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里香

第107章 里香



里に戻った三人を迎えたのは、張りつめた空気ではなく、ひどく静かな安堵だった。


だが、その静けさの中で、真っ先に異変に気づいたのは凛だった。


「……サラ」


振り返ったサラの顔色は、はっきりと悪い。

黒弦の剣を杖のように床に突き、立ってはいるが、呼吸が浅い。


「先に、手当て」


凛は有無を言わせぬ調子で言い、治療の間へとサラを連れていく。

溝口もすぐに察し、黙って手伝った。


巫女が使っていた小さな治療の間。

古い棚、乾燥させた薬草、布と水。

必要最低限だが、里では最も整った場所だ。


サラが腰を下ろした途端、肩から胸にかけての包帯が赤く滲んでいるのが、はっきりと見えた。


「……ほら」


凛は短く息を吸う。


「全然、擦り傷じゃないじゃないですか」


サラは片眉を上げて、苦笑する。


「大げさだ。

 この程度、昔なら笑って酒が飲めた」


「昔の話をされても困ります」


凛はきっぱり言い、手早く包帯を解く。

裂けた傷、深く食い込んだ打撲、無理に動いたせいで広がった内出血。


溝口も思わず声を低くした。


「……相当、無茶してる」


「無茶しなければ、あの場は凌げなかっただろう?」


サラは平然としているが、声の端がわずかに揺れる。


凛は返事をせず、薬草をすり潰す。

水を加え、布に含ませ、サラの傷へと当てる。


「……っ」


サラの喉が小さく鳴った。


「ほら、痛い」


「……気のせいだ」


「その返し、もう通じませんから」


凛は淡々と処置を続ける。

布を当て、圧をかけ、動かないように固定する。


しばらくして、ようやくサラが深く息を吐いた。


「……少し、楽になったな」


「“少し”で済んでるのが問題なんです」


凛はそう言いながらも、どこかほっとした表情を浮かべる。


だが、サラはそこで終わらせなかった。


「さて」


立ち上がろうとする。


「次はお前たちだ」


「は?」


凛と溝口が同時に声を上げる。


「いやいや、あなたが一番――」


「大丈夫だ。

 手当のおかげで本当に擦り傷みたいなものだ」


そう言って、サラは二人を見据える。


「それより、お前たちのほうが顔に出ている。

 凛、お前は肋をやっている。

 溝口、お前は全身が悲鳴を上げている」


溝口は苦笑した。


「……さすがに、ばれてるか」


「慣れない戦場では、なおさらだ」


サラは有無を言わせず、凛を座らせる。

先ほどとは逆に、今度はサラの手が動く。


手つきはまだ確かだ。

傷の位置を確かめ、無駄な力をかけず、的確に薬を当てる。


「……慣れてますね」


凛がぽつりと言う。


「慣れたくて慣れたわけじゃない」


サラは短く答えた。


凛の肋に布を当て、固定する。


「無理に動くな。

 今日は、刀も鎖も休ませろ」


「……はーい」


最後は溝口だった。


溝口は上着を脱ぎながら、肩をすくめる。


「俺は見た目ほど派手じゃないぞ」


「派手かどうかではない」


サラは淡々と処置を進める。

擦過傷、打撲、無理な踏み込みで痛めた脚。


「……記録者は、体を壊すと厄介だ」


「まだ自覚がないんだが、その呼び名」


「そのうち嫌でも慣れる」


手当てが終わると、三人はそれぞれ寝床へ案内された。


凛は外套を掛け、縛鎖刀を壁に立てかける。


「……今日は、もう静かにしてて」


刀は応えない。

だが、凛はそれでいいようだった。


溝口も深く息を吐き、寝台に腰を下ろす。


「……本当に、終わったんだな」


サラは灯りを落としながら、低く言う。


「そうだな。今はそれで十分だ」


やがて、里は静かな寝息に包まれた。

最も重傷だった者が、最も無理をし、

それでも互いを優先し合う――


そんな、不器用で確かな休息の夜が、ようやく訪れていた。



