4.夫の決意
ヘンドリクスは立ち上がった。
どこかに行くわけでも、何かするわけでもない。
ただ、このまま座っていると自分が溶け始め、そのまま椅子と同化してグズグズと駄目になってしまうような気分になったのだ。
ミュリアとの三年間は、とても穏やかだった。
極度の方向音痴で、一人で庭の四阿に行こうとすれば、どういうわけか裏門で門番に正しい行き方を聞いていた。
なぜ南にある四阿に行くはずが北の裏門で右往左往することになるのかは、結局未だに分からない。
ただ、この邸の中ではミュリアシフトが自然と取られるようになり、ミュリアが一人で歩いているのに気づいた使用人は、まず声をかけて行き先を聞き、さりげなく誘導するのが常となった。
通常大人なら迷子になることはないが、確かにこのオベル邸の庭は広い。
初代がここに邸を建てた時、客人だけのために別邸を敷地内に二棟建てたが、代替わりする毎に一棟ずつ壊し夫人が楽しめる庭を造り、その結果かなり広大な庭となった。
庭を散策中に迷子になるのは困るが、外壁がしっかりしているので敷地から外に出てしまう心配はない。
庭のどこかから、『奥様ぁ、どちらですかぁ』と隠れんぼしている幼女を探すようなメイドの声は、今となってはこの邸の名物だろう。
ヘンドリクスが邸内にいる時は、その光景をいつも微笑ましく思っていた。
そんな方向音痴なミュリアでも、書類に関しては間違いはなく、数字はもちろん文字一つとして抜けがない完璧な書類を作り上げていた。
しかも早い上に字は綺麗である。
城で騎士として働いているヘンドリクスは、そうしたミュリアの仕事ぶりに本当に助けられた。
結婚したばかりの頃、両親が伯爵領の仕事を教えながら手伝おうと王都へやってきた。
しかしミュリアは過去の台帳を数日かけて読んだ後、全て完璧に仕上げてしまったことから、両親は今や、領地で悠々自適な生活を送っている。
また、そのミュリアの能力を聞いたヘンドリクスの弟ケリオンは、将来は息子達に勉強を教えて欲しい、と言い出す始末だ。
そう、ケリオンには息子ができた。
しかも年子で二人。
ヘンドリクスはこれに関して、嬉しいような残念なような、なんとも言い難い複雑な気持ちだ。
もし男児が生まれなければ、ミュリアとこの先も夫婦でいられたのに、と。
しかし元はといえば契約書を作った自分のせいだ、とヘンドリクスはまた深くため息を吐く。
こんなにミュリアに夢中になると知っていたら、たとえ最初に契約としての結婚を持ちかけたとしても、その内容は違うものにしていただろう。
例えば、離婚は瑕疵が認められた場合のみ、とか。
もう、今日だけで何度ため息を吐いただろう。
どんなに後悔しても、あの日に戻ることはできないのに。
自分が作成した契約書のせいで、ミュリアは明日にはこの邸を出ていく。
メイドを付けるとは伝えたが、メイド一人いたところで暴漢に襲われればそれまでだ。
いや、若い娘が二人でフラフラしてる、と見られてカモになる可能性のほうが高い。
これは護衛もつけないといけない。
護衛も一人では、か弱い女性二人を守ることは不可能だろう。
そこまで考えてヘンドリクスは、今の自分には良案だとしか思えない考えが浮かんだ。
思い立ったが吉日だ。ヘンドリクスは大股で移動を始め、たぶん庭に行ったであろうミュリアを探すことにした。
「ミュリアー、どこだぁ」
まさか自分がこうしてミュリアを探すことになるとは思わなかったが、ちょっとした林を抜け、池の周りを歩き、ミュリアがどこにいるのか探すのは少しだけワクワクした。
これは探す方も探される方も楽しかっただろう、なんて思ったところで、少し離れた所から、『ヘンドリクス様ぁ、ここでーす』とのんびりとしたミュリアの返事が聞こえた。
声の方に向うと、一人のメイドと一緒にミュリアが立っていた。
周りに花壇があるわけではない、単なる遊歩道だ。移動中だったのかもしれない。
ヘンドリクスはそう思いながらミュリアに近づくと、『みー』ととても小さな鳴き声が聞こえた。
一瞬、気のせいかと流しそうになったが、ふと見るとミュリアの腕の中にとても小さな毛玉が抱えられている。
「猫?」
「はい、先日この辺りで母猫が子猫を産んだんですが、どうやらこの子だけ置いていかれてしまったようで、見に来たら一匹だけ残っていたんです」
「それは……」
それは逃がしたほうが良いだろう、と言いかけたヘンドリクスだが、一瞬間を置いて、『この邸で飼ったらどうだろうか』と言い直した。
今のヘンドリクスは下心満載だ。
ミュリアをこの邸に留めるチャンスがあれば、それが庇護欲をそそる小動物でさえ利用する。親を恋しがる子猫は、ミュリアを縛る足枷となるはずだ。
