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第11話 王太子妃教育費の請求書

 金額というものは、たいてい人を下品にする。


 多すぎれば欲を呼び、少なすぎれば恨みを呼ぶ。

 数字は無垢な顔をして紙の上に座っているが、いったん人間の口に入ると、たちまち濁る。

 愛を金で測るのか、名誉を銀貨に換えるのか、心を帳簿に載せるのか。

 そういう美しい非難は、支払う側が好んで用いる。


 オーレリアは、その手の言葉が嫌いだった。


 支払いを拒む者ほど、金を汚らしいものとして語りたがる。


 司教座の第二回審問は、前回よりも人が多かった。


 審問室の壁際には、王宮儀礼官、礼法教師、帝国語教師、衣装係、宝飾商会の代理人まで控えている。

 部屋の空気は香の匂いと紙の匂いで重かった。

 雨上がりの石畳の湿り気が、靴底から伝わってくるような日である。


 王太子アルベルトは、ひどく不機嫌だった。


 ヨハンは、その隣で静かに座っている。

 彼の顔は落ち着いていたが、目だけは動いていた。

 どの証人がどれほど喋るか、どこで遮るべきか、どの文書の意味を薄められるか。そういう計算が、瞳の奥で冷たく回っている。


 オーレリアは、その目を見て思った。


 この男は、火を消しているつもりで油の種類を選んでいる。


 老司祭が口を開いた。


「本日は、王太子妃教育および婚姻準備に伴う支出、ならびに王家要請の有無について確認する」


 書記がペンを走らせる。


 その音を聞くと、オーレリアは少しだけ呼吸がしやすくなった。


 まず、礼法教師が呼ばれた。


 老女である。名をマルガレーテ夫人という。

 かつて王妃付きの礼法教師で、背筋はまだまっすぐ伸びていた。年齢のわりに声はよく通る。


「オーレリア嬢に礼法を教えたのは、王家からの依頼によるものですか」


「はい」


「費用は?」


「クラウゼンベルク公爵家より支払われました。ただし、科目と時間割は王宮儀礼局から指定を受けております」


 老司祭が頷く。


「授業内容は、通常の公爵令嬢教育と異なりますか」


「異なります。王太子妃候補として、王族席次、外交使節接遇、祝祭儀礼、弔問儀礼、司教座式典での立ち位置まで含めておりました」


 アルベルトが苛立たしげに言った。


「それは、彼女が望んだことだろう」


 マルガレーテ夫人は、王太子を見た。


 その目は年老いていたが、鈍ってはいなかった。


「殿下。王太子妃候補が王太子妃になるための教育を望むのは、魚が水を望むようなものです。水を用意した者が、魚の趣味だと言うのは妙でございます」


 審問室に、かすかなざわめきが起きた。


 オーレリアは、少しだけ夫人を見る目を和らげた。


 この老女は、まだ舌が生きている。


 次に、帝国語教師が証言した。


 帝国との使節応対に必要な語学と慣習を教えたこと。

 王太子府から追加講義の要請があったこと。

 王太子本人は三度のうち一度しか講義に出席しなかったこと。


 その記録が読み上げられた時、アレクサンデルが傍聴席で微かに目を伏せた。


 笑ったのかもしれない。


 あるいは、ため息を殺したのかもしれない。


 老司祭は、次に衣装係と宝飾商会の代理人を呼んだ。


 王家行事用の礼服。帝国使節歓迎式用の深青の正装。冬至の儀に合わせた白銀の外套。婚礼前儀式用の宝飾品。

 いずれも王宮儀礼局の規定に合わせ、クラウゼンベルク家が負担したものであった。


 ベルトラム老法務官が、淡々と金額を読み上げた。


 審問室の空気が、少しずつ変わっていく。


 金額には重さがある。


 それは欲の重さではない。費やされた年月の重さである。


 アルベルトは、とうとう声を荒げた。


「愛を金で測るのか!」


 オーレリアは、彼を見た。


「いいえ。殿下の責任を測っています」


「君は本当に卑しい女だ。婚約を失った途端、金を返せと騒ぎ立てる」


「殿下」


 オーレリアは静かに言った。


「私は婚約を失ったのではありません。殿下が誓約を壊されたのです。壊した方に修繕費を求めるのは、家具でも国家でも同じです」


「私は家具ではない」


「ええ。家具ならば、壊れても黙っています」


 ヨハンが口を挟んだ。


「オーレリア様。支出の大半は、公爵家が将来の王太子妃となるあなた様のため、自発的に行った投資とも解釈できます」


「投資」


 オーレリアは、手元の書類を一枚取った。


「では、投資という言葉を使いましょう。こちらは王宮儀礼局より、私の帝国使節歓迎式出席に際し、衣装規定を示した文書です。こちらは王太子府より、帝国語での挨拶文を用意せよという依頼。こちらは司教座祭礼における王太子妃候補としての席次確認」