第108章 馴染みのスープ



里の朝は、静かだった。


外の通路から聞こえるのは、遠くで鳴る金属音と、風が抜ける低い音だけ。

昨日までの緊張が嘘のように、空気は落ち着いている。


最初に起きていたのはサラだった。


治療の間の奥、簡素な調理場で、鍋に水を張り、干した薬草と骨を入れて火にかける。

手つきは慣れていて、迷いがない。


そこへ、外套を羽織った凛が現れる。


「……ちょっと」


凛は腕を組んで、サラを見る。


「なにをしてるの」


「見ての通りだ。朝のスープ」


「見ての通りじゃないです。

 重症者が台所に立たないでください」


サラは肩をすくめる。


「一晩休んだ。もう大丈夫だ」


「昨日も同じこと言ってましたよね?」


凛は一歩近づき、鍋の前に立つ。


「今日は“ちゃんと休む日”です。

 ほら、座って」


「……」


一瞬、サラは言い返そうとしたが、凛の視線が思った以上に真剣なのに気づき、ため息をつく。


「……分かった、分かった。

 だが、味見くらいはさせろ」


「それくらいなら」


結局、二人は並んで調理を続けることになった。


サラが火加減を見て、凛が具材を刻む。

時折、凛が味を見て首をかしげる。


「……ちょっと薄いかも」


「なら、これを少し」


サラが乾燥させた根を差し出す。


「苦くないですか?」


「目が覚める」


「朝からそれはどうなんですかね」


そんなやり取りの最中、足音が近づいてきた。

少し遅れて起きてきた溝口だ。

寝癖のついた髪を軽くかきながら、目を細める。


「……いい匂いだな」


「おはようございます、遅起きさん」


凛が言うと、溝口は苦笑した。


「昨日はさすがに堪えた。

 目が覚めたら、もう朝だったよ」


「起きてすぐ働かされるより、よほど健康的だ」


サラがそう言って、椀を三つ並べる。

出来上がったスープは、透明に近い色で、湯気とともに穏やかな香りを立てていた。

三人は簡素な食卓を囲む。


凛が一口すすり、目を瞬かせる。


「……あ、これ。

 前に飲んだのと同じ」


「里の味だ」


サラが静かに言う。


溝口も一口飲み、肩の力を抜いた。


「……体に染みるな。

 派手じゃないけど、妙に落ち着く」


「派手な朝食は、今日は不要だ」


サラはそう言って、自分の椀を持つ。


一瞬だけ、三人のあいだに言葉が途切れる。

だが、その沈黙は重くない。


凛は湯気の向こうで二人を見て、ふっと口元を緩めた。


「こういうの、久しぶりですね」


「戦っていない朝、という意味なら、確かにな」


溝口が言う。


「しばらくは、こういう時間も必要だ」


サラはそう締めくくり、もう一口スープを飲んだ。


管理者はいない。

だが、旅はまだ続く。

それでも――


この朝の、温かいスープと静かな会話は、確かに三人を前へ進ませる力になっていた。



第109章 旅支度



午後の里は、朝とはまた違う静けさに包まれていた。


陽の代わりになる淡い灯りが、里の通路をやわらかく照らしている。

人の気配は少なく、どこかで布が擦れる音と、遠くで水が落ちる微かな音だけが響いていた。


サラと凛は、里の一角に腰を下ろし、黙々と手を動かしていた。

まずは武器の手入れだ。

サラは黒弦の剣を膝に置き、刃についた細かな欠けや歪みを一本一本確かめる。

布で丁寧に汚れを落とし、弦の張りを指先で確かめるたび、低く澄んだ音が返ってきた。


「……まだいけるな」


呟きは、誰に向けたものでもない。


その隣で凛は、縛鎖刀と鎖を広げていた。

外套は地面に敷かれ、影血と埃で汚れた部分を水で洗い、布で叩くようにして落としていく。

黒い布は濡れると色がさらに深くなり、まるで影そのものを扱っているようだった。


「ほんと、よく働きましたね」


凛は独り言のように言い、外套を軽く振る。


縛鎖刀の刀身は静かだ。

あの戦いの狂気は影を潜め、ただの刃としてそこにある。


