5.三歩進んで二歩下がる
「ヘンドリクス様、ミイのことなのですが」
離縁の書類にサインした日から四ヶ月。ヘンドリクスとミュリアは未だに夫婦である。
離縁した二人が同居するのはおかしい、とヘンドリクスがミュリアを説得し、離縁届は提出していない。
ミュリアは腑に落ちない表情を見せたが、すぐにミイを育てるために必要な環境を整えるべく動かざるをえなくなり、それから離縁の話は出ていない。
ちなみに、離縁届と白い結婚の証明書類は、執事の手により既に廃棄されている。
使用人達は二人が離縁前提の契約結婚だと知っていたが、ミュリアの人柄の良さから彼女を慕う者達が多く、離縁などしなければ良いのに、と思う者ばかりだった。
そのため子猫を保護した直後、ヘンドリクスが執事に、『ミュリアとの離縁を避けたい』と零すと、執事はすぐに使用人達へその願いを伝えた。すると、主の願いが我々の願いだ、とばかりに各々が動き出した。
たった一つの目的のため、現在のオベル伯爵家は一致団結している。
ミュリアだけがその事実を知らない。
もしかすると子猫のミイでさえ気づいているかもしれない、と思う時さえある。
オベル伯爵家での保護が決まってすぐ、風呂で綺麗に洗われたミイは、それはそれは美しいグレーの毛並みをしていた。
ブルーの瞳も美しく、もしかすると親猫は、どこかの貴族の邸宅で飼われていたのかもしれない。
これは貰い手は早く見つかるかもしれない、と誰もが思った。
ミュリアはすぐに飼い主探しをしようとしたが、それに待ったをかけたのはメイド長だ。
「ミイは親とはぐれたばかりで、きっと不安が大きいはずです。見る限り、ミイは奥様には心を許してらっしゃるのに、すぐに奥様から引き離されるのはミイがかわいそうです。そして何より、手のひらに乗るほど小さなうちは、次の飼い主も手がかかって大変でしょう」
子猫に人間と同じ感情があるのか分からないが、確かに可哀想だ、とミュリアはその言葉に頷き、せめて離乳食から普通の猫の食事に移行する頃までは、貰い手を探さないことにした。
それから二ヶ月後、ミュリアは飼い主探しを始めたが、ミイの貰い手は一向に見つからない。
ミュリアはまず邸内の使用人の中からミイの引き取り手を探した。
しかし誰もが顔を見合わせ首を振る。
ミイの飼い主が決まってしまうと、ミュリアが出ていってしまうかもしれない。使用人達はそれは困ると考え、あれこれと断る理由を探した。
それによりミュリアから子猫の保護を求められても、行き着く答えは断りの言葉だけ。
もちろんミュリアは、断られる本当の理由など知る由もない。
邸内では見つからないと考えたミュリアは、お茶会を開いて友人達にミイを対面させる。
使用人達は貰い手が見つからないように手を尽くしたが、さすがに貴族のご令嬢やご夫人はどうにもならない。
しかしその時には、ミイが良い仕事ぶりを見せる。
ある時は、お茶会に呼ばれた令嬢のドレスにじゃれつき、レースにかじりつく。
またある時は、耳元で揺れるイヤリングにじゃれつく。
顔の近くで猫パンチを繰り出された令嬢は、痛みはなくとも恐怖に顔を引きつらせた。
「元気なのは素晴らしいことですが……申し訳ありません」
ご丁寧に断られたが、それは当然だとミュリアはお詫びの品を贈った。
その場に一緒にいた女性達からも、当然断られる。
仕方ないとミュリアは納得し、また別の機会を探した。
しかし尽くミイが暴れては断られる、の繰り返しだ。
オベル伯爵家の中では、誰に対してもミイは可愛らしい良い子だ。
ミイは貴族が嫌いなのだろうか、とミュリアは思ったが、ミュリア自身も貴族のためそれはないだろうと首を傾げるしかない。
この日のミュリアは、ミイについてヘンドリクスにお伺いをたてるべく執務室にやって来た。
もちろん、ミイはミュリアの腕の中におさまっている。
「ミイの引き取り手が見つからなくて」
「ああ、どうも相性が良くないと聞いているね」
あれは相性と言うのだろうか、とヘンドリクスの従者は笑いをこらえる。
しかしミュリアは真面目に頷く。
「初対面の人間が苦手なのかと思いましたけど、この家の人達に対してはそんなことはないですよね。ミイの苦手が分かれば良いのですけど」
「ミイの苦手なものか」
「みいー」
お前だ、と言わんばかりにミイがタイミングよく鳴いたが、ミュリアは、『あらあら』と言いながら優しくミイを撫でる。
ミイはウットリと目を閉じミュリアを堪能しているが、ヘンドリクスはそこにミイの性格を見たようで内心舌打ちをした。
ミュリアは、ヘンドリクスとミイの相性が良くないと思っているが、じつはそんなことはない。
ヘンドリクスが執務室の扉を開けておくと、ミイは気まぐれにやって来る。
ミイは足音もなく執務机に近づくと、机脇に重ねられた資料の山を足場にし、器用にも軽くトンとそれに飛び乗るとすぐにヘンドリクスの膝に乗り移り、止まることなく机に乗る。
