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第10話 司教座婚姻審問会

 司教座の聖堂は、王宮よりも古かった。


 石は黒ずみ、柱には過去の火災の跡が薄く残っている。高窓から差す光は細く、床に落ちると白い刃のように見えた。香の匂いが、冷えた空気の中に漂っている。


 ここでは、王家の紋章よりも古いものが人を見下ろしていた。


 誓約。


 罪。


 赦し。


 そして記録。


 オーレリアは、聖堂奥の審問室へ入った。


 審問室といっても、現代的な裁きの場ではない。

 長机が置かれ、中央に司教座代理の老司祭が座っている。

 左右には王家側、公爵家側の席が分かれ、後方に証人席がある。

 壁際には書記が二人。羽ペンを整え、羊皮紙を用意していた。


 王家側には、王太子アルベルト、側近ヨハン、王宮法務官が座っていた。

 ミリアの姿はない。

 まだ出さないつもりなのだろう。

 涙は使いどころを選ぶ。

 ヨハンらしい。


 公爵家側には、クラウゼンベルク公とオーレリア。そして代理人として老法務官ベルトラムが控えている。


 少し離れた傍聴席に、アレクサンデルがいた。


 帝国皇弟として正式な当事者ではない。

 だが、昨夜の証人であり、帝国使節でもある。

 彼がそこにいるだけで、部屋の空気は重くなった。


 アルベルトは、それを不快そうに見ていた。


 アレクサンデルは、退屈そうに座っていた。


 その退屈そうな顔が、オーレリアには少し腹立たしかった。


 この男は、面倒事に巻き込まれた顔をしながら、面倒の形を楽しんでいる。


 老司祭が口を開いた。


「本審問は、メレン王国王太子アルベルト殿下と、クラウゼンベルク公爵令嬢オーレリア殿の婚約解消をめぐり、誓約の有効性、解消の経緯、有責の所在、ならびに名誉と財産上の精算について確認するものである」


