第8話 記録係たちは嘘をつかない
王宮記録室は、王宮の北翼にあった。
北翼は春でも肌寒い。石壁は陽を受けにくく、窓は細い。
廊下には古い羊皮紙と蝋の匂いがこもっている。
王宮の華やかな南翼で薔薇が咲き、絹が擦れ、恋だの名誉だのと人が騒いでいる間にも、北翼では書類が黙って眠っている。
オーレリアは、その静けさが嫌いではなかった。
人間の沈黙はたいてい不誠実だが、紙の沈黙はただの沈黙である。
問い方を間違えなければ、紙は答える。
王宮記録室の扉の前で、老いた記録官が彼女を待っていた。
名をエルンストという。王宮に三十年以上勤める男で、背は低く、髪はほとんど白い。
礼服の袖口にはインク染みが残っていた。
宮廷では、衣服の染みは恥とされる。
だが記録官のインク染みは、兵士の傷跡に近い。
「クラウゼンベルク嬢」
エルンストは深く頭を下げた。
「急なお願いで申し訳ありません」
「急な出来事の後には、急な書類が必要になります」
エルンストは鍵束を取り出した。
「王太子妃教育に関する記録は、別棚にございます。もっとも、すべてお渡しできるとは限りません」
「王家の記録ですものね」
「はい」
「でも、私の名がある」
「はい」
「それなら、私が見られない方がおかしい」
エルンストは小さく咳をした。
「お嬢様は、昔から理屈の逃げ道を塞がれる」
「逃げ道は防火上よくありません。火事の時だけで十分です」
老記録官は笑わなかった。だが、目元だけが少し緩んだ。
記録室の中は暗く、棚が迷路のように並んでいた。
細い窓から差す光が、埃を白く浮かばせている。
オーレリアが歩くと、床板がかすかに鳴った。
侍女が持つ小さな灯りの火が、書架の背表紙をゆっくり照らしていく。
エルンストは一つの棚の前で止まった。
「こちらです。王太子妃候補教育、クラウゼンベルク公爵令嬢オーレリア様分。七年分ございます」
「七年」
「はい」
「殿下の真実の愛は、七年分の紙を一晩で無にできると思っていたのですね。ずいぶん強力ですこと」
「紙は、無にはなりません」
エルンストは淡々と言った。
その言い方が、オーレリアには少しだけ心地よかった。
「こちらが、礼法教師の任命記録。こちらが、帝国語教師の費用申請。こちらは王太子府より、公務随伴のため追加講義を求めた文書です」
彼は一つずつ机に置いていく。
紙の音は静かだった。だが、静かであるほど鋭かった。
オーレリアは目を通しながら、必要なものを侍女に写させた。
「この帝国語教師の申請は、王太子府から?」
「はい。帝国使節団との会話に備えるため、とあります」
「殿下は?」
「殿下ご自身の受講記録は、三回中一回のみです」
「残り二回は?」
「体調不良。狩猟。いずれも侍従の記録が添えられております」
「体調不良と狩猟が同じ欄に並ぶ国の未来は明るいですね。獣にとって」
エルンストは今度も笑わなかった。
だが、侍女が少しだけ肩を震わせた。
オーレリアは次の書類を見た。
「これは?」
「王太子殿下が、東部大使との会食で避けるべき話題を整理せよと命じた王太子府文書です。実際に草案を作成されたのは、お嬢様ですね」
「ええ。殿下が塩税と葬儀税を取り違えた後でした」
「記録にも、その旨がございます」
「親切な墓碑銘ね」
その時、記録室の扉が開いた。
入ってきたのは若い法務補佐官だった。顔に焦りがある。彼はエルンストに近づき、小声で何かを告げた。
エルンストの表情が変わらなかったのは、長年の習慣だろう。
「クラウゼンベルク嬢」
「何か?」
「王太子府より、昨夜以降の婚約関連記録について、一時閲覧停止の通達が出ました」
侍女が息を呑んだ。
オーレリアは、ペン先のインクを払った。
「昨夜以降?」
「はい」