凛は刃に小さく息を吹きかけ、布で拭き上げる。


「……しばらくは、穏やかにいこう」


そう言って、札の袋を開く。


使い切った札、焦げた札、効力を失った札。

それらを分け、新しい札を補充し、紐でまとめ直す。


指先に、祈りを込めるような癖が自然と戻ってきていた。


一方で――


溝口は、里の外れにある、正体のよくわからない巨大な木の根元に寝転がっていた。

木なのか、岩なのか、それとも別の何かなのか。

根は地面を這い、絡まり、里の一部としてそこにある。


溝口は両手を頭の後ろに組み、天井代わりの闇をぼんやりと眺めていた。


(……全部、現実なんだよな)


管理者。


崩れる空間。


凛の刃。


自分が見た“層”。


思い返すたびに、夢のようにも思える。

だが身体の痛みと、服に残る汚れが、それを否定していた。


(俺は……何者になりかけてるんだ)


記録者。


そう呼ばれた言葉が、頭の中で反響する。


何かをした、という実感はある。

だが、何をどうしたのか、はっきりとは掴めない。


溝口は目を閉じ、深く息を吸った。

木の根の冷たさが背中に伝わり、妙に心地よい。


(考えても、今は答えは出ないか)


ゆっくりと息を吐く。


遠くで、金属が触れ合う音。

布を絞る音。

札が擦れる小さな音。


仲間が準備をしている気配が、確かにそこにあった。


旅立ちは、もう遠くない。


それぞれが、それぞれのやり方で、

次へ進むための時間を過ごしていた。



第110章 最後の休息



夜が里を包み込むころ、三人は同じ卓を囲んでいた。

卓の上には、二種類の「食事」が並んでいる。


一つは、湯気を立てる器。

肉の繊維がほぐれ、根菜の甘みが滲んだ、はっきりと“物体”として存在する食事だ。匙を入れれば抵抗があり、噛めば味がある。


もう一つは、小さな硝子の器に納められた淡い光。

色は定まらず、覗き込む角度で揺らぎ、触れればわずかに温度が変わる。記憶を写した食事――満腹感ではなく、

心の奥に静かに染み込む類のものだった。


溝口は、まず物体の方に手を伸ばし、恐る恐る口に運ぶ。


「……ちゃんと、うまいな」


「でしょう?」


凛が小さく笑う。

その横でサラは、記憶の器に指先をかざし、目を閉じたまましばし動かない。


やがて、サラが静かに息を吐いた。


「……さて」


その一言で、空気が少しだけ張りつめる。

サラは視線を上げ、二人を順に見た。


「明日の朝だ。古びた扉へ向かう」


凛は箸を置き、溝口も自然と背筋を正す。


「何が起こるかは、わからん」


「……何も起こらないかもしれない」


言葉は淡々としているが、その裏に覚悟が滲んでいた。


「管理者はいなくなった。だが、あの扉はずっと前からそこにある。

 上へ繋がっているのか、それとも――別のどこかか」


サラはそこで言葉を切る。


凛は、記憶の器を手に取り、少し考えてから口にした。


「何かが起きたら起きたで、対処します。

 起きなかったら……まあ、それはそれで」


どこか軽い口調だが、目は冗談を言っていなかった。


溝口も頷く。


「今さらだな。

 ここまで来て、何も起きないことを期待するほど、俺は楽観的じゃない」


サラは、二人の反応を見て、ほんの僅かに口元を緩めた。


「だろうな」


三人は再び食事に戻る。


物体の食事が腹を満たし、

記憶の食事が、言葉にならない感覚を胸に残す。


その夜は、不思議と静かだった。


恐怖も、期待も、焦りも、すべてが同じ重さで胸の内にあり、

誰もそれを言葉にしなかった。


 ただ、明日の朝、


 古びた扉の前に立つ――


その事実だけが、確かに共有されていた。



ここまで読んでいただきありがとうございます。

楽しんで頂けたら幸いです。

いいね、ブクマ、コメント等も是非よろしくお願いします!




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