ひと時の日常
第210章:ひと時の日常
翌朝。
小さな旅館の朝、障子越しの光がやわらかく差し込む頃、二人は同じ部屋で用意された朝食の膳に向かい合って座った。木の香りがする机の上には、焼き鮭、味噌汁、漬物、小鉢の煮物、炊き立ての白米。素朴ながら丁寧に整えられた朝食だった。
「……いただきます」
凜は両手を合わせ、目を細めてから箸をとった。焼き鮭を一口。小さな満足の吐息がもれ、ほんのりと表情が緩む。
「おいしいですね」
軽い口調ながら、どこか奥底で久しぶりに人の温かみを感じているような声音だった。
溝口も黙って味噌汁をすする。塩気が体に染みわたり、少しだけ緊張の糸がほどけていく。
「こうして普通に飯を食ってると、不思議なもんだな。昨日まで命を狙われてたなんて、夢みたいだ」
苦笑混じりの言葉に、凜は箸を止め、斜めに首を傾げた。
凜は鮭の骨を器用に外し、口元に運ぶ。食べ方は丁寧なのに、その眼差しは鋭さを失わない。
「これからのことを考えないとな」
溝口は、わざと落ち着いた声で切り出した。
「扉の調査も、署での立場も、正直もう危うい。君と一緒に動く以上、危険は増す一方だ」
凜は味噌汁を口に含み、ひと呼吸置いてから答える。
「危険は、どのみち避けられませんよ。刑事さんが動かなくても、扉の向こうから“何か”はやってくる。……だから、終わらせにいかないと」
にこりと微笑んだが、その笑みはどこか影を帯びていた。
膨らむ溝口の不安
「終わらせる、か……」
溝口は飯茶碗を置き、凜の横顔を見つめる。昨日から幾度となく感じることだが、彼女はやはり“別の何か”を背負っている。その言葉の端々に、年齢を超えた異質な重みがあった。
「君は、もう決めているんだな」
「えぇ。決めてますよ」
凜はさらりと言い切った。その響きは、生気が薄いのに妙に強く、溝口の胸をざらつかせた。
第211章:影の増殖
湯気の立つ味噌汁を飲み干した後、凜はふと箸を止めて、窓の外に目をやった。虫の音がかすかに聞こえる。
「刑事さん、ちょっと気になることがあるんです」
言葉は軽い調子だったが、声の奥に鋭さがあった。
「こっちの世界で——影が増えてる気がするんですよね」
溝口は一瞬、意味が掴めず眉を寄せる。凜はその視線に気づくと、茶碗を置き、わざとおどけたように肩を竦めてみせた。
「前は確かに“認識すらできなかっただけ”なのかもしれない」
「地下では記憶を取引してるんです、上の世界とね」
「それで、地下で取引された記憶って、上にいる人でせいぜい数十人……多くても数百ぐらいかと、私は思ってたんですよ。だから影が壊れて器だけになっても“珍しい現象”として片付けられてた」
凜は手元の湯呑を回しながら続ける。
「でもね、昨日刑事さんを撃とうとしてた人、それから私が入院してた病院でも……“影”をまとってる人、よく見かけたんです。で、ここへ来る途中、街を歩いてるときも。以前よりずっと頻繁に」
溝口の脳裏に、ここ数日の妙な既視感や人混みの中で覚えた圧迫感がよみがえる。気配に敏感になっていたせいかと思っていたが、そうではないのかもしれない。
「これが何を意味してるんだろうってね」
凜はにこやかに笑うが、目の奥は冷たかった。
「下から溢れ出してきてるのか、出口が広がって出やすくなってるのか、それとも……もともと沢山いたけど、私が“見えるようになってしまった”だけなのか。……うーん、わかりませんねぇ」
軽い調子の締めくくりとは裏腹に、その言葉は溝口の胸に重く沈む。
“影”が増えている。それがただの感覚でなければ、扉と何かが繋がっている証拠かもしれない。
凜はゆっくりと立ち上がり、窓辺へ歩み寄る。
「だから、次の行動はもっと慎重にしないと」
その背中を見つめながら、溝口は自分が追っているものの輪郭が、さらに曖昧で不気味なものに広がっていくのを感じていた。
第212章:影という存在
朝食を片付けた後、二人は湯呑を手に、少し落ち着いた空気の中で向かい合っていた。
外では鳥の声がかすかに響き、まだ世界は平穏を装っている。だが、溝口の胸中はざわついていた。
「……凜、ひとつ聞かせてくれ」
声は低く、慎重だった。
「君が言っていた“影”ってやつ。俺には見えないが、具体的に何なんだ? 人なのか、そうじゃないのか」
凜はゆっくりと湯呑を置き、少しだけ考えるように顎に手を当てた。
「そうですねぇ……あえて言うなら、“人でなくなった者の残滓”でしょうか」
凜の声は淡々としているが、言葉のひとつひとつが異様に生々しい。
「残滓?」
「ええ。かつて“人”だった記憶の断片。感情とか、執着とか……そういうものが、形を保ったまま、抜け殻になった人の中や外に漂っている。
でも、厄介なのは、そういう影がただの残り香じゃなく、“別の器”を見つけて動き出すことがあるんです」