 書記がペンを走らせる。


 オーレリアは、その音を聞いた。


 心が少し落ち着く。人が嘘を言っても、ペンはそれを書き残す。


 老司祭はまず王家側を見た。


「王太子殿下。昨夜、薔薇夜会において、婚約破棄を宣言されたことに相違ありませんか」


 アルベルトは胸を張った。


「相違ない。私は偽りの婚約を終わらせた」


 ヨハンの眉が、ほんのかすかに動いた。


 オーレリアは内心で思った。


 今の一文だけで、ヨハンの胃に穴が三つほど増えただろう。


 老司祭は続ける。


「偽り、とは?」


「私はオーレリアに愛されていなかった。彼女は王太子妃という地位を見ていただけだ」


「その根拠は」


「彼女は冷たい。私の心を少しも理解しなかった。いつも書類、礼法、義務ばかりだ」


 老司祭は書記へ目を向けた。


「記録せよ。王太子殿下は、婚約破棄の理由として、相手方の性情および愛情の欠如を挙げられた」


 オーレリアは、静かに手を挙げた。


「発言をよろしいでしょうか」


「許可します」


「殿下に確認いたします。王太子妃候補としての私の教育、礼法、外交語、王宮儀礼への参加は、王家からの正式な要請に基づくものでしたか」


 アルベルトは眉をひそめた。


「そんなことは知らない」


「知らない?」


「王太子妃になるなら、当然だろう」


「当然なら、なぜ当然のことを行った私が、冷たいと責められるのでしょう」


「そういう態度だ」


「質問にお答えください」


 老司祭が静かに言った。


「王太子殿下。問いにお答えを」


 アルベルトは苛立たしげに言った。


「王家の要請であった。それで満足か」


「たいへん」


 オーレリアは微笑まなかった。


「では、その王家の要請に従って私が積んだ教育と支出を、殿下は昨夜、一方的に無意味にされたわけですね」


「違う。君が愛のない婚約にしがみついたのだ」


「愛は、王家印のある命令書に優先しますか」


「当然だ」


 ヨハンが咳をした。


 あまりに不自然な咳だった。


 アレクサンデルが傍聴席で、目を伏せた。笑いを抑えたようにも見えた。


 老司祭は、少しだけ眉を寄せた。


「王太子殿下。その発言は、王家の誓約に関わるため、慎重に」


「私は真実を言っている」


 オーレリアは静かに言った。


「真実という語を使えば、嘘が清潔になるわけではありません、殿下」


「無礼だぞ」


「今のところ、昨夜よりは抑えています」


 クラウゼンベルク公が額に手を当てた。


 老司祭は、次に公爵家側の提出文書を確認した。


 ベルトラム老法務官が、一つずつ読み上げる。


 王太子妃教育命令書。


 帝国語教師の任命記録。


 王家行事への出席命令。


 婚約式における司教署名入り誓約証書。


 婚礼準備費の目録。


 王太子府からオーレリアへ送られた公務補佐依頼。


 文書が読み上げられるたび、王家側の空気は重くなった。


 ヨハンは黙っている。


 彼は止めるべき場面と、止めても無駄な場面を知っていた。ここは後者である。


 老司祭は王宮法務官へ尋ねた。


「これらの文書に偽造の疑いは?」


「ございません」


「王家印に相違は?」


「ございません」


「では、王家はオーレリア殿を正式に王太子妃候補として扱っていたことを認めますか」


 王宮法務官は、一瞬だけ王太子を見た。


 アルベルトは不機嫌そうにそっぽを向いている。


 法務官は答えた。


「認めます」


 審問室に、細いざわめきが起きた。


 老司祭は手を上げて静めた。


「次に、王太子殿下とミリア・フォン・エーレンフェルト嬢との関係について確認する」


 アルベルトの顔が変わった。


「ミリアは関係ない」


「関係あるかどうかを確認する場です」


 オーレリアは淡々と言った。


「殿下が関係ないとおっしゃれば、関係が消えるなら、昨夜の私の婚約も消えているでしょう」


「君はミリアまで傷つける気か」


「殿下。話を逸らす時、毎回女性を盾にする癖は、王太子教育で直していただくべきでしたね」


「黙れ」


「黙りません。ここは審問の場です」


 老司祭が重い声で言った。


「王太子殿下。言葉をお慎みください」


 王太子は唇を噛んだ。


 ヨハンが代わって口を開いた。


「ミリア嬢と殿下の間に、婚約誓約を損なう意図はございませんでした。殿下は彼女を庇護されていただけです」


「庇護」


 オーレリアが繰り返した。


「宝飾品、詩集、馬車、王太子府主催の小夜会への招待。ずいぶん装飾過多な庇護ですね。孤児院に配れば、聖人に列せられたかもしれません」


「贈答の詳細は、まだ確認中です」


 ヨハンは滑らかに言った。


「では、こちらで確認いたします」


 オーレリアは侍女から一枚の写しを受け取った。


「王都宝飾商会より、ミリア・フォン・エーレンフェルト嬢宛てに納められた真珠の耳飾り。支払いは王太子府。日付は薔薇夜会の二月前」


 アルベルトの顔が赤くなる。


「それは、私が個人的に」


「王太子府の会計から?」


「細かいことを」


「細かいところに本性は出ます」


 老司祭は王宮法務官へ確認した。


「王太子府会計から支出された記録は?」


「確認が必要です」


「提出を命じます」


 ヨハンは小さく頭を下げた。


「承知いたしました」


 その横顔は整っていた。


 だが、彼の計算は少しずつ崩れている。


 オーレリアはそれを見ていた。


 審問はさらに続いた。


 王太子側は、オーレリアの性格を問題にしようとした。冷淡である。不遜である。王太子への敬愛を欠いていた。王太子妃に必要な柔和さがない。


 オーレリアはその都度、短く返した。


「冷淡とは、王太子殿下の失言を三度訂正したことですか」


「不遜とは、王家印のある命令に従ったことですか」


「敬愛とは、殿下の誤りを見逃すことですか」


「柔和さで外交文書は直りません」


 老司祭は何度か咳払いをした。クラウゼンベルク公は何度か目を閉じた。アレクサンデルは、ずっと退屈そうな顔をしていた。


 だがその目は、決して逸れなかった。


 最後に老司祭が言った。


「本日の審問では、婚約が王家の正式な要請と誓約に基づくものであったこと、王太子殿下が公衆の面前で一方的に破棄を宣言されたことを確認した。次回は、贈答、名誉毀損、財産精算、ならびに第三者との関係について、さらに記録を確認する」


 書記が記録を読み返した。


 その声は平板だった。だが、平板であることが、かえって冷たかった。


 アルベルトは立ち上がると、オーレリアを睨んだ。


「君は、本当に金と書類ばかりだな」


 オーレリアも立ち上がった。


「殿下は、本当に愛と責任の区別がつかないのですね」


「私は、君のような女を王太子妃にしなくてよかったと思っている」


「それは朗報です」


 彼女は一礼した。


「私も、殿下のような方を国王にする手伝いをせずに済みそうです」


 審問室の空気が凍った。


 王太子の顔が怒りで歪む。


 ヨハンが即座に前へ出た。


「本日はここまでにいたしましょう」


「ええ」


 オーレリアは静かに答えた。


「続きは紙の上で」


 聖堂を出ると、外は曇っていた。


 雨が降りそうだった。石畳の上を風が渡り、司教座の鐘が遠く鳴った。


 オーレリアが階段を下りていると、背後から声がした。


「クラウゼンベルク嬢」


 アレクサンデルだった。


 彼は階段の上に立ち、いつものように力の抜けた顔をしていた。


「皇弟殿下。審問は退屈ではありませんでしたか」


「退屈しませんでした。痛ましいほどに」


「それは感想ですか、嫌味ですか」


「報告書に書くなら、所見です」


「帝国の報告書はずいぶん文学的ですね」


「兄に読ませるには、少し娯楽性が必要でして」


 オーレリアは、思わず彼を見た。


「皇帝陛下は、この件を楽しまれると?」


「楽しむというより、使うでしょう」


 アレクサンデルは静かに言った。


「メレン王国は、使われる失態を作りました」


 雨の匂いがした。


 オーレリアは空を見た。


 薔薇夜会の夜から、まだ数日しか経っていない。だが、壊れたものはもう、婚約だけではなかった。


 王太子はまだ、それを知らない。


 ヨハンは知っている。


 アレクサンデルも知っている。


 そしてオーレリアは、知っていることを紙に残すために歩き出した。

ここまでお読みくださりありがとうございます。

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