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第9話 忠臣なら沈黙せよ

 メレン国王の私的謁見室は、広すぎなかった。


 王座の間ほど威圧的ではなく、会議室ほど冷たくもない。

 壁には狩猟画が掛けられ、窓際には深緑の厚い垂れ布が下ろされている。

 暖炉には火が入っていた。

 春とはいえ、王宮の石造りは冷える。


 クラウゼンベルク公は、その暖炉の前で国王を待っていた。


 彼の横には、宰相と王宮法務官が控えている。

 いずれも、疲れた顔をしていた。

 王太子の恋愛ごっこが、彼らの睡眠を奪っているのだろう。

 気の毒ではある。

 だが、気の毒と責任は別である。


 やがて、メレン国王が入ってきた。


 年齢は五十を少し過ぎたほど。

 豊かな髭を整え、肩には深紅の外套を掛けている。

 威厳はある。

 少なくとも、玉座に座っている時の姿は絵になる。


 ただし、絵になる王と、判断のできる王は同じではない。


「クラウゼンベルク公」


 国王は柔らかな声で言った。


「このたびの件、そなたにも心労をかけている」


「恐れ入ります、陛下」


 クラウゼンベルク公は深く頭を下げた。


「アルベルトは若い。感情に走った。王太子として軽率であったことは、わしも否定せぬ」


「陛下がそうお認めになるのであれば、まず正式な謝罪と有責確認の手続きを」


「待て」


 国王は手を上げた。


「急ぎすぎる」


「急がせたのは、殿下の昨夜の発言でございます」


「言葉は取り戻せる」


「公衆の前で放たれた言葉は、完全には戻りません」


 国王の眉が少し動いた。


 その場の空気が冷える。宰相がわずかに目を伏せた。


「そなたは、王家と争う気か」


「いいえ、陛下」


 クラウゼンベルク公は静かに言った。


「王家が誓約を守ることを求めております」


 国王はしばらく彼を見つめた。


 その目には、怒りよりも困惑があった。

 長年仕えてきた忠臣が、なぜここで自分の言葉に従わないのか、本当に理解できないようだった。


「クラウゼンベルク家ほどの忠臣ならば、王家の若き過ちを包む度量を見せてほしい」


 その言葉は、穏やかだった。


 だが、穏やかな刃であった。


 クラウゼンベルク公は、すぐには答えなかった。


 王家の若き過ち。


 包む度量。


 忠臣。


 どれも美しい言葉だった。

 美しい言葉ほど、時に人の首にかける絹紐になる。


「陛下」


 彼はようやく口を開いた。


「我が家は、代々王家に仕えてまいりました。国境を守り、兵を出し、財を出し、王家の婚礼にも葬儀にも、変わらず列席してまいりました」


「わかっておる」


「ならば、我が娘の名誉もまた、クラウゼンベルク家の名誉でございます」


「娘一人の名誉と、王家の威信を秤にかけるのか」


 その言葉に、クラウゼンベルク公は顔を上げた。


「娘一人、とおっしゃいますか」


 国王は、言ってから失敗に気づいたようだった。

 だが王は、自分の言葉を簡単には引っ込められない。

 王冠とは、時に頭より重い。


「そういう意味ではない」


「陛下。昨夜、王太子殿下が婚約を破棄した相手は、ただの娘ではございません。王家が七年にわたり王太子妃候補として扱い、王宮行事に立たせ、帝国語を学ばせ、外交席の横に置いたクラウゼンベルク家の、私の娘です」


「だからこそ、穏便に」


「穏便とは、誰のためでございましょう」


 国王の顔に、不快の色が差した。


「公」


「失礼を承知で申し上げます。王太子殿下の発言をなかったことにし、我が娘に合意解消の署名を求め、男爵令嬢との真実の愛という物語を整える。それは穏便ではなく、王家の都合でございます」


 宰相が、かすかに息を呑んだ。


 王宮法務官は黙っている。

 彼は法律家である。

 今の言葉の重さを、誰よりも理解しているはずだった。


 国王は低い声で言った。


「そなたは、わしを責めるのか」


「いいえ」


 クラウゼンベルク公は深く頭を下げた。


「陛下に、王であっていただきたいだけです」


 沈黙が続いた。


 暖炉の薪が、小さく爆ぜた。


 国王は、疲れたように椅子へ腰を下ろした。


「そなたの娘は、父に似て頑固だな」


「娘は、私よりずっとよく物を見ます」


「ならば、その目で何を見ている」


「王太子殿下が、自らの誓約を軽んじたこと。王太子府がそれを合意解消に塗り替えようとしたこと。そして、王家が今、我が家に沈黙を求めていることです」


 国王は目を閉じた。


「沈黙もまた、忠誠であることがある」


 クラウゼンベルク公は、娘の声を思い出した。


 私はクラウゼンベルクの娘ですか。

 それとも、王家の失敗を包む布ですか。


 彼は静かに答えた。


「沈黙が忠誠である時もございましょう。ですが、今回の沈黙は、我が娘に王太子殿下の過失を背負わせる沈黙です」


「では、どうする」


「司教座による審問を求めます。婚約誓約の有効性、解消の経緯、有責の所在、名誉と財産の精算。すべて正式に」


「公の場に出すのか」


「すでに公の場で始まりました」


 国王は唇を引き結んだ。


 その日の午後、クラウゼンベルク公は屋敷へ戻った。


 オーレリアは書庫にいた。机の上には、王宮記録室から得た写しが並んでいる。彼女は父を見ても、立ち上がらなかった。ペンを置いただけである。


「陛下は?」


「沈黙を求められた」


「でしょうね。王家は困ると、まず布を探す」


「オーレリア」


「はい」


 父はしばらく黙っていた。


 そして、重い声で言った。


「私は、陛下に司教座審問を求めると告げた」


 オーレリアの指が、紙の上で止まった。


 彼女は父を見た。


「本当に?」


「嘘なら、もう少し都合のよい嘘をつく」


「父上にしては、上達なさいました」


「お前ほどではない」


 父は椅子に座った。


 疲れているようだった。だが、朝のような迷いは薄れていた。


「私は、長く王家に仕えてきた。王家を守ることが、王国を守ることだと思っていた」


「間違ってはいません」


「だが、王家の過ちを隠すことが、王国を守ることとは限らない」


 オーレリアは何も言わなかった。


 父は続けた。


「お前を、家のために使いすぎたかもしれない」


「かもしれない、ですか」


「……使いすぎた」


「はい」


 短い返事だった。


 許しではない。だが、拒絶でもなかった。


 父は苦く笑った。


「お前は、優しい言葉を持たないな」


「持っています。ただ、在庫が少ないので必要な時のために保管しています」


「今は必要ではないか」


「ええ。まだ戦の前ですから」


 その時、家令が入ってきた。


「司教座より使者が参っております」


 父とオーレリアは顔を上げた。


「早いな」


「王宮からも、同時に連絡が入ったようです」


 オーレリアはゆっくり立ち上がった。


「司教座も、薔薇夜会の噂に水をやるのは嫌なのでしょう」


「お前は出るか」


「当然です」


「審問では、言葉を慎め」


「父上」


「何だ」


「慎んで勝てる相手ですか」


 父はしばらく娘を見た。


 そして、諦めたように息を吐いた。


「せめて、相手が理解できる程度に刺せ」


「努力します」


 努力で済むかどうかは、相手の知性次第だった。

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