溝口は眉を寄せ、慎重に言葉を選ぶ。
「つまり……影が、人間に“入り込む”ってことか?」
凜は軽く頷いた。
「そうです。肉体を“器”として使うんですよ。まるで自分の住処みたいにね」
そして、わずかに笑みを浮かべる。
「霊が憑く——って言葉、ありますよね? あれに近いです。でも違うのは、霊は“死者の魂”で、影は“壊れた記憶”なんです。
どちらかといえば、“作られた記憶で埋められた者”のほうが近いかもしれませんね」
溝口は湯呑を持つ手を止めた。
「作られた記憶……?」
「はい。誰かが“人間らしく見せるために”詰め込んだ記憶。
でも、その人自身の本当の記憶じゃない。借り物なんです。借り物の過去、借り物の心、借り物の名前。
それで出来た“殻”が街を歩いている。そういう人たちは、自分でも気づいていないことが多いんですよ」
「つまり……自分がもう“自分じゃない”ことに気づかない?」
凜はゆっくりと頷いた。
「ええ。気づいたときには、もう戻れません。記憶が混ざって、意識が削がれて……人としての“かたち”を保てなくなる。
そして最後に残るのは、“影”だけ。器を変えながら、次の誰かへ——それが、今のこの世界で増え続けてる現象です」
沈黙が落ちた。
外では朝の日差しが柔らかく畳の縁を照らし、まるで現実のほうが幻に思えるほど穏やかだった。
「……そんなものが、街の中に溶け込んでるってのか」
「はい。でも刑事さんが見えないのは当然です。見えるようになるには、“記憶の扉”を開いた人間じゃないとダメなんです。
一度でも、影の流れに触れた者。たとえば——」
凜は意味ありげに溝口の目を見た。
「たとえば、“あの日”の刑事さんとか」
言葉の意味を悟った瞬間、溝口の背筋を冷たいものが這い上がった。
記憶の空白——自分が消えていたあの一年。その中で、自分はすでに“影の世界”に触れていたのかもしれない。
第213章:侵食の疑念
彼女が言う“影の世界”——。
自分が一年間、行方不明だったあの期間。
戻ってきた時、自分は何を見て、何を忘れたのか。
記憶の欠片を辿るように、喉の奥がひりついた。
「……つまり、俺も、その“影”ってやつに……触れてるのか?」
言葉を絞り出すように呟く。
凜は真っ直ぐな瞳で溝口を見つめ、すぐには答えなかった。
やがて、少しだけ首を傾げ、柔らかい笑みを浮かべる。
「触れた、というより——通り過ぎた、かな?」
「通り過ぎた?」
「えぇ。でも、通り過ぎた人は、その影を少し残すんです。
いわば、“匂い”みたいなもの。影の側から見たら、あなたは“見える”存在なんですよ」
その言葉が妙にリアルで、胸の奥がずしりと重くなった。
「……見える?」
「そう。刑事さんはもう、“向こう”の一部を知ってしまった。
だから、影たちはあなたを“仲間”か、それとも“障害”か——判断しかねてる状態ですね」
凜は卓上の湯呑を指で叩き、淡い音を響かせた。
「でも、影に“見える”ということは、逆に言えば……少しずつ“見られている”ってことでもあります。
気づかないうちに、あなたの中にも——うっすらと、入り込んでるかもしれません」
その瞬間、溝口の脳裏に走馬灯のようにいくつかの記憶が浮かぶ。
帰還直後、無意識に描いていた奇妙な線。
寝ているとき、耳元で囁くような声。
“まだ戻りきってない”という言葉が、どこかで聞こえた気がする。
言葉にならない不安
「……俺の中にも、影が?」
声がわずかに震える。
凜は真剣な眼差しで溝口を見据えた。
「ええ。でも安心してください。今のところは、あなたの意思が勝ってます。
ただし——その境界は、曖昧なんです。記憶を塗り替えるように、影は静かに形を変える」
「塗り替える……」
「はい。記憶も、心も、そして“現実”も」
凜はわずかに俯き、続けた。
「だから、刑事さん。自分が“誰か”を忘れないでください。
名前も、過去も、感じた痛みも。全部、ちゃんと覚えておかないと——影に飲まれちゃいますよ」
その笑みは、やさしさと警告が混じったものだった。
溝口は視線を落とし、湯呑の底に残った茶葉を見つめる。
揺らめく液面に、自分の顔がぼやけて映る。
それは、まるで誰か別の人間のように見えた。
「……もし俺の中に、その影がいるとして。
俺は、どうすればいい?」
凜は少しだけ黙ってから、笑みを浮かべる。
「簡単ですよ。影を見たら、影を裂くんです。
刑事さんがまだ“あなた自身”なら、それができる」
「それか、私が斬ってあげますよ、しゅしゅっ」
無邪気に刀を振るう仕草をする凜。
その言葉に、溝口は何も返せなかった。
ただ、自分の中に生まれ始めた“もう一つの何か”の存在を、確かに感じていた。
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