片的に発し、‘‘記憶の記録‘‘と叫ぶ。
その後すぐ忘れたように振る舞うが、強い強迫性が残っている可能性」
呼吸が荒くなる。
——地下。
——リトル。
凛が呟いた「リトルアンダーグラウンド」と同じだ。
ファイルを閉じても、頭の中に走り書きの文字が焼きついて離れない。
自分はあの時、本当に狂っていたのか。
あるいは“何か”に触れて壊されたのか。
「記憶の記録とは……いったい…」
暗い資料室の空気が、ひどく冷たく感じられた。
ここまで読んで頂きありがとうございます。
続きも是非読んで見てください!




