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第7話 帝国皇弟は退屈そうに見ていた

 その日の午後、アレクサンデルは王宮の回廊でオーレリアと出会った。


 偶然だった。


 少なくとも、表向きは。


 彼女は侍女を一人連れていた。手には数通の書類を持っている。王宮記録室へ向かう途中らしかった。


「クラウゼンベルク嬢」


 アレクサンデルが声をかけると、オーレリアは足を止めた。


「皇弟殿下」


「忙しそうですね」


「暇そうに見えるよりは、社会的に有益です」


「それは耳が痛い」


「ご自覚があるなら回復の見込みがあります」


 アレクサンデルは少し笑った。


「王宮記録室へ?」


「はい。私が王太子妃候補としてどれほど王家に使われたか、紙に証言していただきに」


「紙は素直ですか」


「人間よりは」


「同感です」


 短い沈黙があった。


 回廊の窓からは、庭の薔薇が見えた。昨夜の大広間ほど華やかではない。風に揺れている分、まだ生き物らしかった。


「昨夜、あなたは泣かなかった」


 アレクサンデルが言った。


 オーレリアは眉を上げる。


「泣けば、殿下の発言が無効になるのですか」


「いいえ」


「では、不要ですね」


「周囲は安心したでしょう」


「他人を安心させるために泣く趣味はございません」


「よい趣味です。持たない方がいい」


 オーレリアは、彼を少しだけ見る目を変えた。


「帝国の方は、他国の失敗を観察するのがお好きで?」


「好きではありません。仕事です」


「仕事なら、もっと不幸ですね」


「そうですね。趣味ならまだ救いがありました」


「では、お帰りになればよろしいのに」


「面倒事は嫌いですが、放置するともっと面倒になります」


 オーレリアは小さく息を吐いた。


「メレン王国の婚約破棄が、帝国皇弟殿下にとって面倒事ですか」


「王太子殿下の恋愛なら、私には関係ありません」


「では」


「王太子殿下の署名と誓約が、どの程度の重みを持つのかには関心があります」


 オーレリアは黙った。


 それは、昨夜アレクサンデルが大広間で言ったことと同じだった。


 恋愛の話ではない。信用の話である。


 彼は、そこを最初から見ていた。


「殿下は、王太子殿下を信用なさらないのですね」


「信用しないのではありません。まだ信用する材料が足りない」


「ずいぶん寛大です」


「帝国では、これを慎重と呼びます」


「メレンでは、遅すぎる理解と呼びます」


 アレクサンデルは軽く肩をすくめた。


「王太子殿下については、あなたの方が詳しい」


「不幸な専門家です」


「専門家は貴重です」


「見世物ではありません」


「失礼」


 彼は素直に引いた。


 その引き方が、オーレリアには少し意外だった。

 多くの男は、彼女の皮肉に腹を立てるか、面白がってさらに踏み込むかのどちらかである。

 アレクサンデルは違った。

 線を見て、そこで止まる。


 面倒な男だ。


 押してこない人間は、拒む理由をこちらに与えない。


「クラウゼンベルク嬢」


「はい」


「あなたは、ご自分を被害者として扱われることを嫌うでしょう」


「好きな方がいたら、観察対象として紹介してください」


「では、こう言います。あなたは被害者ではある。ですが、敗者ではない」


 オーレリアは、すぐには答えなかった。


 その言葉は、慰めではなかった。哀れみでもない。評価に近かった。


 だから、少しだけ痛かった。


「皇弟殿下」


「はい」


「あなたは慰めがお下手ですね」


「よく言われます」


「改善する気は?」


「努力はしています。成果は出ていません」


「誠実な怠慢ですこと」


「帝国皇弟の数少ない美徳です」


 オーレリアは、そこでほんの少しだけ笑った。


 笑ったと言っても、口元がわずかに動いただけである。だがアレクサンデルは、それを見逃さなかった。


「では、私は記録室へ参ります」


「お邪魔しました」


「ええ。かなり」


 彼女は歩き出した。


 数歩進んだところで、アレクサンデルが言った。


「クラウゼンベルク嬢」


 オーレリアは振り返らない。


「何でしょう」


「記録は、失くされることがあります」


「でしょうね」


「帝国使節団の客館には、複写に長けた書記官がいます」


 オーレリアは、少しだけ振り向いた。


「親切ですか、牽制ですか」


「どちらでもありません」


「では?」


「投資です」


 オーレリアは彼を見た。


 アレクサンデルは退屈そうな顔をしていた。だが、その目は少しも退屈していなかった。


「皇弟殿下」


「はい」


「私を帝国の帳簿に載せるのは、まだ早いと思います」


「では余白に」


「余白なら、書き込まれないよう気をつけます」


「ご自由に。余白は、そういう場所です」


 オーレリアは返事をせず、今度こそ記録室へ向かった。


 その背を見送りながら、アレクサンデルは小さく息を吐いた。


 面倒なことになった。


 王太子の失態だけでも十分に面倒だった。

 そこへ、記録で戦う公爵令嬢がいる。

 兄である皇帝レオンハルトへ報告すれば、きっと笑うだろう。

 あの兄は、他国の失策を良質な刃物のように眺める癖がある。


 そして、弟の面倒事を面白がる癖もある。


 アレクサンデルは客館へ戻ると、報告書の続きを書いた。


 メレン王国の王太子は、誓約を軽んじた。


 側近ヨハンは、その失態を合意解消へ変換しようとしている。


 クラウゼンベルク家は、まだ王家への忠誠と家門の名誉の間で揺れている。


 オーレリア・フォン・クラウゼンベルクは、記録を集め始めた。


 最後に、彼は少し迷ってから、一文を加えた。


 彼女を軽んじる者は、この争議の本質を見誤ると思われる。


 書き終えた後、アレクサンデルは筆を置いた。


 窓の外には、夕方の光が差していた。


 薔薇はまだ咲いている。


 だが、咲いた花よりも、いま残されようとしている紙の方が、はるかに長くこの国を刺すだろう。

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