そして広げた書類の上にゴロンと転がり、お腹を見せてくる。
「おう、暇なのか? 悪いがこっちはやることがてんこ盛りだ」
そう言いながらもヘンドリクスはミイを撫でまくる。
ミイはヘンドリクスに好きにさせ、気が向くとヘンドリクスの手を舐める。
そんなミイに、『お前の仕事は、ミュリアをこの家に居着かせることだからな。首尾よく仕事ができるように、お前の食事も気を使ってるぞ。わかってるな、頼んだからな』と声をかける。すると薄目を開けヘンドリクスを見たミイが、『みー』と鳴いておもむろに立ちあがり、うーんとひと伸びして部屋を出ていく。
扉の前でヘンドリクスに振り向くと、また、『みーい』と鳴いてから出ていくが、最後のひと鳴きだけは、『ばーか』と言われているように思えて、ヘンドリクスはため息を吐く。
ヘンドリクスの従者はそんな姿を頻繁に見ているため、『ミイは人間の言葉が分かるようですね』と笑うが、まったくだ、とヘンドリクスも大きく頷くしかない。
きっと最後のひと鳴きが、『ばーか』でなければ、『ヘタレ』とでも言っているのだろう。
それでも最近のヘンドリクスは、ミイを挟んでミュリアとの会話が増えた。
以前も会話はあったが、なんというか、心の距離が近くなった気がするのだ。
先日はミイのおもちゃを買いに行く、という理由をつけてミュリアを街歩きに誘ってみた。
ミュリアもすぐに頷いてくれ、その日はとても楽しかった。
ミュリアのヘンドリクスに見せる笑顔も、その日はいつも以上に楽しそうで、ヘンドリクスはそれも嬉しかった。
確実に二人の距離は縮まった、普通の夫婦に向かって前進しているとヘンドリクスは満足して邸に戻ったが、帰るなりミイがミュリアに纏わりついて離れない。
置いていかれた抗議か、その夜のミイは、自分の寝床ではなくミュリアのベッドで寝たらしい。
未だに同衾することなく白い結婚を続けているが、ヘンドリクスは自由に行動するミイを妬ましく思った。
翌日、ミュリアの腕の中でくつろぐミイがヘンドリクスに向けて、『みーい』と鳴いたが、やはりその時も、『ばーか』と笑っているように聞こえたから、ヘンドリクスは重症かもしれないと項垂れる。
周りで見ていた使用人達ですら、ヘンドリクスに憐れみの視線を送っていた。
それでも確実にミュリアとの関係は、普通の夫婦になるべく前進している、とヘンドリクスは思っていた。
そんな中、ミュリアがミイについて話があるとやって来たのだ。
いったい何事か、とヘンドリクスは仕事の手を止め、ミュリアの座るソファの正面に座った。
「ミイについて? 何か足りないものでも?」
「いえ、ミイが生活するには十分すぎるほど整っていると思います。気を配っていただけて、感謝しております」
「では……」
「ええと……」
ヘンドリクスの従者は部屋の隅で二人の様子をうかがい、メイドは聞き耳を立てながらお茶の用意をしている。
ミュリアの様子が、なんだか思い詰めたようで重いのだ。
ミュリアの後ろには少し遅れてきたメイド長が控えている。
室内でいつもと同じ様子なのはメイド長だけだ。
何度か呼吸を整える様子を見せるミュリアに、ヘンドリクスは不安げな視線を向けていたが、やっと心が定まったのか、ミュリアはヘンドリクスに視線を合わせると、『決めました!』とはっきり大きな声で決意表明をした。
「ミイに新たな飼い主を探すのは難しいと判断しました。かといってこのままでも良くないと思いますので、私、離縁の際にいただいたお金で郊外に小さい家を買って、ミイとそこで新生活を始めようと、はい、そう決めました」
お茶を用意していたメイドは、『えっ!』と声を出して手が止まる。従者も、『えっ!』と言ってミュリアを見たまま動けない。そしてヘンドリクスは目を見開き、口をポカンと開けたまま呼吸をすることさえ忘れたように止まった。
誰も動かない。
衝撃の言葉を発したはずのミュリア当人でさえ、皆と同じく動かなかった。
しん、と全ての時間が止まった静寂の中、遠慮がちな、『み?』と鳴くミイの声がやっとその場の時間を戻した。
「ミュリア?」
「みー?」
ハッと意識を戻したミュリアが、口ごもりながらも自分の考えを少しずつ話し始めた。しかし、それはなんとも辿々しかった。
「ええと、まず三年前に助けていただいたことに感謝しています。あの時、ヘンドリクス様にオベル伯爵家での仕事を提案していただけたことで、実家への仕送りもできました。本当にありがとうございます。ここでの生活も楽しくて、ええと、あ、楽しかったです」
「それはなにより」
ヘンドリクスの合の手に、ミュリアは言葉を詰まらせ、また、『ええと、ええと』と何かを考えながら言葉をつなぐ。
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次話は明日十二時に投稿します




