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出立の夜

ここから、Little Under Ground Ⅲ(下巻)になります。

このエピソードから毎日更新します。

楽しんで頂ければ幸いです。

第1章 出立の夜


夜の帳が静かに山を覆いはじめたころ、旅館の廊下には灯籠の明かりがほのかに揺れていた。

凛と溝口はそれぞれ小さな荷を肩にかけ、玄関へと足を運ぶ。

木の床が軋む音が、やけに遠くまで響いた。


「支度は……これで全部だな」


溝口が呟くと、凛は軽く頷く。


「ええ。行きましょう。夜が深まる前に」


彼女の声音には、どこか急かすような響きがあった。


外の空気に触れた瞬間、山風が頬を撫でる。秋の匂い。湿り気を帯びた空気に、どこか鉄のような香りが混じっている気がした。


玄関に明かりを灯していた宿屋の主人が、2人の足音に気づき、穏やかな笑みを浮かべた。


「おや……もうお発ちで?」


「ええ。夜分にすみません。お世話になりました」


溝口は丁寧に頭を下げ、財布を取り出して会計を済ませる。

主人は金を受け取りながら、ふと2人の背負う荷物と、夜の山道へ向かうその装いを見て、表情を曇らせた。


「この時間に山へ行かれるんですか?」


「少し、確かめたい場所がありまして」


溝口が淡々と答える。


「……そうですか。お気をつけて」


主人は深く頷き、帳簿を閉じると、何かを思い出したように小さな包みを手渡した。


「温かいうちにどうぞ。夜の山は冷えますからね。

……それと、変な話ですが、

このあたりでは“風の止む時間”に外を歩かない方がいいと、

昔から言われてましてね」


溝口は包みを受け取りながら、目を細めた。


「風の止む時間、ですか」


「ええ。風が止むとき、何かが通る——そう言われてます」


主人は苦笑まじりにそう言ったが、その声音にはどこか本気の響きがあった。

宿の前の石段を下りながら、凛がふと口を開く。


「“風の止む時間”か……面白いですね」


「昔話だろう。だが——」溝口は少し言葉を濁す。


「こういう言い伝えって、案外、何かの“痕跡”なのかもしれん」


「痕跡、ですか」


「扉が開く“前触れ”ってやつだ」


凛はにやりと笑った。


「なら、今日はちょうどいい夜になりそうですね」


2人の靴音が、夜の山道に吸い込まれていく。

空には雲が流れ、月が顔を隠した。

あたりには虫の音さえ消え、ただ山の奥から、低く響く水音だけがかすかに届いていた。


それが、まるで——

これから2人が向かう“扉”の向こうから響く鼓動のように思えた。


第2章 廃道への道行き


夜の闇が山裾に降りてくる頃、二人を乗せた車は街外れの国道を外れ、徐々に細い山道へと入っていった。

車のライトが闇を切り裂くたび、木々の影が流れ、ガラス越しに淡く反射する。

窓の外にはもう民家の灯りもなく、あるのは黒々とした山肌と、遠くでかすかに光る鉄塔の赤いランプだけだった。


「あと一時間も走れば、目的地だな」


溝口がハンドルを握りながら言う。

その声には緊張と、どこか覚悟のような静けさが混ざっていた。


「夜の山って、こんなに暗かったんですね」


凜が窓の外を眺めながらぽつりと呟く。

車の外には、闇しかない。月の光も木々に遮られ、まるで世界の端を走っているようだった。


「その……扉があるっていう場所、ほんとにこの先なんですか?」


助手席で凜が問いかける。窓の外を見つめるその横顔は、月明かりに照らされて少し青白い。


「“ある”というより、“現れる”だな」


溝口は目を細めて前方を見据える。


「情報を追ってると、この辺りの廃地下道で奇妙な現象が何度も記録されてる。音が吸い込まれる、空気が歪む——

いずれも“あの世界”の入り口に似た症状だ」


凜は腕を組み、しばらく黙っていたが、ぽつりと呟いた。


「……そういえば、最初にあの扉を見つけた時も、そんな感じだったかもしれません」


しばし沈黙のあと、溝口が少し柔らかい声で尋ねた。


「君、まだ十七だったな。……普通の高校生なら、夜は勉強とかしてる時間じゃないのか?」


「さぁ、どうでしょうね。勉強より、こういう方が性に合ってるのかもしれません」


凜は肩をすくめて笑う。


「刑事さんの助手席って、なんか特別感ありますね。

ちょっとドラマみたいで」


「こんな状況で言うか、それを」


溝口は思わず吹き出した。

緊張の糸が一瞬だけ緩み、車内にわずかな笑いが生まれる。


「……それでも、こうして誰かと一緒に向かうのは久しぶりだ」