「では、それ以前の記録は?」
「通達の範囲外です」
「つまり、今見ているものは?」
「通達の範囲外です」
エルンストは、わずかに頷いた。
オーレリアは微笑んだ。
「記録係は嘘をつかないのね」
「嘘をつくほど器用なら、とうに出世しております」
「立派な自己診断です」
若い補佐官は不安そうにしていた。
「ですが、ライヒェナウ卿が直接確認に来られるかもしれません」
「その時は、通達の文面を見せて差し上げましょう」
エルンストは棚から別の箱を下ろした。
「こちらは、王家行事への出席命令と、それに伴う衣装規定です。これも、通達の範囲外です」
オーレリアは箱を開けた。
そこには、王家印のある文書が整然と収められていた。
王宮の大夜会、帝国使節歓迎式、司教座祭礼、冬至の儀、国境伯来訪の宴。
すべてに、オーレリアの名が記されている。
王太子の婚約者として。
将来の王太子妃として。
王家の求める役目として。
彼女はそれを一枚ずつ確認した。
そのたびに、過去の自分が、薄い紙の中から顔を出すようだった。
早朝の講義。夜遅くまで続いた礼法練習。王太子の失言を避けるために作った話題表。
ミリアのように泣けば、少しは誰かが労ってくれたのだろうか。
馬鹿馬鹿しい。
涙は書類を整理してくれない。
「エルンスト殿」
「はい」
「写しを二部作ります。一部はクラウゼンベルク家へ。一部は司教座へ。可能なら、帝国使節団にも閲覧の確認だけ取ります」
若い補佐官が目を丸くした。
「帝国に、ですか」
「帝国皇弟殿下は昨夜の証人です。証人が目を閉じていたと言われると困るでしょう」
その頃、王太子府では、ヨハンが同じ通達の写しを見ていた。
彼は黙っていた。
机の前で、部下の一人が青い顔をしている。
「すでに閲覧されています」
「どこまで」
「王太子妃教育関連、王家行事の出席命令、教師任命記録、費用申請の一部まで」
「通達を出す前に?」
「はい」
ヨハンは指先で机を叩いた。一度だけ。
「遅い」
「申し訳ございません」
「私に謝っても、紙は戻らない」
彼は立ち上がり、窓辺へ歩いた。
庭は春の色をしている。
だがヨハンには、その春が薄い紙に見えた。
少し火をつければ燃える。
燃やすべきか。
いや、もう遅い。
記録を燃やせば、燃やしたという記録が残る。
記録室の老人は、そういう男だ。
「エルンストか」
「はい」
「あの老人は、まだ王宮にいたのか」
「三十年以上勤めております」
「長生きは罪だな。余計なものを覚えている」
部下は何も言わなかった。
ヨハンは机に戻り、別の紙を引き寄せた。
「証人を押さえる。礼法教師、帝国語教師、王宮儀礼官、衣装係。特に、王太子殿下が講義を欠席された記録に関わる者は早めに」
「圧力を?」
「礼儀正しく頼め。圧力に見えない圧力が、いちばん役に立つ」
「承知しました」
「それから、社交界の噂を少し強める」
ヨハンはペンを取った。
「クラウゼンベルク嬢は、王太子殿下との婚約を財産問題にすり替えようとしている。王家への敬意を欠く。男爵令嬢を追い詰めている。そういう方向でいい」
「効果はあるでしょうか」
「効果があるかどうかではない。効果が出るまで撒く」
部下が退室した後、ヨハンはしばらく一人でいた。
彼はオーレリアを侮ってはいなかった。
いや、正確には、昨夜までは少し侮っていた。
王太子の婚約者として有能な女であるとは知っていた。
だが、あの場で泣かず、怒鳴らず、最初に記録を取る女だとは思わなかった。
厄介な女である。
だが、厄介な女が王太子妃になっていれば、この国はもう少しまともに動いたかもしれない。
ヨハンは、その考えをすぐに消した。
消したつもりだった。
けれど、紙に残らない考えほど、意外に消えにくい。