ヘンドリクスがそんなことを考えていると知らないミュリアは、『え、よろしいのですか?』と非常に前のめりだ。
餌に食いついたとばかりに、ヘンドリクスはそれはそれは良い笑顔で、『もちろん。だってこのままでは可哀想だろう?』と少し屈んで子猫をのぞき込む。
子猫とはいえ野生の勘が働くのか、子猫は、『みー、みー』と激しく鳴く。
しかしヘンドリクスは全く気にしない。
ミュリアがこの邸に残りたいと思わせるように、もう一押ししなくては……と考え、屈んだ姿勢のまま顔を上げ、ミュリアを見上げる形を取る。
そして、『ああ、でも私は猫を育てたことがない。こんなに懐いているのなら、ミュリアが育ててみたらどうだろうか』と提案する。
ミュリアを至近距離から見上げる形だ。
今までは自分の顔など使い道はないと思っていたヘンドリクスだが、もしかすると今がその時なのではないか、と恥ずかしさを押し殺しあざとさ全開だ。
今まで、いつかどうにかなるだろう、と伸ばしに伸ばしてきた口説くタイミングは、絶対に今ではない。
しかし、明日この邸を出ていかれるのを延ばせれば、その間に押して押して押しまくるつもりだ。
ヘンドリクスはそのために、使えるものは全て使う所存でいる。
子猫の養育などは絶好のチャンスだ。
一日や二日では大きくならないから、それだけ時間を貰える。
もしミュリアが頷いてくれたら、しばらく取っていなかった休暇をまとめて取ろう。
ヘンドリクスはミュリアの返事を待ちながら、頭の中ではぐるぐると計算を重ねていく。
先ほど執務室を出るまでは、ミュリアの旅行に自分が護衛としてついて行こうと考えていた。
旅行だからコルセットが必要なドレスは着ないはずだ。
化粧に関しては……ミュリアはいつも薄化粧だからなんとかなるかもしれない。
それならばミュリアと二人で旅行というのは良い案だ、と考えていた。
しかし、ミュリアが出ていかなければ良いのだ。だから出ていけない状況に持ち込めば、多少猶予はできるはず。
正しい夫婦の形におさまりたいと常々考えていたが、グズグズしていたから時間がなくなってしまった。
できることなら、先程の契約終了の書類にもサインなどしたくなかったし、あの場でミュリアに気持ちを伝えて、このまま結婚生活を続けてもらうよう動くべきだった。
しかし、それは契約不履行だとミュリアに嫌われてしまう気がして、涙をのんでサインしてしまった。
ミュリアが出ていくことがこんなにも嫌なのに、その気持ちに気がついた時になぜ行動にうつさなかったのか、とヘンドリクスは自分の意気地の無さに呆れと苛立ちを感じている。
しかし、いつもなら適当な理由をつけてこの場を立ち去るだろうが、今は逃げたい気持ちを我慢してミュリアの返事を待つ。
今のヘンドリクスは崖っぷちだ。
いや、崖から半身乗り出している。
少しでも目を閉じたらバランスを崩し、奈落の底に落ちてしまう。
なんとか平常心を保とうとしているが、心臓はバックンバックンとうるさいくらい脈打っている。
ミュリアは子猫を見ながら考えているが、早めに返事をもらえないと心臓が破裂してしまいそうだ。
ここに残る、とひと言言ってもらいたい。そうヘンドリクスがひたすら祈り続けていると、ミュリアの側にいるメイドが、『奥様、子猫の貰い手が見つかるまででも』と助け舟を出してきた。
なんと空気が読めるメイドだ、とヘンドリクスがメイドの言葉に感謝している時も、『そうねぇ、貰い手は見つけないといけませんねぇ』とミュリアは子猫を見ながら考えている。
あと一押し、とヘンドリクスは子猫にそっと手を差し出すと、子猫はミュリアの腕の中でみゃーみゃーと大きく鳴いて逃げ出そうと暴れる。
「ああ、やはり私では子猫の世話は無理そうだ。こんなに心を許しているミュリアになら、子猫も安心して世話をされるだろう」
「あら、まあ」
ミュリアは子猫を落とさないように宥めながら、『わかりました。子猫の貰い手が見つかるまで、しばらくお世話になります』と早口で了承した。
そこからのヘンドリクスは早かった。
子猫を抱いたミュリアを連れ邸に戻り、ミュリアの指示のもと子猫用のベッド、ミルクなどの手配をする。
その間、メイドに子猫を風呂に入れさせ、綺麗になった子猫を獣医にあずけた。
普段は馬ばかりを診ている獣医は、突然子猫の健康診断をするようにと言われ戸惑ったが、子猫がおとなしくしてくれたため、きちんと診察することができた。
結果、病もなくノミもいない、健康体だと太鼓判を押された。
子猫は『ミイ』と名付けられた。
人懐こく誰にでも抱っこされたが、唯一ヘンドリクスにだけは威嚇を止めなかった。
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