「刑事さん、ひとりで動くことが多いんですか?」


「普段はバディを組んで動くもんだが、

俺が署に復帰してからは…なぜか一人だな」


「あらあら、嫌われちゃったんですかねぇ

でも、孤独って慣れると怖くなくなるんですよね」


凜は窓の外を見たまま、ぼそりと言った。

その言葉の裏にある静かな重みを、溝口は聞き流すことができなかった。


やがて舗装が途切れ、車のサスペンションが軋む音が響く。

前方には、錆びたフェンスと「立入禁止」と書かれた古びた看板。


「ここから先は……車じゃ無理だな」


溝口はブレーキを踏み、ゆっくりと車を停めた。

エンジンを切ると、あたりは一瞬にして闇に包まれる。

ライトが消えた途端、虫の音も風の音も止み、ただ遠くで水の滴る音だけが聞こえた。


凜がドアを開けて外に出る。

夜気が肌を刺し、呼吸が白く滲む。


「……冷たい。まるで何かに“入る”前の空気みたいですね」


溝口はトランクを開け、懐中電灯を二つ取り出して渡す。


「道は滑る。足元に気をつけろ」


「はい」


凜は短く答え、ライトを点けた。

照らされた先には、草むらの奥へと続く細い獣道。

その向こうに、黒いアーチのようなものがかすかに浮かんでいる。


「……あれが、廃地下道の入り口か」


「雰囲気ありますねぇ」


凜の声は静かで、どこか懐かしさを含んでいた。


「行くか」


溝口の言葉に、凜は頷く。

二人は懐中電灯の光を頼りに、草をかき分けながら進む。

足音が夜気の中に吸い込まれ、風は止み、世界が一瞬、呼吸を忘れた。


「刑事さん」


「なんだ?」


「……風、止まりましたね」


その瞬間、遠くで——

金属の鎖が軋むような音が、静寂の底から滲むように響いた。


溝口は息を詰めた。

闇の向こうに、確かに“何か”が動いている。

そして、廃地下道の入口が、ゆっくりと形を変えていくのを二人は目にした。


第3章 扉の兆し


二人は草むらを抜け、錆びついた鉄製のアーチの下へとたどり着いた。


それが廃地下道の入り口だった。崩れたコンクリートの壁面には蔦が這い、古びた標識の文字は半分以上が風化して読めない。

かつて車が通ったであろう広い道は、今では湿った土と枯葉に覆われ、冷たい空気が地の底から流れ出していた。


「……ここ、だな」


溝口の声が、やけに遠くに響いた。

凜は黙ってうなずき、手にした懐中電灯を前方へ向けた。

光はトンネルの奥を照らすが、十数メートル先で霧のように溶け、視界が途切れる。


「音が……消えてますね」


凜の囁きに溝口は気づく。

たしかに、風も虫の声も、先ほどまで聞こえていた水音さえも、いつの間にか途絶えていた。


世界が、息を止めた。


冷気が足元を這い上がる。

吐く息は白く、だが風は吹いていない。

ただ、空気そのものがねっとりと肌にまとわりつくような感触があった。


「……気温が、急に下がってる」


溝口が言う。腕の毛が逆立ち、背筋を冷たいものが走る。

懐中電灯の光が揺れる。光が当たる空間そのものが“波打っている”ように見えた。

まるで、見えない水の膜の中に光が溶け込んでいくようだった。

凜がゆっくりと歩み出す。


「始まりましたね……。空気が歪んでる」


その声は妙に遠く、溝口の耳には反響して聞こえた。

足元の枯葉が、ふわりと宙に浮く。

まるで重力が緩んだかのように、ゆっくりと回転しながら上昇していく。


トンネルの奥から——低い音が響いた。

それは風の音でも、地鳴りでもない。

どこかで巨大な鐘が、ゆっくりと鳴らされているような、腹の底に響く振動だった。


「刑事さん、聞こえますか?」


凜の声が少し掠れる。


「……ああ、まるで地面の下で何かが動いてるみたいだ」


トンネルの壁が、ゆらりと波打つ。


溝口は思わず目を疑った。

コンクリートの壁が液体のように揺れ、そこに光の縦縞が走る。

それは水面の反射のようでありながら、音を立てずに明滅を繰り返している。


凜はその光に手を伸ばしかけ——一瞬、指先を引っ込めた。


「……まだ、開いてはいません。

でも、もうすぐ“境界”が裂けます」


そのとき、空気が変わった。


風が吹いた——かと思えば、次の瞬間には逆方向から吹き返し、足元の土が舞い上がる。

冷気が肌を刺すように走り、耳の奥で“ヒュウ”という高い音が鳴った。

まるで鼓膜が外側から圧迫されるような感覚。


「……っ!」


溝口は思わず耳を押さえた。

凜は目を閉じ、深く息を吸う。


「大丈夫。これは“通り道”が形になり始めた合図です」


彼女が言い終えると同時に、トンネルの奥——


空気が“裂けた”。


ガンッ!