 彼女は一枚ずつ、老司祭の前へ置く。


「すべて、王家または王太子府の要請です。自発的投資と言うなら、王家は他家の財布に手を入れながら、後で『そちらが勝手に差し出した』と言っていることになります」


 王宮法務官が、硬い顔をした。


 それは、法務官として見逃せない表現だったのだろう。


 老司祭は王宮法務官に尋ねた。


「これらの文書は、王家または王太子府の正式な要請と見なせますか」


 法務官は沈黙した。


 ヨハンの視線が彼へ向く。


 だが、文書はすでに卓上にある。書記はすでに記録している。ここで曲げれば、曲げた記録が残る。


「……見なせます」


 法務官は答えた。


 アルベルトが彼を睨んだ。


 オーレリアは続けた。


「私は、王太子殿下に愛を請求しているのではありません。王家の要請によって発生した支出と、王太子殿下の一方的破棄によって生じた損害の確認を求めています」


「損害、損害と」


 アルベルトは吐き捨てるように言った。


「君は私を愛していなかったのだな」


 その一言だけは、部屋の温度を少し変えた。


 オーレリアは、即座には答えなかった。


 アレクサンデルが、わずかに顔を上げる。


 ヨハンもまた、何かを見極めるように彼女を見た。


 オーレリアは、静かに口を開いた。


「愛しておりました」


 審問室が静まり返った。


 アルベルトでさえ、言葉を失った。


「だからこそ、殿下が王になる未来を支える準備をしていました。殿下の失言を直し、欠席された講義の要点をまとめ、外交使節の好む話題を調べ、王宮儀礼の席次を覚えました。殿下が笑っている間に、殿下が恥をかかないように」


 彼女の声は乱れなかった。


 乱れなかったから、余計に痛かった。


「それを愛と呼ばないなら、殿下にとって愛とは、褒めてくれる相手の前で気持ちよく立っていることなのでしょう」


「オーレリア」


「ですが、今は愛の話ではありません」


 彼女は視線を戻した。


「有責の話です」


 老司祭は、しばらく沈黙した後、低く言った。


「記録せよ。王家および王太子府の要請に基づき、クラウゼンベルク家が支出した事実を確認。詳細は次回、財産精算表として提出を求める」


 書記のペンが、乾いた音を立てた。


 審問が終わる頃、外では雨が降り始めていた。


 石の階段は濡れ、聖堂の屋根から水が細く落ちている。


 オーレリアが外套を羽織ろうとすると、背後からアレクサンデルが声をかけた。


「クラウゼンベルク嬢」


「皇弟殿下。審問をお楽しみいただけましたか」


「楽しむには、王太子殿下が痛々しすぎました」


「慈悲深いのですね」


「いえ。痛々しいものを見ると、報告書が長くなるので嫌いです」


「帝国の方は、人の不幸にも事務量を見出すのですか」


「人の不幸は、たいてい誰かの事務量になります」


 オーレリアは少しだけ笑った。


 雨の匂いが強くなる。


 アレクサンデルは彼女の手元の書類を見た。


「複写は必要ですか」


「皇弟殿下の書記官に借りを作ると、利息が高そうです」


「帝国は良心的です。利息は相手を見て決めます」


「最悪ですね」


「政治とはそういうものです」


 オーレリアは傘を受け取った。


「では、今回は自前で」


「それがよいでしょう」


 彼は穏やかに言った。


「あなたは、借りを作るより貸しを作る方が似合う」


「褒め言葉ですか」


「所見です」


「あなたの所見は、ときどき不愉快です」


「正確なら不愉快でも価値があります」


「まるで私のようなことをおっしゃる」


「それは光栄です」


「訂正します。かなり不愉快です」


 雨が、階段の下で細かく跳ねていた。


 オーレリアは一礼して馬車へ向かった。背後でアレクサンデルが、何か言いかけてやめた気配がした。


 彼は無理に呼び止めなかった。


 そのことが、なぜか少しだけ記憶に残った。

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