契約の代償
第214章:契約の代償
溝口は、凜の静かな表情を見つめたまま問いを投げた。
「……影を裂くってのは、君が坂口にやったみたいなことか? なんて言ったか、あの刀で」
彼女の手元には何もない。
だが、あの夜に聞いた金属の軋む音が、記憶の奥でよみがえる。
凜は軽く目を細め、まるで懐かしい思い出でも語るように笑った。
「そう。あれは、地下で授かった力なんです」
凜は指先で湯呑を回しながら、軽く肩をすくめた。
「誰からどういう経緯でもらったのかは……忘れちゃいましたけどね」
おどけるように言って、唇の端を少しだけ上げた。
「刀と鎖。これは“契約”をして得た力です」
凜の声には、どこか遠くを見るような響きがあった。
「契約?」
「ええ。代償を払って得た力。……その対価は確か〜……」
凜は少し間を置いて、軽く天井を見上げた。
「記憶、だったかな」
彼女の笑みは柔らかかったが、その笑みの奥には、どこか痛みが滲んでいた。
「記憶を……?」
溝口の声には驚きと、理解の及ばない怖気が混じっていた。
凜は頷く。
「記憶ってね、形がないけど、影の世界では“最も価値があるもの”なんです。
過去も、感情も、意思も、全部そこに詰まってる。だから、力を求める者は、まず“自分の記憶”を差し出す」
溝口は沈黙した。
その言葉を聞いた瞬間、彼女の“別人のような”言動や、時折見せる不自然な間——それらが、今ようやく繋がっていく気がした。
凜は笑いながら続けた。
「でもね、不思議と後悔はしてないんですよ。
だって、記憶を失っても、力が残っているなら、“何かを終わらせる”ことはできるでしょう?」
「……君は、そのために力を得たのか?」
「さぁ? 最初はどうだったか……もう覚えてないんです」
凜は、また小さく笑った。
「でも、今ははっきりしてます。あの世界と、この世界の“境界”を壊す。
それが、私に残された最後の記憶です」
笑みを浮かべながらも、その目には冷たい光が宿っていた。
溝口は思わず、背筋を正した。
彼女の中で“記憶”と“力”がどんな形で結びついているのか、それは誰にも分からない。
だが一つ確かなのは——凜がすでに“人の理”の外に立っているということだった。
第215章:再び扉を…
朝食を終えた旅館の部屋には、静かな余韻が漂っていた。
外の光が障子を透かし、畳の上に淡い模様を落としている。
だが、二人の間に漂う空気は穏やかではなかった。
“影の増加”——その言葉が、まだ互いの心に重く沈んでいた。
溝口は膝の上で手を組み、少しの間、思考を整理するように視線を落とす。
「……結局のところ、俺たちがやるべきことは一つだ」
凜は顔を上げる。
「扉、ですね」
「そうだ」
溝口は短く頷き、ゆっくりと立ち上がった。
「とにもかくにも、もう一度“その地下へ繋がる扉”を探すしかない。
今のままじゃ、影が増え続ける理由も、あの世界とこの世界の境が曖昧になってきてる原因も、まるでわからん」
テーブルに散らばる書類の束を整理しながら、溝口は続ける。
「前に調べた記録をもう一度洗い直したんだ。
扉が“現れやすい”とされている条件は、いくつか共通点がある」
凜は興味深そうに身を乗り出す。
「共通点?」
「まず、“場所”だ。人の流れが極端に少なく、夜間になると急に気温が下がるような区域。
たとえば閉鎖された地下道や古いトンネル、忘れられた工場跡地なんかが多い」
「なるほど。人の“記憶”が薄い場所、って感じですね」
凜の言葉に溝口は小さく頷く。
「次に“時間”。だいたい午前二時から四時の間。
俗に言う“丑三つ時”と重なる。
ただ、共通しているのは、空気が歪むような現象が報告されていること。
気温が急に下がったり、風が止んだり、音が吸い込まれるように消えたり……」
凜は頬杖をつきながら聞いている。
その表情は真剣でありながら、どこか懐かしさを帯びていた。
「環境条件も一つある。
——“水”。
必ずどこか近くに水があるんだ。
地下水、排水路、川、あるいはただの水たまりでもいい。
扉は、何かを“映す”ものと関係があるらしい」
「映す、ですか」
「そう。“境界を映す鏡”。俺にはそう思えてならない」
凜は少し黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……それ、正しいと思います。
あの扉も、水面みたいに歪んで見えた。
光を映す鏡というより、記憶を映す膜みたいな」
「記憶を映す、か」
「はい。だから、見る人によって形が違うんです。
誰もが“自分の失ったもの”を、扉の向こうに見てしまう。
それが、この世界に引きずられてる理由のひとつかもしれません」
「つまり、扉は単なる出入口じゃない……“呼応”するもの、か」
「そう」
「呼ばれてるんですよ、刑事さん」
凜は薄く笑う。
「きっとあなたも」
溝口は言葉を返せなかった。
胸の奥に冷たい予感が走る。
「……場所の目星はあるんですか?」
「いくつか候補がある」
溝口はファイルを開き、地図を机に広げた。
赤いマーカーで印がいくつも打たれている。
「まず、この地域の外れにある廃地下道。
数年前に崩落事故があって封鎖されてるが、内部構造はまだ残ってる。
通報記録を見ると、夜中に“低い金属音がする”って報告が数件。
——おそらく、そこが一番怪しい」
凜は地図を覗き込み、指先で印をなぞる。
「ここ……なんだかぼんやりと見覚えがあります。
下へ降りてたとき、似た音がしてた。あれは柱の鳴る音だったのかも」
「なら、決まりだな」
溝口は地図を折り畳み、ジャケットの内ポケットにしまう。
「行くとしたら、今夜だ。
扉が現れる時間帯に合わせて、周囲の状況を確認する」
凜は軽く頷き、立ち上がった。
「わかりました。私も準備しておきます」
「何か必要なものは?」
「そうですねぇ……強いて言うなら、“覚悟”ですかね」
そう言って、凜は笑った。
その笑みには恐怖も迷いもなかった。
ただ、静かに決意の色を宿している。
窓の外では、まだ昼の光が差し込んでいる。
だが、彼らの行く先には、すでに“夜”が口を開けていた。
そして、その夜——
再び“扉”が現れる。
それが、二人にとって戻れない旅の始まりとなることを、この時はまだ誰も知らなかった。
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