重い金属音のような衝撃が走り、闇がねじれる。

光の縦縞が収束し、やがて楕円形の光の輪となって浮かび上がる。

それは“扉”としか言いようがなかった。


「これが……扉、か……」


溝口の声は震えていた。

輪の中心は黒く、まるで底のない湖を覗き込んでいるようだ。

縁だけが淡く光り、内部はゆっくりと渦を巻いている。


凜はその前に立ち、淡々と呟く。


「境界が完全に開くまで、あと少しです」


その横顔は静かで、美しくも恐ろしいほど無表情だった。

溝口は喉を鳴らし、問いかける。


「……この先に、本当に“地下世界”があるのか?」


凜は振り返り、微笑んだ。


「行けば、わかります」


そう言って、扉に向かって一歩、足を踏み出した。


空気が、またひとつ——歪んだ。


第4章 境界の反応


扉が静かに脈打つように光を明滅させる中、

凜は足を止めた。

淡く白んだ空気が彼女の周囲を包み、まるで世界の輪郭が曖昧になっていくようだった。


「……感じます」


低く、確信めいた声だった。

溝口はその横顔を見つめながら、ただ息を飲む。

彼には見えないはずの“何か”が、そこにある。

凜の視線は扉の奥ではなく、空間のどこか一点を見据えていた。


「どうした?」


凜はすぐには答えなかった。


そして次の瞬間、


シャラ……ン

と微かな金属音が響く。


溝口の目に、それは――はっきりと映った。


鎖の顕現


凜の右腕に、光のような鎖が巻きついていた。

それは肌の下から滲み出るように浮かび上がり、

彼女の手の中には“形のない刃”がゆっくりと輪郭を持ちはじめていた。


「な、なんだ……それは……」


思わず声を漏らす溝口。


凜は彼を一瞥し、静かに言った。


「見えましたか?」


「一瞬だが...はっきりと見えた……鎖と……刀みたいなものが……」


「そう……“境界”が反応してる証拠です。

この空間はもう、現世とあの地下が繋がりかけてる」


刀身は薄く揺らめき、まるで空気を裂くように淡く光を放っている。

鎖は生き物のように蠢き、凜の腕を締め上げていた。


溝口はその光景に息を呑んだ。


「まるで……お前の身体そのものが、地下世界と繋がってるみたいだな」


凜は苦笑を浮かべる。


「まぁ、半分はそうかもしれません。

でも、今はそれよりも――」


凜の瞳が鋭く光をとらえた瞬間、

空気がピキリと割れるような音を立てた。

トンネルの奥、黒い空間の中から、

もやのような影がゆらりと浮かび上がる。


輪郭は人に似ている。

だが顔はない。

ただ、黒い穴のような“存在”が、こちらを見ていた。


「感じますか、刑事さん」


凜の声が低くなる。


「こいつらが、“影”です」


「……まさか、これが“下の世界”から……」


「ええ、出てくる者もいれば、“こちら側”にもともといた者たち。

“あちら”が開き始めると引き寄せられる。

影は記憶を喰う。意識の隙間を通って、形を持とうとするんです」


溝口は息を詰めた。

凜の鎖がカラリと鳴る。


「触れたらどうなる?」


「あなたの記憶、心、それから……名前も、食べられちゃいます」


凜は軽く肩をすくめた。


「冗談みたいですけど、そういうものなんですよ、影って」


影たちがゆらゆらと近づいてくる。

そのたびに、凜の持つ縛鎖刀が脈打つように光る。

鎖がさらに強く締まり、彼女の右腕の血管が浮き上がった。


「……まだ、こちら側に完全には出られない。

けど、これ以上は危険ですね」


「退くか?」


「いえ、確かめておきたいことがあるんです」


凜は刀を構え、ゆっくりと空を裂いた。


光の軌跡が走り、次の瞬間――

影の一つが、音もなく霧散した。


残された空間に、冷たい風が流れ込む。


「……扉はまだ完全じゃない。でも、近いです」


凜は淡々と告げた。


「刑事さん、次は“本当に開く”時が来ると思います。

その時、影も、人も、何もかもが混ざります」


溝口は唾を飲み込み、扉を見つめた。


その中心に映る黒い渦が、まるで彼自身を覗き返しているようだった。



ここまで読んでいただきありがとうございます。

楽しんで頂けたら幸いです。

いいね、ブクマ、コメント等も是非よろしくお願いします!




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